第五章 恋するカラダ

 今ならば、寛史と私の関係を、こんな風に言うのかもしれない。
「セックスフレンド」と。
 でも、あの頃の私たちには、自分たちの間柄を言い表す適当な言
葉が見つからなかった。
「俺たちさ、似たもの同士だよな」「まったく、そうだよね。思い
っ切りけがれてるし」「だよなぁ。不純異性交遊そのもの」
 「終わった」あと、裸のままで笑い合ったのを憶えている。
 思い出すと懐かしい……いや、どこか、ついこの間のような気さ
えする。

 その朝は忙しくて、バタバタしていた。模試が終わったばかりで
何もかもがとっ散らかっていて、用意しようにも、私服から小物入
れまで、見つけるのが一苦労だった。
 それでも、何も気を遣わない、というのもあいつに悪いと思う。
 このところの不精で肩に掛かりかけた髪を分けて、青い髪留めを
つけた。鏡を覗き込んで、うう〜ん、やっぱりすっぴんだと……リ
ップだけはつけて、待ち合わせの場所に向かった。
 寛史と「デート」をするのは、これで何度目かだった。
 あの夏の夜から、時々こうして会うようになった。私の方から、
「お茶でも飲みに行く?」と電話する時もあったし、「姉さん、息
抜きどうよ。計算ばっかじゃ、『ドモアリガット』になっちゃうぜ。
ドモドモ〜」と、今日のように寛史から誘ってくる時もある。
 待ち合わせは、今日も街の真ん中の書店でだった。格好つけて、
駅前の花時計のところ、とか、最近できたツインタワーの喫茶店と
か、そういう約束をしたことはない。
 寛史がマンガを読んでいる所を、「よっ、ゴメン。待った」がい
つものあいさつ。
 一緒に歩けばおふざけばっかで、一番気のおけない友達、という
感じ。それがいいし、私たちはそんなだと思う。
 ただ、最後にすることが、ただの友達とはちょっと違っているだ
けで……。これでいいのかな、と思う時もある。でも、だからと言
って、「恋人」らしく振舞えるだろうか。
 初めてのあの時にも思った。寛史がシャワーを浴びている間、ほ
っと息を吐くような、心が広がったような気持ち。それは、「好き」
とかいう強い感情ではなく……。
 今日観た映画は、友達の間でも話題になっていた、例のやつだっ
た。再上映されているのを、寛史が目ざとく見つけてきたのだ。
「一緒に笑おうぜ〜、美佳姉さん」
 そりゃ、いくらなんでも酷いんじゃない?――さすがにそう返し
たけれど、見終わってみると、寛史の言う通りだった。
 純愛ファンタジーとは名ばかりで、実際はお笑い狙いじゃないだ
ろうか。真雪だったか、「泣いちゃって、もう、ボロボロ」と言っ
ていたけれど、ちょっとそれは違う気がする。
「最後、顔でかすぎだよなぁ、スウェイジ。あれ、傍から見たら…」
「…一人で演じてて、変な奴だよね」
 細い目の中に笑いを浮かべた寛史に合いの手を入れると、
「ついでに、あの女霊媒師だったけ? ダンスするところ。浸って
るけど、実際の状況考えると……」
「姉さん、人悪〜。でも、絶対、狙ってるよ。だってさ、意識させ
てるもんなあ、あれ」
 マックのセット一つを二人でつまみながら、今日の感想を話し合
うことしばらく。
 結論は、「この感想はあんまり人には言わない方がいいかもね」
だった。中には真雪みたいに入れ込んでる子もいるんだし。確かに
きれいな夢と思えばそう言えない事もないんだから。
 そして、アクセサリーを見ながらの軽いウィンドウショッピング、
それからレコード店へ。「これ、どう?」花柄のカチューシャを見
 ▼
せると、「おおっ、俺好み」――スポーツ刈りの頭につけて、「ど
う、似合うぅ?」
 レコード屋では、ガンズンの新譜を見ている私に、吉幾三のカセ
ット見せてくるし。『酒よ』って、この年からそんなの聞いてどう
するのよ。ホント、冗談なんだか本気なんだか。
 でも、楽しかった。バカ笑いしながら遊歩道を歩いていると、知
り合いに出くわして、「なになに、あんた達、まさか」
「はは、違うって。俺は美佳姉さんのセキュリティガード。ただ、
お忍びゆえ、他言無用でお願いしますぞ」
「たく、私は姫様かって。あのね、今日はたまたま――」
 何もかも簡単で、気がおけない。
 夕暮れが近くなって、長袖シャツにジーンズをはいただけの姿を、
斜め後ろから見ていた。
 私より背は低いけれど、決して華奢ではない背中。刈り上がった
首元は太くて、がっしりしている。
 格好いいんだよな、結構。気付く女子はいないのかな、彼氏にす
れば悪くないと思うんだけれど。
 言葉にして、何考えてるんだろう、心の中で首を振った。今一応、
「デート」しているのは私だって言うのに。
 と、振り向き見上げた寛史が、瞳の動きを止めて一瞬――そして
茶目っ気らしきものを目の中に浮かべて、肘を張った。
「どうぞ」
 こいつ。ちょっと小憎たらしい気分が湧いてきたけれど、私はす
んなり腕を滑り込ませていた。
 身体を寄り添わせたまま、人通りの少ない街路を歩く。少し風が
冷たい。ポロシャツ一枚じゃ、薄着過ぎだったかもしれない。
 組んだ腕から温かみが伝わってくる。もう、五時。ずいぶん、日
が暮れるのが早くなった気がする。今日はこのまま、帰ることにな
るのかな……。
 駅向こうのホテル街を見遣って、まったく、と思う。何考えてい
るんだか、私は。
 いつもいつも、サカリのついたメス猫じゃあるまいに。
 でも、駅前の駐輪場の前までくると、組んだ腕を解いた寛史が、
少し所在なげに立っていた。駐輪場のスロープを上がりかけた私は、
その俯き加減の表情に、自分から言っていた。
「どうしよ、寛史。あのさ、私、あと少しくらいオッケーだけど」
 顔を上げた寛史は、視線を合わせないまま、
「……じゃ、ちょこっと、休んできますか」
 急に茶目っ気混じりにした様子が、何か普段とは違い、くすぐっ
たいような印象を残した。
 私が頷くと、少し先に立って歩き出す。今度は、つかず離れず、
早足で。
 頭の中がぐるぐると回り始めて、歩き過ぎていく人の中で、自分
だけが異様なことを考えているような……。
 これでいいのかな、寛史とわたしは。
 教科書じみた問いかけよりずっと、そんなこと考えても仕方ない
よ、今は――その言葉の方がずっと説得力がある気がして、私は何
度目かのホテルのドアを開けていた。
 そして、デートの後の、いつも通りの。
 黙ったままのキス、胸に添えられた手、強く引き寄せられた腰。
 私も、寛史の腰に手を回すと、後は湧き上がってくる感覚に身を
任せた。

 十月も半ばになり、一日の行動の殆どが「受験」へと収められて
いく日々が続いた。ようやく返ってきた模試の結果は予想より遥か
に良好で、受け取ってしばらく、私は判定結果を眺め回してしまっ
ていた。
 英語も、国語も、世界史も偏差値六十以上をキープ、苦手の数学
もまあまあ。
 外語大、教育大……、志望大学の判定はどれも合格安全域のAか
Bで、お遊びで書いておいた私大は、上智・早稲田あたりでもBか
Cが出ていた。
 試験結果の順位表を見せると、母は手放しの嬉しがりようで、階
下からの話し声に、「そうなのよ、頑張ってくれてねぇ」なんて、
自慢込みのフレーズが混じり聞こえてくる。
 頭全体がじんわりとしていた。今日は、机に向かっても何となく
別のことに連想が移って、壁に貼ったポスターをぼんやりと眺めて
みたり、玲子から貸してもらったレニー・クラビッツのアルバムで、
ダルな雰囲気を流してみたり……。
 そのうち英単語とローマ共和制〜帝政への年号がゴチャゴチャに
浮かんできて、夕食まで少し休もうかな、と思う。
 よく頑張ってきたよな、私。それに……。
 いつの間にか、夏頃のスランプを抜け出している自分に気づいて
いた。この頃は中島や亜矢と並びで、順位表の最上段に名前がある
ことが多い。今、こんなにすんなりと受験への道を上っているのは
どうしてなのか、答えは至極簡単だと思う。
「私ね、本当は気が小さくて、引っ込み思案なんだよね。勉強も、
ダメだったし」
 「エッチ」が始まる前に、そして、終わった後に、ざっくばらん
に言葉を飛ばし合うベッドサイド。昨日も寛史は、私の裸の肩を叩
いて、ははは、と乾いた笑い声を上げた。
「またまた、すぐそういうこと言う。美佳姉さんが気弱で「できな
いオンナ」だったら、ウチのクラスの女どもはなんだっての。刺さ
れるよ、嫉妬メラメラ〜」
 軽く「女ども」なんて言う様子に、突っ込みどころも見当たらず、
私は笑い半分のため息をついた。
「ほんとだって、寛史。小学校の頃、いっつも隅の方でイジイジし
て、誰か声かけてくれないかなぁ、って。母親にも、『情けない』
『ダメな子』とかしか言われた事なかったしね」
「ふーん、なるほど」
 裸の上半身を晒したまま、寛史はやけに神妙に頷いてみせた。
「みせている」のが言わなくてもわかる。あ、こいつ。
「……あ、寛史、なんか、ギャグろうと思ってるだろ。やめなよ。
言ったら、もうこれっきりにするからね、私らのカンケイ」
「うぉ、オンナの子が自分からそういうこと言うかな。でも、それ
は勘弁〜。男として」
 そんな馬鹿な言葉を投げ合いながら、二人で一しきり笑い合った。
適当な事を言っているのに、視線を落として、自分で頭をポンポン
としたくなるような感じで……。
 あいつのおかげだ、と思う。こんなに気楽にやれて、今はまっす
ぐに前を見つめることができる。
 寛史も、時折、ポツポツと自分の事を話す。
 年の離れた弟のこと、スナックのママで生計を立ててきた母親の
生きざま、私の知らない「夜」の世界のこまごま……。とにかく、
さっさと働きたいねぇ、進学なんて勘弁。中学の時からわかってれ
ば、付属なんてやめて、工業か商業にしたんだけどなぁ。
 金貯めて、ハワイのノースショアでビッグウェイブ。青春しなき
ゃさ。ビックウェンズデーって映画知ってる、姉さん? そうそう、
十年ぐらい前の。カッコいいよなあ、ジャン=マイケル=ヴィンセ
ント。
 ひと月に二度あるかないかの「逢瀬」。教室では話せない肌蹴た
会話をするたびに、心の中に紡がれていった。
 寛史は、見た目よりずっと大人で、物事の行く末が見えている奴
だ。きっと、私なんかよりずっと。
「まあね、その辺に転がってるような話だけどさ」
 果たして、そうだろうか。小学校低学年の時には姿が見えなくな
ったという実の父。寛史の年を勘定しても、幼い弟の方はその父親
の子ではないことがわかる。そして今は、母親と弟の三人暮らし…
…。ずっと繁華街の端っこで眺めてきた夜の人間模様と、あまり綺
麗とは言えない体験と。
「そういう話、きらいじゃないよ。ぜんぜん気になんかならないし」
 女の子の扱いで話になった時、中学の頃に店に勤めていた二十く
らいの女の子と「付き合っていた」ことも聞いた。
「うわ、ただれてる。やっぱり、ピンクボンバーだね、寛史」
 からかいながら私は、「じゃあ、オッケー? 経験あり、だもん
ね」――そんなことを尋ねてもいた。秘めやかに声を落としながら。
 そして、さっきまでの行為で「達して」いなかった寛史のシンボ
ルを顔を近づけて……。
 初めて間近にする、甘いような匂い。それは、身体を合わせる時
に感じていた香りと、同じもの。
 目を閉じて、喉まで一気に押し込む。頭をゆっくりと動かし、二
つの重みを柔らかく手で包み込みながら、頭のどこかに浮かんでい
る。
 違うな、あの人のと――。
 だから。
 私が誘い込んだ関係だと思う。先生との事がなかったら、寛史と
私はこういう間柄になっていただろうか。好きとか、愛していると
か、そんな関係じゃない。最初の時、感じたように。
 私は、寛史に助けてもらった。あの雨の日も、夏の海辺でも。だ
からこそ、いつか身体が繋がることがなくなっても、ずっと友達で
いたい。話をしていたい。
「……やば、姉さん」
 口の中で幹が震え、先端が膨らむ。
 頭を押しのける素振りに、一層深くくわえ込んで……。喉に跳ね
上がるその瞬間。
 全部を飲み下した後、しばらく脱力していた寛史が、身体を起こ
して照れ臭そうに、それから、細く精悍な顔でこちらを見つめて、
「まだ時間、あるかな? お金もったいないしさ、もう少し……ど
う?」
 その時私は、少し考えてから答えていた。
「うん……、いいかも。もう一ラウンドって感じ?」
 寛史の手が、肩に触れた。軽口返しでからかい混じりな細い瞳の
中に、硬い光が見えて、
「寛史」
 頭を預けると、首筋にキスをくれる。じんわりと、寛史のシンボ
ルを口にしていた時から広がりかけていた感触が、強さを増してい
く。
 今だけは……。
 身を任せていた。一緒に感じる、その瞬間。激しい吐息と、身体
の中を埋めた昂まりが全部になって、普段なら言えない言葉を叫び
ながら尽きる、熔けるような熱い時。
 気がつくと、ずっと触っていなかったギターを取り出していた。
 指を添えかけて目を伏せる。ああ、なんだろう、この気持ち……。
 胸が重いようで、でも、全てがあるようにあって、落ち着いてい
るような。
 でも、これでいいんだ。きっと、寛史との間も。
 一度だけ弦に指を落とした時、ドアの向こうから声が響いてきた。
「美佳、ご飯。下りてきなさいよ」
 私はギターをベッドの上に投げると、大声で返事をした。
「今行く」
 まだ、あいつの声が耳に残っている気がした。

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