第二章 Crossroad

 ハンバーガーショップの2階席からは、繁華街の様子がよく見え
た。
 店のロゴが塗られたウィンドウの向こうには、スクランブル交差
点を歩き渡る人、人、人。
 土曜のこの時間だと、学生服が目立つ。ほとんどは女子同士、男
子同士でつるんで歩いているけれど、中にはカップルで肩を並べて
いるのも。
 あ、背広とセーラー服?
 異質な取り合わせを目で追った瞬間、複数の女子生徒と先生風の
中年男性とわかった。……バカらしい、何を意識してるかな、私も。
「あ、ボンジョビだよ」
 斜に向けていた顔の横から高い声が響いて、私は音の響く天井を
見上げた。
「あ、うん」
 軽く頷くと、私と同じショートボブに切り揃えた里絵の丸顔を見
た。
「……何て言ったっけ、この曲」
「I'll Be There for You」
 ぶっきらぼうに答えを返すと、その隣で、額にパラパラと髪のか
かった一本お下げが揺れた。
「さすが。そういう曲名なんだ。いいなぁ、って思ってた」
 ストローに大造りな唇を寄せると、音を立てながらシェイクをズ
ゥっと吸い込んだ。
「……あ」
 そして、切れ長の目で私の方をちらっと見る。
「ああ、いい。あげる、あんたに」
 まだ残ったままだった自分のシェイクを斜め前に差し出すと、里
絵が隣を見遣り、呆れ加減に言った。
「ホント、よく食べるね、真雪は。どうしてそれで太らないやら」
 そして、濃青のブレザーの上から横腹をつまむ。
「う……」
 真雪は、ストローに口をつけたまま息を吹き出すと、里絵の肩を
小突いた。
「やめれ、サッちゃん」
「だってさ、真雪、セットほとんど二つ分じゃない。いくらなんで
も、太るって」
「いいの」
 気にせず2つ目のシェイクに口をつける去年のクラスメートの顔
を見ながら、この子も元気になったなぁと思う。そう言えば、最近
は電話もあまりかけてこないっけ。
「……どうしたの、美佳」
 髪型とは裏腹の艶やかな視線がこちらに向けられ、少し虚を突か
れた。
「いや、沢渡は美人だなぁ、と思って」
「……ふふふ、そう? 美佳が言うなら、自信持っちゃおうかな」
 悪戯っぽく笑って、すぐに無邪気な表情に戻った。
「やめてよ、美佳。そうじゃなくても、最近元気暴走気味で困って
るんだから、この子」
 里絵の丸い瞳が横目遣いに「親友」の顔を窺った。
 私は今年からクラスが別になったけれど、この二人はまた一緒。
まあ、うまくやっていくとは思うが。
 真雪は坂中先輩の、里絵は康隆のことがあったからそれどころじ
ゃなかったけれど、去年の夏休みまではそれなりにゴタゴタした気
持ちの縺れがあったと思う。
 ああ、そうだ。
「そう言えば里絵、康隆君とは、どうよ」
 里絵が「ん?」と言う顔で目を見開く。と、すかさず隣から、
「もう、熱愛真っ只中。きっと、幽霊になっても迎えに来ちゃうよ
ね」
「縁起でもないこと言わないの、真雪は」
「ええ? でも、結構似てる感じじゃない?」
 真雪が最近人気のTV俳優の名前を言うと、里絵は「あんなん、
ヤスくんと比べないでよ」と返して、聞いているこっちがバカらし
くなるようなやり取りがしばらく続いた。
 銀色の腕時計をちらっと見ると、時刻はもう2時近く。そろそろ、
出なければいけない時間だった。
 と、里絵が軽い調子でこちらに言葉を投げた。
「そうそう、美佳は? いつか写真見せてくれるって言ったじゃな
い」
「あ、うん」
 すぐに何のことか思い当たった。
「……そういうの、嫌いな人だからねぇ」
 うちの高校が付属している大学ではなく、新しく開発された山の
手にある私立大生――私が付き合っていることになっている男だっ
た。
 その時真雪が、残っていたポテトをポンポンと口に放り込んだ。
何か物言いたげにも見える。
「ん、まだ不満?」
 ちょっとふざけた調子で声をかけると、真雪は「いくらなんでも、
無理無理無理ぃ」と明るく返してきた。
 彼氏の話になっていること、特に気にしている調子でもなかった
――まあ、真雪だものね。
 やっぱり、気分が余分なところまで回り気味だ、いけないいけな
い。
 昨日から「始まった」けれど、今回はいつもよりまた一段と軽い。
気分がこうでなければ、忘れてしまうほどだった。
 でも、この後、先生との待ち合わせを考えた瞬間に、芳しくない
予感が頭をよぎった。
「そろそろ帰らない?」
 不穏な考えを打ち消しながら、私は二人に声をかけながら腰を上
げた。

 アンビバレントだった一日の終り、五月にしては寒い夜だった。
 いや、もしかすると、私の気分がそう感じさせていたのかもしれ
ない。
 新学期が始まったばかりのあの夜も含めて、割り切れず篭った気
分を、何度眠りの供にしただろう。
 もし、亜矢から電話がかかってこなかったら、さすがに落ち込ん
でいたかもしれない。
『なんで、すぐにそういう噂にしちゃうのかな』
 電話の向こうの澄んだ声は、やっぱり少し恋愛系の相談込みだっ
た。
「しょうがないって、亜矢。上原君、カッコいいからねぇ」
 ふむ、と小さく息を吐く音が聞こえてから、真剣な声が続いた。
『困ったなあ、こんな話で練習がやりにくいと、上原部長にも迷惑
でしょう?』
 彼女が転校してきてから、真っ先に入部した合唱部。カッコいい
のは上原の方ばかりじゃない。噂になって当然だとも思った。
「亜矢は、どうなのよ?」
 うーん、しばらく沈黙した後で、
『簡単に好き嫌いって言うと、いろいろなものが壊れてしまうから』
 そんな言葉を告げた新しい友人に、私は少し昔を思い出していた。
そして、今日も、「お前のこと、好きだから」……。
 亜矢のように考えていたら、こんな風にならなかったのかなぁ。
尊敬している英語の先生と、教え子として。
 でも、最初に好きと言われた時、私に断る口はなかったから――。
 それでも、合唱のことから学校のことまで、こだわりなく話す亜
矢の声を聞いていると、濁った気持ちが流れ落ちていくようだった。
 まあ、たいそうなことじゃないし。上原と付き合っちゃうっての
も悪くないんじゃない――軽口を投げると、亜矢は、でもね…、と
それなりに真剣に考え込んでいた。
「冗談、冗談。じゃね」
 電話を切った時には、気持ちの紛れは殆ど消え去っているように
思えた。
 それでも。
 ハンドルを握ったまま、むっつりと黙り込んでいる神経質な横顔
が脳裏で鈍く光った。
「ごめん、先生」
 謝ったところで、解ける類いの不機嫌さじゃなかった。でも、到
底そんな気分にはなれない。それほど、出血があったわけではない
けれど……。
『うっ』
 そして、手を添え唇を寄せた瞬間、飛び散ったもの。
 ああ、やめやめ。思い出しても意味がない、こんなこと。
 CDをトレイに入れて、スラッシュ系、激しめの奴をかけた。
『好きだ。佐野のこと。嘘じゃない』
 真剣に見つめてくれた、あの日の眼差し――でも、もう……。
 胸の奥を幾本もの針が刺す。そして、鼻の奥が切なく引き締まる。
「もう、…ったく」
 ボン、と立ち上がると、ヘッドフォンを取り上げて耳に被せた。
 こんな気分を、何度繰り返せばいいんだろうか。
 やらなきゃならないことは、山ほどあるのに。

 その日の朝、いつもより早いバスに乗ったのは、小テスト用のノ
ートを弘美たちに写させてあげる約束をしていたからだった。
 校門をくぐった時には、まだほとんど生徒の姿は見えず、奥の講
堂から、柔道部だろうか、朝連の掛け声が響いてきていた。
「美佳姉〜。おはようっぴ」
 ふざけ半分の声を肩口に聞くと、ちょっとくだけたブレザー姿の
二人組みが昇降口に入ってくるところだった。
「お、グッモーニン」
「悪いねぇ、ホント佐野、救世主だよ」
 報酬はしっかりいただくからね、軽口を叩きながら階段を上がっ
ていくと、人気のない校舎は怜悧な空気で満ちていた。
「古典、方丈記出すって? 野々山」
「いや、それはないよ。言ってただろ、文法中心――」
 四階の廊下に出て、弘美の問いに言葉を返そうとした時、誰か、
切羽詰ったような声が聞こえてきた。
『……そんな風になっちゃったのよ! 別に、別に……』
 澄んでよく通る声は、瞬時に誰のものか峻別できた。弘美の大き
な目ががまじまじと私を見ると、途切れかけていた声が、さらに激
しさを加えて繋がった。
『私のこと気にかけてくれ、なんて思ってないけど、前の森島君は
そんな言い方絶対にしなかった!』
「ちょっと、美佳姉」
「ああ、やばいかもね」
 袖を引っ張る志織には平静に答えたけれど、声の主が亜矢とわか
って、息が苦しかった。
 あんな声、出す子じゃない。
 その時には私たち三人は三−Cの教室の目の前まで来ていて、男
の低い声が、駆け出してくる姿と共に耳に届いていた――「あーち
ゃん」
 そして、私にまったく気付かないまま、風のように肩先を走り抜
ける長身のブレザー姿。ポニーテールの下にかい間見えた、眉根を
寄せ、何かを押し殺している表情――。
 一瞬、亜矢を追おうかと思った。でも、教室の後ろ隅でこちらを
見ている木偶な男と目が会った時、迷わずそちらに足を向けていた。
 森島武史。どうして、こいつが亜矢と?
 強く視線をやると、森島の細い目はすぐに逸らされ、机の上に置
かれたナップから荷物を出す作業を始めた。
 声をかけずにはいられなかった。図体ばかりで、クラスの中でも
影の薄い森島と、亜矢を結びつける線が見つからない。あるとすれ
ば、こいつの方が、何かを言ったか……。
「どうしたの、亜矢は」
「何でもない」
 視線を合わせないまま抑揚なく言い放たれると、冷えた怒りが頭
に昇った。こういう奴に何か言っても仕方がない、そう思いながら
も、
「何でもないようには見えなかったけれど」
 机の上に手をついて、今の男ならひとやま幾らの、ムースで固め
た長い前髪を見下ろした。でも、無表情のままに一言を発する気配
もない。
「美佳、やめときなよ」
 志織に袖を引っ張られて、それ以上森島を問い詰めるのは諦めた。
何より、今まで殆ど気にもしたことのないクラスメイトだった。
 こんな男が、転校してきたばかりの亜矢と……?
 午前の授業の間、時折亜矢の様子をうかがわずにはいられなかっ
た。
 一限目の現国の時から、姿勢よく頭をそびやかして、朗々と文章
を読み上げる姿はいつも通りだったし、英文法でちょっと入り組ん
だ関係代名詞の例文について訊ねた時にも、わかり易く話してくれ
る機転の良さに変わりはなかった。
 でも、昼休み、お弁当を食べながら顔を寄せて尋ねた時、
「ううん、何でもないよ。ごめんね、美佳。気にしなくていいから」
 そう言って唇を引き締めたどこか沈鬱な視線の落とし方に、私は
臍を噛んでいた。まだ、亜矢と知り合ってから一ヶ月。友達の深い
領域に踏み込むのは、不用意だったのかもしれない。
 それにしても、なんで私は、こんなに亜矢のことを気にかけるん
だろう。いや、亜矢だけじゃないか。お節介焼きは、私の性分だか
ら――。
 反省交じりに昼休みの廊下で窓の外を眺めていた時、ふっと頭に
浮かぶ顔があった。
 目尻の下がった、からかうような口元。
 安部寛史――亜矢と中学の時から知り合いだった、あいつなら何
か知っているのかな。
 いや、でも、安部が亜矢のことを想っているのは、多分確かだし
……。こんなことを聞くのは、お節介にもほどがあるって奴だろう。
『私のこと、気にかけてくれなんて、思ってないけど!』
 あの言い方、森島を好きってことだよね、間違いなく。そうか。
上原とのことの歯切れの悪さも、だから、か……。
 ずっと見下ろした運動場で、ボールを追いかけていたYシャツの
ままの背中の群れが、校舎の方へ向かってくる。
 何時……、もう、一時回ったのか。
 振り向いた時、階段の方から歩いてくる小柄なブレザー姿が目に
入った。
 安部?
 一瞬、彼かと見間違うほどに険しい様子を口元に浮かべ、俯き加
減で斜め下を見つめていた。
 でも、すぐにいつもの様子に戻った。それは、私に気付いたから?
 「あ、美佳姉さん。珍しいじゃん、お一人?」  ▼
 小造りな丸顔で眉が持ち上げられると、安部は私の前で立ち止ま
った。
 あの日以来、安部と私は時折軽口を言い合うくらいの仲にはなっ
ていた。先週、少し紛糾しかけた球技大会の代表選びでも、安部の
一言が役に立った。
「お前らなぁ、女にまとめさせといて、文句ばっかか?」
 普通の男子が言えば煙たがられそうな台詞でも、安部が言うとな
ぜか通りがいい。こいつの一言はなおざりにはできない、そんな雰
囲気がクラスにはあった。
 それにしても、タイミングが良過ぎだ。どうしようか……。
「安部…」
 ひょこっと頭を下げて行き過ぎかけた背中に、思わず声をかけて
しまった。
「ほい?」
 掃除用具の入れられたロッカーのところで振り返ると、小ぶりな
目が見上げ気味にこちらへ向けられた。
「ん、あ、まあ、いいや」
 視線が合った瞬間、どこか決まりが悪くて目を逸らしていた。
 安部は、両脇に落としていた手をズボンのポケットに突っ込むと、
ちらっと周りを見た。そして私の立っている窓がわに来ると、二、
三歩離れた場所で、横向きに壁に寄りかかった。
「なになに」
 屈託のない調子だった。でも、こいつのはうわべ通りの態度じゃ
ない。
「あ、いいよ。あんたに悪いし、さ」
 私も、行き交いが多くなり始めた廊下の左右に目を配っていた。
「悪い? うぇ、じゃあ、やめとこ。楽しくないお話は、およしに
なってねぇ先生、ってか」
 舌を出して、冗談めかした台詞。でも、安部はその場から動かず
にいた。ちらっと運動場を見下ろした横顔に、陰が落ちた。
 それは、険しさ、のようにも感じられた。
「いや、さ」
 ちらっと安部の顔を覗うと、うんうんと頷いている。それは、い
つも通りの屈託ない様子だった。まぁ、いいのかな……。
「……あの子のことで、ちょっとね」
 私は一歩安部の方に近寄ると、聞こえるか聞こえないかの小さな
声で言った。
「あの子?」
 横を向いたままだったけれど、いつもより高くなった声に、誰の
ことか伝わったのがわかる。
「どうかした…、」
 一度止まった後で、声が低く、深刻さを帯びたものになって、
「…もしかして、あいつとのことか、武史の」
 武史、の部分が小声になって耳に届いた時、私は安部の顔をまじ
まじと見つめてしまった。
 どうして。いくら何でも話の通じが良すぎる。
「っ、何で?」
 大声を上げかけた私に、普段はからかったような安部の目が、真
っ直ぐに頷きを返した。
 そして、安部が話してくれた亜矢と森島の……、さらに彼自身と
の繋がりは、納得せざるを得ない経緯のものだった。
 中学時代、野球部のエースとマネージャーだった亜矢と森島。誰
もが注目せずにはいられない組み合わせだった一方で、「恋」には
届かない関係――。
 そして、中学を卒業する頃、亜矢は親の仕事の都合で引越し……。
「なんかさ、マンガみたいだろ? でも、これが、マジなんだよな
ぁ」
 始業のベルが鳴っても気にせず話し続けていた安部の横顔に、言
葉以上の想いを感じていた。
 転校するなり、安部に森島の様子を聞き続けていたという亜矢。
 中学卒業の時から二年、今も変わらず「森島武史君」を追い、真
っ直ぐに見つめ続けていたんだ、と。
 でも、私が知っている森島は、スポーツマンとは程遠い、どっち
かと言えば一山いくらの目立たない男……。
 それは、彼女らしいと思うけれど、その二人を見つめていた安部
の気持ちはどうだったんだろうか。
 五限が始まってからも、教室の窓際最前列に座る安部の、私のす
ぐ前で黒板を見つめている亜矢の、一番後ろの席でぼんやりしてい
るであろう森島の、それぞれの胸の内が自然に思い浮かんで、授業
に集中するのが難しかった。
「それで、森島、野球やめたってわけじゃないんだ」
 そして放課後、安部から声を掛けられて話した時には、おおよそ
の問題の所在はわかった気がしていた。
「まあね。美佳姉さんの話を合わせると、多分、その辺かなって思
うのさ。あの二人のすれ違いって」
 安部の考えもほぼ同じだった。肘を痛め、野球から遠ざかった森
島が抱えているだろう挫折、それを知らない亜矢。でもおそらく、
気持ちの向いている方は、今でも……。
 それくらい、純な二人だもの。
「でも安部、いいの?」
 亜矢に伝えるために、二人を結び付けるだろう場所を教えてくれ
た安部は、問い掛けると、「何が?」という感じで、下がり気味の
眉を一層広げて見せた。
「俺が言うとさ、なんかわざとらしいだろ? だから、美佳姉さん
に頼めるなら、さ」
 荷物を背負って背中を見せかけて、安部は机に座った私を見下ろ
した。
「……そうそう、その安部っての、なしにしてくれる? なんか、
美佳姉さんに苗字で呼ばれると、ますます「すいませ〜ん」になっ
ちゃいそう。中学の時から、みんな寛史、だしさ」
 そして、どこかで聞いたような演歌?のメロディを小さく口ずさ
みながら教室を出て行った背中に、彼の気持ちの在り処がわかった
ような気がした。
『本人経由じゃなくていろいろ聞くのはわたしの趣味じゃないんだ
けどさ、亜矢の様子が気になったもんだから。(イイワケだな、ゴ
メ)寛史の奴にだいたいの事は聞いた。取りあえず、東総合公園に
行ってみな。(って、寛史が言うんだよ。わたしにはさっぱりなん
のことかわからんが)
 亜矢、何も森島に伝えてないだろ。屈託ないようで、あんたそう
いうとこあるから。でも、こういうことは、はっきり言わないとダ
メだよ。じゃ、明日学校で。
 おっせかいオンナより』
 誰もいない教室で、亜矢に渡す手紙を書いている間、どうしてこ
んなことをしてるんだろうなぁ、と考えたりもした。
 でも、亜矢の誰よりも真っ直ぐで淀みのない気持ちを、そのまま
通してあげたかった。森島がどうあれ、亜矢の気持ちに紛れがない
ことは確かだと思う。
「美佳?」
 そして、夕暮れの迫る図書室。黒目がちな瞳で大きく見つめ返し
て、私の手紙を受け取った亜矢の驚きの表情は、そのまま夜の電話
に繋がっていた。
 私は、ベッドで仰向けになったまま、亜矢の弾んだ声に耳を傾け
ていた。
「じゃ、万事オッケーってことかぁ。良かったじゃん、亜矢」
『うん。ありがと、美佳』
 寛史の教えてくれた東総合公園。そこで森島は少年野球のコーチ
役をしているらしい。肘は痛めたけれど、野球への想いはそのまま
だ、と。
 なるほど、ただの木偶男じゃなかったってわけか……。
「で、何て言ったの、亜矢。思いっきり告白? っお、ちょっとオ
バタリアン入ってるかい? 私」
 軽い笑い声が聞こえた後、声が密やかになった。
『ええと、それは内緒、かなぁ。……ね、寛史くんにもお礼を言っ
た方がいいよね』
 屈託のない言葉が続いた。
「あ、ううん…」
 私は一瞬息を吸い込んで、寛史の顔を思い浮べた。
 あいつ、どう思うかな……。
「…私が無理に聞いたんだよね。どうなってんだ、あいつら!って。
あいつ、森島の友達だろ、無断で教えたくなかったらしいんだけど
さ」
『そうか……』
 亜矢は、少し考え深げに声を漏らした。
「私から、それとなく言っとくよ。『役立ったみたいだよ』って感
じで」
 これくらいの嘘は、方便だろうと思う。
 それから亜矢は、一しきり学校のことやこれからのことやらを楽
しげに話した後で、もう一度、
「ありがとう、美佳」
 言って、電話を切った。
 私は、その後しばらく、天井を見上げていた。
 リードギターを持ったスラッシュが仁王立ちになった真新しいポ
スターをぼんやりと眺めて。
 どこか胸が苦しかった。
「いいの?」
 私が聞いた時、「何が?」と眉根を上げたすかした表情が脳裏で
再演されている。
 どうしようか……。いや、やっぱり連絡しておいた方がいい。
 ええと、クラス名簿、どこだったか。
 机の一番下の引出しを開けると、古いノートや教科書に紛れた青
い冊子を見つけ出した。
 安部…寛史。電話番号は……。
 子機を持った瞬間、突然部屋の入り口が気になった。廊下に顔を
突き出して、扉を閉める。
 そして、もう一度番号を押そうとした時、最後尾の保護者欄が目
に入った。
 史江……女の名前。
 また、安部の…、寛史の後姿の意味が、見えてきたような気がし
た。
 そして、長い長い呼び出し音。
 プチッ、通話が成立して、少し高い声が聞こえる。
『はい、安部ですが』
 私は受話器をギュッと握り締めていた。自然に力が入ってしまっ
ていた。
「あ、…寛史? 私。うん、そうそう、美佳姉さんだよ。え、違う
って。いい話――」

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