第二章 Crossroad

 「ごちそうさまぁ」
 箸がテーブルの上に置かれると、青のTシャツに黒の短パン姿が
そそくさと椅子を降りようとした。
「おい、みそ汁! 残ってるだろうが」
 ワカメが浮いたままになっているお椀を指差すと、匠の丸い頬っ
ぺたにさらに空気が入った。
「もう、食べ終わった」
「ダメだ、ちゃんと食え。俺が作ったんだからな」
 ふんぞり返って見下ろすと、小さな身体がしぶしぶ椅子に戻り、
不機嫌そうに汁に口をつける。
 よしよし、素直でよろしい。
 煤けた壁の時計を見ると、時刻は七時半を回ったところだった。
「じゃ、俺は先に行くからな。お前、学校の用意、できてるのか?」
「できてるよ」
 ざん切り頭が向こうを向いたまま頷くと、俺は台所の奥の引き戸
を細く開けた。
 布団が引かれたままの薄暗い空間に首を突っ込むと、丸まった毛
布の固まりに声をかける。
「おい」
 返事はない。蛍光灯の豆球だけが点る下で、茶色に縮れた頭髪が
揺れた。
「わかってるか、おふくろ。今日、匠の参観だからな」
「あ、ああ、はいよ」
 くぐもった声が殆ど聞き取れない低さで返ると、俺はカバンとナ
ップを肩に、家の外に出た。
 朝の街はいつも通りで、カナリア横丁を歩いていくと、湿り気を
帯びた狭い路地からは、かすかにすえた匂いが立ち上っていた。
 メインストリートに出る角には、錆び付いた鉄の掲示板に、映画
のポスターが乱雑に張られている。
 GWの最新作か。たまには映画でも観て帰るかなぁ。部も休みだ
し。
 三年生になって一ヶ月、新クラスのもの珍しさも薄れて、お馴染
みの日常が繰り返されつつあった。そもそも、受験や推薦で上に上
がる奴らとは違って、春の実力考査とか言っても俺にはまったく切
迫感がない。ま、赤さえ取らにゃ、それでよし、と。
 部の新人も、可もなく不可もなく、と言ったところだった。残っ
たのは都合十二人。大会に「参加することに意義がある」、お気楽
運動部としては、まあまあの人数と考えられなくもなかった。
 二年の時とさして変わらない日々。そんな中で、山藤亜矢の背中
だけが、際立った色で記憶に残っていた。
 転校早々合唱部に入り、あっという間にクラスの中心になってい
く背の高い姿は、中学の頃の印象そのままの……いや、それ以上か。
 英語のリーダーを、古典の文章を読み上げる時の透き通った声は、
まるで、歌うようで……。
 ポニーテールの頭を凛とそびやかして、前を見つめる姿が頭の中
に浮かび上がる。
 ったく、朝から何を考えるかな、俺わ。
 木の葉坂のふもとのバス停を歩き過ぎると、何人かの生徒の姿が
見えた。まだ、ラッシュアワーでもない。
 校舎を見上げながら坂を登ると、さらにもう一つ、別の印象を残
す横顔が浮かんで、ため息をつきたくなった。
 時折、彼女の視線が追っている先に、「あいつ」がいる。ただ、
その背中は、中学の頃のあいつとは少し違う。思うがままに白球を
追い、輝いていた頃のあいつとは。
 それでも、彼女の瞳の追う先は変わらない。森島武史の『あーち
ゃん』のまま――。
 どうも、脈絡のない連想は止まりそうになかった。まだ時間はあ
るし、こういう時は、だな。
 平たいカバンの中、二段式のカンペンケースを開けると――まだ、
あるな。白いショッポの箱を確かめながら、四階の踊り場をそのま
ま過ぎて上へ向かう。廊下の向こうから歩いてきたごつい顔が、煙
草を吸う仕草を示してにやっと笑った。
 へいへい、その通りで。
 俺は山崎におどけて見せると、屋上へと向かった。
 主に就職組の、憩いの場所。ほとんどが進学するこの学校では、
モクを吹かしながらたむろするような奴は、俺も含めてかなりの少
数派だった。
 使われない椅子や机が置かれた階段を上がり、屋上への鉄扉を開
ける――と、はめ込まれたガラスの向こうに、人影が見えた。
 先客か。女子がこの時間に屋上にいるなんて、珍しい。
 しょうがねぇ、これは退散かな。引き返しかけた時、俯いたうな
じにかかる結い上げた髪が、一つの名前と結びついた。
 俺は、もう一度ガラスの向こうを見つめた。
 間違いない。
 角にある観測室の壁に寄りかかり、ぼんやりと視線を落としてい
るのは「彼女」だった。
 半分落とされていた目蓋が、一度完全に閉じられ、両手が白いY
シャツの前で組み合わされた。そして、いつも陽気に輝いている口
元に浮かんだ、固い稜線。
 組まれていた手が解け、一瞬、目元を拭った。
 踵を返した彼女がこちらに歩き始めた瞬間、初めて目を奪われて
いたことに気付いて、慌てて階段を下りた。
 四階の廊下を、教室とは反対の方に曲がり、掲示板を眺めるふり
をする。
 鉄扉が閉まる音が小さく響き、スリッパの音が近づいてくる。そ
して、僅かに見上げる高さで濃青のブレザー姿が背中を見せて向こ
うへ……と、何故かあれっという感じで頭が揺れ、こちらを振り向
いた。
「あ、寛史くん。おはよう、早いねぇ」
 どうして、気がつくんだよ。
「お、まあね。山藤ちゃんも、お早い出勤で」
 深く黒い瞳が、真っ直ぐに俺の目を射る。さっきのは、何かの間
違いだったのか。いや、目が、赤い……。
「朝練?」
 手が、軽くラケットを振る仕草を真似る。俺は、目を逸らしなが
ら、まさか、と手を広げて見せた。
「冗談冗談。そんなマジ入ってませんって。何せ、マイナー文化運
動部」
「そうなの? 私、好きだけどなぁ。テーブルテニス。畳二畳の格
闘技、でしょ?」
 明るく笑いかけられて、俺は先に手を上げた。そう言えば、中坊
の頃、そんな話をしたことがあったっけ……すっかり忘れていた。
「ははは、台の上で、延髄切り〜って? 傾いて、ドッカン、だよ」
 そのまま教室の方へ行き過ぎると、
「もう、冗談ばっかり。寛史くんは」
 いつも通りの明るい声を後ろに、俺は考えていた。そして、胸に
湧き上がってくる憤りを止められなかった。
 誰だよ、彼女を泣かすようなことをした奴は。
 思い当たりそうな名前は一つしかない。しかし、今のあいつがそ
んなことをするだろうか……。

 心の片隅に残っていた疑問は、二限終りの休み時間に解けること
になった。
 二十五分の中休み、いつもの面子で賭けトランプをしていた窓際
の一角に、教室の最後部で立話をしていた女子の声が聞こえてきた
からだ。
「朝さ、ちょっと修羅場、見ちゃったんだよね」
「え、なになに」
 そして、教室の前方を目でちらっと見遣り、
「え、あの子? マジ?」
 視線の先には、楽しげに数人で話す山藤亜矢の姿があった。
「うん」
「で、何が? 誰と?」
 そして、主のいない後部の座席を小さく親指で指した。
 それは、やはり「あいつ」の席だった。
「なんかね、繋がりあるみたい、あの二人って。「そんな人じゃな
かった」みたいなこと、大声で言ってたから」
「嘘。全然結び付かないじゃない、あいつと、あの子じゃ」
「うん、でしょ? 意外だよね。美女と野獣って感じかねぇ」
「うわ、ひーちゃん、キツイ。でも、ホントだったらそうだよね」
「そうそう、でしょ?」
 やっぱり、そうなのか。少し陰鬱な気分が兆すのを感じた時、正
面から声が飛んだ。
「おい、寛史、何考えてんだよ。時間なくなっちまうだろうが」
「お、わりぃ」
 俺は、カードを場に捨てると、空のままのあいつの机を見遣った。

 購買で買ったパンを口に放り込んだ後、俺は、一人で弁当を食べ
かけていた「あいつ」に声をかけた。
「おい、タケ。ちょっと付き合えよ」
 武史は、メシが終わった後じゃダメなのか、そんな様子で見上げ
たが、こんな下らないことは早い内に済ませたかった。
 屋上での飲食は禁止、昼食時にあまり人はいないはずだったが、
モクをふかしに来る奴もいるかもしれない。俺は、武史の後ろから
屋上に上がると、内側に止め石を置いた。
 しばらく、何てことはない言葉を投げ合った後、俺より頭まるま
る一つ分も高い顔を見上げると、それとなく聞いた。
「なんか、山藤ちゃんの様子が変だったけどさ、お前、なんか知ら
んか?」
 武史は、額に落ちた長い前髪を指先でいじりながら、細い目を更
に訝しげに狭めて見せた。
 知らないな――答えは、素っ気ないもんだった。それは、当たり
前かもしれない。いきなり第三者にこんなことを言われて、まとも
に答える奴はそうそういないだろう。
 だが、手すりに身体をあずけ、目を逸らしたままに言った台詞が、
胸のどこかに引っ掛かった。怒りに火が付き、瞬時に燃え広がるの
を止められなかった。
「俺には、関係ないよ。でも本当、山藤は中学の時のままだよな」
 何てことはない言葉のはずだ。
 でも、何でお前は、そんな顔で言うんだよ。何もかんもやめちま
ったみたいな顔で。
 肘を痛めてやめただけじゃない、何か家の事情が絡んでいるのも、
少しは知らないわけじゃなかった。
 朝、思いがけず見てしまった涙の跡。四月からこっち、幾度も目
にしたこいつを追いかける視線。
 それが、どんな気持ちで向けられたものか。
 そして中学の日、県大会の決勝で九回を投げ切り、両手を高く掲
げた泥だらけのユニフォーム姿と、バックネット裏で満面の笑みを
浮かべる後ろ姿――。
 気がつくと、俺は武史のYシャツの胸倉を掴んでいた。
「お前な、俺が知らないで言ってると思ってんのか。山藤、今日の
朝、目ぇ真っ赤にして泣いてたぞ。お前が何か言ったからだろうが。
マジで、わかってんのか!」
 背伸びして引っ張り寄せると、足も腕も痛かった。この、図体ば
っかのでかぶつが。
「だったら、なんだよ。やめろって、寛史。お前に何か関係あるの
か」
 冷めた目に、揺れる様子はない。ここまでやられても熱しない中
学以来の「ダチ」に、俺はどうしたらいいのか……。
「バカ野郎! お前みたいなのが、本当のエゴ野郎って言うんだよ!
 いっぺん、話せって言っただろうが。お前、全然わかってないん
だよ、山藤の気持ちが!」
 「ミラノハウス」で顔を合わせた時にも、何度か飲み込みかけた
言葉――次々と口をついて、後は、自分でも止めようがなかった。
「――嫌になることもあるさ、言えねぇこともあるさ。男だもんな。
確かに、俺は何があったか知らん。あんなに打ち込んでた野球をや
めちまったわけもわからん。でも、それはお前の事情だろ?」
 お前が、俺とおんなじようになる必要なんて、ねえんだよ!
「人のことも考えずに浸ってる野郎は、ダチなんかじゃねぇ。いつ
までも泣いてろ、ウジ虫野郎!」
 言葉を叩きつけると、締め上げていた胸元を離して、武史に背を
向けた。
 扉を開けようとして、ギギギと擦るような音が響き、ほとんど動
かない。止め石を置いていたことに気付いて、足で蹴り飛ばした。
 階段を下り始めて、手が震えていることに気付く。
 右手の親指を左手できつく絞り上げて、踊り場で歯を食いしばっ
た。
 ああ、余分なこと、喋っちまった。何やってんだ、俺わ。
 四階の廊下まで下りてきて、軽く首を振った。あいつが続けて下
りてくる気配はない。一度上を見上げると、自然に舌打ちをもらし
てしまっていた。
 それでも、どうしても我慢ができなかったんだ、仕方ねぇよな。
あいつらが、こんなまんまでいいとは思わんし……。
 息を吐きながら教室の前まで歩いてきた時、視野の端に短い髪の
シルエットが留まった。
 窓際で、何とはなしに俺の方を眺めている、背の高い女子は――
「あ、美佳姉さん」
 いつもながら、切れ味の良さそうな顔立ちだった。肩の力が抜け
 ▼
て、どうしてか、大きく息を吸い込んで笑いたくなった。
「…珍しいじゃん、お一人?」
 俺の顔を見ると、佐野美佳の鋭い口元に、もの言いたげな緩みが
生まれて、すぐに元通りになった。
「安部…」
 ほい、と返事をすると、「まあ、いいや」と視線を落とし気味に
する。
 何かが頭の奥に触れた。さっきまでの緊張が、形を変えてここに
繋がっているような感じだ。
 佐野は、立ち止まった俺に、首を振って見せた。
「あ、いいよ。あんたにも悪いし、さ」
 低く落とした言葉の内容と、いつもの冴え冴えとした表情でなく、
上目遣いになる様子に、やはり、何か話がありそうだとわかる。
「悪い? うぇ、じゃあ、やめとこ。楽しくないお話は、およしに
なってねぇ先生、ってか」
 軽く冗談めかしてみたけれど、佐野の表情は緩んでいない。
 いいさ、美佳姉さんの話ならさ。
 軽く頷いて見せると、さらに低くなった声が告げたのは、
「いやさ……あの子のことで、ちょっとね」
 予想していたものとは、まったく違う方向の言葉だった。
 俺に「悪い」。あの子……。一瞬考えて、彼女のことだと気がつ
いた。
「どうかした……」
 言いかけて、昼、噂をしていた女子の顔を思い浮べた。上杉弘美
――佐野の取り巻きの一人でもある。とすれば、知っている?
「……もしかして、あいつとのことか、武史との」
 思わず言ってしまった瞬間、佐野の表情が驚きに歪んだ。
 目で頷きながら、やっぱり、今日はこのことから離れられないの
か、素直にそう思っていた。
 廊下の突き当たり、理科準備室のカーテンの下りたドアの前に行
くと、佐野美佳は、照れ臭さげに俯きながら、髪を軽く梳いた。
「お節介とは思うんだけどね、私もさ」
 やはり佐野も、今日の朝、あの二人が言い争っているところを見
たのだと言う。
「できれば、亜矢の助けになれればなぁ、なんてね。さっきちょっ
と本人に問い詰めて、ミスっちゃったし」。そして、「ごめんな、
安部」と目を伏せた佐野に、俺は首を振った。
「どうして」
 俺は、二人に関して知っている限りのことを佐野に話した。彼女
になら、打ち明けても構わない気がしていた。おそらく、おかしな
意味では取らない。同情とか、嫉妬とか。
 話は、五限を挟んで続いた。
 リーディングの授業中、武史や彼女の様子を気にしながら、時折
佐野美佳の表情を窺ってしまっていた。
 俺の座る窓際最前列の反対側、ノートにシャーペンを走らせる彼
女の顔は真剣そのものだ。
 リーダーを持って、言葉の関係や訳文を喋りながら机の間を行き
来するのは、細身に眼鏡が目立つ、英語教師の多嶋――でも、佐野
美佳の表情は特に変わらない。
 四月、話を振られた時に、しばらく気にしたこともあったっけ―
―。
「それで、森島、野球をやめたってわけじゃなかったんだ」
 人の姿の見えなくなった教室で、一通り話し終えた時には、どち
らかと言うと目の前にいる「美佳姉さん」の思いが気にかかってい
た。
「まあね。美佳姉さんの話を合わせると、多分、その辺かなって思
うのさ。あの二人のすれ違いって」
 もういっぺん亜矢に話してみるかなぁ――そう言って指を頬に当
てた佐野に、俺はある公園の名前を口にした。家に帰らない夜、武
史から何度かその名前を聞いたことがあった。
「東総合公園、って言ってたと思う。今日、金曜日だよね? なら
たぶん、いるんじゃないかな、あいつ」
「そこで?」
「詳しくは俺も知らないんだよ。でも、そこまで煮詰まってんなら、
会えりゃそれで済むんじゃないかな」
 二人に任せりゃいいと思っていたが……。これであいつらが会え
るなら、悪くない。
「でも安部、いいの?」
 昼休みに話し始めた時と同じ少し照れたような表情で、佐野は言
った。俺は、立ち上がりながら、ショートボブの旋毛を見下ろして
いた。
 そんなこと、ないさ。もう、とうに俺の中ではけじめのついてる
ことだ。
「俺が言うとさ、なんかわざとらしいだろ? だから、美佳姉さん
に頼めるなら、さ」
 いつも切れ上がって鋭い目が、さっきから緩んで穏やかに見える。
 そしてその奥に、悪戯っ気のようなものを感じるのは――気のせ
いじゃないよな。やっぱ、この女子は……。
「……そうそう、その安部っての、なしにしてくれる? なんか、
美佳姉さんに苗字で呼ばれると、ますます「すいませ〜ん」になっ
ちゃいそう。中学の時から、みんな寛史、だしさ」
 軽く言うと、彼女はハハハ、と笑って、
「わかったよ。あの子らの縁結び役も任せときなって、寛史」
 俺は手を上げると、そのまま教室を後にした。
 早朝目にした彼女の涙、帰り際にいつも通り無言のままで出て行
った武史の背中が過ぎる。
 すっきりしたような、それでもどこか唇を噛みたくなるような。
 ……まあ、いいか。
 昨日店から響いてきていたカラオケのメロディが、自然に口をつ
いて出る。
 おそらく、悪いようには運ばない気がした。拗ねて見えても、あ
いつは結局、変わってないはずだ。それに、彼女も。
 『任せときな』か。カッコいいじゃんか、美佳姉さん。
 金曜日か。――やっぱり、今日は映画でも観てくかなぁ。

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