第六章 暮れゆく心

 俺はまだ迷っていた。
 時刻は三時過ぎ。急げばまだ間に合う時間だ。
 エンボス加工された緑色のチケットをひらひらさせながらしばら
く、やっぱり、出掛けるか。……いや、そうは言っても、なぁ。
 せっかく千円出して買ったチケットだ、このまま流してしまうの
ももったいない気がする。とは言え、どう予想してみても、寝てい
る自分しか思い浮かばない。アイドルやミュージシャンのコンサー
トならともかく、クラシックとなると……。
「寛史くんも、頼めるよね」
 「第九」演奏会のチケットを持ってクラス中を回る山藤亜矢は、
以前どおりの……いや、それ以上に元気に満ち満ちていて、俺に断
る口などなかった。
「ありがと。武史くんも来るって言ってたから、もしよかったら、
一緒にね」
 それはちょっと無理だなぁ、正直に思った。タケの奴が、「コン
サートの日」を狙ってミラノハウスでバイトしているのを俺は知っ
ている。
 山藤ちゃんがずっと打ち込んできた第九の合唱。あいつが何を考
えているのか、だいたい予想がつく。俺なんかが連れになってたら、
タケも困るだろう。
 最近は武史とゆっくり話す事もなくなっていた。ただ、二人が順
調なのは改めて確かめるまでもない。いまや校内でも有名な「美女
と野獣」カップルは、いつも放課後に図書館で椅子を並べる、受験
仲間でもあった。
「俺さ、大学目指そうかと思うんだ」
 秋に聞いたときは少しびっくりした。でも、「運動生理学の勉強
がしたくてさ……」、話を始めてすぐに納得した。生粋の野球バカ
だ、あいつは。何にも変わってない。
 山藤ちゃんも、タケの奴にも、まったく参る。あんな奴ら、他に
いるわけがない。最高のカップルだ、見てるこっちが困っちまうく
らいの。
 おそらく、コンサートに行けば否応なくあの二人の様子が目に入
ってしまうだろう。アツアツに当てられてこっちがのぼせるのもど
うかなあ、と思う。でも、それは、お出かけを迷っている主な理由
じゃない。
 一番大きいのは、この時期唯一とも言えるイベントに集ってくる
同級生の群れに入るのに、うざったさがあるからだった。まして、
聴きたい音楽ならともかく……。
 俺もこの所は、何だかんだと理由をつけて、学校を休む時が多か
った。実際、受験一色になった教室に就職組の居場所は少ないし、
休んだところで文句を言われるわけでもない。
 以前なら飛ばせた軽口も、どこか殺気立つ教室には不似合いにな
ってきたし、結局、居心地の悪さばかりが目立ってしまう。
『第九はね、生命の凱歌なんだよ、寛史くん』
 それでも、中坊の頃から聞いていた濁りのない言葉。昔から、一
度は、と思っていたのは確かなんだから……。
 冬の空に響き渡る、歓びの歌――。
 チケットをもう一回眺めて、仕方ない、ちょっと顔出してみるか。
 ジャンパーを着込むと、二段ベッドの下から尖がった声がした。
「兄ちゃん、どっか出かけるの?」
 ゲーム機を片手に身を乗り出した小さな姿に頷くと、
「夕飯までには帰るからな、ゲーム、やり過ぎんなよ」
「んん、わかってる」
 うつ伏せで足をぶらぶらさせながらゲームに戻った背中を見遣る
と、俺は木枯らしの中に飛び出した。

 市民ホールに着くと、エントランスはがらんとしていた。ただ広
く、淡い光に照らされた空間には、係員とおぼしき人影がいくつか
見えるだけだ。もう、演奏は始まってしまったらしい。
 弦楽器の音が、かすかに聞こえてきていた。俺は、チケットを手
渡すと、入り口の前に立っている係員に頭を下げて、扉を開けても
らった。
 人の頭と背中がスロープを描くその先に、黄金色に光るステージ
がある。ゆっくりとしたメロディを奏でるオーケストラに、後ろに
並ぶ合唱隊。相当な大きさで音が鳴っているのに、空気には静粛さ
が満ちている。
 空いている最後部の列の端に座ると、おぼろに照らされた会場を
見渡す。じっと動かない後頭部の羅列、浮かび上がる楽器のきらき
らした輝きと、弧を描いて並ぶドレスとタキシード。――妙な雰囲
気だ、やっぱり。TVでちらっと見たことがある、だいたい思った
通りの――。
 突然、激しいリズムがジャカジャカジャカ、と鳴った。
 そして、指揮者の前に座っていた四人の歌手が立ち上がり……。
 ア〜ア〜♪
 とても同じ人間の出したものとは思えない声が張り上がり、独唱
が始まった。
 ああ、どっかで聞いたことがあるな、この、四人で歌うのは。
 そして、歌声はやがて、後ろの合唱隊に引き継がれ……。
 誰もが知っているメロディが流れる。そして、白いドレスに身を
包む女性の中に、よく見知った姿が見える。真っ直ぐに指揮者を見
つめ、口を大きく開けて歌い上げている……観客席に目を流せば、
一際でかい背中が目立つ、相方の姿もあった。
 中学の頃、汗をかきつつ見上げた体育館のステージで、天上の囀
りを聞いた一瞬が蘇る。
 横一列に並んで、ひたすら歌い続ける合唱部員達。そして、誰よ
りも輝くその姿に目を奪われていた頃。
 美しいメロディだ。確かに、彼女の言う通り。
 目が伏せたくなった。そして、一つ息を吐く。
 でも、遠くだ。ひどく向こうで、ただ美しく鳴っている。
 クライマックスが……たぶん、そうだと思う。クライマックスが
近づいた時、俺は最前列に並ぶ後ろ姿の中に、美佳姉さんの姿を見
つけ出していた。
 ああ、やっぱり、いたんだな。
 当たり前のことを思った時、演奏は唐突に終わり、ホールは拍手
に包まれていた。
 俺も慌てて手を叩くと、暗い空間はしばらく、歓呼のさざなみに
満たされていた。

「よお、寛史。よく来たなぁ」
「細川たかしショーじゃないんだぜ、今日は」
「社会勉強か〜? ご苦労ご苦労」
 演奏終了後のエントランス。男どもとバカな軽口を飛ばしつつた
むろった後、俺は手を上げた。
「じゃ、帰るわ、俺」
 どして、ちょっとゲーセン寄ってかんか。受験生の息抜きに付き
あってぇな――拝み倒しの表情の佐藤やカズやらに「すまん、今度
な」、絨毯敷きの階段を下りると、背の高い白いドレス姿を中心に、
女子の輪ができているのに気付いた。
 結い上げた髪が華やかさを増した今日の主役に、「ご苦労さん」
十歩ほど先から手を上げると、彼女も嬉しそうに笑みを返し、こち
らに手を小さく振った。
 と、一番そばに立っていた青い背中が振り向いた。
 俺は、少し人を喰ったように見えるその顔にも、よっと手を上げ
た。
 ショートボブの下の勝気な瞳が見開かれ、唇が尖る。ちょっと待
っててよ、そんな風にも見えた。
 そのままドアをくぐり、タイル張りの大階段を下りかけると、後
ろから声がした。
「寛史、ちょっと待ってよ」                  ▼
 振り向くと、濃い青の三つ揃えを着た佐野美佳が見下ろしていた。
「美佳姉」
 俺が立ち止まると、軽い足取りでこちらへ下りてくる。
「……うわ、やっぱり寒い。そんなに急ぐの? 私、もうすぐ終わ
るからさ」
「そうだなぁ……」
 匠の顔が思い浮かび、一瞬迷う。でもまあ、まだ五時半だ。
「そんなには急いでないけどさ。お、もしかして、寂しかった? 
しばらくご一緒してなかったしさ」
「バカ」
 腹の辺りに拳を当てると、美佳姉は顎を突き出した。
「そんなんじゃないでしょ。そそくさ帰って、甲斐がないじゃない」
 何の甲斐が、と聞きかけて、おっと、突っ込んでどうするよ。と
っさに口をつぐんだ。
 確かに、このところ電話では話していたけれど、校内だとすれ違
いばかりだった。姉さんと一緒できる時間なら、いつだって悪くな
い。
「それは、申し訳もなく。で、どれくらい? 待たせたら帰っちゃ
うからな〜」
「すぐ来るわよ。もう、ばらけかけてたところだったから。寛史も、
亜矢に一言言っとけばよかったのに。喜んでたよ、ほんとにきてく
れたんだ、って。クラシック、完全にペケなんだって? 言ってた
よ、亜矢」
「おー、憶えていただいてるんだ。光栄。でもまあ、今日ので少し
は気が変わったかもね」
 美佳姉は、含み笑いを浮かべて顎を階上へとしゃくる――どう?
 俺は手を顔の前で左右に振ると、そのまま下へ歩き始めた。
「噴水前のベンチにいるからさ。早く頼むぜ、姉さん。結構風通す
んだよな、このジャンパー」
 はいはい、姉さんは少しフレアーなスカートを翻すと階段上に消
え、俺がベンチに座るか座らないかの内に戻ってきた。
「待った? 寛史」
 いつもの表情でにんまりと笑う。コートを羽織った肩が上下し、
少し息が切れているのがわかった。
「待った、かなぁ。少しね」
「どれくらい?」
「う〜ん、五十九秒くらいかねぇ」
「どういう数字よ、それ。でも、オンナはオトコを少しくらい待た
せてもいいんだからね」
 バカ話から始まって、目的地も決めず俺たちは歩き始めた。いつ
も通り、適当に言葉を投げ合って、くっついたり、離れたり。
 横顔を見ると、すんなりとした頬に、薄い紅が入っていた。いつ
もはざっくばらんにしてある髪も、耳元でふわりと持ち上がり、軽
やかにセットしてある。
「おめかしじゃん、今日は」
 構えずに言うと、コートの腕を滑り込ませてふふっと笑う。
「寛史のため、ね。ちょっとは魅力、感じる?」
「ってなぁ。俺が来るなんて知らなかっただろ、美佳姉さんは」
 そうかもねぇ――笑った美佳姉さんは、いつもよりどこか、静か
で密やかに見えた。
 クリスマスの近い中央公園は、男女ペアで歩く姿も目に付いて、
俺たちもまあ、外から見ればそんな風に見えるんだろうなあ、軽く
思ったりする。
「いつ終わるのかねぇ、って思うよ。この受験地獄」
 繰り返す勉強また勉強の日々に、辟易とため息をついたり、
「世間はクリスマスだねぇ。ねえ、Happy Christmasって歌、知っ
てる? ジョンとヨーコの」
 相変わらず俺にはチンプンカンプンな洋楽の話題に飛んだり。
 ホール前から遊具広場へ、遊歩道を抜けてまた戻る。そして、辺
りが殆ど夕闇に落ちた頃、俺は、東広場の一角に見慣れた風景を見
つけていた。
 彼女の横顔を見た。そして、立ち止まる。
「寛史?」
 少し下りのスロープになった先に、懐かしい建物が見えていた。
素っ気ない長方形の上部に窓がずらりと並ぶ、鈍く銀色に光る壁―
―市の体育館だ。
「……どしたの?」
「んん」
 美佳姉の問いに答えず、ただ頷いた。淡い光が窓から漏れている。
駐車場に何台かの車が見えるし、どうやら開いているようだった。
 夏の大会以来、ここには来ていなかった。用がなくなったんだか
ら、当たり前だが。
「体育館だよねぇ、市の。私、一度軽音のコンサートで来たことが
あるよ、ここ」
「へえ、そんなのにも使うんだな、ステージないのにな」
 うん、それは、仮設のステージを作ってね。音響、悪いんだけど
さぁ――言いかけて、美佳姉さんはその場にしゃがみ込んだ。
「ああ、そうか……。寛史、ここで試合してた? 卓球の」
「んん」
 俺は頷くと、膝を抱え、体育館に視線を投げる旋毛を見下ろした。
「ちょっと、付き合わん? 姉さん」
 え?――そのままこちらを見上げると、いいよ、ちょこちょこと
頷く。いつものからかいが全く見えない、そう……可愛いとしか表
しようのない表情だった。
 彼女と一緒に見られたらいいんじゃないか、と思い浮かべていた
――あの場所の景色を。
 壁面に沿った階段を上がり、裏口から観客席の扉を開ける。
 キュッ、キュッという音と、ボールの弾ける音が響いてきていた。
トレーニングウエアを着た男たち――どこかのバスケットチームの
練習中だった。
「久しぶりだわ、ホント」
 天井から落ち、フロアーへ乱反射するライトの光。そして、張り
巡らされた冷たい鉄骨とコンクリートの匂い。変わってねえな、当
たり前だけど。
「試合で春夏秋、毎年三回はきてただろ、しかも、中坊の時から。
やっぱり、馴染んでるってのかなぁ」
 何の意図もなく、言葉を投げていた。観客席の最前列に下りて、
鉄のバーに腕をかける。ここまできて見下ろしても、そう広くは感
じない。バスケットコートがぎりぎり三面とれるだけのキャパシテ
ィだ。ここを蜂の巣みたいに仕切って毎年やってたんだってんだか
ら、狭苦しくても仕方がない。
「あんまり残れなかったんだよねぇ、夏の大会」
 横に並んだ美佳姉も下を見下ろしながら、静かに言った。俺は、
耳だけで聞きながら頷いた。
「あんまり、どこじゃないって。殆ど全員、予選リーグで敗退だも
んな。まあ、もともとそんなもんだけどね、ウチの部は」
「で、副部長は?」
 少しからかう調子が混じる。でも、トーンは落ち着いていて、彼
女が俺の気分を受け止めてくれているのがわかる。まったく、美佳
姉みたいな奴はいないな、男でも、女でも。
「二回戦敗退。一応、面目は保ったってとこかな」
「ま、頑張った方なんじゃないの、文化系運動部にしては」
 そうだな、俺は頷いて、鼻で笑った。運動部系所属の名前が欲し
い奴らが集まる、ウチの学校最大の部。まあ、それなりに楽しい場
所ではあったんだよな。
 そのまま、固い座席に腰掛けた。そして、しばらく、黙ったまま
二人で並んでいた。
 一度だけ、美佳姉が俺に聞いた。
「ずっとやってたんだよね、卓球。中学の時からさ」
「一番向いてたからさ、俺には。やっぱりね」
 その短い応答だけで、うん、と彼女は頷いた。そのまま、また無
言になる。それ以上喋る必要もなく、俺は一度息を吸って目を軽く
伏せた。もう少し、やりようがあったのか……いや、仕方ないよな。
部活で学校を選んだわけじゃない。
 ボールが弾け、シューズの床を鳴らす音に、混じり合う荒い息遣
い。「ナイシュー」「ディフェンス!」そして、リングをボールが
くぐった後の解けたような笑い声。バスケットの練習を見下ろしな
がら、ぼんやりと時間を流していた。
『俺もさ、お前に負けんよう、こっちで頑張っからさ』
 中学の時にあいつに言った台詞が不意に思い浮かんだ時、美佳姉
がこっちを向いた。
「寛史、あのさ……」
 言いかけて、言葉を止めた。
「ううん、いい。何でもない」
 俺も彼女の方を向いた。
「何、美佳姉。気になるなあ、途中で止められると」
「ううん、いい。大したことじゃないから」
 視線を逸らすと、横顔が視線を落とし、茶色のコートの肩が大き
く息をした。少し眦の上がった目が、フロアーをまっすぐ見つめる。
俺もまた前に視線を戻した。
 何かの想いを残した表情が、脳裏に染みている。と、ゆっくりと
声が響いた。
「ねえ」
「ん」
「寛史と私ってさ、付き合ってるってことになるのかなぁ」
 さっき言いかけた何かとは違うことだ、声の響きですぐにわかっ
た。俺は、天井を見上げた。
「そんなの、どうでもいいよ、言葉とか。これでいいじゃん、美佳
姉と俺は」
 くすっと笑いが漏れ聞こえた。「そうだね」
「そんなことよりさ」
 俺は、自然に言葉を繋いでいた。
「好きだよ、俺。美佳姉さんのこと」
「うん」
 横腹に肘が当たる。
「私も、寛史のことが好きだよ」
 彼女もすんなりと言う。
「相思相愛か。すげぇな、俺たち」
「はは、ホント。恋人ってわけじゃないのに、相思相愛だって」
 二人でカラカラと笑った。誰もいない観客席に、声が吸い込まれ
ていく。と、彼女の腕が俺の腕に絡み、あの時の声で聞いた。
「……どうする、今日?」
 俺は首を振った。思いっきり眉を上げて、唇を一文字に結ぶ。
「今日はナシ。だってさ、ホテル代ないし」
「そっか。じゃ、帰りますか」
「だな、帰ろう」
 俺たちはそのまま腕を組んで、体育館を後にした。

 今思えば、あんな会話をしたのは最初で最後だった。好きとか、
そうじゃないとか。
 あの時の俺たちの間にあったのが、恋と呼べるものだったのか。
 そんなことは、分からない。今聞かれても、同じように答えると
思う。ただ、息をするように言葉を飛ばし合えた女は、美佳姉の他
にいなかった。それは、間違いない。
 「第九」の夜から風のように早く過ぎた日々。卒業までにも何度
か一緒に歩き、時には身体を求め合った事もあったと思う。ざっく
ばらんに、普通の恋人がする以上のこともした。ちょっとぐらい猥
雑なやり方でも、不思議と気にならなかった。
 美佳姉となら構わんかなぁ、そんな感じだったのだろうか。
 それとも、俺たちのネジが飛んでいただけなのか。
 最後に二人で会ったのは、受験が終わったその日だった。
「出来は上々だよ。自信、あるかもね」
 冗談めかして言った顔に、
「じゃ、前祝かね」
 駅前でビッグマックのセットを食べたことを憶えている。
 その頃には、学校に顔を出す事はほとんどなくなっていた。俺は
謝恩会にも出なかったし、三―Cの打ち上げもキャンセルした。さ
っさと決めたバイトの研修が入っていたし、今さらクラスの全員と
刻む何かがあるとも思えなかったからだ。親しくしている奴らとは
それぞれ遊べばいいことだし、何より、ようやく「稼げる」ことが
嬉しくて、それどころじゃなかった。
 美佳姉さんとは、卒業の日に電話で話した。
 「またね」――いつも通りの挨拶、そしてそれからも、時折連絡
を取り合った。大学でツーリング同好会に入って、今度秩父の山へ
行くんだ、とか、初めてやったバイトで、滅茶苦茶嫌な目にあった
こととか。
 けれど、一年経つ頃には次第に連絡も稀になり、年賀状も宛先不
明で返送され……。
 いつの間にか、佐野美佳は、俺の記憶の中だけに住む女になって
いた。
 俺はと言えば、特にメリもハリもない生活を続けている。
 十だったか二十だったか、いくつかのバイトをぐるぐると掛け持
ち状態でこなした後、コピー機器販売の営業社員になり、もう二年
以上が経つ。
 いろいろな会社の事務所に出入りして、ご機嫌伺いと新製品の導
入を勧めることが主な仕事だ。軽口が得意な俺には、向いていると
思う。
 給料が出れば、バイクをチューンしたり、新しいボードを物色し
たり、ちょっとしたツーリング旅行に繰り出したり。
 洋二やら佐藤やら、高校時代のダチと遊ぶ時は、可愛い子が見つ
かれば、適当にナンパしてみたりもする。学生の頃と違って、女の
子に声をかけるのはずいぶんと簡単になった。昔は、普通の子がナ
ンパ待ち、なんてことは珍しかった。今では、至極当然の景色だ。
俺のようにある程度金を持っていれば、遊ぶのに困る事はない。
 そんな調子で遊んだのがきっかけで、また、会社の取引先で知り
合って、しばらく「彼女」と呼んでいた女もいた。
 ただ、いつも長くは続かない。クリスマスやバレンタイン、イベ
ントが過ぎれば、なんとなく連絡を取らなくなり、そのままになる。
 あんた、一人でいる方が好きなんだよね。私は不要、ってことで
しょ?――たぶん、その通りだと思う。女と付き合うのが楽しくな
いわけじゃない。けれど、基本的に、一人でふらふらしている方が
気が楽だ。
 『ピンクボンバー』か、確かに。
 高校の頃のあだ名を思い出す。そうは言ってもエロだけは好きな
んだから、昔呼ばれた通りの奴なんだろうなぁ。
 ここしばらくは、少し暇を持て余してもいた。
 一人暮らしをするようになってから、するべきことがめっきり減
ってしまったからだ。
 母親が二度目の再婚をした野島のおやっさんは、想像していた以
上にできる男で、下手な心配をするのがバカらしくなるぐらいだ。
何年間も店にも通ってきていたし、匠もよくなついている。
 店の手伝いも、匠の世話も、俺の出番はほとんどなくなった。
「好きなことを、思いっきりやれよ。寛史」
 引越しの時にそう言ってくれた恰幅のいい顔。あれが親父なら、
最高のセリフなんだろうな。
 最近の週末の夜は、たいがいミラノハウスに顔を出す。あそこだ
けは、高校の時から何も変わらない。俺のやっていることも。
 ビールを飲みながら、適当にだじゃべるのが楽しい。ミラノハウ
ス経由で知り合った飲み友達も何人かできた。
 ただ、マスターは少し口うるさくなったかもしれない。
「お前、飲み過ぎにだけは気をつけろよ」
 まあ、それは昔から言われてるか。まったく、意外と気にする方
だからな、マスターも。高一で飲み始めてキャリア十年近く、酒と
の付き合い方なら、十分知ってるさ。
 ……と、もう無くなったか。
 冷蔵庫からロング缶を一本引っ張り出してくると、先週来たイン
ビテーションカードをもう一度見る。少し洋風にデザインされた立
体的なカードを開くと、時刻が書いてある。
 ――十五時開場、十五時半開始。
 間違いないな。さて、明日が楽しみだ。
 先月、何年ぶりかでかかってきた電話。武史の奴は元気そうだっ
た。
 あの二人の付き合いに何度かの紆余曲折があったことを、俺は知
っている。でも、最後には結ばれて、今では一緒に暮らしている。
山藤ちゃんの親もようやく認めて、子供も生まれたらしい。
 それからしばらく途絶えていた連絡で、あいつはいきなり切り出
した。
「披露宴やろうと思ってさ。何しろ、お披露目も何もなかっただろ
う、俺たちは。英も落ち着いてきたし、今がチャンスだと思うんだ」
 奥さんのリクエストか、大変だなぁ。なんたって、ウェディング
ドレスは女性の永遠の夢だもんなぁ――そう言ってからかうと、突
然よく通る声が聞こえた。
「そうなの、私が無理言ったのよ、寛史くん」
 いや、久しぶり――その後、名前を呼ぼうとして突っ掛かった俺
に、彼女は明るく笑った。いいよ、山藤ちゃんで。それ以外で言わ
れても、何か変だしね。
 ホントにあいつらは変わってない。真っ直ぐで、そのまんまだ。
 そして、先週、披露宴の招待状が届いた。添えられた写真では、
野球場をバックに並んだ二人が、バンザイする二歳児の頭に手を延
べて、満面の笑みを浮かべていた。
 その写真を見た時だけは、心の中ででっかく頷いてしまった。そ
うだろ、俺の思った通りだろ、俺は間違ってなかっただろう?
 ビールの缶を振ると、もうカラか。さて、もう一本、と。
 そう言えばあの時、武史は少し言いにくそうに俺に聞いてきた。
「寛史、お前、佐野さんとダメってことはないよな」
 ダメ、何が? 尋ねて俺は、武史の言いたい事がわかった。ああ、
別に大丈夫さ、何か大喧嘩して別れたとかじゃない。一緒にいて問
題があるわけじゃないさ。
 美佳姉さんか……久しぶりだ。やり手になってるだろうな、間違
いなく。どやされないように、気を付けなくちゃな。
 あの一年間の記憶が頭を巡る。確かに、美佳姉と――アイツと過
ごした一瞬一瞬は、特別な時だった。高校時代だったからこそだと
思う。まだ、今よりは遠くを見てたんだろうなぁ。
 ホント、何でも話したよな。バカなことばっか言ってたけどさ。
 ビールを取ろうとして、お、やば……。
 指先が引っ掛かって、缶が横倒しになった。残っていたビールが
テーブルの上にこぼれて広がる。ああ、もったいねぇ。
 タオルを取りかけて、腰がふらついた。お、結構回ってるか。そ
んな飲んだっけかな――ひい、ふう、み、六本か。ああ、そろそろ
やめとこう。明日に取っとかなきゃな、明日に。武史の奴は飲めた
んだっけか。ちっとばかし苛めてやる。この幸せもんが、ってな。
 ああ、拭くのめんどくせぇ。いいわ、こんなもんで。
 ドンと後ろにひっくり返りゃあ……天井がまわってやがるな、お
う、回ったわ、こりゃ。
 美佳姉さん、女丈夫になったろうな。きっと、思いっ切りな美人
さ。昔っからいい女だったよ、んん、まったく。
 楽しみだよ、明日。なんて言ってやろうか。おひさ、で行こうか。
姉御、って後ろから声かけてやるか。たぶん、何て言おうがアジら
れるだろうな、寛史、変わんないねぇ、ちっとは真面目に生きれば
ってさ。
 うん、そうに違いないな……。
 きっと…………。

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