序章 終わりからの始まり

 俺にとって、恋愛って奴、女との付き合いって奴には、どんな意
味があるんだろうかと思う。
 いつも、今でも、一人でいる方がずっと気楽だ。だからと言って、
無理に拒否したいとも思わない。楽しくないわけでもない。ナンパ
して、ちょこっと付き合って、デートやプレゼントやらのイベント
……。
 いや、アイツとだけは違ったのかもしれない。いつもクールぶっ
てるくせに、自分でも気付かない孤独を抱えたアイツと過ごした日
々だけは。

 ここのところ、この細長い店の眺めが自分の部屋よりも当たり前
の景色になっている気がする。
 高いカウンターに素っ気ないデザインの椅子が並ぶだけの店内。
吊るされた鍋やフライパン、船型の籐籠の中には申し訳程度にあし
らわれたドライフラワー。そして、「イタリアで買ってきた」らし
いレリーフが幾つか。
「マスター、もう一本」
 空になったビール瓶を突き出すと、いい加減にしろよ、という感
じで口髭の下がかすかに歪み、眼鏡の奥が光る。
 まあね、そりゃ、そういう顔になるのもわかるけどさ。
「……たまにはいいじゃん。高校生も飲みたい時があるのさ。『飲
んで〜、飲んで〜、飲まれてぇ、飲んで〜』ってか?」
「まったく、しょうがないな」
 後ろで束ねた髪が小さい冷蔵庫の前に沈み込むと、透明に黄色が
透き通る瓶にライムが差し込まれて、木のカウンターの上にボンと
置かれた。
「一応、イタリア風洋食店なんだからな」
 それでもマスターの目は何処か笑ったままだ。どうすりゃあこん
な風になれるもんなのか、一瞬、そんなことを考えた。
「……どこがイタリア料理屋だよ。こんなビール、洋食屋じゃ出さ
ないだろ? マスター、ホントはアメリカで飲んだくれてただけな
んじゃねぇの」
「そうかもな」
 後ろを向くと、くすんだ緑色の背中がフライパンを手に取った。
「いつものでいいか。寛史?」
「……うん、ああ。いいよ」
 俺の皮肉を軽く受け流して、軽妙な音を響かせて野菜を切り始め
る様子に、言葉の持って行き先がなくなった気がした。
 ビール瓶に口を付けて一気に半分ほど流し込むと、見渡した店内
が薄暗く歪んで見える。
 ……何時だっけ?
 何処かの教会を象った金属製の置時計をカウンターの端に見遣る
と、針は八時半を少し回ったところ。
 そろそろ帰って、匠の面倒見ないとなぁ。たく、変わり映えのな
い日々だこと。
 変わり映えのしない――そう思った瞬間、一週間前の彼女の台詞
が思い浮かんだ。言われてみれば、確かに俺も、「変わってない」
のかもしれないな……。彼女の知っている中学生の時から、日常と
言えばこんな調子だった。変わった事と言えば、酒を飲んで憂さを
晴らすことを覚えたくらいか。
 それでも、少しため息がでる。
 まったく、ホントに変わってないのは山藤ちゃんだろ。どうして
そんな風にいられるんだか。
 ボンという音と一緒に、ホカホカとした湯気が頬に当たった。そ
して、香ばしい匂い。
「また、『亜矢さん』のことかい」
 ライスの間に顔を出したエビと野菜、散らされたバジルが彩りを
添えた『ミラノハウス風ガーリックライス』。
「……まあね。でも、今日は愚痴はなし。なんかさ、あいつのこと
悪く言っちまいそうだしね」
 スプーンを口に運びながら、思いもかけない再会を果たした中学
時代の同級生の――いや、俺にとっては初恋の人と言ってもいいか
もしれない――女の子のことを思う。
 正直、三年の新クラス名簿を見た時、目を疑った。
 『山藤亜矢』。中学卒業と共に消えた名前は、俺にとって何より
特別なものだった。
 整って明るい顔立ち、大柄で伸びやかな容姿と、誰からも好かれ
る屈託のない性格。そして何より、大らかに歌い上げる美しい声が、
今も耳の中に残ってる。
 体育館で卓球に明け暮れていた中坊の頃。見上げた舞台の上で練
習を続ける合唱部員の中、ひときわ輝いて聞こえた天上の囀り。ク
ラシックの歌曲も、ロックやポップスと同じように、いや、それ以
上に心に沁みるものなんだ。俺は、あの時初めて気付かされた。
 そして、その時にはもう、彼女に「恋してた」んじゃないだろう
か。
『寛史くん、変わらないね』
 父親の仕事の都合で二年ぶりにこの街に戻ってきた彼女の口から
発されたのは、ある意味、予想通りの問いかけだった。
『武史くんのこと、知ってる?』
 時を隔てても、やっぱり彼女は森島武史の『あーちゃん』だった。
彼女の幼馴染み、そして俺の小学校六年以来の同級生。天から授か
った野球の才能を持つ、俺なんかにはどうやったって届かないもう
一人の「憧れ」。
 武史がマウンドに立つ時、必ず彼女の姿が側にあった。合唱部の
部長にして、野球部の「準」マネージャー。南中の誰もがうらやみ、
噂するカップルだと言うのに、自覚がないのは本人達ばかりなり…
…。
 いや、山藤ちゃんは、そうじゃなかったんだよな……。まったく、
あの朴念仁は。
 少しセピア色がかり、痛みを合わせた記憶が返りかける。
 くそ。まったく、何考えてんだ、俺わ。
 ガーリックライスの残りをかき込み、ビールを飲み干すと、椅子
から下りた。
「じゃ、マスター。俺、帰るわ」
 壁にかかった学ランを羽織ると、緑のナップを肩に背負った。
「うん。来週はちょっと店休むから」
「……まったく、いい加減な店だなぁ。そんなんで食ってけるのか
よ」
「どうだろうな」
 相変わらず何処か微笑んだままの瞳の色に見送られて、俺は薄暗
い裏路地に出た。
 瞬間、冷たい空気が襟元を撫でた。
 ……お、なんだか結構冷えてきてるなぁ。四月とは思えんわ、こ
れは。
 肩を窄め、繁華街とは反対の裏通りの方へと足を運ぶ。ほろ酔い
加減を補導員やらに見咎められるのは鬱陶しいし、寂れたネオンが
照り返す湿った路地を踏むのは、どこか胸がざわついて悪い感じじ
ゃなかった。
 でもまあ、高校生のやることじゃねぇよなぁ。
「ひ〜と〜り酒場で飲む酒は〜♪」
 自然に小さく口ずさんちまう。
 こういう時、演歌ばかり思い浮かぶのはどういうもんかな。耳の
奥にこびりついちまってるって奴だろか。
 ベージュの壁が立ち塞がる角を折れると、ファッション通りの明
かりが小さく見えてきた。俺の家がある旧商店街へ出るには、現在
の街のメインストリートをちょっとばかし通らないといけない。
  「空室あり」――ピンクの表示が光る狭い路地を歩きかけた時、 ▼
十メートルほど先のアーチ型ネオンの下に、ディープブルーのダッ
フルコート姿が現れた。
 ショートボブに整えられた髪に、面長の横顔。直線的な細い眉の
下、少し上がった鋭いまなじり。
 女性にしては大柄なその姿を目にした瞬間、見知った顔であるこ
とに気付いていた。
 二年、そしてこの新学期からも同じクラスになった、佐野美佳だ。
クラスの中、いやいや、学年の女子で比べったって、強面の部類に
入る付属高校の女傑の一人。
 おいおい、厄介なもんを見ちまった。こっちに気付かにゃ、お互
い気まずい思いをしなくっていいんだが……。
 とにかくさっさと行ってくれ、こっちは戻るわけにいかないんだ
からさ。
 ……あ?
 歩速を落とした視野の中で佐野美佳は立ち止まり、狭い路地の間
からのぞく夜空を、おそらくは、そこに瞬く春の星々を見上げて、
大造りな口の端に少し皮肉な笑みを浮かべて見せた。
 彼女についての印象を一言で言えば、学校行事やらクラス運営や
ら、出張れる場所ではとことん意見を表にして憚らない、まさに豪
腕の「アネゴ」。どっかで斜に構えた奴に似合いの、あんな笑いが
浮かぶ訳は……。
 虚を突かれ、足を止めて見つめてしまっていた気がする。すぐに
唇が引き締まると、人通りのある方を見遣った黒髪が、くるりとこ
ちらを振り返った。
 鋭く光る黒い瞳。
 目が合ったのは一瞬だったが、まじまじと俺の姿を確かめるよう
に眺め回す様子は……。
 ――間違いない。俺とわかったはずだ。
 しかし、何事もなかったようにすうっと背中を見せると、ディー
プブルーのコート姿は、ファッション通りの雑踏へと消えていく。
 俺は、ベージュの壁の向こうを見上げて、紫とピンクのネオンで
縁取られた三階建てを一瞬だけ目に映すと、もう一度歩き始めた。
 お固く見えても、やるべきことはしっかりと、ってことか……。
ま、当たり前のことだけどさ。
 それでも、どっかで違和感があった。去年の文化祭、「テキ屋で
いいじゃん」――男子主導で固まりつつあった適当な計画を、「冷
戦終結と第三世界」なんて、とんでもない展示に鞍替えさせたほど
の『美佳姉さん』が、放課後にラブホでそそくさと、ねぇ。
 立ち止まって消えていく背中を見送った後、再び歩き始めた。と、
「お!」
 アーチ型の入り口にさしかかった時、背中を丸めて飛び出てきた
影と接触しそうになったのは、まさか続けて誰かが出てくるとは思
わなかったからだった。
「あ、すいません」
 ペコリと頭を下げたロングコート姿の男の顔を見上げた瞬間、ま
たしても頭の奥がチリリと鳴った。
 頬骨の張った顔、眼鏡の下の神経質そうな細い目が、俺を一瞥し
てすぐ、明らかな動揺の色を浮かべて泳いだ。
 ……英語の多嶋じゃないか。
 名前と記憶の中の像が一致した。まったく、何だっての。このラ
ブホはウチの高校の隠れ宿か?
 俺は立ち止まって視線を斜め上に逸らし、軽く舌打ちをしてみせ
た。というより、それくらいしか態度の取りようがなかった。
 足早に去っていく音と、グレーのロングコートの背中。
 まったく、しょうがねぇなぁ。誰も彼もこそこそしやがって。よ
ろしくやってるくらいのこと、いまさらとやかく言ったりしない…
…、ん? 待てよ。
 矢継ぎ早にラブホから出てきた佐野美佳と多嶋。しかも、同伴者
なしってことは……。
 ……まさか、ね。
 学校でそんな素振りを感じたことは一度たりともなかった。多嶋
はどっちかといえば神経質な奴だったし、佐野の性格は歯切れの悪
い男にはさらに容赦がない印象だ。だいたい、あの『美佳姉さん』
が先生とよろしくやってるなんてことは……。
 でも、空を見上げた皮肉っぽい笑みと、俺を認めた時の瞳の色。
 もしかすると、普段のイメージと違った何かを持ってる女なのか?
 今はそれ以上、俺の連想を確かめる術はなかった。
 一つため息をつくと、俺はファッション通りの雑踏を目指して足
を速めた。

 年度初の実力テストが終了して、下校の準備で雑然とする教室の
中、俺は広げたナップに教科書類を放り込んでいた。
 新学期が始まって一週間。部員の定着は副部長の大任務だ。何を
おいても講堂に一番乗りしとかないとまずい。
「お、相変わらず速攻講堂行きか?」
 スチール机の前に立ち塞がったのは、俺の二倍はありそうな横幅
の体躯。
「たり前。最初が肝心なんだよ。もともとマイナースポーツなんだ
から、逃げられたら元も子もねぇだろ」
「最初が肝心、だってさ。へへへ、よっぽど可愛いのが来たか?」
 眉の濃い丸い顔が歪む。たく、こいつは。
「どうかねぇ。ま、お前らんとこに入ったら、ただのセクハラだも
んな。あのケツの群れみたら、どう考えたって『ワイセツ物なんた
ら罪』だって」
「プッシュ!」
 でかい手が突き出されると、俺の肩を押した。
「脇が甘え! 前マワシ取るぞ」
 横にかわしながらでっぷりした横腹を叩くと、そのまま教壇の前
を通って教室の出口に向かう。
「おう寛史、日曜暇か〜」
 後ろの方から響いてきたのは、洋二の声か。
「バツ。見たい映画あっからさ」
「何ぃ? 誰とだ」
 廊下に出ると、狭い廊下は黒い学ランと紺のブレザーで溢れかえ
り、混み合った駅のホーム状態だった。身体を斜にしながら通り抜
け、階段の踊り場近くまできた時、背中からの短い声に不意を突か
れた。
 「安部」
 振り返ると、惑いのない直截な視線がこちらを見つめていた。 
 ▼
 お……。
「……佐野さん。何?」
「急ぐ?」
 あまり抑揚のない調子で短く言うと、大造りな唇を閉じて俺の答
えを待っている。
 朝登校した時から、こんなことがあるんじゃないかとは思ってい
た。
 しょうがねぇ。部の方は部長が何とかするだろうし……。見ちま
ったのが運のつきだしなぁ。
「いいよ。話だろ?」
 佐野美佳の唇が、面白そうに歪められた。ん、あの時と同じ調子
だ――と、背中を軽く平手の感触。
「……わかりいいね、安部」
 そして、少し視線を落とした後で、
「悪いね。ちょっと上、いい?」
 行き止まりになっているはずの屋上への階段を指差すと、先に立
って上り始める。長い紺のスカートとピンク色の靴下が淀みなく段
を踏むと、鍵の掛かった屋上へのドアの前で振り向いた。
 要件は間違いなく、昨日目撃しちまったあの一件だろう。しかも、
彼女の方からこんな風に切り出すって事は、多嶋との繋がりは、俺
がまさかと思った通りの……。
 彼女の前を通り、行き止まりの踊り場に雑然と積み上げられた机
と椅子に軽く身体を預けた。階段を見下ろす横顔、微かに緊張した
頬の強張りに、場違いで適当な台詞を吐きたくなる。
「……シバクとか言わないだろね。それは勘弁、ってか」
 横顔が振り向いて、切れ上がった眦が柔らかい線を見せると、
「ハハハ、あんたって面白いね」
「そりゃ、美佳姉さんに逆らったら、三−Cで生きていけませんっ
て」
 彼女はドアの前の張り出しに腰を落とすと、揃えた膝の上に肘を
ついて手の上に顎を乗せ、俺を見上げた。
「ヨーヨーでも振り回せっての? ほんとにしばき上げたろか?」
「勘弁だって。秘密は守りますから〜」
 俺が手を顔の前に合わせてお願いしますのポーズを作ると、もう
一度カラカラと笑った。
 ショートボブの下の鋭いが整った表情が、またあの皮肉っぽい色
を浮かべた。
「……ごめんね、安部。変なモノ見せちゃってさ。黙っててくれる
だけでいいから」
 静かで湿った調子だった。俺の窺い知れない、何か深い想いが彼
女の胸の内で巡っているのがわかる。そりゃそうだよな、先生と付
き合うなんて、尋常じゃない。普通の付き合いすら夢物語だって奴
がゴロゴロしてるってのに。
 真っ直ぐに見上げた瞳に、小さく頷き返した。
「あのさ……」
 軽口を叩こうとして台詞が思い浮かばない事に気付いた。いや、
これ以上、関係のない俺が何か言ってもしょうがないか。
「あ、いたいた!」
 俺は何も見てないからさ、それだけを言ってここを後にしようと
思った時、下から澄んだ女性の声が響いてきた。そして、ペタペタ
と階段に触れ合うスリッパの音。
「佐野さん、みんな待ってるよ」
 聞き間違いようのない声だった。軽やかに揺れるポニーテールの
頭が見えてくると、澄んだ大きな瞳が俺の存在も捉えて、「おっ」
と言うように唇が尖らされた。
「……あれ、寛史君。どうしたの……、あ、お邪魔だった?」
 「彼女」は佐野美佳の方を見遣って悪戯っぽく笑うと、俺の方に
拳を握って見せた。
「いや、山藤ちゃん、そうじゃなくって……」
 屈託なく茶目っ気に溢れた顔を前にすると、どうにか言い訳をし
たくなってしどろもどろになるのがわかった。
「ちょっとコイツをいじめてたとこ。だってさ、ナマ言うんだもの。
ね、寛史」
 手の上に顎を乗せたまま唇を突き出した佐野美佳は、眉をハの字
にして面白そうに横目をくれた。
「……ひでえなぁ、美佳姉さん。そういうんじゃないでしょ」
「ふ〜ん、」
 山藤亜矢は、二段ほど下から俺達を見上げたまま、楽しげに言っ
た。
「佐野さんと寛史くんて、知り合いだったんだ。……なんか、よか
った」
「まあねぇ。ゴメン、亜矢。みんなに、もうちょっと待って、って
言っといて。すぐ行くから」
 そして、踵を返して軽く階段を下って行く様子を見送ると、彼女
はスカートの後ろを手で払いながら立ち上がった。
「やっぱり、亜矢は人気あるよねぇ」
 吐息混じりで言うと、からかいを浮かべた色の瞳を、もう一度俺
に向けた。
 たく、今の一瞬でか? こいつは……。
「……イヤな女」
「そう? そっちこそ、じゃない?」
 手を上げて指をひらひらとさせると、佐野美佳はゆっくりと階段
を下りて行く。
 ショートボブの旋毛が廊下へと消えていくのを見下ろしながら、
俺は今までに覚えたことのない安心感のようなものを感じていた。
 佐野さん、か。……あんな子がいたんだな。
 ナップを背負い直して一つ息をつくと、俺もその場所を後にした。
 そして、階段の最後の五段を一気に飛び下りると、全速力で講堂
に通じる渡り廊下へと走った。

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