第七章 Affection for...

 披露宴が始まってからずっと、空いた隣の席を気にしていた。
 武史からもらった座席表には、俺の隣に佐野美佳の名前が書いて
ある。ビールを注ぎに行った時、白いドレスが眩しい山藤ちゃんは
相変わらずの表情で――いや、もっと綺麗になったのかもしれない
――にこにこ笑って、「美佳、絶対来ると思うよ。ちゃんと返事が
きたから」
 そして、ダークブルーの背広が似合わねぇ武史も、隣で「うん、
そうだな」と、俺の方なんか全く見ず、奥さんの横顔ばっかりを見
ていやがる。
 まったく、相変わらずの二人だった。ついでに俺の方に流される
視線が語る素直な期待――そんなんじゃないだけれどなぁ、いった
い、何年経ったと思っているんだか。
 そうは言っても、彼女のことが気になっているのは確かだった。
 どんな風に暮らしているだろう。連絡のあった大学の始め頃まで
の、そして、その後風の噂で聞く様子は、どれも「らしい」ものば
かりだったけれど。
 一昨日二人から聞いた話でも、どこかのCDショップの営業部に
勤めているらしい。いつか東京に出掛けたら泊めてくれると言って
いた――その約束をたてに、いろいろ聞いてやろうか。「大都市の
暮らし」って奴を。
 まあ、もっとも、当時の俺が彼女の部屋なんかに泊まったら、何
をしていたかわからんが……ああ、それは今も同じかもな。
 披露宴の始まりに、武史の低い声で挨拶が行われる。
『今日の会は、披露宴とは銘打っていますが、日頃の皆様のご厚情
に感謝を込めて、御礼の会として開かせていただいたものです――』
 宴の次第は、しゃちほこばったものではなく、司会も山藤ちゃん
と武史の自前、ゲームや出し物が主体の楽しいものだった。
 山藤ちゃんが参加している合唱隊の仲間の斉唱、武史の職場の連
中が演じるへっぽこ劇、少年野球団が行う「愛のグローブ」の贈呈
式。そして、終いには、夫婦自らが、耳が痛いようなベタベタなデ
ュエットソングを歌い出し……。
「やめろ〜! 聞きたくねぇぞ」
 後ろの席から茶々を叫ぶと、にこっと笑った山藤ちゃんが、ガッ
ツポーズ。……ああ、だめだ、これは。
 百人ほど集った宴席者の中には、高校時代の同級生や野球団の監
督さんなど、俺の見知った顔もあって、時々席を立っては言葉を交
わしたりした。
「寛史、相変わらずふらふらしてんのか」
「ああっ? 一応れっきとしたリーマンだぜ。これでも」
「今度、飲みに行こうぜ。洋二も戻ってきてるしさぁ」
「いいねぇ。携帯番号、知ってるよな」
「バイク乗ってるのか、安部。お前、高校の時からやってたんだっ
てな」
「あ、勘弁、センセ。もう時効だろ?」
 そして、再び一番前の席へと歩き、ビールを注ぎながら武史に話
しかけると、
「お前はほんとに幸せもんだ。山藤ちゃんみたいな最高の奥さんが
サポートしてくれるんだからな。大事にしないと、罰が当たるぞ。
いや、俺が当てる」
 武史は、ははは、と長い顔を綻ばせると、
「お前の罰、か。考えてみれば、高校の時にも言われたもんな……
ちゃんとしてやれって。ありがとな、寛史」
「やめろって、照れるだろうが」
「え、なになに? 寛史くんに何か言われたの? 高校の時に」
「ああ、山藤ちゃん、なしなし。今のはマボロシ」
 全てが楽しく、和気あいあいと進んでいた。その中心に、こじん
まりと置かれたテーブルに座る、この二人がいる。
 俺は自分の席に戻ると、空けずに取ってあるビール瓶を見た。
 ずっと真っ直ぐに歩いてきたあの二人、それがこんなにでっかく
なって、いろんな奴が集まってくる。……らしいよ、まったく。
 この気分を真っ先に話せそうな相手は、まだ姿を見せていない。
 何やってんだか、美佳姉は。ビールも飲まずに取ってあるっての
にな。
 と、少し高い女性の声が響き、会場はざわつき始めた。
「あのぉ、ここで、愛し合うお二人に、セレモニーをしていただこ
うと思います。何と言っても、お二人と言えば、愛のキャッチボー
ルですよね! さあ、みなさん、こちらにお集まりください」
 散らばった女性陣に促されて、宴席者が真ん中に集められる。驚
いた顔の二人に、グローブとミットが渡され、ひときわ明るそうな
女性が、はい、と武史の手にボールを置いた。
 俺は、その場に座ったままにやにやとイベントが進行する様子を
眺めていた。
 本当にやるの? 顔を見合わせた二人が、やんやの喝采で会場の
両端に離れる。「パパ」――心を決めた山藤ちゃんが、青い繋ぎの
幼児を小脇に立たせてしゃがみ込み、ミットを構えた。
 深い青色の背広を着た武史が、手に持ったボールを回しながら眺
める。そして、軽く振りかぶり……。
 その瞬間、後ろから吹き込む風を感じた。ドアが開いて、仲居さ
んが入ってきたのか……いや。
 人垣越しにボールが放物線を描き、パシッ。「おおっ」「さすが
ぁ」、飛ぶ口笛に拍手。同時に、視界の端で捉えていた。パールカ
ラーのシャツに、青いタイトスカートを着た女性がその様子を眺め
ているのを。
 ウェーブのかけられたセミロングの髪……でも、間違いない。
 少し眦の上がった目が辺りをぐるりと伺い、肉厚な唇が、ん、と
いう感じで引き締められる。そして、真っ直ぐな背に、そびやかさ
れる頭――確かに美佳姉さんだ。
 こちらを向く瞬間を待つ。と、ぐるりと振り向いて……よっ、美 ▼
佳姉さん。
 敬礼をすると、荷物を小脇に抱えて俺の座るテーブルの方へやっ
てくる。
「遅かったじゃん、お仕事?」
 軽く言うと、椅子を引きながら、すまなそうな調子で息を吐いた。
「ごめん、やらなきゃいけないことが押しちゃって。もう少し早く
来るつもりだったんだけど」
 ゆっくりと腰掛ける。
「俺に謝ってどうするよ。あっちね、それ言うなら」
 テーブルに戻る最中の二人に顎をしゃくりながら、化粧された横
顔を目に流していた。嫌味にならないぐらいのナチュラルメイクに、
落ち着いた様子の視線の配り方……当たり前だけれど、昔の美佳姉
さんとは少し違っていた。
「キャッチボール? 何かしていたみたいだけれど」
 すぅっと聞いてくる。
「見事なもん。構えたところにビシッ、だもんなぁ。やっぱり、よ
く鍛えてるよ」
 俺も、昨日会ったように言葉を返すと、彼女は一瞬視線をテーブ
ルにやって、こちらを見た。
「……久しぶりだね」
 黒い瞳が真っ直ぐにこちらを射て、俺は頷いた。
「だなぁ。元気そうじゃん、美佳姉」
 今度は俺の方が視線を逸らした。どうも少し照れ臭い気がする。
すっかり大人な表情の女性。でも、美佳姉さんであることに間違い
はなく――高校の日が昨日のようで、それは、気分だとわかってい
る。
 と、悪戯っぽく笑った声が、からかった目の色と共に響いた。
「寛史は……、少し、やばくなっちゃったんじゃない、ここ」
 前頭部を指差して言われると、お、それを言うか?
 気にしてんのになぁ……軽く言い返した後は、すっかり調子が戻
ってきた。俺の記憶の中にあるより落ち着いた色合いの姿になって
も、らしさは変わっていない。
 会話はだいたいシュールにからかい調で、それでいて根っこは誰
より真面目で。
「飲めるだろ?」――二人だけのカンパイをすると、卒業以降のこ
とから近況までをざらっと話し合った。
 俺の話すべきことはたいしてなかった。そう変わった事があった
わけでもないし、まあ、高校を出てからそのまんまと言えなくもな
い。
 美佳姉の方は、大学を出てから、少し就職で苦労したらしい。ま
あ、そうだろう。大学卒でも就職率が八十%とか言うご時世だ。ま
して、女子学生には狭き門のはず。
 それでも、こんな地方都市にまでショップがあるような大手の音
楽専門店に入り、三年目になると言う。
「ただで聴けるのが嬉しいよねぇ。しかも、誰より早くさ」
 自信と言うか、満足そうな笑みを浮かべて言った時、俺はうんう
んと頷いていた。やっぱり、美佳姉さんだわ――本音で思ったまま
言うと、いやいや、そう簡単じゃないのさ、世間は厳しいよ。笑い
ながら返してきた。
 俺も、営業先でのバカ話をして、二人で頷き合う。まったく、働
くのも楽じゃないねぇ。
 ただ、少し気になっていた。
 大学ではどうだったよ、ハイソサエティな世界ってのは? やっ
ぱり、遊びまくり? コンパとかあったら、俺も誘って欲しかった
なぁ――軽口を飛ばした時、ほとんど返答がなく、「まあ、大学は
ねぇ……」話題をぶちりと切った。
 頬に影を落として、眉を少し上げる表情――いつかどこかで見た
もののような気がしていた。
「さて、亜矢と森島に挨拶しないとね」
 彼女はゆっくりと立ち上がった。
「お、それがいいや。山藤ちゃん、お待ちかねだったぜ……」
 言いかけた時、彼女の視線が俺の頭越しに止まった。何?――振
り向くと、今日の主役が二人揃って、後ろに立っていた。美佳姉さ
んが頷くと、よく通る透き通った声が飛んできた。
「美佳。ありがとう、来てくれて。嬉しいな、久しぶりに会えて」
「ごめんね、亜矢。遅れちゃって。仕事、ちょっと抜けられなくて
さ」
 少し湿っていた美佳姉さんの瞳が、柔らかく笑った。
 武史に視線を移すと、息子を腕に抱いたまま、細い目で俺に目配
せをする。と、山藤ちゃんが俺の方を見て、
「寛史くんも、ね」
 ああ、と思う。さっきから、いろいろなテーブルでやっていた。
二人が何か包みのようなものを渡して、頭を下げている姿。
「亜矢がこれにしようって言ったんだ」
 リボンのかかった四角い箱を、武史の腕が差し出す。俺は、中学
の時からの親友の顔を見上げた。
「いろいろ話し合ってね、そんなものしか思いつかなかったから。
気に入ってくれるといいけれど」
 山藤ちゃんが俺たちに言う。
 美佳姉さんも、なにか小さな紙袋を受け取っていた。
「英ちゃんが生まれてから余計に話すようになったんだけれど、た
くさんの人のおかげで、ここまで来れたんだなぁ、って。最初にも
言ったけれど、披露宴と言うより、ありがとう会なの、これは。美
佳と寛史君には最初に、一番お世話になったでしょう? だから」
 俺は、頭を掻きながら包みを開けた。そんなんじゃないさ、まあ
……、さ。
 紐を解いて中を開ける。ああ、こいつは。
 出てきたのは、アンドロの卓球ラケットだった。木目がよく生か
された、デザインもソリッドな……まったく、こんな高い奴を。
「こんなんでよかったか。まだ時々、やってるって聞いたからさ」
 ああ、俺は頷いた。俯いたままでいると、低い声で武史は続ける。
「昨日マスターとも会ったんだけどさ、久しぶりに。……自分のこ
と、大事にしろよ。……さっきお前が注いでくれた時、高校の時の
こと、話したけどさ」
 そこまで話して、唐突に一度言葉を切った。俺は武史の顔を見る。
少し酔っているような感じだった。
「寛史、お前、いつも人のことばっか……」
 俺は、手で払った。まったく、こいつは。
「やめろって、背中がかゆいだろ」
 腹に一発入れると、武史は動かす口を止め、そのまま黙った。
 隣を見ると、美佳姉は洋楽のCDをもらって、嬉しそうに山藤ち
ゃんに頷いている。
 透明なカバーのかかったラケットをかざすと、鼻で息をする。い
いラケットだな。まったく、武史も山藤ちゃんも。
 そして、はしゃぐ子供を間に自分の席に戻っていく二人を見なが
ら、横に座る美佳姉に呟いていた。
「ホント、感心するよ。俺ならこんな式、できねぇなぁ。大したも
んだよ、あの二人は」
「私もそう思う」
 呟く声が遠くで鳴った。そんな喋り方だった。
 それからの時間は、あっという間に過ぎた。お互い知り合いに挨
拶をして戻ってくると、間欠的に言葉を交わす。美佳姉さんの方が
席を立つ時間が長かった。俺は、時々ビールを口にしながら、すら
りとした背中を遠くに眺めている。気のせいかもしれない。ほっそ
りとし過ぎているようにも感じた。
 何かが頭の中で回っている。
 さっきから喋っていた言葉の断片と、美佳姉の横顔、嬉しそうに
笑い合う宴席者たち。そして、俺自身のことまで。
 自分を大事にしろ、か、タケの奴。……だなぁ、ストレートにそ
う思えるなら、ずいぶんわかり易いんだけどな。
 おっと、演歌モードじゃんか。やめやめ。
「お、お帰り」
 美佳姉が再び戻ってくる。どう――ビール瓶を持ち上げると、グ
ラスが差し出された。
「あ、ごめん。サンキュ」
 一息ついてから半分ほど飲み干した。やっぱり疲れているみたい
だな、横顔を見ながら思う。
「お互い、お疲れさんかな。生きてくのは大変だ」
「そうだねぇ、そうかもね……」
 二人からプレゼントをもらった後は、すっかり物憂げな感じだっ
た。なんとなくわかる気がする。こういうのは、外れもんの定番の
場所だからなあ。
 でも、どうだろうか……あの頃の美佳姉さんは。
 そう、俺は、どう思っていたんだっけな、高校の頃。……斜に構
えているようで真っ直ぐで、回転が速くて、話が驚くほどよく通じ
る、特別な女の子。でも、相当な寂しがり屋で、だからかもしれな
い、「エッチの時」は積極的で……それでいて未来を遠くに見てい
た。
 でも、さっきはなんて言っていたか……。
『あ〜あ、失敗だったかなぁ。くそぉ』
 小さな声だった。でも、確かに聞こえた。
 そうか、美佳姉さん、苦労してるんだな……そうか。
 高校の日々は、昨日のようで、やはりずいぶん昔に過ぎてしまっ
た過去だった。
 披露宴の次第が全て終わって、荷物を片手に回廊からロビーに出
た時、ソファに深く腰掛けて天井を仰ぐ人影が見えた。
 青いスカートにパールカラーのシャツ、少しフレアーな黒髪の下
で、疲れたように目は閉じられている。――美佳姉さんだった。
 少しコースを変えて、ソファの近くを通る。一言声をかけてから
帰ろう。
「……あ、寛史」
 その前に彼女は気がついた。開かれた瞳を見下ろすと、
「じゃね、美佳姉。また、その内」
 俺が手を上げると、彼女は険のない顔で微笑む。
「ああ、またね。携帯の番号、教えたよね」
 ひどくあっさりした感じだった。俺は、さっき番号を教え合った
ことを思い出しながら、オッケーを出した。
「バッチリ。それじゃ」
 またその内連絡を取って、話そう――歩きかけて彼女を背中にし
た時、大きな吐息が聞こえた。ふぅ、深く息を抜き、その場に埋も
れるような。
 そのまま行きかけて、足が止まった。
「姉さん…」
 振り向くと、膝に両肘をついて、立ち上がろうとしているところ
だった。
「…大丈夫かい」
 肉厚の唇が一瞬小さく尖り、目が見開かれた。手が大きく顔の前
で振られると、
「ああ、大丈夫。やっぱり、仕事がきいてるかな。ついでにビール
もね」
 やはり軽い感じで言葉が返った。
「姉さん、下戸なんじゃない? ダメだぜ、俺とは違うんだからさ」
「はいはい」
 わかってます、って調子の声。
 軽い言葉しか交わせなかった。俺は、背中で手を振って、そのま
ま出口へと向かった。
 それ以上、何を言う事もできそうになかった。
 手に持ったラケットを見る。ずっと、俺は彼女のことを考えて、
思っている。でも、彼女がそのままらしく行くなら、それはそれで
いいんじゃないか。
 カーペットが途切れて、自動ドアが開いた時、心の言葉を反芻し
た。
 ずっと考えて、思っている……ああ、そうか。
 俺は、タイル張りの玄関をゆっくりと歩きながら、思いを繋いだ。
 そうか、俺は、美佳姉さんのことをずっと思っていたんだ。そう
か……。
 背中をゆっくりとした痺れが立ち上り、手を握り締めた。
 どうしようか、このまま行ってしまっていいのか――考える。で
も、彼女はどうなんだ。答えを探したまま駐車場へのスロープを降
り始めた時。
「寛史!」
 背中で声がした。同時にヒールの音が響き渡り、風が目の前にや
ってきた。
 斜めに見上げると、まさに今思っていた人がすぐそばに立ってい
る。
 見開かれた瞳に光っているもの……どうして? 涙?
「寛史……、ねえ、寛史」
 切羽詰った声だった。さっきまでの様子とはまるで違う、まるで
小さな女の子のように。
「美佳姉……どうしたんだよ」
 それしか言葉が返せなかった。手を伸ばして、顔を見つめる。涙
が次々に流れ落ちていくのが見える。何が、どうしたんだろうか。
 しかし、美佳姉は首を左右に振って俺の手を遠ざけると、きつく
目を閉じた。
「ねえ、寛史……」
 目を開けると、涙がまた零れ落ちた。そして、
「……寛史は大丈夫なの? 大丈夫なの?」
 なんでそんなことを。まじまじと彼女を見つめ続けて、俺は別に
さ――言葉を作りかけて、喉が音を押し止めているのに気付いた。
「そうだなぁ」
 俺は、目を伏せていた。そうだ……。
「……大丈夫、とは言えないかもなぁ」
 うん、そうだ……。
 何となく笑みが浮かんでしまった。
 全然大丈夫じゃねぇ。それは、美佳姉とおんなじだ。
 俺の前で背中を丸めた女の子は、しゃくりあげたまま、泣き続け
ている。どうにかハンカチを見つけ出すと、手に持たせた。
「美佳姉……美佳、何泣いてるんだって。おかしいぞ」
 全く泣き止む素振りはなかった。俺は、彼女の側に立つと、しば
らくそのまま待ち続けていた。
 一度、空を見上げた。そうだ、全然大丈夫じゃねえよ、俺たちは。
 しゃくり上げるのが止まった後、彼女は俺を真っ直ぐに見つめて
言った。さっきまでの険も茶目っ気もない、そのままの表情だった。
「連絡して、絶対。そうじゃなかったら、私から無理にでも電話す
るから」
 思わず、空いた額を叩きたくなる。コツンと当てると、目を伏せ
た表情が可愛いかった。
「するって。毎日でもさ」
 細い手首に手の平をあてて、ギュッと握り締めた。もう絶対、離
さない。強くそう思った。
「美佳、無理するなよ。なんかあったら、これ、な」
 携帯を持ち上げながら、スロープを下り始めた。
「寛史も。飲み過ぎないんだからね」
 後ろに声を聞きながら、駐車場に入る。車のドアを開けて、キー
を挿した後、そのまま座席に腰掛けていた。
 今交わした言葉が、頭と身体を大きくうねりながら巻いている。
 明後日まではこの街にいるって言っていた……。
 俺は、素早く携帯を取り出して、アドレス帳を開いた。会社の番
号を出すと、コールする。
「あ、所長。安部っす。実は……。ええ、明後日、休ませてくださ
い。え? いいじゃないっすか。有給は労働者の権利ですって。は
いはい、わかってます。それじゃ、よろしくです」
 自動二輪の免許は、彼女も大学の時に取っているはずだ。
 だいぶ寝かしたままだけれど、お袋のところのもう一台、ちょこ
っと整備すれば動くはず。
 一緒に並んで飛ばしたら、滅茶苦茶気持ちいいはずだ。今、一番
夕陽がきれいな時期だからなぁ。
 よし、善は急げだ。
 俺はさっき教わったばかりの携帯の番号を押すと、まだすぐそば
にいるはずの声が出るのを待った。
「あ、俺。いきなりかけてみたぜ。あ、実はさ、いい話があるんだ
けど……どう?
 うん、だろ? オッケー? そう来なくっちゃ」

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