第四章 波立ち

 西に傾きかけた陽が照り込む学年掲示板前の廊下、私は人垣の後
ろから、張り出された名前の羅列を眺めていた。
 模造紙に長く書かれた期末テストの順位表。五教科、三教科、科
目ごとの順位が、細かく掲示されている。
 鈴なりになった制服の群れから、とりどりの声が上がる。
「お、俺の勝ちな」「ああ、ショック」「おいおい、また康隆かぁ」
――。
 自分の結果は、見るまでもなかった。ただ、改めて順位を確認す
ると、重苦しい。特に、英語が最悪だった。当たり前のこと、英文
法のノートを開くのが、とても億劫だったから……理由は、今さら
思い浮べてどうなるだろう。
 誰にも声をかけられないように、さっさと廊下を後にした。「ど
うしたの、調子悪かったじゃん」――そんなことを言われて、余分
な言い訳をするに違いない自分が嫌だった。
 理科棟への廊下を直角に曲がった時、Yシャツ姿の男子生徒と肩
が当たりそうになって、「あ、ごめん」と頭を下げた。
 視線を上げると、後ろを短く刈り上げて、前髪を立たせ気味にし
た細身の顔があって、私は一瞬、まじまじと彫りの深い目を見つめ
返していた。
「お、美佳」
 整った口元が開かれて、まっすぐにこちらへ目を見開く。とっさ
に、口元に指を持っていってしまった。
「細見君…」
「テスト掲示見に行こうと思ってさ。……なんか、久しぶりな感じ
だなぁ。調子、どう? テストの方」
 確かに、二年になって理系と文系に棟が別れてから、彼と顔を合
わす機会は少なくなっていた。
「なんか、最悪だった。予備校一直線かなぁ〜とか」
「へぇ、珍しいじゃないか、美佳」
 私よりまた頭半分高いすらりとした姿が壁に手をつくと、軽く眉
を寄せて、ざっくばらんな感じで覗き込んでくる。それは、一年の
頃からそのままの――。
「さぼったな。コンサート三昧とかしてたんだろう」
「……違うって。そんな暇もお金も、ないない」
 懐かしいような感じが胸で広がって、目を逸らしていた。
「だよなぁ。俺も、この間のレニクラのコンサート、行きたかった
んだけど……ダメだよな。地方は悲し、か」
「そうだよね、スラッシュの飛び入りもあるかも、なんて噂、聞い
た?」
「そうそう、聞いた。燃えるよなぁ……、あ、行くよ。俺。美佳、
軽音の方、たまには顔出しなよ。別に、現部員じゃなくっても、遠
慮不要だからさ」
 久しぶりの姿は、背中を見せて連絡通路を歩み去っていく。
 軽音楽部か……もう、何年も前のことのような気がする。
 入学してすぐ、毎日バンドの話に明け暮れて、ベースを弾いてい
た頃。彼とは好きなジャンルが合って、少し憧れていた、と思う。
音楽のこととなると一直線で……いや、他のことでもそうだった。
そして、たぶん、あの頃の私も。
 軽音楽部の部室に立ち寄らなくなってから、もうずいぶん経つ。
あの人と付き合わなければ、部の顧問でなければ、違った風になっ
たのかなぁ。
 いや、ifを言っても仕方ないんだ。
 家に帰ってから、スコアをベッドの上、久しぶりにベースをはじ
いていた。
 コードを追いながら、ぼんやりと気分を流し続けてどれくらいか。
雑多な言葉やイメージが過ぎるけれど、どれを追いつめる事もせず
に、音だけを聞いていた。
 あと二日で、終業式。こんなに休みが待ち遠しかったのは、初め
てかもしれない。
『ここはhave beenで……』『ええっ、先生、何言ってるの〜』
『あ、ああ。間違えた』――収まりのつかない英語の授業。
『好きってなんだろう、美佳。私は、彼を自分の何かにしちゃおう
と思ってるんじゃないかな』『亜矢、きっと、たくさんの時間を過
ごしてわかることがあると思うよ。恋愛は理屈じゃないところがあ
るから』――それは、誰に向けて言った言葉?
『俺は演歌で、美佳姉さんはロック。合ってるねぇ』『どこが。あ
んたはパンクでしょ』『うわ、やだやだ、早死しそうで』『それは
演歌だってさ。泣きの涙で生きたって、どうなるって』『はは、そ
れが日本の心かな〜、と』
『……』『誰?』『……』『誰? 答えないなら、切るから!』
『………』――ガチャン。
『ずいぶん順位、下がったねえ。最近、勉強サボってるんじゃない、
あんたは。電話ばっかりしてるし』『たまたま、たまたま。不得意
なとこが出まくっちゃってね』
『女だてらにベースなんだ。やっぱボーカル、とか言わないの?』
『ううん……、好きなんだよね。ほら、響きが。よく聞くと、どん
な曲の後ろにでもあるでしょ』『ふうん、渋いなぁ』『私さ、副の
タイプなんだ、基本的に。自分からガーンと行くのは苦手』
 私は、あの時のままなのか……、いや、どうなんだろうか。
 ドンドン!
 その時、部屋のドアが鳴って、バタンと開けられた。
「美佳。さっきから呼んでるでしょう、聞こえてないのかい」
 入り口には、ズルッとしたズボンと長袖Tシャツを来た母が立っ
ていた。
「何、どうしたの」
「電話。いつもの、安部君から」
「あ、ああ…」
 ギターをベッドの上に置いて部屋を出ると、丸い頬に苦味を浮か
べながら、母が横耳に言う。
「……そんなことばっかりやってるから、下がるんじゃないかい、
成績。いい加減にしときなさいよ」
 私は、何も答えずに階段を下りると、受話器を取った。
『また、お母さんに取られちゃったよ。迷惑じゃないかい』
 寛史からの電話は、今度行くことになっている、海水浴について
のことだった。
 合唱祭の日以来、寛史とよく話すようになっていた。放課後、特
別な約束もなくてぼーっとしていると、彼もまんじりしていること
があった。
 卓球部の最後の大会も、あっけなく一回戦で敗退、うちの高校で
は超少数派の就職組に属する寛史は、「やることなくて暇でねぇ」
の状態だと言う。
 私も、勉強以外特にやることはなかったし、かと言って家に帰る
のも、誰とでもなく学校にいるのも嫌だった。一度、里絵が見たと
言っていた……私の家に近い公園で、車を止めてぼんやりしていた
あの人を。
「何してたのかねぇ、多嶋ちゃん」――いつまで引き摺ればいいの
か。
 寛史と話していると、本当に気が楽だった。下んない冗談ばっか
り言っていればよかったし、女子に遣うような気がいらない感じだ。
煙草は吹かすし、どうやらビールも常飲しているらしいけれど、固
苦しいより遥かによかった。
 ――最近、少しだけ考える。
 私は、あいつに惹かれているのかな?
「時間あればさ、泳ぎに行くかい?」――亜矢や森島を誘ってと言
う繋がりはあっても、言われた時に、何とも言えない照れ臭さを感
じたのは確かだった。
 でも、よくわからない。
 少なくとも、あいつはそんなこと、考えていないと思う。それに、
私は「埋め合せ」にしているんじゃないだろうか。四月、あの人と
のことを見られてから、寛史と話すようになった。
 合唱祭の夜だって……本当にホッとしたんだ。
「恋は理屈じゃないよ、過ごしていく時間とか、お互いの関係とか、
形が決まらないから、好きって気持ちが大事なんじゃないかねぇ」
 森島とのことを話す亜矢に答えたけれど、本当は私の方がわかっ
ていないんじゃないだろうか。
 でも……、わからない。あの人とのことも、私から始めたことじ
ゃないから……。
『山藤ちゃんの参加確認、よろしく。タケの馬鹿も、「なんかはっ
きりしなくてさ」って、ウドなこと言ってるからさ』
 寛史からの電話を切った後、亜矢の家にダイヤルすると、いつも
通りの明朗な声が響いてきた。
『お父さんのオッケー、出そうだから。美佳、口裏合わせお願い』
 男子と行くだなんて到底考えられない亜矢の家の事情は、少なか
らずわかっていた。
 翠や里絵にダミー参加を頼めば、問題ないだろう。
「水着選び、行くかい?」
 亜矢に誘いをかけた時、『頼める? 本当、プライベート用なの、
ないから』――華やいだ声で答えた今年からの友達に、私は考えて
いた。
 どうせなら、自分の奴も買っちゃおうか。楽しい海になるといい
なぁ……煩わしいことは、全部忘れちゃって、さ。
 何となく時計を見ると、もう十時。今日は、LIVEプログラム
がFMで放送されるはずだった。
 ステレオのスイッチを入れると、お馴染みのDJの声が流れ出す。
『今日は、先ほど来日公演を行った、ヴァーサタイルなロックグル
ープ……』
 気持ちが軽くなっていく。何だか、こんな気分は久しぶり――
私はベッドに置きっぱなしになっていたベースを取り上げると、ベ
ン、と一回かき鳴らした。

 その日の陽射しは、ビーチに見える人影も多くないせいもあって
か、ギラギラを十回繰り返すくらい、激しく思えた。
 海の家の更衣室で水着に着替え終わると、寛史と森島、男二人の
姿はとうになくて、ビーチへ向かったようだった。
 少し丈の長いベージュのパーカーを胸元までがっちり羽織った亜
矢を斜め後ろに、浜へ歩き出すと、
「ねぇ、美佳」
 亜矢が、耳元で囁く。
「大丈夫かなぁ、これで」
 水着の買い物の時から、何度か聞いた台詞だった。
「……オッケーだって。可愛い、可愛い」
「う〜ん」
 身をかがめ気味にすると、今日はお団子に頭を留めた亜矢は、花
の散らされた水着の胸元を伺わせながら、自信なさげに唇を尖らせ
た。
「美佳は、スタイルいいからいいけど、私、太ってるからなぁ。呆
れないかな、武史くん」
「バカ」
 真っ青に輝く海を見ながら、立ち止まる。すいてはいても、とこ
ろどころから、楽しげな歓声が上がっている。流れているのは……
ウェストコースト系の曲。うん、いい感じだ。
「それ、嫌味になるよ、まったく。あんたくらいスタイルがいい子、
いないでしょ、そうは」
「そんなことないよ。だって、ね……」
 大きな目が、ふぅ、と言う感じで向こうを見た。
「美佳だって、気になるでしょう? 寛史くんだって、いるし」
「こら」
 もう一度歩き始めながら、ビーチの真ん中を見る。小さく見える
七色のパラソル……ああ、いいところに場所取ったんだ。
「なんで、そっちへ持ってくかな。寛史と私は、付け合わせ。あい
つも多分、海なんて庭みたいなもんだと思うよ」
 それでも、青いセパレーツの水着を見下ろしながら、思う。ちょ
っと、勢い良すぎたか? でも、こういうの、着たかったんだよな
ぁ。
 パラソルの近くに来た時、テーブルを備え付けていた森島が、亜
矢の姿を真っ先に見つめた顔の輝きが、強く胸に残った。
 寛史とは、しょうもない馬鹿話ばかりをしていたような気がする。
亜矢と森島が、仲良さげに手を繋いで海へ入っていく姿を見ながら、
「うん、いいね」と頷き合い、隣の女子大生グループに目が行った
寛史に、「あんた、思いっ切り電波出てるよ」。そして、来年はボ
ードをやりてえなぁ、水平線を見遣る言葉を聞きながら海に浮かび
……。
 ただ、デッキチェアーに寝転んだ寛史の姿を見た時、思った。
 ああ、凄く筋肉質なんだな……やっぱり、運動部だ。
 その時は、何だか眩しくて、思わず、手に持った「未成年禁止飲
料」を奪い取っていた。
 ホント、しょうがない奴。煙草は吸うわ、ビールは飲むわ。ちょ
っと前の私だったら、叱り飛ばしているところかもしらん。
 でも、一日中ずっと気が楽だった。いや…、楽しかったんだと思
う。いつものように女同士でざっくばらんに遊び過ごすのでもなく、
妙に深刻になるのでもなく。
 夕方、亜矢と森島をバス停に送った後、もう少し寛史といたいと
思っていた。
 理由なんて、考えていない。ただなんとなく話していたい、それ
だけだった。
「乗っけてってくれない?」
 軽口混じりに頼むと、寛史は、笑いながら「どうぞ」――当たり
前のようにバイクの後ろを空けてくれた。
 海沿いをずっと、夕陽を追いながら西へ。ゆったりとした風を首 ▼
筋に感じながら一際高い場所へやってきた時、長く伸びる海岸も、
地平も、空も、何もかもが赤に染め上げられていた。
 何度か車で通った道。この眺めのいい場所を、知らないわけじゃ
ない。
「駅南でよかったよな、姉さんの家」
 家へ送ってくれるという寛史。でも、もう少しだけどこか遠くへ
行けるなら……。
 この美しい景色と、一方では消しえない記憶と。引き伸ばし、ち
ぎってしまえるならば、どんなにかいいだろう。
 「岬まで、どれくらい」「三十分くらいかな」。僅かなやり取り
で寛史は頷き、あっけなくエンジンをかけ直した。
 悪いな、と思う一方で、「風になるのって、気持ちいいぜ」――
この間聞いたバイク乗りの魅力話に、オッケーを出した頷き顔が重
なる。
 ……いいんだよ、ね。
 バイクは、遥かな岬へとどんどんとスピードを上げていく。
 本当だった。
 景色が流れ始めて、さっきとは段違いの風音が身体中を包むと、
何だか切ない気分になる。パーカーとホットパンツだけだと少し寒
いほどだったけれど、それがまた、肌を空気に擦り合わせているよ
うで、気持ちが周りに溶けていく。
 そして、青いジャンパーの腰に手を回していると、ハンドルを握
り、ブレーキをかける動きが伝わってきて、心地いい。
 最後には目を閉じて、ずっと音だけを聞いていた。
 太平洋に突き出る岬にたどり着いた時、どれくらいの時間が過ぎ
たのか、感覚ではわからなかった。波がクロスしてしぶける荒海を
座ったままぼんやり見つめていると、
「ほい」
 メットを外した寛史が、手を差し伸べてくる。当たり前、と言う
ように。
 私も、その手を取った。ずっとくっつけていた背中のぬくもりが
残り、身体が自分だけのものではないような気がしていた。
 テトラポットに腰掛けて、いろいろな話をした。ほとんどが軽口
混じりのバカ話だったけれど、進学や就職のこと、それなりに真面
目なことも交えながら。
「しばらくはフリーターさ、俺は」
 あ〜あ、と天を仰ぐ横顔に、
「それで、お母さんは文句ないわけ」
「いいんじゃない、それは。何があるのか、わからんしね。元気で
やってくれるのが一番だからさ」
 少し目を細めて言った、穏やかな響きが不思議だった。少し、意
味が取れない言葉――でも、星が輝き始めた空を仰ぐ顔立ちは……、
今まで見たことがない、静かで滞るところのないものだった。
 そして私も、暗さを増した水平線を見つめていた。
 身体の奥から上がってきた言葉に、私は手を握り、少し身体を固
くしていた。
 もっと、一緒にいたい。こいつと。一つ一つの言葉、態度、そし
て、考えている先。こんな奴はいないんじゃないだろうか。軽くて
適当なように見えても、寛史の見ている場所は、遠いところにある。
 きっと、間違いない。それは、私が考えていることと、とても近
い。
 もっと、いろいろなことを聞きたい。そして、私のことも……。
「……そろそろ、帰りますかねぇ」
 寛史が顔を上げて呟いた時、私は、心の中で首を振っていた。
 ダメだ。きっとそれは、代わりだ。今日、こんなに楽しかったの
も、ずっとあった重苦しさが軽くなったからだ。
 でも、続けて口から出た軽い言葉に、私の気分はかき乱されてい
た。
「これ以上遅くなると、『ご宿泊』になっちゃうんもんなぁ。どう
美佳姉御。メシくらい、食ってく?」
 冗談だって、口調からすぐにわかる。でも、一瞬よぎったのは…
…夜通しこいつといられたら、話せたら、どんなにいいだろう、と
いうこと。
 少し考えた後で、言っていた。
「うん、いいよ、食べてこうか」
 中腰になって、一段高いところに立った寛史に、自然と手を伸す。
そして、暖かくて固い手が触れた時、思わぬ言葉を繋げてしまって
いた。
「寛史がよければ、もっと付き合っちゃうよ。それこそ、夜明けの
海、一緒に見ちゃうのでもねえ」
 止まった瞳と、いつもは笑った口の端が引き締まり、握られた手
が、ギュッと包み込まれる。
 でも、すぐに、
「冗談。からかうのはおよしになってね〜、美佳姉さん」
「ははは、やっぱ?」
 目を逸らして、先にフェンスから飛び降りた時、どうしてか、や
るせない気分が目一杯になって、バイクへと一直線に足を速めてい
た。
 何言ってやってるんだ、私は。寛史だって、迷惑だろうが。こん
なオンナ。
 胸が苦しかった。好きとか嫌いとかじゃない。何もかもが遠くに
行ってしまうような……。
「美佳姉さん」
 その時、大きな声が背中を私を呼び止めた――そういう風に、聞
こえた。いつもの高い声ではなく、低く、強く、はっきりした響き
だった。
 ゆっくり振り向くと、まっすぐに言葉が飛び込んでくる。
「いいのか?」
 見つめた目の中には、真剣な色だけがあって、私は頷いていた。
それは、身体を合わせるってこと……。
「うん、いいよ」
 今、寛史と、こいつと一緒にいたいのは本当だから。それは、嘘
じゃない。だから、構わない。
 ううん、きっと、そうして欲しいって、思っている。
 あっけなくくぐったホテルのゲート、何だかずっと、気恥ずかし
いような気分だった。
 何を話していいかわからない。先にシャワーを浴びて、ベッドで
待っていたけれど、どうにも妙な感じだった。
 今日の今日まで、寛史とこんなことになるとは、ほとんど思って
いなかった。ただ、いつかの夜、少しだけ、考えたことはあったっ
け……彼が恋人だったらどうだろう、と。
 髪に手をかけられて、目を閉じた時も、座りが悪い感じが抜けて
いかなかった。
 柔らかいキス。
 巻いていたタオルを落として、胸を包み込んでくる手の平。
 そして、間合いをはかるように動く舌先。
 無言で行われる愛撫は、優しくて、寛史が充分に「こういうこと」
を知っているとわかるものだった。それは、何度か話した感じから、
経験があるとはわかっていたけれど……。
 でも、すごく、気持ちがいい。
 手の平が、乳首をさすった時、背中に軽い痺れが走って、息が漏
れそうになってしまった。そんなことは、初めてだった。
 いつも、がつがつと捏ねくられることしかなかったから――。
 ちょっとびっくりして、胸を押して身体を離すと、目が合ってし
まった。黙って息遣いばかりを聞いていたけれど、瞳の中には、い
つもの感じがあった。真剣になり切っていない、すかして笑った色
だ。
 だよね。この雰囲気は、ちょっと違うよね。
 自然に笑いが漏れると、寛史にも伝わったようだった。クスクス
クス、と二人でしばらく笑う。
「……寛史、上手だ」
 普通は絶対に言えないようなことを、自然に口にしていた。
「だてにピンクボンバーとか言われてないよね、マジ」
「あ、ひでぇ。だから、そんなんじゃないって」
 クラスで男子が言っているあだ名を投げると、さすがに眉を顰め
て、唇を歪める。とは言っても、それはいつも通りの、少し芝居が
かった気のおけない調子だった。
 胸をさらしたまま、裸のままで肩を並べて、思う。
 そうだよ、私らは、そういうんじゃない。「好き」とか言いなが
ら、ここにいるんじゃない。きっと、亜矢たちなら、違うんだろう
けれど。
 夕方まで一緒だった「カップル」二人が自然に思い浮かんで、呟
いていた。
「ねぇ…」
「ん?」
「あの二人も、今ごろラブラブかなあ」
 瞬間、触れた裸の肩が、びくっと揺れるのがわかった。
 あ、いけない。何言ってんだ、私は。
「……あ、ごめん…」
 寛史の気持ち、知っているはずじゃないか。今はもう、それほど
気持ちがあるわけではないかもしれないけれど。
 でも、彼の言葉は、肩の力の抜けたものだった。
「たく、ひでぇなぁ。美佳姉さんは」
 自分の頭を叩きたくなった。言っていいことと悪いことがある。
「ごめんごめん、デリカシーなさすぎだね、私は。ほんと、困った
女だ」
「ああ、いいよ、気にしてないってさ」
 息を吐きながら少し思わしげにする横顔。目の端で捉えながら、
それ以上継ぐべき言葉がなくなっていた。
 ああもう、何でこんなにバサバサしてしまったもんか、私は。
 ……でも、これでいいのかもしれない。
 こんなこと言う女、抱きたくもなくなるだろうし……やっぱり、
その手の感情が行き交う間柄じゃないんだ。
「あのさ」
 じんわりした感覚が散り始めた時、寛史がこちらを向いて、言っ
た。
「……いいのか、美佳姉さん。ホントに」
 突然の言葉に意味が取れず、目を上げると、彼は続ける。
「だってさ、美佳姉さん、今……」
 唇が「た」の字を作りかけた時、何を言おうとしているのか、わ
かった。
 歯が口腔を閉ざし、寛史は目を逸らした。
「……あ、わりぃ」
 横顔を見ながら、思う。そうだよ、寛史ならきっとそれを考える。
まったく気がいっていなかった。ほんと、なんて勝手な女だろう。
 大丈夫、寛史、私のはそういうことじゃないから。
「いいよ。あいこ、ってとこでしょ?」
 まだ俯いたままの寛史は、自嘲気味に言った。
「はは、まったくだ。バカだわ、やっぱ俺」
 ピンと指でおでこを叩いた様子に、目を閉じて心で息を吐く。似
たもの同士だ、私たち。ごちゃごちゃいろいろ考えて……。
 先生との間について、何かを言おうかとも思った。でも、それは、
今、言うべきことじゃない。それより、とても寛史を身近に感じて
いた。
 ――それがあの、熱を帯びた感情じゃなくても、いい。
「寛史」
 膝に手を置くと、肩を引き寄せられた。どちらから唇を合わせた
かなんて、わからない。
 ただ、グッと抱き締められる感覚と、愛撫の優しさが身体を覆っ
て、声を上げないでいるのが精一杯だった。
 ゆっくりと身体を辿る手の平と指先。
 寛史の逞しい中心を握っていると、激しい情動が襲ってきて、ど
うしようかと思うほどだった。
 こんな風に抱き締められたことが、あったっけ……。
 でも、重なるイメージはかすかなものでしかなくて、私はもう、
翻弄されるだけだった。
 彼を、気持ちよくしてあげないと……そう思っても、ついていか
ない。それどころか、一番敏感な場所を、くすぐったいように探ら
れて、指が入り込んでくると、膝が引き締まって、小さな波が大き
な震えに変わろうとしている。
 声が出かけて、太ももを閉じ手首を抑えた。
 激情せずに見下ろしてくる、少しの笑みを残した目の色だった。
「いいよ、美佳姉、俺が……」
 それは、ダメだ。自分だけでなんて、絶対、感じられない。
「……寛史、全然まだでしょ?」
 太ももに当たる、とても逞しい感触……それ以上言うのが、恥ず
かしかった。
「一緒に……、ね」
 その瞬間、強く抱き締められた。背中から腰まで痛いほどに。
 すごい力……うん、寛史。
「感じさせたる、美佳姉。一緒に、イこう」
 頭が真っ白になった。後は、もう、吐息を漏らして、唇を合わせ、
必死に寛史が「昂まって」くれるのを待っていた気がする。
 そして、身体が割られて、ずっと手に握っていた彼の分身が入っ
てきた時。
 何も繕わず、身体の中心が熱くなるのがわかった。
 嘘、ダメ。
「あ、いい……」
 声が漏れかけて、足の先に力を入れた。けれど、動きは止まらな
い。抱き締められて、激しく出入りする感覚が、全部になる。
 今まで知らなかった、何か。
 はあはあ、と息がもれ続け、高い声が混じってしまう。それは、
まるで自分の声ではないようだった。
 うわごとのような言葉がついて出て、どんどんと追い詰められる。
 もう、抑えがきかない。
「もうダメ、イコ、寛史。わたし……」
 足で腰を押し付けたとき、心の中で叫んでいた。イって、そのま
ま、私も――――。
 そして、爆発。
 目の裏で、耳の中で弾ける閃光が、火花を散らしながら身体の隅々
に広がっていく。彼が到達してくれたのか……しばらくはわからな
かった。
 崩れ落ちた吐息と共に、少しだけ膣内で震える余韻が、それを教
えてくれた。
 そして身体が離れた後、もう一度、身悶えしたくなるような痺れ
が背中から上がり、唇を噛みしめた。
 目を閉じたまま、解けていく感覚に鼻で息をつくと、「終わった」
後にいつも感じる不快さはどこにもなく、柔らかな感触がくすぐっ
たかった。
 あったかい、なぁ……。
 横で動く気配に目蓋を上げると、汗の光る背中を見せて、いつも
の顔が笑っていた。そして投げ合った、適当な言葉。何も変わらず、
ただ裸でいるだけ、そんな感じで。
 抜けるように気が楽で、寛史がバスルームに入った後、独りでに
頬が緩んで笑いが漏れるのを、どうしても止めることができなかっ
た。

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