第五章 恋するカラダ

 秋の進路相談の順番は、最終日の最後だった。俺の進路があまり
真面目に扱われていないのが、それだけでわかる。だいたい、俺自
身、「話し合う事なんてないからさ、抜いてくれていいんだけど」
と、担任の木内に言ってあった。
 夕方の進路指導室は静かで、物音一つしない。俺は、木内の角張
った顔から目を逸らすと、時計を見た。もう五時になる。
「お前、本当に就職活動しないつもりか。いきなりアルバイターじ
ゃ、先がないぞ」
「違う違う、古いねえ、先生。それを言うなら、フリーター」
 木内は調査用紙に向けていたペンを机の上に放ると、トニックで
固めた髪を撫でた。
「……まったく、お前と話してるとなぁ。とにかく、他の連中の邪
魔だけはするなよ。みんな、今が一番の正念場なんだからな」
「はいはい、わかってますって。ひとさまに迷惑だけはかけません、
はい」
 木内は、ひとさまか、と言って乾いた笑いを立てた。三年の担任
が、この中年教師で良かったと思う。去年の袴田だったら、こんな
簡単にはいかなかった。まったく、助かる。
 荷物を取りに教室に戻ると、四階にはほとんど人気がなかった。
隣の三―Bで女子が二人、ノートを広げて何かを勉強しあっている
姿が見えるだけだ。
 まったく、寂しい限り。ちょっとした遊びに誘うにも、連れにな
る奴がなかなか見つからないし、このところ教室で飛び交う話題も、
進路や試験関係のことがほとんどだ。
 ついに学年で四人だけの就職組になってしまった俺は、疎外感爆
発ってところか。
 そう言えば、大庭の奴は決まったんだっけ? 測量会社とか言っ
てたけれども。
 今年も、去年に続いて求人状況が厳しいらしい。しばらくすれば
景気も戻って、大学卒業する頃にはラッキーな環境だろ、なんて話
している奴もいたけれど、どうだろう。
 この高校のように、先を見て「頑張る」なんて人間が多いところ
はまあ、珍しい。おおかたは、適当に暮らしてぇ〜、だろう。前を
見ない人間が多いのに、景気なんて回復するもんだろうか。
 さて。ミラノハウスに行って、マスターとでも喋るかなぁ。財布
を確認――残り五千円、と。夏にちょこちょことやったバイトの蓄
えも残り僅か、懐が寒い。
 許可制のバイトなんてまっぴらゴメン、この上さらに大学なんざ、
本当にみんな、よくやるもんだ。
 ナップを背中に木の葉坂を下りる時には、辺りはだいぶ暗くなり
始めていた。
 肩先をブワっとで過ぎていく風――下校していく自転車の列。
 一方で、部活上がりの二年や一年がふらふらたむろしながらバス
停へ、駅の方へと歩き下りていく。三年間見慣れた、いつも通りの
風景だ。
 流れから外れて、知ってる奴には有名なショートカットな裏道へ
と折れる。と、すぐに、行き止まりの鉄柱の前に立つ人影があった。
 濃青のブレザーにスカートがすらりとした身体に涼やかな――。
「よ、寛史」
 真ん中で軽く分けたセミロングの黒髪が揺れて、俺は少し虚を突
かれる。
「美佳姉。……どしたの、こんなところで。どなたか、待ち人?」
 引き締まった唇と鋭い目元に、柔らかい光が宿ると、
「そこにいる人」
 顎でしゃくると、俺は目を見開いて、「Me?」胸の前に手を持っ
ていった。
 うんうん、クールを装って頷く彼女に、俺もおお、とオーバーア
クションな頷きを返す。
「図書館の窓から見たら、寛史の背中が見えてさ。ちょっと、先回
り」
 彼女は当たり前に話し出す。少しハスキーな声で。
「うわ、どっから見られてるやら」
 まいったねぇ、笑いながら横に並ぶと、「荷物、こっちよこせば」
――スタンドを倒して、引き始めた自転車の前カゴを指差した。
 車止めの鉄柱を通り抜けると、俺たちは公園の中を抜けていく。
「あ〜、頭がウニ」
「模試、明後日だっけ? どう、茶でもしばいてく? 息抜きにさ」
「んん、そうだなぁ」
 反対側の通りに抜けると、街の明かりを見下ろしながらの横顔が
思案げだった。
「今日は俺のおごりでさ、美佳姉。どう?」
「それなら、乗った」
 にっこり笑うと、俺の背中をポンと叩く。
「じゃ、行きますか。駅のドトールとかでどう?」
「お、オッケー。美味いよね、あそこのコーヒー。安いのに」
「やっぱ? 俺にはわかんないけどさ」
「んん、あれだと、周りの喫茶店は大変だろうなぁ。っても、純喫
茶なんて、そうは残ってないけどね、いまどき」
 街への坂を下りながら、後は好きなように言葉を飛ばし合う。
「そうそう、家の店の裏にあった喫茶店もこの間閉めたもんなぁ。
うまい、って話だったんだけども。俺には全然わかんないけどさ」
「寛史の舌は、別のもんで汚染されてるからねぇ。CHOH」
「って、何それ? あ、わかった。違うってさ、すぐそういうこと
言うのな、美佳姉は」
「ほほ、わかった? でも、間違いないな、寛史の場合」
「まったく、人をどっかのロッカーと一緒にするなって」
「それを言うなら、あんたの好きな演歌歌手でしょ。飲んで〜飲ん
で〜♪ ミュージシャンはもっと違う方」
「そっちの方が全然やばいだろ、薬とアルコールじゃ」
「同じだって。脳にフリーパスなのはさ」
「そりゃ、ないんじゃない。やっぱり」
「おんなじ、おんなじ。最後は廃人、だもんね」
「はいはい、わかりましたわかりました。俺が人非人ってことね」
「そういうこと。よくできました〜」
「ああ、はいはい。もうどうにでもしてくださいな。俺が悪いです、
間違いなく」
「そうそう、未成年は飲酒禁止。ついでに、喫煙もね」
 勘弁。それ以上言うと、イジメだぜ。はいはい、なら、もうちょ
っと品行方性でね――切れ目なしに喋り続けていつの間にか、俺た
ちは駅前への大通りに差し掛かっていた。

 あの夏の夜以来、俺と佐野美佳の距離は一気に狭まっていた。
 休み時間や放課後のざっくばらんな会話から、時間が合えば一緒
に下校するし、電話でも頻繁に連絡し合う。休日になって、彼女の
時間が許せば「デート」。当てのないツーリングに、映画を観たり、
参考書類の買い出しに付き合ったり。
 もちろん、「その後」もありだった。
 いつも、どっちからともなく、そんな展開になる。美佳姉の言葉
を借りれば、「求め合っちゃったね、あたしら、ケダモノ」
 俺も、彼女を抱き締め、感じ合えることが満足で、嬉しい。「エ
ッチした」どんな時も、美佳姉はしなやかで可愛らしく、それでい
ていつも充分にエロチックだった。
 裸になれば、いつも以上に適当に言葉を交わす。それこそ、身の
上話から、とんでもない下ネタまで。
「一緒に、感じよ、寛史。今、イクから」
 激しい嬌声を上げて達して、しばらく密やかな笑みで沈黙を守っ
た後に「気持ちイイって、いいよね」なんて、当たり前とも自嘲と
もつかない調子ですらりと言いのける。
 これ以上ないほど熱心に俺のモノを口で愛して、その一方で自分
を愛撫するような淫靡な行為を続ける。頭がエロ全開になって、
「やば、姉さん」――限界間近で押しのけようとした俺を、さらに
追い込んで喉を震わせ、尽きた後に、「うん、元気元気。やっぱり、
そうでなくっちゃ」
 いろいろな話をした。家族のことから、進路や将来のことまで。
 俺も、普段はすっかり忘れているようなガキの頃のことを口にし
て、改めてそんなことを考えていたんだな、と思い返すこともあっ
た。
 美佳姉と過ごす時間は、俺にとって特別な時間だった。たいして
女のことを知っているわけじゃない。でも多分、彼女ほど人を惹き
付け、一緒にいて気持ちを豊かにしてくれる女性は、滅多にいない
と思う。
 もし、俺と彼女が近い場所を歩いていたなら、ずっとそばにいら
れる同士だったのかもしれない。いや……、そうでもないのか。そ
んな強いものじゃあないような気もする。
「何でもできるようになっておこうと思うんだ。やっぱり、できる
だけいい大学に行きたいよね」――小学校まで教室の隅っこでイジ
イジしているような子だったと言う美佳姉。それは、冗談や謙遜じ
ゃないだろう。
 クラスを豪腕でまとめ上げながら、それでいていつも何処か褪め
た表情で、シュールな冗談を言う。なんとなく、感覚でわかる気が
した。
 ずっと自分を作り上げて前へ進んできた彼女は――俺がおいそれ
と口を挟めるような、そんないい加減な場所にはいない。
 万事が適当、この先にたいした生き甲斐や目標なんてモノを持っ
ていない、それが当たり前の俺には。
 今晩も、そろそろ客が入り始めたらしい。聞いたようなカラオケ
のメロディーが、低音だけになって部屋に響き入ってくる。
 さて、久しぶりに一杯もらいにいくか。最近は、おふくろも文句
は言わなくなったし。
 狭い階段を下りて、年季の入った裏口のドアを開けると、厨房に
顔を突っ込む。スパンコールの入った黒いワンピースの背中が見え
て、
「おい、おふくろ、今日は手伝うか」
 言いかけて、俺は反射的に首を引っ込めていた。カウンターの隅
に座る、見覚えのある姿に目を疑ったからだ――おいおい、マジか
よ。
 お袋は、その男の呟きにうんうん、と頷きながらボトルの栓を開
けている。
「そ〜う、大変なのねぇ、先生も。そりゃ、先生だって男だもんね
ぇ」
 隣の体格のいい男が、そいつの背中を叩く。
「ま、しゃあないって、多嶋。悪いオンナに引っ掛かったってこと
でさ。いるんだよ、そういう女。年は関係ないからさ」
 おふくろがこっちを向いて、どしたの、入れば、と口を尖らす。
俺は、首を細かく振ると、目配せをした。おふくろの眉がハの字に
持ち上がり、眼鏡の英語教師を横目で見る。ああ、という表情で、
意味が伝わったのがわかった。
「でもな、ひどいと思わないか」
 聞きたくなくても、耳が捉えてしまう。授業では聞き慣れた、少
し高い、神経質そうな声を。
「ぜんぶ、俺が教えたんだからな。個人授業までしてやったんだ、
忙しい時に。おいしいとこだけとって、ポイ、か。あんな子だとは
思わなかったよ。それでもって最後は脅しだってんだから、恐れ入
るよ」
「まあまあ、いつまでも引きずるなって。お前もさ、オンナ経験、
少ないからさ。これが教訓、ってとこだろ」
 と、甘ったるいメロディが流れ始めた。知ってる、何年か前に流
行った曲だ。ソウル系だったか、男のミュージシャンの。
「あ、先生。入ったわよ、ミッシング?かな あ、さすが、英語の
題名ね〜」
 パチパチ、と乾いた拍手の音が響き、俺は静かに戸を閉めた。鼻
にかかった歌声が耳に届く。
 I miss you、許されるものならば〜♪
 ……どうせ、そんなもんさ、男なんてのは。
 まったく、どうしようもねぇ。もう、何度も見てきたことだけど
さ。
 俺は、二階への暗い階段を見上げた。ホント、情けねぇ、情けな
さ過ぎだ。

 模試が終わってからしばらく経ったある日、美佳姉さんと俺は、
久しぶりに街に出かけた。
 待ち合わせはいつも通りの書店で、「じゃ、行きますか」
 気取ったところなんて微塵もない、出たとこ勝負の街ブラ。この ▼
間再上映に気づいた映画を観て、マックでダベリング、美佳姉さん
のアクセサリー漁り。
 アーケード街を歩いている時に学校の奴らに出会ったけれど、適
当にごまかした。
「たまたまお付き合い。美佳姉さんの露払いさ」
 本当のところ、あまり気にしていない。付き合いがバレるとか、
バレないとか。なるようになるし、隠してどうなるものでもない。
彼女も同じ意見だった。
 ただ、歩きながら、少しだけ考えていた。――もう、こんな時間
もあまり取れなくなるんだろうな。
 間もなく十月も終わる。俺と違って、美佳姉さんにとっては、一
世一代の大勝負の時期だ。
 暮れ始めた秋の一日に、つらつら歩きでたどり着いた自転車置き
場。今日はここでグッドバイ、そう思った瞬間、いつの間にか組ん
でいた彼女の腕が温かかった。
「どうしよ、寛史。あのさ、私、あと少しくらいオッケーだけど」
 スロープを上がりかけてから不意に振り向き、見下ろした瞳は優
しく笑っていた。誘い混じりの言葉とは裏腹に。
 俺は、真っ直ぐ視線を返すことができなかった。
 今日は、用事あっから。そんな言葉を作りかけて、やめよう、と
思った。なぜかはわからない。胸がつまって、息が吐けなかった。
今一緒にいることが当たり前に身近で、でも、苦いものを飲み込ん
だように、重い。
「……じゃ、ちょこっと、休んできますか」
 ようやく言葉になった時、彼女の穏やかな頷きと瞳の色が、空気
を胸に届けてくれた。
 そして、ホテルのゲートをくぐり、見つめ合うとすぐ。
 腰と腰に回し合った手と、前置きもないキス。激しく、強く。
「寛史の、元気だ」「そう? そりゃ、美佳姉さんのミリキだから」
「お上手。サービスしちゃおうかなぁ」
 勢いのまま、弾けた言葉を投げ合い、そして、さらに求め合う。
 ――それで自然だった。俺も、たぶん、美佳姉さんも。

扉ページに戻る 美佳サイトへ 前章へ 次章へ