第六章 暮れゆく心

 時の歯車は回転速度を上げて、またたく間に次の季節へと針を動
かす。
 三年の秋から冬への日々は目まぐるしくて、一つところに視点が
留まる事がなかった。ただ、日々問題集と参考書のページをめくり、
ノートに向かう印象だけが打ち続いている。
 冬が入り口に差し掛かった頃、思わぬニュースを聞いた。
 あの男――多嶋先生が、転属になったという。県中部にある、付
属商業へと。
 学年途中での移動なんて、滅多にあることじゃない。クラスを持
っていなかったとは言え、学校ではひとしきり話題になった。
 受験体制になって直接授業を受けることがなくなっても、時折噂
は耳にしていた。
『多嶋の奴、最近ますます適当になってるよな』
『お前らに教えると疲れるんだよ、だぜ、いきなり。俺らの方が疲
れるぜ、あんなオタク野郎の顔見てると』
『なんか、肩の後ろから見てるんだよね。絶対、ムネ覗いてるよ、
あれ』
 いい話はほとんど聞かなかった――それが、移動の理由なのかは
わからないけれど。
 少なくとも、授業にだけは手を抜くような人ではなかった。やは
り、私とのことが大きな理由だったとしか思えない。
 嫌でも振り返らざるを得なかった。
 ――私は、あの人の前に立ち塞がってしまったんだ、自分からそ
うするつもりはなくても。
 このことについて話せる人間は、あいつの他にいなかった。私と
多嶋のことを知っているのは、寛史だけだったから。
 本当は黙っていようと思っていた。こういう想いは、自分だけの
胸にしまっておけばいい。
 それなのに、まったくどうしようもない女だ、私って奴は。
 冗談話をしている内に、ついつい口に出してしまった。その時、
寛史は大して真剣になるでもなく、まったくなぁ、という調子で眉
を上げて見せた。
「そりゃまあ、姉さんのせいもあるさ。でも、そんなんなるっての
は、結局本人の本質ってもんだと思うよ、俺は。早い膿出し、ラッ
キーってとこ? あ〜、多嶋センセは三十か」
 私をかばうでもなく、あの男を責めるでもなく。いつもと変わら
ないひょうひょうとした表情に、少し寂しいような気がしていた。
 でも、その感情がなんなのかは、よくわかっている。
 先だってまでの会話はまったく気にせず、「また五教科ベスト3
だって? いやぁ、たいしたもんだ、姉さんは」――。
 自分に対する思い込みの感情をもてあそんでどうするのだろう。
いつも通りでいい。時々こうやって話せることが何より楽しいんだ
から。
 ただ、そんな出来事も時に追われる日々の一コマでしかなかった。
 本当のところは、あの男が学校からいなくなってとてもホッとし
ていた。いつもどこかで「また何かが……」と怖れていたから。こ
れで、本当に勉強に専念できる。――いや、もう誰にも邪魔なんて
させない。実体のない感情をあっちこっちするなんて、まっぴらご
めんだ。
 「その日」へ向けて、時計の針はどんどんと動いている。
 亜矢と受験対策を話すようになったこのごろは、図書館隣の自習
室で、日課のように赤本の過去出題をつき合わせている。
 亜矢はと言えば、森島との付き合いを続けながら、自分の勉強に
も怠りがなかった。もちろん、三年までが参加する『第九』演奏会
への合唱練習も欠かさない。それでいて、いつも学年順位はトップ
クラスだった。
 亜矢のような奴を、「本当にできる人間」と言うんだろう。
 彼女と教え合いながら進めるようになって、自信がついた気がし
ていた。私には一度に多くのことをこなす才覚はないけれど、勉強
では亜矢を好敵手と思っていたい。
 いつも、森島と帰っていくコートの背中は嬉しそうに踊って見え
た。
 少しでも彼氏に近づきたい、真剣でいたいと言っていた亜矢。私
にあんな後ろ姿を見せることができるだろうか? 本当に、羨まし
いくらいの……うん、そうだ、私にはどうやっても届かない場所だ。
 寛史の気持ちがわかる気がする。中学の頃からずっと、この二人
を見てきたんだから……あ、そう言えばあいつ、明日は来るんだろ
うか。
「美佳、三時開場だから、よろしくね」
「はいよ。もう、クラシックで息抜きなんて、ぜいたくだよなぁ。
私ら」
 ずいぶん先だと思っていたものが、いつの間にか第九の演奏会は
明日だ。
 市のオーケストラのバックで、ウチの学校の生徒が中心で合唱を
担当する二学期唯一のイベント。この時ばかりと、ほとんどの三年
生が市民ホールに集まってくる。
 寛史とはしばらく話していない気がした。このところ、あいつは
学校を休んでばかりいる。受験体制一色になった学校には、居にく
いんだろう。
 時々電話はくれるけれど、長話はしない。たぶん、私に気を遣っ
ているんだと思う。
 学校で亜矢も言っていた。
「寛史君、いる場所ないだろうね。美佳、ちゃんと会ってる?」
 どうかなぁ、とぼける私に、
「ダメだよ。寛史君にもチケット渡してあるからね。間違いなく来
ると思うよ、彼。第九だけは昔から聞いてみたい、って言ってたか
ら」
 ――会うってことも大切だと思うよ、気持ちだけじゃ、ね。
 亜矢らしい心配の仕方だった。そんな間柄じゃないよ、彼女に言
う事もできたけれど、詮無いことだ。だいたい、何て言えばいい?
 ベッドは共にするけど、恋人なんかじゃないよ、どっちかって言
うと、友達。
 そんなことを言えば、亜矢は卒倒するか、凄い勢いで噛み付いて
くるだろう。ダメだよ、そんなことをしてると。身体は、ちゃんと
した間柄の人同士で求め合わなきゃ。
 ちゃんとしてないわけじゃないんだけどさ、寛史と私は――いや、
違うか、やっぱりいい加減なのかもしれない。
 子機を持ち上げて、押し慣れた番号に指を走らせる。呼び出し音
が鳴り続けて……出ない。
 何日か前にも電話したけれど、出なかった。学校も……ここ三、
四日休み続けだったはずだ。私も模試で一日空けたから、一週間は
声さえ聞いていない。
 仕方ないか。亜矢の言う通り、さすがに明日は顔を出すだろう。
 できるだけ時間を取るようにしよう。話したい事もあるし。親に
も適当な言い訳をしておいて……。
 私は、持っていた子機をベッドの上に投げた。

 最前列で間近にするオーケストラの演奏は圧倒的だった。ライト
を黄金色に乱反射する舞台の上では、幾度ものクライマックスが築
かれ、大きな波が耳と心をさらっていこうとする。
 でも、全ての意識が演奏に持っていかれることはなく、ずっと一
つのことが気にかかり続けていた。
 楽章の切れ目の度に後ろを向いて、見慣れた影を探すけれど、寛
史らしい姿は見えない。第三楽章が終わっても、あいつが来た様子
はなかった。
 まったく、そんなに居心地が悪いってこともないだろうに。こう
いうイベントなら、同じ三―Cの一員だもの、別に誰だろうと関係
ない。
 少しだけむしゃくしゃした。まったく、マイペースなんだから、
あいつは。
 それでも、第四楽章の中盤、亜矢たちが歌い始めてからの展開は
とても豊かで、私は弦と管、独唱と合唱の織り成す深い旋律に、心
を奪われていた。
 この歓喜は、多くの人の喜び。個人の喜びではなく、苦難に打ち
勝つ強き者達の喜びの頌歌――パンフレットに書いてあった言葉の
意味が、実感できる気がした。
 演奏が全て終わった後、他の女子達と一緒に亜矢や涼子達を囲ん
で、しばらくはしゃぎ合っていた。
「ああ、もう、終わったぁ、って感じかな」
 涼子がまん丸い目をさらに見開いて伸びをすると、亜矢もクスク
スと笑う。
「ホント、ね。でもねぇ、これからが本番のスタートと思うと……」
「とと、亜矢。それはナシね」
「ああ、ごめん。今日は、無礼講だもんね、これが最後の」
 こら、それを言わないっての――結い上げた髪と秀でた額、端麗
な顔でボケを言う亜矢に突っ込もうと思った時、突然ドレスの腕が
差し上げられ、パラパラと手が振られた。
 大きな瞳が私に目配せをする。……え?
 後ろを振り向くと、茶色のジャンパーを羽織った背の低い男が、
片手をズボンのポケットに突っ込み、こちらを背中に歩み去るとこ
ろだった。
 あ、寛史。いつの間に。
 人垣の向こう側で私の方に視線がくれられ、軽く手を上げる。そ
してそのまま、スタスタと出口の方へ歩いていってしまった。
 ちょっと、寛史。
 みんなにごめん、と背を向けると、人の間をぬって、ホールの外
へ出る。ツンツンした短い頭を見つけたのは、大階段を下りかけた
ところでだった。
「寛史、ちょっと待ってよ」
 私の声に気付くと、寛史はこっちを見上げて立ち止まった。なん
 ▼
てことはない、いつも通りの表情だった。階段を下りて近づくと、
いきなり外の風が背中に吹き付けた。冬の夕暮れの風だ。
「……うわ、やっぱり寒い」
「美佳姉」
 どしたの、という感じで寛史はそのまま立っている。私は言葉を
継いだ。
「そんなに急ぐの? 私、もうすぐ終わるからさ」
「そうだなぁ……」
 一瞬考えるような表情が浮かび、すぐ高い声が返してきた。
「そんなには急いでないけどさ。お、もしかして、寂しかった? 
しばらくご一緒してなかったしさ」
 このぉ――私は、口元にからかいを浮かべたいつもの顔を睨みつ
けた。まったく。
「バカ。そんなんじゃないでしょ。そそくさ帰って、甲斐がないじ
ゃない」
「それは、申し訳もなく。で、どれくらい? 待たせたら帰っちゃ
うからな〜」
 本当に相変わらずの寛史だった。私は亜矢達のところに急いで戻
ると、「野暮用できちゃったよ。お先、失礼していい?」
 置いてあった荷物とコートを取り上げた時、亜矢が腰を屈めて囁
いてきた。
「美佳、いつもツンツンしてちゃだめだからね。たまには可愛いと
ころも見せないと。寛史君、待ってるよ」
 まったく、亜矢は。あんただって、森島の奴を待ってるんだろう
に。
「オッケー、オッケー。あんたこそ、頑張りなよ」
 私は亜矢の背中を叩くと、市民ホールを後にした。
 階段を下りると、噴水の周りに置かれたベンチで、寛史は待って
いた。間髪入れずいつも通りの軽口を投げ合って、私たちは歩き始
めた。特に目的地なんて決めていない。ただ二人で並んで、ぶらぶ
らと公園内を行き来するだけだ。
「学校、あんまり休みすぎるとヤバイんじゃないの、寛史」
 聞いた私に、寛史はどうってことねぇよ、と指を折って見せた。
ひい、ふう、みぃ、あと十日は休めるねぇ、と。
 世間に出てしまえば、成績なんて関係ないのさ。高校出てるか、
出てないか、それだけ。大学って言うと、少しは違うんだろうけど
ね。
 こういう話をする時、寛史は私なんかよりずっと大人に見える。
一方で、とりあえずフリーターでぶらぶらさ、なんてことを言って
いるくせに。
 腕を組んでいると、暖かかった。夕闇に落ちた木々の上で、風が
鳴っている――ずいぶんと寒いはずなのに、何だかホッとする。い
つも通りの、寛史と一緒にする感覚だった。
 歩き始めてしばらく、私の横顔を伺うのがわかって、それから、
「おめかしじゃん、今日は」
 三つ揃えとメイクした出で立ちに話を振ってくれた時、嬉しかっ
た。今日出てくる時、少しだけ考えていたから。こういう場だし、
もしこいつが来るなら、驚かせてやろうかな、と。
「寛史のため、ね。ちょっとは魅力、感じる?」
「ってなぁ。俺が来るなんて知らなかっただろ、美佳姉さんは」
 そうかもねぇ――身体を寄せた時、亜矢の台詞を思い出していた。
『たまには可愛いところも見せないと』
 いいよね、ちょっと華やいでみたって。こいつの前なら、今だけ
「恋」してみても――私も、少しは女の子なんだから。
 それからも、ざっくばらんに言葉を飛ばし合った。クリスマスが
近い中央公園はカップルの姿が目立つ。私たちも、離れたり、くっ
ついたり、暖かい飲み物を飲んで、空を見上げてみたり。
 そして、くねくねと曲がる遊歩道を抜けて公園の東端までやって
きた時、寛史の背中が不意に止まった。
 下りのスロープになっている丘のふもとに、駐車場がある。寛史
が見ているのは、その前に立っている四角い建物だろうか。
「どうしたの?」
 聞くと、んん、生返事をする。さっきまで軽い会話を続けていた
時とは違って、何か考えているような様子だった。
「体育館だよねぇ、市の」
 斜め後ろで横顔を目に映しながら、話し掛けてみた。
「私、一度軽音のコンサートで来たことがあるよ、ここ」
「へえ、そんなのにも使うんだな、ステージないのにな」
 やはり、気の入っていない返事。何だか、あまり見たことがない
ような表情をしている――遠くを見ているような……。
 昔、軽音で利用した時のことを話そうと思って、気がついた。そ
うだ、寛史は。
「ああ、そうか……。寛史、ここで試合してた? 卓球の」
「んん」
 こちらを見ないまま、さっきより強い調子で頷く。そうか、寛史
は卓球部の副部長だった。
 動かなくなった足元にしゃがみ込むと、見つめる先に私も視線を
合わせる。少しだけ、無言の時間が過ぎた。
 一度、寛史の顔を見上げた。唇を軽く結んで、穏やかな目で見下
ろしている。知らない表情だ――いつも、何かにつけてくるくると
変化する顔しか見たことがないから……。
「ちょっと、付き合わん? 姉さん」
 頭の上から声が降ってきた時、私は素直に頷いていた。寛史が何
かを見せてくれようと思っている。異論があるはずもない。
 連れられて入った体育館は、淡い光で覆われていた。観客席への
階段を上がってくると、ボールの弾ける音と、掛け声が聞こえてく
る。
 フロアーを見下ろせる場所までやってくると、どこかのバスケッ
トボールのチームが、ミニゲームをしているのが見えた。
「久しぶりだわ、ホント」
 椅子の間を下りながら、寛史が天井を見上げる。私は黙ったまま
後ろに続いた。
「試合で春夏秋、毎年三回はきてただろ、しかも、中坊の時から。
やっぱり、馴染んでるってのかなぁ」
 返答を求めない、独り言のような言葉――寛史はゆっくり観客席
の一番前まで下りてくると、鉄のバーに腕をかけて、フロアーを見
下ろした。横に並んで言葉を待つ。でも、黙ったまま、何かを考え
ているようだった。
 落とした視線から、静かに吐く息が聞こえる。私は、前を向いた
まま口を開いた。
「あんまり残れなかったんだよねぇ、夏の大会」
 寛史は、ははは、と笑って、
「あんまり、どこじゃないって。殆ど全員、予選リーグで敗退だも
んな。まあ、もともとそんなもんだけどね、ウチの部は」
 さばけた調子で言った。悔しそうな感じは少しも見えない。
「で、副部長は?」
「二回戦敗退。一応、面目は保ったってとこかな」
 また、はは、と笑う。
「ま、頑張った方なんじゃないの、文化系運動部にしては」
 私は軽い言葉で返していた。
 でも、鼻で笑って頷く表情の奥で、何かが流れていた。私は黙っ
たまま、寛史の横顔を視界の端にしていた。ぼんやりとバスケット
の練習を眺め続けている、色の少ない表情。
 そう言えば、一度だけ何か、思い出す気が……。
『何考えてんだよ! 先生』
 甲高い声が脳裏に響く。
 そうだ、思い出した。二年生になり立ての時、職員室で先生に噛
み付いているのを見た。相手は、岩田……当時の卓球部の顧問だ。
『真面目にやってる奴もいるんだよ。やたらに入部認めりゃいいっ
てもんじゃないだろ!』
 ――こら、安部、先生になんて口のきき方だ。
 他の先生から諌められて、捨て台詞を残して職員室を出て行った
背中……そうだ、あれは寛史だった。
 私は後ろに下がると、座席に腰掛けた。寛史も、横に並んで座る。
「ずっとやってたんだよね、卓球。中学の時からさ」
 一つだけ問い掛ける。さっき言っていた事を確認するように。
「一番向いてたからさ、俺には。やっぱりね」
 寛史は軽く言葉を返した。私は頷くと、それ以上は聞かなかった。
 いくつかの言葉と記憶が頭の中で回り、形を作る。私は、誰もい
ない観客席を見つめながら、思い巡らせていた。
 きっと、寛史にも「やりたいこと」があったに違いない。それが、
卓球だったのかは確かではないけれど……。中学校の頃、野球部の
エースだった森島に憧れていたという話を聞いた。その時、寛史は
どんな想いだったんだろう。
 誰だって、夢はある。目指したいものはある。当たり前のことな
のに……。
 私は、一つの言葉が出かけて、口をつぐんだ。亜矢とのことを聞
いた時、勝手に三角関係を思っていたけれど……本当は、寛史は森
島の方にもっと憧れていたんじゃないだろうか。
 浮かんでくる言葉。
 寛史、本当はやりたかったんじゃないの? いろいろと、思いっ
切り。大丈夫、辛くない?
「寛史、あのさ……」
 自然に口が動いていた。寛史がこちらを向く。いつの間にか、普
段通りの、少し人を喰ったような表情に戻っていた。
「……ううん、いい。何でもない」
 とっさに首を振る。聞いてどうなるだろう。寛史がしたいこと、
なりたかったもの……私が無理に手を触れてどうする。
「何、美佳姉。気になるなあ、途中で止められると」
 茶目っ気に溢れた聞き方だった。私は改めて首を振る。
「ううん、いい。大したことじゃないから」
 私は大バカだ。さっきまでのつらつら歩きの間、気分だと思って
いたものが、いつの間にか本気になっている。すんなりとフロアー
を見つめる寛史。私にわざわざ終わった事をみせてくれたのは、そ
れだけ気楽に思ってくれているから……。そんな無理な思い入れの
ためじゃない。
「ねえ」
 またしばらく無言の時間が――さっきよりずっと軽い感じの時間
が過ぎた後、私は自然に聞いていた。
「ん」
「寛史と私ってさ、付き合ってるってことになるのかなぁ」
 ふふ、目が笑った後、寛史は天井を見上げた。
「そんなの、どうでもいいよ、言葉とか。これでいいじゃん、美佳
姉と俺は」
 ほぼ思った通りの答え。私も笑い混じりに息を吐いた。
「そうだね」
 少し渦巻きかけていた気持ち――でも、寛史はそんな取り留めの
ない気分のずっと外側にいる。
「そんなことよりさ」
 細い目をこちらに戻すと、さらっと言った。
「好きだよ、俺。美佳姉さんのこと」
「うん」
 私は素直に頷いていた。そうだね、私たちは。
「私も、寛史のことが好きだよ」
「相思相愛か。すげぇな、俺たち」
 寛史はカラカラと笑う。
「はは、ホント。恋人ってわけじゃないのに、相思相愛だって」
 私も笑って、寛史の脇腹を小突いた。眉を上げて、にやりと微笑
み返してくる。
 ……不思議な気分だった。
 きっと、寛史は自分らしい道を歩んでいくだろう。そして、たぶ
ん、私も。
 それでも、いつ会っても、私たちは今と同じように話ができるに
違いない。
 その時私は、確信していた。

 ――今、考えてみる。
 高校の時の私の気持ちを。
 寛史と過ごした日々、あっという間に過ぎ去った一年余りを。
 あの夜からも、私たちは電話や学校で変わらず会話を交わし、時
間があればデートもした。
 数は多くなかったけれど、身体を求め合う事もしたし、それはい
つも楽しいものだった。
「ホント、美佳姉さん、エッチだよなぁ。身を持ち崩さんよう、気
を付けなよ」
 考えてみれば、寛史の言った通りだったような気もする。気軽に
身体を求め合う関係――それが、あいつだったからよかったのだけ
れど。
 二月から三月へ。大学への日々はますます加速度を増して、他の
景色は見えなくなる。寛史と話す機会も、どんどん減っていった。
 でも、試験結果がわかった日、ちゃんと「おめでとう」コールを
してくれたのを憶えている。――いやあ、とんでもないところに入
っちゃったねぇ、美佳姉さん。おいそれとお話もできませんや。
 さっさとバイトを決めてしまって、謝恩会にも出てこなかったあ
いつ。それでも、連絡は頻繁によこしてくれた。
「東京に行った時は、泊めてよな。助かるなぁ、知り合いが首都圏
にいるとさ」
 言ってくれていたのに、結局実現せず終いだったのは、私のせい
だ。
 二年生になる頃から私は、一人の男と付き合うようになっていた。
大学の講義で出会った、十歳ほど年上の助教授だった。
 なんてことはないきっかけから、すぐに誘われて、情を交わす関
係になった。
 断る理由も、特になかった。奥さんがいることも知っていたけれ
ど、たいして問題だとも思えなかった。
 私は、どこかに感情の欠片を落っことした女なんじゃないかと思
う。
 思い返してみても、まったく自分から求めた関係じゃない。多嶋
先生も、教授も、それに……。
 寛史とだけは違ったのかもしれない。でも、よく聞くような熱い
感情があってかと言うと、それもまた、違うような気がする。
 友達の恋愛話は大好きで、縁結びに余分なちょっかいを出すこと
も多いのに、自分はどうかと言えば――。
 結局奥さんにばれて、泥沼の内に別れた二年間の関係が終わって
から、もう男はまっぴらだと思っていた。
 でも、大学を卒業して、ようやく手に入れた働き甲斐のある職場。
洋楽を主に扱う大手CDショップの営業部で出会ったのがあの男だ
った。
 すかした表情に、ざっくばらんな態度。ものにこだわらない様子
に、話しやすい男だなぁ、と思った。音楽の知識も豊富だし、好き
なジャンルも同じだった。
 しかし、それは最初だけだった。
 身体を求められて、仲瀬さんなら構わないか、性懲りもなくそう
思ったのがいけなかった。
 一度関係ができてからすぐ、そのざっくばらんさが、相手を思い
やってのものではないことに気付かされた。
 言葉を交わしているようで、何も通じていない。ただあるのは、
「男女の関係」だけ。ホテルで、私の部屋で、彼の家で、時には屋
外で……抱き合う場所が増え、するべき行為が広くなるほどに、彼
の心の平板さに胸が寒く、何のためにこうして「恋人」を名乗って
いるのかわからなくなっていった。
 でも、ずるずると続いて別れる事ができない。
 高校時代、あの雨の日から次第に忍び込んできていた、心が滞り、
凍りついた場所。教授との適当な関係を経て、私はすっかり、心に
空気を入れることができなくなっていたのかもしれない。
 このまま曖昧な関係に浮かんで、心と身体を任せていようか――
無力感に埋もれずにすんだのは、仕事だけは手放せない、そう思っ
たからだった。
 会社でまで欲求任せに求められるようになり、後輩や同僚に無意
味な感情をぶつけるようになった自分に気付いてようやく、私はあ
の男を切り離すことができた。もし、仕事に対する意欲がなかった
ら……どうなっていたかわからない。
 しかし、代償は職場を失うと言う一番辛い形で訪れた。
 あれから半年、ようやく身の回りが落ち着きつつある。そう大き
くはない店だけれど、新しい職場も見つかった。
「美佳も、損なくじばっかり引いてるわね、まったく」
 昨日話した時、真雪が言っていた。確かにそうかもしれない。で
も、赤いくじばかりにしているのは、自分に他ならないから。
 おととい、ポストに落ちていたインビテーションカードを開く。
金と銀がきれいいあしらわれた表書きを開くと、中には披露宴の案
内が記してあった。
 どこから住所を調べたんだろうと思った。高校時代の知り合いで、
私の現在の居場所を知っている人はあまりいない。
 答えは割合簡単だった。
『あ、それ、私。この間、亜矢嬢から電話があったから』
 私が亜矢と森島からきた招待状の話をすると、携帯の向こうの真
雪はさらっと答えた。
『一瞬、びっくりしたけれど。何で私にあの山藤さんが、って。教
えちゃまずかった?』
「いや、別に無理に隠してるわけでもないから」
 何年か前、森島と亜矢が一緒に暮らし始めたのは知っていた。そ
れも、いかにもあの二人らしい方法で。
 でも、いつの間にか……いや、当たり前なのか。
 添えられた写真では、野球のユニフォームを着た森島と亜矢の間
で、二歳児くらいの男の子が、血色満面の顔を思い切りほころばせ
てバンザイをしている。
 森島に似ている……でも、額は亜矢かなぁ。
 最初にカードを開いた時には、その写真をしばらく眺め回してし
まっていた。
 そして、招待状に挟まれたメモには、
 ご無沙汰しています。英雄も大きくなって(可愛いでしょ)、よ
うやくみんなに私たちを披露できるようになりました。沢渡さんに
少し事情は聞きました。仕事、忙しいだろうけれど、よかったら来
てね。高校時代の人も、何人か招待しています(寛史君とか)。楽
しい会にするつもりだから、是非、ね。それでは、お待ちしていま
す。  亜矢
 伸びやかに書かれた、懐かしい亜矢の文字だった。
『行けば、美佳。私は勧めるけれど』
 真雪と話しながら、いろいろなことが思い浮かんでいた。気がつ
くと私は、あの日から今日までのことを、つらつらとたどっていた。
今まで、ほとんど誰にも話したことがなかったものを。
 だいたいの話を聞いた後、真雪はふぅ、と息を吐いて、大して今
までと変わらない調子で言った。
『美佳も、いろいろあったんだね。何か私、涙が出ちゃった』
 そんなことをさらっと言ってのける。こういう子だからずっと付
き合ってこられたのかなぁ、ふと思ってもいた。
『言わば同窓会みたいなものじゃない? この間、私達のクラスで
もやったけれど、悪くなかったよ。里絵とも久しぶりでね、はあ、
やっぱりねぇって感じだったから。そう、美佳も、もしかしたらも
しかするんじゃない? 寛史君と』
「すぐそういうことを言う、あんたは。ないよ、それは。しばらく
そういう話はなしにしたいね、私は」
 私は、寛史の顔を思い出しながら答えていた。多分、あいつは以
前通り、らしく暮らしていると思う。
『そうかなぁ。美佳と彼の間柄って、何か……そう、特別なものだ
と思うけれど』
 また、赤い糸にしたがる、あんたは。懲りてないね。そう言うと、
真雪は鼻息を荒くした。「すぐそうやって混ぜっ返す。でも、そう
だと思うな、私は」
 私は、ははは、と電話口に向けて笑った。ホント、からかいがい
があるんだから、真雪は。
『私のこの間までの付き合いとは違うと思う。これは、直感』
 ドタバタした挙句、ついに「納得いく別れ」ってのにたどり着い
た元教え子との関係を引き合いに出して言う。
 私は、わかった、ご意見拝聴しておくよ、と言って携帯の通話を
切った。
 考えていた。
 いろいろな関係がある。森島と亜矢のように、理想と言えそうな
間柄もある。――だからと言って、あの二人にしかわからない苦労
や挫折があるだろう。
 真雪が追っていた先輩の影……見つけ出した恋人との関係が、そ
の成就とは限らない。思えば、あの男と真雪の「圭吾君」は兄弟だ
ったりもする。同じ親から生まれても、関係の作り方はあれほどに
違う。
 私の父と母を考えれば、そんな風に対で言葉にすることさえ意味
のない、遠い関係だった……。
 私と寛史はどうだったろうか。
 あの時の気持ち、初めて彼を見つけた時、肌を合わせた時の、ど
こかホッとするような感覚は……。
 私は思った。やっぱり、出てみよう。きっと、昔と変わらずに話
せるに違いない。あの時感じた気持ちは、間違っていない気がする。
 ……きっと。

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