序章 終わりからの始まり 

 私は何処かに感情の欠片を落っことした女なんじゃないかと思う。
恋の話は相変わらず雑談の花だけれど、今も昔も、それは他人事で
しかない。
 もし少しでも熱い日があったとするなら、それは高校最後の一年
間。今では懐かしい、思うがままにアイツと心をぶつけ合えた日々
――。

 うす紫のライトに照らし出された天井がぼんやりと光って見えた。
落ち着きなく動き続ける指先が、脇腹を伝って胸の頂きに触れ、ま
た戻る。
 首筋に当たった唇、トニックの匂いがする短い頭髪。
「いいか、美佳」
 低い呟きが顎の下から聞こえると、私は小さく「うん」と言った。
 同じ愛撫、同じ言葉。二週間前が今日にあるような気さえする。
でも、それでも……。
 押し広げられる感覚の後、身体の中心が満たされると、少しだけ
の痺れが腰の辺りから背中へと突き上がる。
「あ……」
 その感覚を追う事はできない。首筋に熱い息がかかると、直線的
な律動が始まって、痛みに近い違和感が柔らかいものを覆い隠して
しまう。
「いいか、美佳。いいか!」
 それは、私に言ってるの? それとも、自分自身に?
「いって……」
 骨ばった肩に手を回して思いきり切なく呟いた時、それが膨らむ
のがわかった。そして、心の中の問いかけの答えも。
 精を放った時の震えばかりがもどかしい余韻を残して、すぐさま
離れ、横臥した固い身体を傍らに、自分の胸を強く握りたい衝動に
駆られた。
 でも、満ちない気分は一瞬で散り広がり、うす紫の光が目の中に
あり続けたことに気づく。
 もう、終わりかもな……。
 黙ったままベッドを離れ、シャワーの響きに変わった「恋人」を
思いながら、心の中で呟いていた。
「美佳も浴びれば」
 濡れた頭をバスタオルで拭きながら現れた顔は、「する」前の険
がすっかり消えて、優しい「多嶋先生」の表情に戻って見えた。
「うん、そうする」
 できるだけ静かな調子で答えた。
 そして、身体を起こした私は、裸のままスモークガラスの向こう
のバスルームの扉を押した。コックを捻ると、思ったよりずっと熱
いお湯が頭の上から降りかかる。
 大きなため息が口から漏れた。
 ……ああ、まったく!
 お湯の勢いを強くすると、短く切られた頭をグシャグシャに濡ら
して指でかき混ぜた。
 この気分をどこかに飛ばしてしまいたかった。

 じゃ、私先に出るから――いつものように、一人でホテルの階段
を下りると、目立たない方の出口から裏通りに出た。
 春にしては大仰かな、と思いながら羽織ったダッフルコートの襟 ▼
元からでも冷たい風が吹き込んできて、私は思わず狭い夜空を見上
げてしまった。
 なんか、四月始めとは思えない星の光り方だなぁ。……あ、ヤバ。
こんなところで立ち止まって、学校の奴にでも見られたら。
 素早く辺りを伺って、ファンション通りの方へ、と。
 ……え?
 見遣った狭い路地の方向、飲み屋の明かりに照らされたT字路の
入り口に立ち止まっている黒い影は、間違いなく付属高校の学ラン
だった。
 まずい。知ってる顔じゃなきゃいいけれど。
 けれど、背の低いその姿は、見覚えのないものではなかった。ツ
ンツン立った短い髪に、細い目、笑ったような口元。そして、少し
顎の尖った丸い顔の稜線。
 安部だ。……参ったな、多分、私だって気づいてる。
 それでも頓着せずに背を向けると、足早に繁華街の方へ向かう。
モタモタして先生が出てくるのまで見られたら最悪だ。
 人ごみに紛れながら角を折れる瞬間、それとなく後ろをうかがっ
た。今年も同じクラスになったお調子者の姿は、まだ狭い路地の中
間辺り。
 頼むから、厄介な事にならないでよ……。
 ライトアップされたショーウィンドウを視野に流しながら、駅の
方を目指した。
 明らかに私と認めて、不透明な表情を浮かべていた……。殆ど話
をしたことはないけれど、見た目ほど軽い奴じゃないことくらいは
知っている。よくいる男どものように、ふれ回ったりすることはな
いと思うけれど……。ただそれも、先生と鉢合せしていなかったら
の話だ。
 鞄とバッグを駅のロッカーの中から出すと、トイレで手早く制服
に着替え、自転車に乗った。
 こんな面倒は何回目だろう。いつか噂になって、のっぴきならな
い事態に立ち入る事だってあり得る。
『もう五、六年遅く生まれてたら……。美佳と普通に恋愛できたの
にな』
 ……そうなのかなぁ。
 ペダルを漕ぎ出すと、春の風がさらに冷たかった。こういうのを、
花冷えって言うんだったっけ。
 個室のドアを開ける時間さえもどかしいかのように、矢継ぎ早に
繰り出された呪詛に近い言葉――学年主任の理不尽や校長の安逸、
生徒の幼児性やカリキュラムへの不満。もし私が生徒の立場でなか
ったら、彼はあんな風に振る舞うだろうか。そもそも、二人の関係
は始まっただろうか。
 先生と生徒。その関係があって初めて成り立っている間柄だと思
う。
 区画された住宅街への坂を降り、壁と壁とを密着させてひしめき
合う家々の前を過ぎると、細長い二階建ての庭先に自転車を止めた。
 それでも、私には先生を拒否することなんてできないだろうな…
…。
 いつもの通り、玄関灯だけが黄色く光る玄関で革靴を脱ぐと、奥
の部屋からTVの音が小さく響いてきていた。
 何も言わずに階段に足をかけた時、細長い靴箱の隣に置かれた電
話台の上で、呼び出し音が鳴った。
 一回、二回。
 それだけですぐに音は途絶えると、受話器は沈黙した。
 ……先生だ。
 足早に階段を上がると、荷物をベッドの上に放り投げて、サイド
ボードの上の子機を掴んだ。
「美佳ぁ〜?」
 階段の下から、間延びした声が聞こえた。珍しい、気がついたん
だ。
「何?」
「ああ、やっぱり帰ってた? ご飯は? 残り物ならあるけど」
「いい。外で食べてきた」
 少しだけドアを開けて、声だけで答えを返すと、階下の足音は小
さくなって消えた。
 すぐさま、指が動きを覚えるほどに押し慣れた番号をプッシュす
る。
 一つ目の呼び出し音が鳴り終わるまでもなく、いつもの声が耳元
に届いていた。
『美佳か。お前、安部を見たか?』
 悪い予感が当たった、真っ先にそう思った。やっぱり、あの後す
ぐ出てきたんだ、先生。いつも、もっと待って、って言ってるのに。
「……やっぱり。先生も、見られちゃったの?」
『そうか……。まずいな。安部、わかってたみたいだったか?』
「どうだろう。わたしはできるだけ目を合わせないようにしていた
から。でも、結構目ざといよ、彼」
 受話器の向こうで、う〜ん、と唸ったまま、言葉が途切れた。
 私も、口を結んで鼻で息を吐く。どうにも解消しようがない重苦
しい空気が胸に満ちて、これ以上会話を続けることに嫌気がさして
くる。
「いいよ、先生。わたしの方から何とか話してみる。よく知らない
けど、話を聞けない奴じゃないとは思うよ」
 放課後、学ランの肩にナップをしょって、体育館へと急ぎ出て行
く背中を思い浮かべた。クラスのムードメーカー、いつも軽口を叩
いているイメージがある一方で、妙に真面目な部分もあったような
気がする。
 何だったけ……。
 浮かびかけたおぼろげな記憶。細い目を見開いて、鋭い追及の言
葉を発する姿は、いつの日の眺めだったろうか。
 はっきりと思い出すことができなかった。去年一年同じクラスだ
ったとは言え、安部寛史と個人的に言葉を交わした記憶がない。そ
うでなくてもまとまりのないクラス。印象が薄くても仕方がないと
思う。
 とにかく今は、彼が私の印象通りの人間であることを願うだけだ。
冗談を言って座持ちをする人は、おおよそ気遣いのする協調的な性
格の持ち主であるはずだ。
 でも、安部が時々授業内容を揶揄して笑いを取るセリフの通り、
シニカルな性格だったら?
 その時、不意に兆した胸の中の暗い思い。
 本当は私、全てが明るみに出ることを……。
 心の中に息を吸い込んで、意味のない連想を握り潰した。とにか
く、明日になってみなければ対処のしようがない。
 制服を脱いでハンガーにかけると、トレーナーを羽織って、ルー
ズなジーンズに足を通す。そして、ミニコンポのCDトレイにディス
クを置くと、カバンを開けて教科書とノートを机の上に投げやった。
 ……気が向かなくても、こいつだけには取り組んでおかないと。
 学年初テストの範囲をチェックして、グラマーの問題集をめくり
始めた時、時計の針は十時を指していた。

 三限目の英語に到るまで、どうにもテストに集中することができ
なかった。
 安部寛史の席は、前方の窓際。わたしの座る真ん中後ろの席から
だと、嫌でも視界に入ってしまう。彼の一挙手一投足がいちいち引
っ掛かって、一日中意識の外に排除することができなかった。
 休み時間、他の男子達と軽口を叩いている様子を見ると、あの調
子で先生と私の関係を吹聴して回らないか、そうしたらどうやって
対処しよう、そんなことばかり考えてしまっていた。
 まして、三限目の監督は多嶋先生だった。さすがに落ち着かなく
なって、いつものように普通の生徒として振る舞うのが精一杯だっ
た。
 テストが全て終了して、教壇から足早に去る細身の姿を見送った
時、眼鏡の下の細い目が、ちらっと私を窺った気がした。
 ……わかってるって、先生。
 今日は、新学期になって転校してきた山藤亜矢と、友達を紹介が
てら街へ出かけることになっていた。合唱が得意で、伸びやかな性
格をしたこの新しいクラスメイトは、どうしてか私とウマが合った。
 厄介な事はさっさと先に済ませて、話をするほどにこちらまです
んなりした気分になれる、新しい友人との付き合いを存分に楽しみ
たかった。
 とにかく、安部が放課後にクラスを後にするのはめっぽう早いは
ず。卓球部の副部長の彼が、放課後にだらだらと教室に残っている
姿を見たことがない。
 案の定今日も、テストが終了するや否や、誰かが彼の名前を叫ぶ
のが聞こえると、小柄な学ランの背中が教室から出て行くところだ
った。
 マズ。追っかけて話さないと。
 下校の準備もそのままに、廊下でテストの結果やら雑談やらに興
じる制服の群れをかき分けて、殆ど言葉を交わしたこともない二年
からの同級生の背中に追いついた。
「安……」
 言いかけて、一瞬ためらった。どうにかなると思ってはきたけれ
ど、もっと考えてから……。ううん、状況を組み立てたって、いい
結果が出るわけじゃない。結局、この男がどんな奴かにかかってる
んだ。
「安部」
 お腹に力を入れて呼びかけると、階段の踊り場に差し掛かった場
 ▼
所で彼は立ち止まり、肩越しに振り返った。
 お、という感じで細い目が軽く見開かれると、唇が少し窄められ
た。
「……佐野さん、何?」
 普段聞きなれた通りの、少し甲高い感じの声だった。
 さすがに胸が鼓動して止まらない。いつもは笑ったように見える
顔全体が、私への敵意を表わしているような気がする。
「急ぐ?」
 意を決して低く言葉を発した瞬間、瞳の奥に浮かんだ柔らかい色
が、私を驚かせた。
 そして、固い感じが一気に解けて、殆ど笑ったような感じになる
口元。すかした感じの声の調子も含めて、彼が「理解」しているこ
とが自然に伝わってきた。
「……いいよ。話だろ」
 話、の部分が少し強く発された。何だかホッとして、ついつい私
と殆ど同じ高さにある背中を叩いてしまった。
「わかりいいね、安部」
 彼は目で軽く頷いた。どっか言葉を交わせる場所は……、屋上扉
前の行き止まりでいいかな。
「悪いね、ちょっと上、いい?」
 親指で上を差すと、先に立って階段を上る。無言で後ろからつい
てきた安部は、閉じたスペースに積み上がった古い椅子や机を後ろ
に腕を組むと、屋上へのドアを背中に立ち止まった私から二、三歩
距離を取った。
 階段を見下ろし、横目に彼の様子を映しながら、何から切り出し
たものか考えていた。
 あんたが見た通りの関係でさ……。
 すまないとは思うんだけどね……。
 男女の付き合いだから、誰が誰と付き合っても基本はいいってこ
とだと思うんだよ……。
 どれもこれもが空虚な言葉に思えた。素直に、「黙っててくれ」
と言えばいいのかな。さっきの様子から考えれば、察しのいいこの
男は、わたしの言いたいことを半分以上見通してるみたいだし。
「……シバクとか言わないだろねぇ。それは勘弁、ってか」
 口を開こうとした時、ふざけた調子の高い声が短く響いた。驚い
てまじまじと彼の顔を見つめると、舌を小さく出した表情が、ひど
く軽い感じで笑いを返していた。
 わたしもつられて乾いた笑いを上げてしまう。
 こいつって……。
「……あんたって、面白いね」
「そりゃ、美佳姉さんに逆らったら、三−Cで生きていけませんっ
て」
 授業中に笑いを取るのとおんなじ調子だった。まったく気にして
いない様子に全身の力が抜けて、ドアの張り出しに腰を落としてし
まった。
「ヨーヨーでも振り回せっての? ほんとにしばき上げたろか?」
 こっちも軽くやり返すと、すかして見える口元が、大きな笑みを
露わにした。そして、顔の前に両手を合わせて、お願いしますのポ
ーズを作る。
「勘弁だって。秘密は守りますから〜」
 その態度と「秘密」と表わした言葉の綾に、どうしても声を立て
て笑いたくなってしまった。ホントはそんなシチュエーションじゃ
ないってわかってるのに。
 ……面白い奴、それに、こんな分かりのいい男子がいるなんて、
ね。
 見られたのがこいつでよかった、正直にそう思った。それでも、
彼に意味のない重みを預けてしまったことに変わりはない。
「……ごめんね、安部。変なモノ見せちゃってさ。黙っててくれる
だけでいいから」
 素直に言葉を発してるのが自分でもよくわかる。どうしてだろう、
息が抜けるような感じだ。
 もう一度見上げた小造りな丸顔が頷きを返した。さっきまでと打
って変わった真摯な表情。「ありがとう」――口を開きかけた瞬間、
ペタペタとスリッパがリノリウムに接触する音が聞こえ、眼下の踊
り場から紺のブレザー姿が現れた。
「あ、いたいた!」
 ポニーテールの髪の下、明るい声でこちらを見上げた背の高い女
生徒は、放課後の約束を交わしていた新しい友人だった。
「佐野さん、みんな待ってるよ」
 山藤亜矢の大きな瞳がまっすぐにこちらを見る。軽やかに階段を
上がってくると、奥に陣取っていた安部にもすぐに気付いたようだ
った。あら、と言う感じで彼を見ると、安部の方は、何か居心地が
悪そうに唇を結んで見せた。
「……あれ、寛史君。どうしたの……、あ、お邪魔だった?」
 わたしの方と見比べて、彼女は面白そうに言葉を弾ませた。
「いや、山藤ちゃん、そうじゃなくって……」
 さっきまでの滑らかさが跡形もない裏返った声が聞こえた時、わ
たしはこの二人の繋がりが何となくわかった気がした。
 確か、安部は亜矢の中学からの同級生。彼女の話じゃあ、そこそ
こ仲良くしてた風に聞こえた。でもそれは、あくまでも彼女からの
見方。この伸びやかで綺麗な子の側にいて、好意を持たない男がい
るだろうか。
「ちょっとコイツをいじめてたとこ。だってさ、ナマ言うんだもの。
ね、寛史」
 からかい半分、仲立ち半分で言えたのは、今日初めて話したばか
りのこいつが、まるで昔からの知り合いみたいに思えたからだと思
う。
「……ひでえなぁ、美佳姉さん。そういうんじゃないでしょ」
 両手に顎を乗せて思いっ切り顔を歪めて見せたから、たぶん言い
たい事は伝わったんじゃないかと思う。
 一言二言交わした後、「もう少し待ってて」と告げると、亜矢は
来た時と同じように、軽やかに階段を下りて行った。姿が消えるの
を見送りながら安部の方を軽く目をやると、少し切なげに視線が落
とされて見える。
「やっぱり、亜矢は人気あるよねぇ」
 蛇足だと思いながらも、ついつい突っ込んでしまう。
 たく、しょうがない性格だなぁ、私も。
「……イヤな女」
 でも、椅子と机の山を後ろに腕を組み、短く返した彼の目は笑っ
ていた。……ホント、面白い奴。
「そう? そっちこそ、じゃない?」
 それ以上言わなくても、ほとんどの事は伝わった気がした。
「じゃね」
 手を振りながらその場所を後にした時、私はもう一度思っていた。
 安部寛史、か。……こんな男子がいたんだな。
 気分の通りが急に良くなった気がした。まったく、今日みたいな
らしくない一日はしばらくゴメンだ。
 さて、今日は亜矢達とどこに行こうか。
 私はさっさと廊下を歩くと、みんなが待っているはずの教室のド
アを、勢いよくくぐった。

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