第三章 雨の日の別れ

 床の斜め下から、いつも通りの鈍く低い音が響いてきていた。混
じり聞こえるかすかな歌声は、途切れ途切れでもかなり調子外れな
ものだとわかったが、いまかかっているのは多分、「矢切の渡し」
だろう。
 客は多そうだった。ま、金曜日だから当たり前か。さっきから途
切れずに曲が入り続けている。
 俺は、TV越しに首を伸ばすと、暗くなった部屋の奥を見遣った。
二段ベットの下では、掛け布団の盛り上がりがほとんど動かずにい
る。匠は良く寝ているみたいだ。
「うん。それ、いいのお。突っ込んでぇ」
 目を戻すと、演技っぽい喘ぎ声が、小さな音量でTVから聞こえ
てきていた。
 小島から廻ってきた無修正のAV。さっきから眺めているけれど、
画は悪いし、まったく、どこが「すげぇぞ」だよ。
 絵が切り替わって、これ見よがしに両脇に立った二人の男の逸物
を交互に舐め上げる口元がアップになって、俺はビデオの停止ボタ
ンを押した。
 たまにはいいかと思ったが、頼むんじゃなかった。やっぱり、ど
うも合わない。人のチンチン眺めても面白くねぇし、舐める方も大
変だろうなぁ……。
 イク、だめぇ、死んじゃう〜。クライマックスの嬌声が頭の中で
再演されて、思う。
 言う時は言うんだよな、ああいうこと。
「ヒロちゃぁん」
 少し間の抜けて鼻にかかった高い声が鳴った。ったく、つまんね
ぇことを思い出すかって。――さて、どうするか。
 手元のウーロン茶缶を一口。TVの電源を消して、奥の袋戸棚に
背を伸ばして、重なっている雑誌の山に手を突っ込んだ。ランジェ
リー姿でブロンドのモデルが微笑んでいる洋モノのヌード雑誌、こ
れにしとくか。と、もう一回匠の寝顔を確認してから二段ベッドに
上ろうとした時、窓の向こうから声が聞こえた。
「お疲れさまぁ」
 少し前から床下の音は小さくなっていた。街路から響く、客を送
り出す声に、数人の男の笑い声が被さる。そして、遠ざかっていく
複数の足音の後、ボソボソと喋りかける低い男の声がした。
 それに応えて、
「ううん、どうしようかなぁ。十二時前だよねぇ……閉めちゃって
もいいけれど」
 と、実際の年齢より十年は若い調子の母親の声が聞こえた。さら
に何言か交わされた後、
「うん。じゃあ、ちょっと待ってね」
 展開の読めた俺は、窓を開けて首を突き出すと、カナリア横丁の
狭い路地を見下ろした。
 茶色いちりちりパーマの頭と、隣には体格のいい背広姿がズボン
に手を突っ込んで、撫で付けた後頭部を見せている。
 やっぱり野島さんか。
 こちらを見上げる角張った顔に、俺は軽く会釈をした。母親も俺
に気付いて丸い目を見開き、自分より二回りも大きな「カレシ」を
指差した。そして、赤い唇が声を出さずに「いい?」と聞く。へい
へい――口だけを動かしながら頷くと、スパンコールの入った黒の
ツーピース姿は、一度眼下の店のドアに消えた。
 再び目の合った野島さんに軽く手を上げると、少し強面の顔が、
「悪いな」という感じで歪められた。
 「済ませる」のに大した時間はかからず、ティッシュを丸めて下
のゴミ箱に投げた後、俺は天井を見上げてぼんやりとしていた。
 どうも気合いの入らない部の様子が浮かんだ――まあ、一年坊も
半分は初心者だし、どうなるもんでもないが。
 それでも、何とか地区で決勝リーグに出るくらいには、などと考
えていたのは二年の今ごろか……熱い時もあったもんだ。とにかく、
最後の夏大会は、きっちりこなさんと。
 そう言えば、来月は就職の合同説明会もあるか。
『おまえ、ほんとにアルバイターになるつもりか? フリーター?
  そんなもん、偉そうに名前付けたってなぁ……』
 Like a bridge over troubled water〜
 合唱祭に向けて練習している「明日に架ける橋」のメロディを自
然にハミングしかけて、お、と口を尖らせた。歌っちまった。
 悪くない曲だよな。さすがに、山藤ちゃんと美佳姉さんの選曲だ
わ。去年のあっちゃこっちゃなクラスよりは間違いなくいい感じだ
よ、今年のクラスは。
 俺たちに任せといたら、相当いい加減な曲になったに間違いない。
 今の三−Cは、女子が中心で引っ張っているクラスだと思う。
 そして、その中心には山藤亜矢と佐野美佳がいる。男には「ツイ
ンタワー」なんて呼ぶ奴らもいるけれど、高いのは背の丈だけじゃ
ない。
 結局、この間のあいつとのことだって、美佳姉さんがうまくまと
めたらしい。それに、山藤ちゃんの……、まっすぐな目で見られた
ら、あの岩石野郎にだって、血が通わざるを得ないさ。
「うまく行ったみたいだよ。公園で会って、いろいろ話したって」
 もうお馴染みになった気もするどこか悪戯っぽい口調で教えられ
るまでもなく、あいつらがうまく行き始めたのは、よくわかった。
 廊下や教室の隅で、目に付かないように言葉を交わしている様子
を幾度か見た。それは、中坊の頃に見た眩しいような姿をダブらせ
て……おい、俺はジジイか。でももう、俺がとやかく口出しするよ
うなことは何もなさそうだった。
 そんなことをすれば、それこそなんとかの冷や水だって。しょう
がねぇ。
 不意に、目を閉じたくなった。息を吐くと、どこか胸が重い。
「あんたら、幼稚園児? みんな、部活や放課後の時間削ってんだ
からね、邪魔すんなら、帰りな!」
 今日聞いたばかりの佐野美佳の怒鳴り声が頭の奥から響き上がっ
た。もう一度、「明日に架ける橋」の低音部を口ずさむ。
 美佳姉さんか……ホント、大したもんだよ。
 弁舌と勢いで、あっちこっちな奴らを同じ方に向かせるなんて、
そうできるこっちゃない。
 ただ、今日の練習時の声はどこか少し違った気もした。妙に気が
立っているような、そんな感じか。
 確かに、俺も含め、くだらねぇギャグばっかりやってる奴らでは
あるが……その辺を受け流してまとめるのは得意だったはず……。
 気になっていることがあった。
 先週、英語の授業があった時、彼女の姿がなかった。担当は、多
嶋。五限まではなんてことはなく授業に出ていたはずが、その時間
だけ姿がなかった。
 週末にも、もう一度。
 下らない勘繰りだとも思う。でも、欠席も遅刻もほとんどない美
佳姉さんが、二回も早退するのか……。新学期のあの時から、一度
たりとも多嶋とのことを話した事はない。頭の回る彼女が、わずか
でも周囲から怪しまれる行動をするだろうか――。多少知っている
俺の目から見ても、これまではただの英語教師と、大多数の生徒の
一人としてしか映らなかったものを。
「ごめんね、安部。変なモノ見せちゃってさ」
 四月に「秘密」にしてくれと頼まれた時の、皮肉っぽい調子とは
裏腹の、深く真剣な瞳の色を思い出した。
 教師と付き合うこと……、どこから眺めても優等生の美佳姉さん
が、あの多嶋と、だ。どっちに転ぶにしても、簡単な状況じゃない。
俺には想像することすら難しい。
 大丈夫なのだろうか。
 思ってみて初めて、胸の奥で、何かの欠片がはまった気がした。
そうか……。
 大丈夫なのか、美佳姉さん。
 何度か思い回してきた彼女のこと。自分の気持ちを落とせる言葉
が見つかったように感じた。
 俺は、電灯の紐を引くと、軽く拳を握り締めて暗闇に目を見開い
ていた。鼓動が、ひどく身近にあるような気がした。

 合唱祭の打ち上げがばらけた後、俺は「ミラノハウス」のカウン
ターに座っていた。
 成績は、予想以上とも言える、準グランプリだった。拍手の数だ
け考えれば、最高だったかもしれない。
 打ち上げ会場のお好み焼き屋は、クラスの女子のオヤジが経営し
ている店で、最後はチューハイまで持ち出して大騒ぎだった。
 ただ、打ち上げの席に、佐野美佳の姿はなかった。
 この合唱祭に、一番力を注いでいたはずの彼女だった。準備から
練習まで、中心になって動いていたのは、クラスの誰もが認めると
ころだ。
「演歌だと思わん、マスター」
 ほろ酔い加減でいつも通りの木の扉を叩いてから、だいぶ長いこ
とつらつら喋っていた気がする。
「どっちかと言うと、フォークソングじゃないかな」
 マスターはオーブンへと屈みこんで焼けたピザを取り出すと、目
の前にポンと置いた。
 ずっと話していたのは、あいつらを縁結びしたよもやま話だった。
「フォークかぁ……、キャベツ食って暮らすとか?」
「そういうんじゃないけれどな。まあ、イメージだよ」
 いつも通り、眼鏡の下の奥深い目は、どこか笑って見える。
「でもさ、健気だろ? 俺」
 言いながら、少し酔っ払ってるなぁ、と思う。
 流線型の鉄格子がはまった小さな窓を、雨粒が叩いていた。打ち
上げが始まる前に降り始めていた雨は、ここに寄る頃には、かなり
激しさを増していた。
 熱い内に食べろよ――勧められて、カリッと焼けた生地を持ち上
げて口に放り込むと、マスターはエプロンの背中を見せながら、軽
い調子で言った。
「でも、その、佐野さんには感謝じゃないかな」
「まあ、そうかもね。美佳姉御がまとめてくれなかったら、うまく
いかんかったかも、だもんなぁ」
 マスターの言葉を聞いた瞬間、胸の奥を突かれた気がした。お節
介姉御でさ、そんな風に言っただけで、後は事の成り行きを、軽口
交じりに話していただけのはずだった。
 でも、話す後ろでずっと、「美佳姉さん」のことを心に流してい
た。今日、どうして打ち上げに来なかったんだろうか。発表の瞬間、
誰より大声を上げていた。
「ああ、悔しいなぁ。でも、嬉しい」
 そして、手を取り合って喜び合っていた山藤亜矢の、「美佳、ち
ょっと疲れたって。微熱があるからって」――心配そうに報告する
顔が思い浮かんだ時、ドアベルの甲高い音が、細長い店内に響き渡
った。
 外で振り落ちる雨を背景に入ってきたのは、天井が低く見えるほ
ど大柄で、朴訥な顔立ちの男――武史だった。
「お、いらっしゃい」
 マスターの声に、「ちわ、マスター」頭を下げて入ってきた視線
に目が合うと、あまり大きいとは言えない目の奥に、柔らかいよう
な笑みが見えた。
 今まで話していたこと、考えていたことの落ち着きの悪さを押し
込めて、
「おう」
 と声をかけると、武史は椅子に腰を下ろして、
「雨、凄いわ」
 低い声で言ってから、「いつもの、できる?」とカウンター向こ
うに呼び掛けた。
「ほいよ」
 マスターがぶら下がったフライパンを手に取ると、回転式の高い
椅子を軋ませて、武史は居住まいを直した。
「あそこでお開きだっただろ? どこほっつき歩いてたんだよ、こ
の雨の中」
 この店でこいつと話すのは久しぶりな気がする。ここのところ来
ないよな、そんな話をマスターとしたばかりだった。
「雨もさ、いいだろ」
 覚えのある調子だった。そして、また、さっきの柔らかい笑みが、
口元に浮かんだ。
 すんなりした顎のあたりの感じが、酔いの回った頭の何かをを弾
いた。
「降られてグラウンドにいる時ってさ、悪くないんだよな」
「そうか? 室内な俺にはわからん」
「お、すっきりしたじゃないか、武史。そっちの方が似合うな」
 左手の調理台で材料を切り始めたマスターが視線をくれると、武
史は短く刈った前髪に手をやった。
「なんか、ちょっとスース−するんだけどね。まあ、みんなの評判
はいいみたいだけど」
「みんなって、山藤ちゃんのだろ」
 軽くカマをかけた時、返ってきたのは、思いがけない……いや、
俺はもう、わかっていたのかもしれない。
「そういうんじゃないって……ああでも、亜矢が、なんだろうなぁ」
 「亜矢」と名前を呼んだ声の響き。雨粒のあたる小さな窓を見る、
紛れのない横顔――そうか、やっぱり、か。
 当たり前のことだ。付き合い始めた二人が、いつかそうなるのは
分かり切っている。今日の打ち上げでも、それとない視線の交わし
合いに、「違った」感じを覚えていた。付き合ったことのない奴に
はわからないだろうが。
「マスター、もう一本、コロナ」
 残っていたピザを詰め込むと、酔いも合わせて、気分の置き所が
わからなくなってきた。
「……寛史、もうやめとけ」
「まだ、三本目だろ。ほい」
 五百円玉を木のカウンターに置くと、マスターはつまみ上げた硬
貨を見遣ってから、冷蔵庫を開けた。
 黄色の液体が満たされた細長いビール瓶が置かれると、
「最後だぞ」
「ほいほい」
 適当に頷いて、付けられたライムを飲み口に差し込むと、一気に
半分ほど流し込む。
 まったく、バカ野郎が。
「この、ケダモノが」
 Tシャツの脇腹を掴むと、武史は眉を寄せてこっちを睨みつけた。
「……何だよ、いきなり」
「お。バックレかあ? まったく、殺されるぜ。山藤ちゃん、ファ
ンが多いんだからな」
 言っている意味がわかって、答えに窮した顔を見て一層、自分の
気持ちがわからなくなる。こいつは、俺のことになんて、少しも気
が付いていない。
 まったく、すげぇ奴さ。
 そんな量がいったはずでもないのに波打ちを増した頭を抱えなが
らミラノハウスから出ると、六月の雨は、相変わらず強く降り落ち
続けていた。
 傘をさしてファッション通りからカナリア横丁へ。酔いのせいな
のか、雨のせいなのか、ぼんやりにじむ街灯を見ながら、一つの結
論にたどり着く。
 そうだよな。ああいう奴だから、彼女も……。
 いや、それは前からわかっていたことのはずだ。だから俺は、ず
っと、あいつらがうまくいって欲しいと思っていた。
 ――四月に彼女が戻ってきた時、少しも変わっていない姿にどれ
くらい嬉しかったか。
 頬に雨がかかった時、回っていた頭が一気に冷めていくのを感じ
た。これで、終わったなぁ……違うか、あいつらには始まりかあ。
 タケの奴にもいろいろあるし、うまくいくといいな。
 いや、山藤ちゃんなら、きっと大丈夫だ。まったく、ホントに羨
ましいバカヤロウ。
 錆びた裏玄関を開けると、土曜日の店からはもう、ちらほらと客
の声が聞こえてきていた。
 匠は……そっか、今日は婆ちゃんのとこか。
 ベッドにひっくり返ると、ボーッと窓の外を見ていた。もういっ
ちょ、飲むか。どうせなら、ぶっちぎれた方がいい。
 うつぶせになっていた身体を押し上げて、狭い階段を下りようと
した時、突然、脳裏を過ぎた。それは、勝気で、悪戯っ気を隠した
顔。鋭いけれど、どこか影を隠した眼差し……。
 階段の下に置かれている、煤けたプッシュ式の電話が目に入った。
「ま、気軽にかけてきてよ。寛史なら、暇つぶしになりそうだしさ」
 五月に「縁結び結果報告」で話した時、くだけた調子でくれた言
葉を思い出した。
 だよな、打ち上げの様子を話すのも悪くない。あんだけ気合入れ
てたんだ、盛り上がるのは大好き、な美佳姉さんだもんな。
 どうしたんだよ、バックレか――軽口交じりでさ。
『あ、はい』
 しかし、取り次いでもらった受話器の向こうから聞こえてきたの
 ▼
は、彼女の声か、と思えるほど細い声だった。
 ホントに調子が悪かったのか、電話をかけたことを少し後悔しな
がらも、正反対の言葉が口をついていた。
「お、美佳姉さん、元気そうじゃない」
『あ、うん、まあね』
 焦点の定まらないような答えが返ってきた。初めて聞く、ぼんや
りした調子の声だ。「大丈夫か、美佳姉さん」心の中で作りかけた
言葉を、俺は飲み込んでいた。
「何だ、体調悪くなったってからさ、どうしたかなぁ〜ってさ」
『……はは、あの日か〜って?』
 吐息が混じる笑いの後で、聞き慣れた感じの声が続いた。
「ったく、何でそういうこと自分から言うかな、姉さんは」
 所在のない胸の重みが、少し軽くなった。
『で、何? デートの誘いならオミットだからね。一応、熱なんだ
から、私は』
「まさか。って、「一応、熱」? やっぱ、バックレかぁ。俺たち
と飲むのが嫌なら嫌で、はっきり言えばいいのにさ」
 電話口から、「はあ〜」と呆れ混じりの声が響く。
『誰が。あ……、飲んだって……くそぉ、あれほど釘差しといたの
に。和美は何してたのよ』
「え? ああ。『お父さん、レモンハイ。果汁大目にね』とか言っ
てたなぁ、村松」
『あああ、やっぱり。で、亜矢は?』
「何にも。見えてないんじゃないの、誰かさん以外は」
 すんなり言うと、あははは、と笑いが返ってきた。
『そりゃそうだ。あ〜あ、やっぱ、私がいないと、暴走機関車だね
ぇ、三−Cは』
「そうそう、姉さんがまとめないと、ただの動物園。早く回復しろ
よ。呪文かけたろか」
『ホイミ、とか?』
「古い。今は、ケアルラ、だろ」
『なにそれ?』
「……いや、なんか、小島が言ってた」
『知らないなら言うなって〜』
 と、後ろから小さな声が聞こえた。さっき電話をかけた時に出た
声、たぶん、母親だ。
『……美佳、ご飯は……』
 受話器を外した彼女の声が、
「ああ、食べる。ちょっと寝ちゃっただけだから」
 落ち着いた、淀みのない受け答えだった。その声を聞いた時、何
か、彼女の家での様子がわかるような気がした。
「なんだ、まだ食事前? 今、何時だっての」
『だから、熱で寝てたんだって。後、心配混じり』
「は? 何が」
『……女の家に電話してくると、厄介だよ〜』
「あ、そういうことか。おお、こわこわ。でもさ、前に自分で言っ
てたじゃない、適当にかけてよってさ」
『まあねぇ。かけられる分には、タダだし』
「お、ひでぇ」
 軽口を飛ばし合っていても、別の気分が伝わっている、そんな気
がしたのは、俺の思い込みだっただろうか。
「それじゃま、打ち上げの報告、終わり」
『はいはい』
 そして、短い笑いの後で、落ち着いたトーンで、
『サンキュ、寛史』
 声が聞こえた時、俺は、見えもしないのに首を横に振っていた。
「ま、無理しすぎるなよ。美佳姉さん」
 また短い笑い声が響くと、軽い、でもどこか優しい言葉が返って
きた。
『どこが、かさの小さいあんたに言われたくないね』
「お、差別発言。ほいじゃ、退散しますわ、チビは。じゃね」
 受話器を置いた後、台所で冷蔵庫を開く。ビールを取りかけて扉
を閉めると、コップに水を入れた。
 暗い格子窓の向こうに、雨だれがポタポタと落ちてきていた。幾
条にも流れ跡を残す向かいのコンクリートの壁が、雨がまだ降り続
いていることを教えてくれている。
 一気に飲み干した水が喉と腹に冷たかった。
 調子外れの歌声と、甲高いハウリング音が後ろの壁から届いてき
て、笑い声がそれに続く。
 明日は、晴れるといいなぁ。
 俺は、何となくそんなこと考えていた。

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