第四章 波立ち

 夏。俺が一番好きな季節だ。カッカと照る日差しに、海に山。
 このところずっと続けているボードにしても、やっぱり夏が一番
気持ちがいい。全てに威勢が満ちて、身体が華やぐ。
 そしてそれは、海に照り返す陽を眺めれば蘇る、今でも鮮やかな
記憶も含めて――。

 テスト期間も終り間近の放課後、俺はボイラー室裏の木陰で、煙
草を吹かしていた。
 鉄階段を上った小さな踊り場で足を投げ出して南の方を眺めると、
小高いこの場所からは、海がかすかに見える。
 久々に、海まで飛ばしてみっかなぁ。
 学校に隠しで免許を取って以来、ずっと家の裏で寝かせたままに
なっているバイクを思い浮べながら、目を細くした。
 波頭までは見えそうにない。恐ろしいくらい澄んだ空に、深い青
が地平で合わさってぼやけている。遠くに台風が来てるって言って
たっけか――波に乗るにはいい日なんだろうな。
 ちびた煙草を腰を据えた鉄板に押付ける。さて、もう一本吸った
ら、カエルが鳴いたら帰りましょ〜、だな。
「君、そこで何してるの!」
 カバンに手を突っ込もうとした時、背中から甲高い声が響いた。
 マズ、誰だよ。
 吸殻を手の平に握り込めながら斜め後ろに振り返ると、それとな
くポケットに……くそ、まだちょっと熱いな。
「え、なんすか〜?」
 見下ろすと、ボブに刈られた黒髪の天頂部が目に入った。そこに
立っているのは、予想していたスーツ姿ではなく、セーラー服の女
子だった。
「はは〜、寛史。手、火傷するよ」
 眦の上がった目が、悪戯っ気一杯に笑っていた。
「美佳姉さん……冗談きついって」
 すらりとした長身が眼下の木陰に歩いてくると、
「そう? あたしがチクッとしたら、それでおんなじじゃない?」
「マジですか? ほらほら、これなんだから。幼稚園の子だって、
オッケーでしょ?」
 Yシャツの胸ポケットから秘蔵の一品を取り出すと、眼下に向け
て突き出した。小さく、薄い箱に煙草の絵。でも、その中身は……。
「何、それ。いっつもそんなの持ち歩いてんの? 芸、細かすぎだ
って」
 俺は、箱から一本取り出すと、美佳姉さんに示した。
「一本、食べる? うまいよ。煙は出ないけど」
「もらう」
 煙草型のチョコレートを受け取るためにこっちへ手を伸ばすと、
すんなりした首筋から胸元へのラインが目に入った。おっと……、
やばやば。
「……で、本物は?」
「え?」
 大造りな口元に、笑みがこもる。
「何の話? 俺はだねぇ、海を見ながらシガレットチョコを頬張り
つつ、この街の浜辺にもビッグウェーブが、と、想いを飛ばしてい
たわけで……」
「はいはい」
 佐野美佳は、木の間を覗き込みながら、俺に背中を向けた。
「そっからだと、よく見える? 海」
「ああ、見えるよ。ちっちゃいけどね」
 一瞬間があってから、声が響き上がった。
「……上ってもいい?」
「ああ、いいよ……って、俺が許可出すもんじゃないけど。いちお、
侵入禁止だけど、いいわけ?」
 俺が言うより早く、彼女は階段入り口の鎖をまたいでいた。そし
て、軽い足取りで俺の座る踊り場まで上ってくる。
「あ、ホントだ。見えるねぇ。理科棟のてっぺんからしか見えない
と思ってた」
「穴場、穴場。付属高生多しと言えど、ここ知ってるのは、そう数
いないだろうね」
 横を見上げながら言うと、茶目っ気を秘めた視線と、軽い鼻笑い
がこちらに向けられていた。
「何の穴場だか。カラダに悪いよ、寛史。その年でヘビースモーカ
ーじゃ、先行き暗いねぇ」
「……たく、いつから見てたんだよ、美佳姉さんは」
「別に。資料室の廊下から見たら、煙が上がってたから。火事なら、
初期消火が肝心でしょうが」
 そして、再び低い木立の向こう、丘を下った街並みの広がりの彼
方を縁取る、朧に浮かぶ青い地平に顔を戻した。俺も、同じように
南へと視線を向ける。
 合唱祭の夜以来、彼女と頻繁に言葉を交わすようになっていた。
 電話をかけたりかけられたり、何となく行き会った放課後、たわ
いもないよもやま話で時間をつぶしたり。
 何て言い表したらいいのか、美佳姉さんと話していると気分が楽
だった。野郎どもとバカ話をしているのとは微妙に違う、どこかで
ニヤニヤ笑いを隠しているような……、そんな感じだ。
「いい色だなあ」
 横顔を見せたまま、少しハスキーな声が呟く。
 見上げた顎の稜線で、短い髪が揺れていた。遠くへと、何かを思
い返すような視線――とっさに目を逸らしていた。
「……だろ? ボードにでも乗ったら、気持ち良さそうじゃん」
「そうだねぇ…」
 短い息が吐かれてから、ははぁ、と笑い交じりに言葉が継がれた。
「あ、それでナンパ三昧って? そんじゃあさ、その髪はダメだよ
な、寛史」
 俺の短い髪を指して、真っ直ぐに見下ろしてくるからかい目一杯
の表情。
「お、長髪なびかせて、『君と夜明けの海が見たいなぁ』ってか。
……似合わねぇ。俺のカラーじゃねぇって」
「うわ、やめてよ。想像しちゃったじゃん……、う」
 ホント、キモチわりぃ……。二人で暫く大笑いした後で、思い返
した。そういうことじゃなくってだ。
「ひでぇって、姉御。なんでそうなるかなぁ。ストイックに、ピュ
アに、ボード乗りに憧れてるってのにさ」
「はいはい。聞くだけ聞いとく。誰も信用しないけど」
「ったく……。誰だよ、人を色魔扱いのガゼネタ振りまく奴は」
「シュアな一般的見解じゃない? 有名だもんなあ、部の指導でセ
クハラ混じりの後ろ羽交い絞め……」
「ない。それはねぇ! くそお、まだ残ってんのか、その話」
 まったく、何でそうなるんだか。カバンから一本――手を突っ込
みかけた時、頭の上から降ってきた衝撃が、ゴチンと響いた。
 止めをかけた目の色に、出しかけた煙草から手を離した。
「まったく、行動がねぇ。ビュアでストイックなら、下手な冗談や
めれば、授業中のさ」
「……はいはい。あいすみません」
 唇を突き出して目を伏せると、
「まったく」
 紺のソックスの足元が、後ろへ下がった。そして、長いスカート
がやんわりと揺れる。
 しばらく間があった後、ふぅ、俺の耳まで届く大きなため息が聞
こえた。教室でも、数え切れないほど聞いた類いの声だと思った。
 後ろを伺うと、壁に寄りかかった美佳姉さんは、深さを増し始め
た午後の空を見上げ加減にしている。
「……疲れてるねぇ。やっぱ、きつい?」
「ああ、しょうがないけどさぁ」
 そうだよな……。この暑くなる盛りに教室にカンヅメ、冗談きつ
い。
「まったく、俺らリクルート組は気が楽だなぁ。ホント、ご愁傷さ
まぐらいしか言えなくってすいません、かな」
「そうでもないよ……」
 それぞれ大変だろ。いや、むしろ大したことはしてないよ、わた
しらは――ほのかに浮かぶ隠れた言葉に、俺は少し顎先のとがった
顔を見つめ上げていた。時折聞く、深いトーンを帯びた声。ああ、
すげぇな。やっぱ俺には及びがつかない。
「……どうよ」
 海を見返した俺は、自然に口を開いていた。
「たまには息抜きも悪くないんじゃない?」
 ん、という顔がこっちへ見下ろされると、俺は眉毛を上げて見せ
た。
「夏休み、講習や模試ばっかじゃないだろ、美佳姉さんも。あいつ
らにもさ、ちっとはチャージかけてやらんと……って、またいらぬ
お節介かもしらんけどさ……」
 言いかけて思い浮かんだ事実に、少し躊躇する。いや、それはそ
れ、だよな。
「時間あればさ、泳ぎに行くかい? ま、暇な俺にはわからんけど
ね」
 しばらく止まっていた視線が、柔らかく解けて、にっこりとした
笑いになった。
「そうだねぇ。うん…、いいね。あの子らにも、少しハッパかけた
いし。あんたも、聞いてるでしょ? 森島から、つらつらと」
 こうして話していれば、しばしば話題に上るあの二人のこと。亀
の歩みの近況を話しながら、考えていた。
 どうしてこんな誘いを言い出したかなぁ――いや、いいか。この
ところ、美佳姉さんの様子が明るいのに間違いはない。あいつらも
一緒なら、楽しいお出かけになるさ。
 浮かびかけたもう一人の顔が誰かわかりながら、すばやく打ち消
した。そんな詮索は、下らねぇ。意味のないことだ。
「亜矢の両親がオッケー出してくれるといいけどね。超箱入だから、
あの子」
 面白げな語りに頷きながら、遥か水平線にもう一度目をやった。
 そう、高校最後の夏だ。美佳姉さんの言う通り。まして、俺にと
っては学生時代最後の夏だもんなあ。

 七月終りの海は、まだそれほどには混み合っていなかった。
 ビーチのど真ん中、一番ロケーションのいい場所にパラソルとデ
ッキチェアーを据え付けると、後は泳いで、焼いて、食って……飲
む。
「あ、寛史。やめろって。ほんと、オヤジだな」
 すんなり背の高い身体がパラソルの下へ覗き込んでくると、五百
円分のカップに手がかけられ……、
「あ、美佳さ〜ん、お願いしますって」
「やめとけ寛史、溺れるぞ」
「そうそう、寛史くん。未・成・年なんだから」
 ビールを奪い取られると、白いパーカーの背中が海の家の並ぶ方
へと歩き去っていく。
 夏休みといっても、平日だ。海辺には、若い奴らしかいない。バ
ーベキューの煙を上げて食べまくる男連中、バレーともドッジとも
つかない球遊びに叫びを上げる合コン系、派手な水着にどうにも目
がいく、パラソル下でくつろぐ女子大生風。そして、見ているこっ
ちがかゆくなる、はしゃぐカップル達……いや、すぐそばにもいた
か。
 山藤ちゃんの水着は、彼女らしい爽やかなワンピース型で、中学
以来のダチを隣にしていると、余計目に痛かった。
 そして、「大事にしたいと思っていても、どうしたらいいのかわ
からなくなる時がある」。寝転がりながら訥々と恋人のことを話す
その馬鹿野郎に突っ込みを入れながら、むしろ嬉しくて仕方がない
自分に気付いていた。
 大柄で目を引く背中、二人で手を繋いで海へと入っていく――青
く抜けた天で輝く陽も合わせて、眩しすぎ、ってとこだろうか。
「……若い二人を見送る、仲人気分ってとこかねぇ」
 しかし、ほとんど全てが眩しい夏の海で何より印象に残っていた
のは、からかうようにそう言った、「彼女」の姿だった。
 朝、背中にかけられた声に振り向いた時、ビーチを歩いてくる何
の衒いもない姿に、心の中で「ははは」と笑い声を上げていた。
 白いパーカーの前を大きく肌蹴た、鮮やかな青いビキニ。長く伸
びた手足に、スレンダーな身体。
 どうにも全てが美佳姉御らしく、スタスタと歩いてきた様子に、
かける言葉が見当たらなかった。
「あ、目釘付け?」
 笑いながら言った屈託のない言葉に、
「まったく、自分から言うかな、美佳姉さんは」
 そんな調子のふざけた掛け合いばかりしていたが、言葉を交わし、
一緒に海に浮かびながら、ホッとするような気分を持ち続けていた。
 悪くない。こういう時間を過ごせるなら、本当に悪くない。
 だから、バスターミナルで武史たちと別れた夕方、「乗っけてっ
てくれない?」――彼女に頼まれて、断る口はなかった。
 エンジンを吹かし、海岸沿いの緩やかにカーブする道を、西へ。 ▼
 夕日が地平にかかり始めていた。
 メットの向こうで光散らす赤さはどれくらいぶりだっただろうか。
このまま、どこまでも走り続けたい気分だった。
 街へ向かう国道の交差点まで来た時、少し高くなった橋の上でバ
イクを止めた。
「駅南でよかったよな、姉さんの家」
 メットを取って後ろを振り向くと、バイザーを上げた彼女は、俺
とは目を合わせず、斜め向こうへ視線をやっていた。
「いい景色だね。海が真っ赤だよ……」
 少し見上げる位置で砂浜へ目を落とす顔は、朱に染まっていた。
 俺も、彼女の顔の向く先に視線を合わせると、ああ、と頷いた。
 この辺りでは一番眺めのいい場所。もうしばらく走ると、市の境
だった。
 眼下で寄せ返す浜は、南へと緩やかに稜線を描きながら、遥か彼
方の岬へと、赤に紛れて消え溶けている。
 今見たばかりの色が自然に二重写しになっていた。燃える赤に照
らされてなお、光を吸い込むように深さを湛えた、瞳の色。
 グリップを軽く握り締めた。それは、俺の知らない何かを秘めた
表情だと思う。
「寛史、ここずっと行くと、岬だよね」
「……ああ」
 およそ三十キロ先の、太平洋に突き出た岬の名前を言うと、
「あのさ…」
 少し口篭もりながら彼女は言った。
「…結構かかる? 時間とか、ガソリンとか」
 俺は、軽く首を振った。
「うんにゃ。かからないよ、三十分くらいかな。飛ばせばね」
 見下ろした目が、もうお馴染みの押し隠した笑みを浮かべた。言
葉が出る前に、何を言うつもりかわかっていた。
「……じゃ、頼める?」
「飛ばしで?」
「うん、よろしく」
 頷いて、俺がもう一度メットを被ると、彼女も座り直した。
「あ、今度はそれだと危ないからさ」
 背中を示すと、すぐに察してぐっと腰に手を回してくる。
 オッケー、まったく問題なし。
 エンジンをかけると、気分にもスイッチが入ったのか、全開で飛
ばしたくなった。
 一気にアクセルを吹かして、スピードを上げる。全ての景色が流
れ始め、「超えた」速さに届く。風に追いついて、一つになったよ
うな瞬間……久しぶりだ。背中にもう一つの感覚があると、どこま
でも走り続けたいような気さえ……考えてみれば、女の子を後ろに
乗せて走るのは、中免を取って以来初めてだ。信号待ちさえもどか
しい。俺は、ひたすら風に身を任せていた。
 岬に着いた時には、今までの全てが一瞬だった。
 身体を離した彼女へ自然に手を出すと、すっと握って座席から飛
び降りる。
「ううん、ワイルド&ビューティフル」
 白いパーカーの横顔がぐっと伸びをする。
「だろ、美佳姉さんにぴったり、ってかな」
「……それ、ほめてんの、けなしてんの?」
 銃の形で指を向けると、俺は両手で×を作った。
 どれくらい波の打ち寄せる海岸べりに座っていただろうか。
 いつも通り適当な話を続けながら、夕陽が落ちるのを眺めていた。
 この間の合唱祭のこと、あの二人のこと、あっけなく一回戦敗退
した最後の大会のこと、モチベーションの上がらない受験勉強のこ
と、就職説明会で会った、かなり笑える社長のこと――。
 一つ話せないことがあるのは、わかっていた。もちろん、そんな
くだらないことを言う気もない。
 そして、すっかり辺りに夜の闇が落ち、星が輝き始めた時、
「そろそろ、帰りますかねぇ」
 立ち上がりながら俺は、軽口を継いでいた。美佳姉さんも、さす
がに戻らんとまずかろう、と思う。
「これ以上遅くなると、『ご宿泊』になっちゃうんもんなぁ。どう
美佳姉御。メシくらい、食ってく?」
 テトラポットに腰掛けて、首だけをこちらに向けると、彼女は一
度息を吐いた後で、静かに答えた。
 それは、今までとは違い、耳より胸が先に聞くような調子の言葉
だった。
「うん。いいよ、食べてこうか」
 そして、彼女から手を延べた。一段高いところに立っていた俺は、
自然にその手を取った。
 いつもは射るほどに鋭い目が、下から覗き上がる。柔らかく、少
し湿って見えるほどに。
 瞳の言っている意味がわかる気がして、俺は握った指に力を込め
ていた。
 ――そんなはず、あるわけないよな。
 でも、彼女の唇が言葉を形作る。それはもう、晩メシのついで、
のような感じだった。
「寛史がよければ、もっと付き合っちゃうよ。それこそ、夜明けの
海、一緒に見ちゃうのでもねえ」
 俺は、手を握ったまま唇を突き出した。
「冗談。からかうのはおよしになってね〜、美佳姉さん」
「ははは、やっぱ?」
 引っ張り上げた手が離れ、パーカーの背中がコンクリートフェン
スを飛び降りる。スタスタと歩いていく、俺より少し高い後ろ姿を
目にした時、何かが胸の奥で鳴った。
 まだ柔らかな感触の残っている手。
 俺は、早足になって背中に近づく。
「美佳姉さん」
 このまま離したらダメだ、そんな気がした。
 うなじの見える短い髪が揺れて、こちらを振り向く。出合った瞳
の色が、さっきの言葉はただの軽口ではないと悟らせていた。
「……いいのか?」
 視線が落とされて、いつも雄弁な唇が窄められる。すぐにまっす
ぐ目を合わせ、
「うん。いいよ」
 はっきりと言葉が返った。

 ひたすらバイクを走らせた、海岸沿いの古びたファッションホテ
ル。ほとんど無言でチェックインした後、頭の中では何かがぐるぐ
ると回るばかりで、これといった考えも作り出せなかった。
 狭いシャワールームで汗を流すと、落とされたベッドルームのラ
イトの下には、淡い影が浮かび上がっていた。
 水色のタオルを身体に巻いたすんなりした身体が、ベッドサイド
に足を投げ出して、こちらを見上げている。
 刈り揃えられた前髪の下で、眦の上がった目が微笑んでいる。緊
張とはほとんど無縁に見える表情と視線が合った瞬間、俺は自然に
隣に座っていた。
 ゆっくりとうなじに手をかけると、目が閉じられる。
 顔を寄せると、少し甘い匂いがした。そうか、これが美佳姉さん
の香りか……。
 唇が合うとすぐ、肩に回ってくる手。俺も目を閉じて、濡れた感
触に身を任せる。
 確かめるように姿を見せた舌先がわかって、軽く触れると、すぐ
に強く吸う動きが加わった。
 今抱き寄せ、キスをしているのが、夢うつつのようで、同時に当
たり前のことをしている感覚もあった。
 唇の求め合いは、激しくはならない。ゆっくりと、お互いの間合
いがわかるように――。
 タオルが胸元から落ちた。軽く胸元に手を副えると、首筋と背中
に回った腕に、ギュッと力がこもった。舌が深く忍び込んできて、
そして、ツツツ、と唇の間で音が鳴った。
 そして、固く緩やかに盛り上がった頂きに手の平を届かせた瞬間、
身体が押されて、顔が離された。
 目を開けると、視界全部になった表情は、いつもより少し控えめ
で、黒い瞳の中には濡れた笑みがあった。
「……ふふふ」
 小さく笑うと、俺も、鼻で息をした。
「寛史、上手だ」
「……そうかなぁ」
 そしてもう一度、二人で笑った。だよな、何だか俺たちらしくな
いよな、ちょっとさ。
「だてにピンクボンバーとか言われてないよね、マジ」
「あ、ひでぇ。だから、そんなんじゃないって」
 見ると、俺のジュニアもすっかり立ち上がって、タオルの下で自
己主張している。腰を曲げて隠し加減にすると、美佳姉さんは胸を
肌蹴たまま、俺の横に並んだ。
 肩がかすかに触れ合う距離で、一瞬、言葉のない時間が過ぎた。
「ねぇ」
「ん?」
「あの二人も、今ごろラブラブかなあ」
 え?
 今まで思ってもいなかった二人の顔が素早く行き過ぎ――特に、
今日見た、山藤亜矢の姿が強く浮かび――俺は、奥歯を軽く噛みし
めていた。
「……あ、ごめん…」
 彼女はすぐに低い声で言うと、耳元に手をやった。
「たく、ひでぇなぁ。美佳姉さんは」
「ごめんごめん、デリカシーなさすぎだね、私は。ほんと、困った
女だ」
「ああ、いいよ、気にしてないってさ」
 軽く息をつくと、心に空気が入った気がした。下半身に集まって
いた神経が解けて、隣に座る生のままの姿を横目で追っていた。
 少し幅の広い肩からなだらかに盛り上がる胸に、頂きの蕾は彼女
らしく雄弁で、そして、思ったよりずっと柔らかい線を描く腰へと
……。
 小麦色に焼けた左腕が右の上腕にそえられて、胸が覆われた。
 自分の視線の所在に気付いて、斜め前に落とされた横顔に目を戻
すと、照れくさい気分になる。
 彼女は、耳元に指を持っていくと、後れ毛を軽く梳いた。
「あのさ」
 自然に口をついていた。
「……いいのか、美佳姉さん。ホントに」
 え、という感じで、眉根が寄せられ、こちらを見る。
「だってさ、美佳姉さん、今……」
 名前を言いかけた時、いっそうひそめ逸らされた視線に、胸の奥
を突かれる。
「あ、わりぃ」
 言い出して、どうなるってものか。今、俺たちがしようとしてい
るのは、そういうことじゃない気がする。
「……いいよ」
 視線を上げた彼女は、頬を緩めて頷いた。少し照れくさい、やっ
ぱりそんな感じだった。
「あいこ、ってとこでしょ?」
 俺は、握った親指をポキンと鳴らした。
「はは、まったくだ。バカだわ、やっぱ俺」
 彼女の吐く息が聞こえた。そして、
「私も、おんなじかなぁ……」
 思い返すような表情は、すぐに膝に添えられた手と体温に置き換
わり、
「寛史」
 小さな呟きに、俺はもう一度彼女を見つめ返していた。
 ゆっくりと下ろされる手に、もう一度上半身が露わになる。
 軽く唇を合わせると、今度は、さっきまでのぼんやりした感覚は
なかった。
 胸の頂きに手の平を合わせると、静かに動かす。ゆっくりとベッ
ドの上に押し倒し、見つめ下ろした。
 はあ、んん……。眉根を寄せる吐息が混ざった後、細く目が開い
た。
 そして、俺の内腿に柔らかい感触が触れた。
「……いい? 触っても」
 目で頷くと、伸ばされた指先が全体を包み、ギュッと握り締めら
れた。そして、んん、と喉で声が聞こえて、ゆっくりとさするよう
な動きになる。
 一気に高まっていく中心を感じながら、俺も、腰から外腿、膝か
ら内腿へと指を這わせ、下半身を覆っていたシーツを取り払った。
 足の付け根まで指が進んだ時、すっと膝が開き、俺はすんなりと
その中心へと進んでいた。
 揃えた指は、触れる前から熱さを感じていて、触れると、もう、
そこは柔らかく開きかけている――ああ、美佳姉さん、いい感じな
んだ。
 泉に浅く指を差し入れた瞬間、俺の中心を包んでいた指先にも、
力がこもった。
 互いの中心に指を添え合って視線を絡ませると、彼女の瞳がふふ、
と笑って見えた。何が言いたいか、わかる気がする。
「ああ、んん」
 さっきより激しく、指が上下する。少し痛痒感があって、昂まり
が遠ざかる気がしたが、構わなかった。
 指を少し中に進めると、腰が揺れる。親指を前庭に押付けると、
突端を探す……少しわかりにくいそこは、敏感な核を露わにしつつ
あった。
 ゆっくり、だよな……。
 もう、一年以上も置きっぱなしにしていた愛撫の手順を思い起こ
しながら、根元に触れた。
 いきなりは、ダメなんだからねぇ。
 鼻にかかった声が蘇りかけて、頭の外へ追いやった。バカ野郎、
ちっとは集中しろ、っての。
 でも、耳元に漏れ出した吐息と、さらに下へと伸ばされて、根元
をぐっとしぼった感触に、「その」感覚が全てになった。
 ああ、んん、官能を思わせる低い声が繋がり始め、唐突にもう一
方の手の感触が、先端を包んだ。
「ああ…ッ…ん」
 少し高い声が上がった瞬間、俺を揉み上げる両手のスピードが、
上がる。
 う、すごい、な。
 精が上がってくるのがわかる。俺も、揃えた二本の指をさらに奥
まで沈め、前の壁を刺激しつつ、親指で真珠の先端へと辿る。
 美佳姉さんの中は、じっとりと吸い付くようで、指を動かしてい
ても、締め付けを感じるほどだった。
「う、ダメ……」
 閉じられた眉根が寄ると、手首が握られた。
「いいよ、美佳姉、俺が……」
 眉根を寄せて、唇を固く閉じると、手首を抑えたまま、彼女は低
い息を吐いた。
「……寛史、全然まだでしょ? 一緒に……、ね」
 ね、という寸前に見せたためらうような表情が、俺の何かを揺ら
した。
 くそぉ。
 その感覚は、何かよくわからない。ただ、切ないような、身体が
震えるような……今までよりずっと強い思いだった。
 俺は、彼女の首を抱き締めると、うなじに鼻をうずめた。
「ん…」
 うなずくような、問い掛けるような呟きが耳元に漏れた。
「感じさせたる、美佳姉。一緒に、イこう」
 答えは、激しく首を抱き返された、腕の強さだった。
 そのまま唇を合わせると、すぐに舌が絡んだ。激しく、脳の奥が
痺れるままに。
 冷たい舌が口の中で暴れると、心の所在がわからなくなる。彼女
の動きは巧みで、俺よりもキスの作法がわかっていると感じた。
 喉の奥から、お互いのうめきが漏れる。
 再び両手に捉えられると、ゆっくりと回すような動き、そして、
前後に柔らかく擦り上げられ……。
「きて……」
 耳元で囁かれた時、コンドームをつけるのももどかしいほど、俺
は追い詰められていた。
 そして、仰向けになった彼女の中にゆっくりと腰を進めた瞬間、
背中に回った足の感覚と共に、歯を食いしばらなければ達するのを
抑えることができないほどだった。
「ああ、いい……」
 反った顎と、長く伸びた首筋を見せた後、美佳姉さんは俺の顔を
見た。さまようような目の色。官能に紅潮した頬。
「寛史、は?」
「……ああ、いいよ」
 その瞬間、身体から噴出する衝動が全てになった。
 一度腰を引くと、ぐっと叩き込む。
「ああ……、ッ、ダメ」
「いいよ、俺も、俺もだ」
「んん」
 ア、ア、ア、アと、高い声が断片的に漏れた。細かく揺れる頂き
を握り締め、突き出した乳首を転がした時、一際アア、と大きな声
が上がった。
「もうダメ、イコ、寛史。わたし……」
 少し、作ったようにも見える様子……でも、構わない。
 激しく腰を突き出すと、湧き上がってきた潮に身を任せた。
 ンン、喉の奥でたまったようなうめきがあった後、首に回された
手に力がこもり、足と、包み込まれた内壁が震えた。
 俺も、彼女の身体を抱き締めると、精を放ち続ける。それは、こ
れほどか、というほど止まらず、長く感じられた。
 そのまま重なり合っていると、互いの荒い息が共になって、時が
ゆっくりと過ぎる。
 末端から少しずつ引いていく潮に、なめらかな背を撫でていた手
を止めると、ゆっくりと身体を離した。
 目を閉じたままの美佳姉さんは、足の間で手を重ねて、裸の胸を
上下させている。円形に生え揃った丘の奔放な萌え出しに、その時
初めて意識がいった。
 綺麗だな……。
 全身を見て、素直にそう思っていた。
 精のたまったコンドームを抜き取りながら身体を起こした時、シ
ョートボブの下で目が開き、俺を見つめた。
「気持ちよかった? 寛史」
 静かだけれど、もう、どこかからかったような声だった。
「……そりゃ、そうさ。当たり前だろ」
「だよね、男の子だもんねぇ」
 立ち上がってタオルを放ると、軽く首筋を拭って、身体を起こし
た。下半身以外、何も隠そうとせずに、いつも通りの茶目っ気混じ
りの視線で見上げてくる。
「美佳姉さんは?」
「そういうこと、女に聞かないんだって」
「はは、そうだったっけ」
 頭をポリポリと掻く仕草をすると、シャワールームに向かう。汗
が、背中を伝い始めていた。
 その時、後ろから声がかかった。
「……オッケーだったよ、寛史。すごく。……サンキュ」
 俺は振り向かず、親指だけで同意を示すと、
「ほいよ」
 頷きながら、ドアを開けた。
 じんわりと広がる満足のようなものが胸の中にあって、流れ落ち
るシャワーが、ひどく気持ち良かった。
 

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