第七章 Affection for...

 新幹線を降りてホームの時計を見上げると、時刻は四時少し前を
指していた。
 ずいぶん遅くなってしまった。南口でタクシーを拾って――それ
でも、会場に到着するのは式の終りがけだろう。
 お祝いの入った袋とバック、脇に上着を持って階段を下りる。思
ったより遥かに暑かった。そして、目に入った小じんまりとした駅
前の景色。久しぶりのふるさとの街は、時間を巻き戻して、でもど
こか目新しく感じられた。
 タクシーに乗り込んでからも時間が気になって、時計を確かめて
ばかりいた。亜矢や森島、そして寛史の顔が思い浮かぶけれど、ゆ
っくりと考えている余裕はなかった。
「道、混んでない?」
 身を乗り出して聞くと、白髪の運転手が頷きながら、
「この時間からはこんな調子だからねぇ」
 抑揚の少ない低い声で答えた。
 そして、さっきからなかなか近づいてこない信号からこっちを伺
うと、
「急いでるの? お姉さん」
 時計を見ると、四時半だった。
「一応」
 短く言うと、「じゃあ、ちょっと冒険しようかね」、一気に車列
から外れて、横道に入った。そして、すぐにまた曲がる。ゆっくり
と歩く人たちの間を抜けて、一時停止、何度かの方向転換。
 一瞬、繁華街の景色が通り過ぎた。見知った建物も、そうでない
ものもあった。
 ふと、高校時代の自分がよぎる。あの角を曲がって、行きつけの
レンタルショップに、ファーストフード店に歩いていく――。
 細い道をまっすぐに抜け、再び大通りに出ると、後は順調だった。
 会場のあるホテルの駐車場につくと、運転手はお金を受け取りな
がら、
「間に合ったかな」
 私の目を見て言った。
「ありがとう、大丈夫みたい」
「そう、よかった」
 エントランスの端には、本日の会場使用の案内が出ていて、亜矢
達の披露宴の場所は、すぐにわかった。小走りにエスカレーターを
上がって、カーペット張りの床を歩くと、その場所のドアをゆっく
りと開けた。
 たくさんの人の背中が見えた。ボールがグラブに収まるパシン、
という音が聞こえ、人の頭の向こうで誰かが立ち上がる。歓声が起
こると、拍手と口笛が会場に一杯になった。
 キャッチャーミットを差し上げているのは、亜矢だった。足元に
は、写真で見た小さな男の子が立っている。
 人垣がばらける間に、自分の座席を探していた。確か、左端の…
…視線を向けると、丸テーブルに座ったままの男性がいた。離れて
一人でいる彼は、額の前に手を持っていって、こちらに敬礼をした。
 よっ、という感じで唇が動く――寛史。           
 ▼
 近づいていって自分の座席の後ろに立つと、細い目が見上げて、
少し高い声が言う。
「遅かったじゃん、お仕事?」
 髪型まで含めて、そのままの寛史だった。少しだけ……彫りが深
くなったかもしれない。
「ごめん、やらなきゃいけないことが押しちゃって。もう少し早く
来るつもりだったんだけど」
「俺に謝ってどうするよ。あっちね、それ言うなら」
 並んで一番前のテーブルに戻っていく、二つと一つの背中に目配
せをすると、こっちに気付いた亜矢の大きな目が、にっこりと笑っ
て見えた。第九の夜を思わせる、白いドレス……でも、ずっと輝い
て美しく見える。
「キャッチボール? 何かしていたみたいだけれど」
 当たり前のように聞く。気持ちの居所を確かめながら。んん、寛
史が頷くのを横目に、席に着いた。
「見事なもん。構えたところにビシッ、だもんなぁ。やっぱり、よ
く鍛えてるよ」
 テーブルの上に並んだ料理を眺めてすぐ、寛史を見た。
「……久しぶりだね」
「だなぁ。元気そうじゃん、美佳姉」
 口元に何か溜めているような笑みが浮かんで、視線が少し落とさ
れる。変わっていない――違和感はほとんどなかった。
「寛史は……、少し、やばくなっちゃったんじゃない、ここ」
 自分の額を指差して言うと、眉が開かれて、この。
「あ、気にしてんのになぁ。どうも最近、洗髪時の抜け毛がねぇ…
…」
 相変わらずのツンツン頭を指で摘むと、ため息をついて見せる。
私はハハハ、と笑いを返して、テーブルの上のコップを手に取った。
とりあえず、何か飲もう……と、寛史の前に置かれたグラスに、オ
レンジ色の液体が注がれているのに気付いた。
「お、何にする、美佳姉さん」
 聞きかけた寛史に、私が逆に尋ねた。
「寛史、何それ?」
 ん、と言う顔で指されたグラスを見ると、「オレンジジュースだ
よ」
「え、どうして。飲んでないの? だって……」
 言いかけると、寛史は真顔で言った。
「どうしてアルコールじゃないの、って? 実は、禁酒中でさ。酒
でどうも失敗ばっかりだし、ついでに最近、身体の調子がなぁ……」
 ため息をついて、それからもう一度聞いた。
「姉さんはどうする? ビール? ジュース? もちろん、飲める
だろ」
 私は頷きながら、じゃあ、ビールを、とグラスを差し出した。
「まったく、前から言ってたじゃない、飲みすぎはやめなよって。
だいたい、高校の時から常時飲んでるんだから、身体だってねぇ」
 ビールを注ぐ寛史の手が止まると、見上げた目が笑っていた。
「ホントにそう思ってる?」
 あ、こいつ。
 直感的にさっきまでの様子が謀りとわかった。ふふふ、と肩が揺
れると、
「やめるわけないじゃない、マイフレンドだもんねぇ」
 そして、空のグラスを持ち上げると、
「美佳姉さん待ってたの。まさか、いい年になって飲めないってこ
とはないだろうと思ってさ」
 拳を固めてボディブローのポーズを作ると、差し出されたグラス
にビールを注ぐ。
 カチンと合わせると、お互いに言った。
「カンパイ」
 本当に不思議なぐらい、時間が経っていることを感じなかった。
最後に会ったのが、先週のような気さえする。「仕事、やってる?」
「美佳姉さんは?」「忙しくてさ」「そうかぁ、CD店か。おお、
趣味通りじゃない」――ざっくばらんに近況を話し合って、料理を
つまみ、ビールを口にして。
 さて、亜矢と森島に挨拶しなきゃ。立ち上がった時、背の高い白
いドレス姿が、テーブルの間を抜けて、こちらに来るのに気付いた。
隣に並んだ、更に一回り大きな背広姿の腕には、青いつなぎが可愛
い幼児が抱かれている。
 亜矢は少し向こうからにっこりと笑うと、「美佳」と声をかけて
きた。
 私はその場所に立ったまま頷いた。
「ありがとう、来てくれて。嬉しいな、久しぶりに会えて」
 隣にいる森島も、黙ったまま頭を下げた。伸ばされた小さな手を
包み込むと、「ママのお友達な」と小さく言うのが聞こえた。
「ごめんね、亜矢。遅れちゃって。仕事、ちょっと抜けられなくて
さ」
 亜矢は首を振ると、披露宴にしてはナチュラルにメイクされた顔
で真っ直ぐに見つめた。私は目を伏せた。何だかひどく照れ臭い感
じだった。
「寛史くんも、ね」
 亜矢が斜め下に視線を向けると、寛史は俺?という感じで自分を
指すと、促しに従って立ち上がった。その時初めて、亜矢の手に持
たれている何か小さな袋に気がついた。
「これ、受け取ってね」
 差し出される白い紙袋。どういうこと?
 寛史の方を見ると、森島から渡された四角い箱を、苦笑いしなが
ら受け取っている。
「いろいろ話し合ってね、そんなものしか思いつかなかったから。
気に入ってくれるといいけれど」
「だって、亜矢。今日はあんたたちの……」
「引出物代わりと思って」
 静かな笑みを黒い瞳の中に浮かべると、続けて言う。
「英ちゃんが生まれてから余計に話すようになったんだけれど、た
くさんの人のおかげで、ここまで来れたんだなぁ、って。最初にも
言ったけれど、披露宴と言うより、ありがとう会なの、これは。美
佳と寛史君には最初に、一番お世話になったでしょう? だから」
「ありがとう……」
 虚を付かれていた。そして、森島が寛史に囁くのが見えた。寛史
の横顔に浮かんだ複雑な――どこか自分を責めているようにも見え
る表情が心に留まった。
「開けて、いい?」
 うなずきに合わせて開けると、CDが出てきた。ストーンローゼ
スのベスト盤……初期の頃の奴だ。
「昔、好きだって言ってたよね。もう、持っているかもしれないけ
れど」
 私は首を振った。レニのギターが少しだけ、頭の奥で鳴った。
 寛史の方は、卓球のラケットだった。木目に柄のパステルカラー
のデザインがクールで、本格的なものだと思う。
「明日もここにいるんでしょ? 会おうね」
 亜矢は言うと、自分の席に戻っていった。
 CDをテーブルの上に置くと、寛史の方を見る。ラケットを大事
そうに膝の上に置きながら、彼は頷いた。
「あいつららしいだろ? ホント、感心するよ。俺ならこんな式、
できねぇなぁ。大したもんだよ、あの二人は」
 見えない音がして、何かが背中に押し付けられたような気がした。
さ、食べようぜ――寛史に言われて料理に箸をつけ始めてから、あ
っという間に時間は進んでいく。
 久しぶりに会う何人かの高校の友達。近況を教え合っては離れて
いく。見覚えのあるいくつかの顔。亜矢の合唱関係の知り合いだっ
ただろうか?
 そのあと寛史とも、高校の頃の思い出やら現在の仕事の話、最近
の流行りもののことまで、ざっくばらんに言葉を交わした。それは、
本当に以前のままのようで……とても楽しかった。でも、何故だろ
う、どこかで早く終わって欲しいと思っていた。
 一度か二度、寛史が「疲れてるんじゃない、姉さん」と聞いてき
た。「そうかもねぇ」、ため息混じりに答えると、ビールを軽くあ
おった。でも、頭に兆し始めた重みと、胸の苦しさが目立つばかり
だった。
 宴が終わった後のロビーで、亜矢達と明日の予定を話し合った時
は、だいぶ楽になっていた。やはり、疲れているのかもしれない。
 荷物をまとめながら息をつくと、タクシーを呼ぶことを考えなが
ら、ロビーのソファに身体をうずめた。
 目を閉じると一瞬、過ぎ去った眺めがよぎった。色のない男の瞳
に、後輩から投げ付けられた言葉。ああ、ダメだ。こんなこと思い
浮べても、意味がない。
 心の中で首を振った時、人の行き過ぎる風が吹いた。目を開けた
視界の先に、さっきまで隣にしていた姿があった。
「あ、寛史」
「じゃね、美佳姉。また、その内」
 あまり上等そうでない背広の肩が一瞬立ち止まる。
「ああ、またね。携帯の番号、教えたよね」
「バッチリ。それじゃ」
 手を軽く上げて歩き去っていく。私はもう一度目を閉じて、息を
吐いた。さて、私も行かなきゃね。
 と、声が響いてきた。
「姉さん」
 五、六歩ほど先で寛史が振り返っている。目が真っ直ぐにこちら
を伺うと、二、三歩近づいてきて、言った。
「大丈夫かい」
 私は手を顔の前で振った。「ああ、大丈夫。やっぱり、仕事がき
いてるかな。ついでにビールもね」
 寛史は眉を上げると、鼻で笑って、
「姉さん、下戸なんじゃない? ダメだぜ、俺とは違うんだからさ」
「はいはい」頷くと、寛史はもう一度手を振り、背中を見せて歩み
去っていく。片手で紙袋を肩に担いで、もう片方の手に持ったラケ
ットを見下ろしながら。
 そして、背を丸めてホテルの回転扉をくぐり、外へ出て行く。
 ひどく小さく見えるその姿を見送った瞬間、何かが頬を伝うのが
わかった。
 涙?
 指で眦を抑えて……やっぱり、泣いてる。私。
 どうして? 反射的に立ち上がって、走り出した。ロビーを抜け、
扉を開けると、駐車場へのスロープを降りかけていた背中に叫んだ。
「寛史!」
 短く刈り上げた頭が振り返ると、そこで立ち止まる。目の前まで
走り寄ると、驚いたように見開かれた瞳を見つめて、言った。
「寛史……、ねえ、寛史」
 何で追いかけてきてしまったんだろう。
 何を言いたいのかわからない。
 ただ、涙が溢れてきていた。目の下に隈ができ、疲れのにじんだ
顔を目の当たりにすると、ますます心が零れて、止まらなくなりそ
うだった。
「美佳姉……どうしたんだよ」
 私は、伸ばされた手に首を振った。ううん、それは、わかった。
わかってる。違う……。
「ねえ、寛史……」
 言葉が心の中で結び上がる……、そう、私の言いたかったのは。
「……寛史は大丈夫なの? 大丈夫なの?」
 涙声で、声がもつれて聞こえなかったかもしれない。
 寛史はまっすぐに私を見つめてから一度、目を閉じた。そして、
息を吐く。
「……そうだなぁ。大丈夫、とは言えないかもなぁ。うん、そうだ
なぁ」
 ひょうひょうとした表情だった。その様子を見ていると、ますま
す涙が零れて止まらない。
「美佳姉……美佳、何泣いてるんだって。おかしいぞ」
 私は、鼻をすすった。差し出されたハンカチで目と鼻を拭う。で
も、止まらない。
「ほら、しょうがねぇなぁ……」
 帰っていく人たちが振り返っている。その中に、亜矢と森島の姿
も見えた。
「しょうがねぇなぁ、俺が悪者みたいじゃんか」
 どうしてこんなに涙が流れるんだろう……自分が悲しいのか、寛
史のことが切ないのか、全然わからないよ。
 少し息が吐けるようになった後で、私は寛史にハンカチを返しな
がら、言った。
「連絡して、絶対。そうじゃなかったら、私から無理にでも電話す
るから」
 寛史は穏やかな表情で大きく頷くと、私の額をポンと拳で叩いた。
「するって。毎日でもさ」
 そして、その手を下ろして手首の辺りをギュッと握った後、再び
背中を見せた。
「美佳、無理するなよ。なんかあったら、これ、な」
 携帯を示す寛史に、私は頷いた。
「寛史も。飲み過ぎないんだからね」
 ハイハイ、頷くと、そのまま駐車場へと消えていく。
 背中がすっかり見えなくなるまでその場に立っていた。さっき握
り締めてくれた手首がじんわりとする。
 私は右手を左腕に添えると、その暖かさを確かめていた。

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