Love Sprituality

 こうやって二人でバイクを並べ、当てのないツーリングをするのは、何度目
だっただろう。もちろん、行き先を決める時もある。でも、コンビニや道の駅
でメットを外して、
「どっちへ行く?」
「海方面にしない? あそこのパスタ、また食べたいねぇ」
「じゃ、レイクサイド回りにするか。ついてこいよ」
「言う言う。寛史こそ、私につっつかれないようにしなよ」
 そんな風に出たとこ勝負、気分任せで行った時の方が記憶に残っているし、
思いがけない発見が多かったような気がする。
 要は、俺たちらしいってことだろう。
 いつの間にか、海が見えてきていた。
 緑濃い丘のはざ間、最初は、かすかな青さが空と見紛うほどに。やがて、白
い波しぶきがはっきりと、夏の終わりを確認できる近さへ。
 悪くない波だ。
 バイザーから見える浜辺には、何度か来たことがある。初心者がよく集まる、
紛れの少なく、まっすぐに太平洋を望む遠浅の白浜。
 そう、高校三年、サーフィンを始めたばかりの時は、ここが定宿だった。最
初はボディボードから、周りの仲間にコツを聞きつつ、ロングボードへ……。
 海に浮かんでいることが、あんなにも自由だと知ったあの頃――そうだ、美
佳に教えたら、きっとはまるに違いない。ボディボードなら、女でもすぐ楽し
めるし……いや、彼女なら、いきなりサーフィン、そう言うかもしれないな。
 サイドミラーに映る、赤いメットに赤いカウル。
 きっちりついてくる姿を確認しつつ、いや、やっぱり今は、こうして走って
いるのが気持ちいい――そう思った。
 武史と亜矢の結婚式。あの日からほどなく、俺達はまた高校の頃のように
「当たり前に」話すようになった。
 東京は近くない、と言っても、金銭的なことがクリアーできれば、そんなに
難しい距離じゃない。
 余分な鎖がついていない俺たちには――、自由に使えるものが、バカらしい
ほど手の中にあった。
 長期の休みは必ず、時々は有給を使って、俺が東京に行ったり、美佳がこっ
ちへ遊びにきたり。
 東京ではいろいろと遊び場を教えてもらい、彼女がこっちへ来た時は、こう
してツーリングに、昔馴染みの店回りに、と。もちろん、あの頃行けなかった、
夜の街で飲んだりもする。
 本当に、どこへでも行ったし、何でも話した。
 多分、高校のあの頃よりずっと。
 それはそうだろう、仕事や大学、その他もろもろ。何年分もの社会経験は、
話題をうんと広くしていたし、美佳の考えは俺の適当な思い付きとは違って、
「ほぉ〜」と感じ入ることしばしば、思ってもみなかった「深い」話になるこ
ともあった。
 このところ何年ものダチとの適当な遊び歩き、彼女に言わせれば、「ダルだ
ねぇ」な日々とは違う、眩しいような一瞬一瞬。
 こんな感じを、すっかり忘れていたんだろうなぁ、俺は――。
「寛史、さっきのコーナー、ちょっとブルッてなかった?」
「高速で行こうよ、今日は。このまま用賀まで行っちゃってもいいよ、ふふ」
「こういう午後って、少し空気が違わない? おいおい、そこでモク吹かされ
たら、台無しでしょうが!」
「壊れた奴が多すぎるよね、ホント。まっとうが通らないから端っこにいるっ
てのにねぇ、苦しい人は。それがわかんないんだ、できる人間は……って、私
が言うようなことじゃないか」
 ふっと視線を逸らして窓の外を見る横顔。少し上がった眦の中、真っ直ぐ遠
くへ、何かを追うような……。
 お互い、ちっとは大人になったのかもしれない。でも、美佳も――たぶん俺
も、真ん中では、変わらないものを抱えているんだろう。
 ただ、一つだけ。
 こうしてお互いに会うようになって何ヶ月か。俺の手は、彼女に一度も触れ
たことがない。そしてその逆も、なかった。
「ほい、残り。いらねぇ?」
「サンキュ。このつぶつぶ、まずくって」
 渡した缶コーヒーをゴクゴク、
「あ、間接キスだねぇ。昔の少女マンガなら、『ポッ』って? あ、寛史、変
なビョーキ、持ってないだろうね」
「おいおい、人を何だと思ってんだよ」
 ――そんな冗談は言っても、肩を叩き、手を握ることすらしたことがなかっ
た。
 まだ、美佳のバイクが仕上がっていない時、一度だけタンデムで海岸線を走
ったことがある。
 その時は帰り道に至るまであまり口も聞かず、ひたすら水平線を追った記憶
ばかりが残っていた。
 もし、彼女を抱き寄せたら――。
 いや、意味がねぇ。それは、今することじゃない……きっと、かえって一人
になる。会う度に、そんな気がしていた。
 パッ、パッ。
 その時、彼女が後ろでパッシングするのに気づいた。
 真っ直ぐ伸びる海岸沿いのバイパス、こんな店の一つもない直線で、何だ?
――バイクを寄せて降りると、近づいてきて真っ先に、
「ねぇ、憶えてる」
 上げたバイザーの中から、海岸線へ目配せをしてみせた。
 いつの間にか、午後の陽は西へ。遥か先で緩やかに弧を描いた断崖は、霞ん
で突き出た岬になって見える。
「ん? ああ……」
 俺は、その時初めて気づいて、遠い岬に目を凝らしていた。そうか、ずっと
陽を追って、こんなところまで。
「あ、やっぱ? いきなりこっちへ曲がると思ったら……」
 言葉を止め、短く息を吐くと、
「で、どうしよ。先まで、行く?」
 隣に立って、同じ景色を眺めている肩口――俺は、一度目を細めた。
 そうだ、すっかり忘れてたなぁ……。あそこで、俺たちは。
 高校最後の夏、夕陽を追ってひたすらに走り続け、その後。
 あの時、無言で去りかけた後ろ姿、そして、「うん、いいよ」――これが美
佳姉か、なんて思うくらいに、真摯で、可愛くて……。
 メットを外して、あの日、テトラポットの上に腰掛けて交わした言葉を思い
出す。
 就職も、進学も、まだおぼろげな霧の向こう。知っているようで、まだ何も
始まっていない、だから全部の言葉を投げ合えた、夕刻から星空までの長い時
間を。
「寛史……?」
 密やかな、でもかすかに訝しげな声を聞いた時、俺は、美佳の方を振り向い
ていた。
 そして、グローブを取り、手を伸ばす。
「座らないか、少し」
「ここで?」
 うん――俺は頷く。美佳は一瞬、高速で車が走り去るバイパスを振り返り、
すぐに目で返した。
 ――うん、いいよ。
 そして彼女も、グローブを取った指先を伸ばし、俺は、その手を握り締めた。
 ガードレールの隙間を通り、少し高くなったフェンスに腰を下ろす。
 足を空中に投げ出して、水平線の彼方を見遣ると、太ももの間で合わせた指
先に力がこもった――どちらともなく。
 まだ、陽は高かった。ただ、潮の香りのする風は、昼の熱さをそぎ落として、
目を伏せたくなる。
 握り合った指が、視界に入る。美佳の髪も下から上へと風に浮き上がり、う
つむき加減に同じ場所を見つめていることに気づいた。
 すぐに目を上げると、柔らかく閉じられた唇が動きをひそめ、そのまま視野
を広げれば、少しの混じり気もない瞳が、目蓋を見開いたところだった。
 今度ははっきりと、握った手に力を込めた。厚めの唇が「ひろ……」と言葉
を作りかけて、すぐに閉じられる。
 そして、ゆっくりと、目蓋が下ろされた。
 たぶん、ほんの少しの時間だったと思う。
 目を閉じて顎をわずかに上げた密やかな表情は、手を伸ばすのが恐ろしいほ
ど澄んでいる――。
 背中を、ほとんど寒気に近いものが通り過ぎて、俺は、空いた右手をきつく
握り締めていた。美佳に、この、誰よりも美しい人に、キスをしていいのか―
―馬鹿げた言葉が胸の中に響き、一瞬、身体を引きかけた。
 いや、でも――。
 数え切れない眺めが行き過ぎる。
 初めて言葉を交わした時の、くだらない話ばかりをして笑った時の、ざっく
ばらんに身体を求め合った夕の、冬の中央公園を「恋人」で歩いた夜の、久し
ぶりに出会った日、落ちる涙を拭うこともなく、声を上げて泣いていた時の。
 美佳。
 心の中で言葉を作ると、俺は彼女の肩を抱き寄せた。
 そしてゆっくりと、唇を重ねた。暖かく柔らかな、湿った感触を心に染み込
ませながら。
 背中に手が回され、強く指に力がこもるのがわかった。
 俺も、肩に当てた手を首筋に回し、できるだけそばにと、彼女を引き寄せた。
 そのまま、お互いの動悸と体温を感じ続けていた。
 背中から腰に、重い痺れのようなものが広がって、身体が熱い。それはやが
て、頭の先まで届いて、胸へと響き渡る。低く深い音が鳴り続け、自分の身体
がどこにあるのか、わからなかった。
「あ」
 小さく声を上げた美佳が、少し顔を離す。そして、俺の背に回していた手を
自分の頬に当て、それから俺の顔に指を伸ばした。
「……涙? 寛史」
 独り言のように言うと、俺の顔を見つめた。目の端を自分で触る。……本当
だ、涙が流れている。
 美佳は目を伏せると、眉根を寄せた。身体が離れ、旋毛と、うつむいた額が
見えている。そして、細かく肩が震えていた。
「寛史、私、私……」
 何かを言いかけて止まると、まっすぐに顔を上げた。見開いた瞳の中には、
涙が溢れ光っている。
「……好きだよ、寛史。好きだよ、誰より。誰より、誰より、愛してる!」
 俺は、一瞬、目を閉じた。誰より激しい輝き、真っ直ぐに射抜く、その想い
を心に焼き付けながら。
「うん」
 頷いて、目を開いた。
「愛してる、美佳。俺も、愛してる」
 言葉にした瞬間、何かが弾けて、美佳の身体を抱き寄せていた。そしてもう
一度、強く、奪うように唇を合わせた。
 後のことは、よく覚えていない。
 照明もつけないまま、服を脱ぐのももどかしいほどに、すぐさま身体を重ね
た。
 一つの言葉も交わさなかった。
 ただひたすらに、美佳の身体を抱き締め、額から爪先まで、指と唇の届く全
てを愛撫し、奥まで――できる限りの深さまで分け入って、一つになった。
 向かい合わせで激しく動いていた一瞬、瞳がすぐそこにあって、深く秘めた
色が、確かに俺の目に映った。
 そして、すぐに解け、海のように豊かな頷きになる。
「美佳」
 腰を抱き寄せ、強く突き出した瞬間、あ、と声が上がり、続いて喉の奥で、
「うん」と低く響いた。
 乱れた髪の下、目を閉じてかすかに唇を開き、何かを待ち、でもどこかたゆ
とっているような……。
 何かが聞こえた。身体の奥で、今まで一度も聞いたことがない深く確かな響
きが。
 背中を激しい痺れが襲い、満ちて、強く身体を抱き締めていた。
 肩口に顔を押し付け、胸を胸でつぶし、どこにも隙間なく身体を寄せ合って。
 美佳の手も、俺の首を強く抱き寄せ、互いの息遣いが耳元で響く。
「ん、ん、ん」
 低い声が、やがて、
「あ、あ、あ」
 と喉から高く響くようなうめきへと変わりながら。
 どこまでが自分の身体なのか、わからなかった。ただ分け合い、広がり、で
も、どこまでも激しく、強く、感じたい。
 限界を超えて前へ進んだ。
 耳元の声が、ほとんど叫びに近い感じになる。きっと俺も、声を上げていた
と思う。
 腰に回された美佳の足が、強く、激しく中へと引き寄せ、もう、全部を一緒
に!
「美佳!」「うん」
 感じた瞬間、頭からつま先へ、背中から腰へ、轟音が響いた。
 長く、満ちるような放出感があって、同時に、美佳の声が耳元で言う。
「ああ、んんっ!」
 切ない官能の止め声を聞いた時、もう一度、潮のように痺れが身体中に広が
って、俺も、声を漏らしていた。
 なんて、気持ちがいいんだろう……。美佳と二人、まるで、海の中に溶けて
いくような。
 息遣いとベッドルームの空気が感じられたのは、ずっと後だった。
 うつぶせに身体を落として気が付くと、汗が全身からにじみ出ていた。
 何も考えていなかった――。こんなことが、あるんだな。
 隣を見ると、美佳が俺の背中に手を伸ばして、ゆっくりとさすっている。目
が合って、俺も彼女の髪に手を添えた。装いを落とし、柔らかく佇む表情には、
今確かに分け合った想いが見えて、俺は目を閉じた。
 心の中で、笑みを浮かべてしまう。嬉しいん、だな。俺は……。
 その後のことも、あまりよく憶えていない。
 シャワーを浴びた気もするし、汗を拭って着替えたのには間違いないと思う。
 急速に全身が重くなり、目を開けていることができなくなった。
 そして、いつのまにかベッドの上、うつぶせのまま眠りに落ちていた――。
 ただ、かすかに目を開け、それが現実かもわからないまま、おぼろな光を映
した夜の一瞬一瞬。傍らには間違いなく、穏やかな息遣いと、肌の暖かさがあ
った。
 どれくらい眠ったのだろうか――夢とうつつを見分けられずにいた何度目か
の時。
 目蓋から入ってくる光が、思ったより遥かに多い気がして、俺は眼を開いた。
 閉じられたカーテンが、薄黄色に透けている。そして、わずかな隙間から、
きらめく陽光がのぞき、時を教える。
 もう、早朝っていう時間じゃない……たぶん、八時か九時……。
 ん?
 背中に空白があることに気づいた。ずっとそばにあったはずの気配が感じら
れない。
「美佳?」
 振り向くと、そこには誰もいなかった。
 足元辺りにはタオルケットが丸まっている。そして、斜めになった枕の横に
は、たたまれたローブがあった。
 立ち上がって、バスルームの戸を開ける。
 けれど、トイレにも、バスタブにも、すらりと背の高い姿は見えなかった。
「……美佳?」
 もう一度呼びかけた時、壁にかけられたバイクスーツがそのままなことに気
づいた。
 そして、目を落とした小さなテーブルの上に、何か紙のようなものが置かれ
ている。
 なんだろう?
 簡単には開けられないように、入れ子にしてたたんである青い紙。手に取る
と、背には「寛史へ」と鉛筆で書かれていた。
 少し苦労して開けると、紙は二枚つづりになっていて、その上には懐かしい
文字が並んでいた。不揃いで少し丸みを帯びた、どこか可愛らしい筆致の。
 カーテンを開けると、立ったまま文字を追った。
 紙を繰り文章を追うほど、軽く歯をかみ締めたくなる。
 美佳、本当に……。

 寛史へ

今、この気持ちを伝えておかないと、後からわからなくなるんじゃないか、そ
んな気がするから。
メールとかでもいいかもしれないけれど、やっぱりそれだと、簡単すぎるんじ
ゃないかなと思う。
聞いてくれるよね、寛史。
(少し、恥ずかしいけれど。ホント、バカだよねぇ、私は)

本当は、ずっと・・・、「そうして」欲しいって思ってたんだ。
昨日みたい、な。
(バカバカバカ、汗汗;)
でも、怖かった。
何が、かは今から書くね。たぶん、そういうことだと思う。

昔、亜矢が言っていたことがあるんだ。突然だけど。
「森嶋に憧れる、いつも真剣でいたい、近づいていきたい」って。
高校の時の話だけど、私、今はその気持ちがわかる気がする。

いつも、いろいろ考えを巡らせてた。
誰かと付き合う度に(ゴメン)
もちろん、高校の頃には、寛史のことも。
恋のこと、その気分、身体のこと、どうしてその人と付き合っているのか・・・。

怖かったのは、自分自身の気持ちだったんだと思う。
そうして握っていないと、どこに行ってしまうかわからない。
私は、嫌な女だから。取り留めのない人間だから。
そうなんだ。自分が少しも好きじゃなかった、だから、怖かったんだ。

本当はね、私、ずっと寛史のことが好きだったんだと思う。
高校の時、ああやって出会った時から。
でも、自分の気持ちが怖かったんだ。寛史はきっと、自分自身のことは気にし
ないから。
私の好きだって気持ちに、言い訳させてくれないから。


嬉しかった。昨日。
ずっと、待ってたんだ……。
でも、そうじゃなくても構わなかった。
二人の結婚式の時から、何回も出掛けたよね、その度に、思っていたから。
寛史のそばにいられるなら、別に恋人じゃなくても全然構わない、って。

でも、私は寛史のことを、大好きだって思ってた。
寛史がどこを見ていても、私を好きじゃなくても。

だから、嬉しかったんだ。

・・・ははは、全然理屈、通ってないよね。でも、本当の気持ち。
間違いなく、正直な気持ちだから。

きっと、私・・・きっと、自分のことが少し好きになれたんだと思う。
くだらない(こんなことをわざわざ書くような)変な女だけど、それも悪くな
いよって、
だってさ、
だって、

寛史のことが好きだから。好きでいられるから。

ハハハハ、バカだ、私。
許してよ、寛史。
ちょっと頭のネジ、飛んでるかもしれない。
いい年して、何言ってるんだか、だよね。

どうしようか、この手紙。やっぱり、永久封印しようかな。


先に、走ってくる。
スーツ、持ってきてね。チェックアウトも、よろしく。


 あなたの、
      美佳

P.S.
この気持ちは、変わらない。
どんなに私が変わっても、寛史と一緒に変わっていっても、この気持ちは、変
わらない。
ここから始まるから、変わらないんだ。
ありがとう、寛史。

愛してる。

 俺は、元通りに手紙をたたむと、すぐに携帯を握った。アドレス帳を開いて、
美佳に繋ぎかけ、手を止める。
 すぐに話すのは、気恥ずかしい感じがした。
 メールに切り替えて、一瞬、文言を考える。
『起きたよ、美佳。どこに行ってるやら。置いてくなよな、寂しいだろ』
 服を着替えて荷物をまとめかけると、すぐに着信が返ってきた。
『海が見えるよ。昔と全然変わらない。いい景色だなあ』
 それだけだった。まったく、美佳の奴。
 いたずらっ気な顔が思い浮かぶ。
 足早に部屋を出て、チェックアウトを済ませた。考えられる場所は、一つし
かなかった。
 緩やかに南へと波際を描く岬へ。まだ、陽は浅い角度に輝き、日曜のバイパ
スに車の姿はなかった。
 狭く、ラインが消えかけた、形ばかりの駐車場に入ると、赤いカウルのバイ
クがすぐに見て取れた。
 隣に自分のバイクを止め、防波堤の向こうに積み重なったテトラポットの群
れを見遣ると――いた。
 青いTシャツに、首筋まで伸びた髪が涼やかに揺れる背中。二方向から波が
寄せ、弾ける岬から、遥か水平線に視線を伸ばすようにして――。
 テトラポットの上を渡り、あと一歩のところまで近づく。
 足を抱え、彼方へ想いを飛ばしているようにも見える――どうやって声をか
けようか。
 と、美佳の方が振り向き、にっこりと笑った。
「……寛史」
「おう」
 頷くと俺は、美佳の座るテトラポットの下に立った。
「そんな格好で飛ばしてきたら、寒いだろ。もう秋なんだしさ」
「うん。でも、気持ち良かったから。かく言う寛史も、スーツ着てないじゃな
い」
「まあね。誰かが急かすからさ。取り急ぎって奴」
 へへへ、美佳はまた笑うと、目を伏せた。
 いつもは鋭く上がった眦が、穏やかで密やかに流れて見える。そして、ずっ
と雄弁だと思っていた唇も。
「……読んだよ」
 下から言うと、うん、小さく頷く。俺は、手を延べた。
 すぐに指が合わさり、軽く握り締めてくる。
「俺さ…」
 ここまで飛ばしてくる間に考えていた言葉を出そうとして、俺は口をつぐん
だ。何かを言うのが、果てもなく陳腐に思えた。
「…いや、いいや」
 代わりに、握った指に力を込めた。そのまま、海に目をやる。
 そして、ずっと二人で海を見ていた。
 波の音と、薄雲のかかる空、白く照り返す陽の光を見つめながら。
「美佳」
 呼びかけると、穏やかではにかんだような瞳が、再び下を向いた。
 その時、俺は思っていた。
 今までも何度か感じてきた、まっさらで、折れそうなほどに優しい印象――
もしかすると、この女の子の奥深い場所を占めているのは、そんな繊細で澄ん
だ、誰かが包まなければ壊れてしまう、美しいものなんじゃないか、と――。
 口が、自然に言葉を作っていた。
「……美佳。俺さ、いい加減な奴だし、なんてのか、イマイチ生活力もないけ
どさ」
「うん」
 俺の言葉の先に予想がつかないような、曖昧な頷きが返る。俺は、先を続け
た。
 たぶん、一度しか言えない台詞を。
「ずっと、俺が生きている間は、美佳と一緒にいようと思うよ。たぶん最初か
ら――そうだ、ずっと昔から、そう決まっていたんだ」
 驚きに見開かれる目。俺も、自分の口が何を言っているのか、一瞬、言葉を
疑っていた。
 でも、すぐにわかる。これは、俺の本心だ。ずっと、偽ってきたけれど……
そう、美佳が言ったように、俺も怖かったんだ……。
 一度閉じられた眦に、涙が見えた。
 しかしすぐに、瞳は光を帯び、真っ直ぐに見つめ返してくる。そして、テト
ラポットを下りると、俺の手に身体を委ねた。
 俺は、力を込めて腰を抱き寄せると、一度唇を噛み締め、視野の全てで彼女
の姿を捉えた。
「美佳」
「寛史」
 そして俺たちは、唇を重ねた。
 長く、長く。


   完

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