彼女が陸上の練習中に倒れ、病院に運ばれたと聞いたのは、秋も
終わりに近づいた、風の冷たい日だった。
 ……ちょうど、今日のように。
 僕と坂井鳥絵―坂ネエの関係がなんと呼べばよいものだったかは、
わからない。ただ、初めてクラスメイトになった中学二年の春。体
育の授業で目にした姿は、今でも目蓋の裏に浮かべることができる
ほどに鮮明だ。
 背が高く、しなやかに伸びた身体を躍動させ、砂場へ向けて駆け
抜けていく青と白の体操服。振り上げられる引き締まった太腿。揺
れるポニーテール。真っ直ぐに正面を見据える鋭い視線。
 バン、と乾いた音を響かせて踏み切った瞬間、斜め上方に浮かび
上がった身体は、春の青い空を背景に、どこまでもどこまでも、舞
い上がっていくように見えた。
 辺りを歓声が包んだ。
 運動万能、将来はオリンピック選手か、といった具合に語られる
彼女の噂を、聞いたことがないわけじゃなかった。けれど、実際に
目の当たりにしたその姿は、噂とは次元の違う輝きに満ちていた。
 あの時の素直な僕の感覚。はっきりと覚えている。
 鳥だ。鳥が飛んでる……。
 人間が、まして女の子が、あんなしなやかに、躍動しながら跳ぶ
ことができるなんて。
 小学、中学を通じて、何もかもがボチボチ、これと言って何の取
り柄もない僕にとって、彼女のような存在があることそのものが、
形容し難い驚きだった。
 それは、好きとか、恋愛とか、そんな感情とはまったく別のもの
だったと思う。もちろん、まだ自慰のやり方すら覚えたての中学二
年生には、『恋』の感情なんて曖昧で、どうでも良いことの一つだ
ったのだけれど。
 ただ、次元の違う存在、そんな風に感じていた彼女が、『坂ネエ』
に変わるのに、長い時間は必要なかった。最初の席替えで隣の席に
なった時、黙って目で会釈をした僕にかけられた、明るく、どこに
も曇りのない声が、最初のイメージを叩き壊してしまったからだ。
「よろしく。名前なんて言うの?」
 少し眦の上がった丸い瞳に、太くて一直線の眉。獅子っ鼻に、は
っきりした線を描く唇。ポニーテールの下で、少しの惑いもない丸
顔が、僕の方を真っ直ぐに見据えていた。
「……樋田(といだ)道男」
 どんな態度で応答していいかわからなかった。そんな僕の俊巡を、
背中に響き渡る振動が一気に弾き飛ばした。
「暗い、クライよ。少年! ちゃんと朝ご飯、食べてきたかい?」
 そして、ハッハッハッ、と大声で笑った。
 明るく、豪快とさえ言えるその態度。女子と言えば、数人で固ま
り、男子には窺い知れない何事かを囁きあって、正体を見せない。
そんな風に思っていた僕にとって、いきなり背中を平手で叩くよう
な異性など、それまで一度も出会ったことがなかった。
 けれど、毎日の学校生活の中で、彼女がただの豪快なスポーツ少
女ではないことが徐々にわかっていった。クラスの行事があれば、
積極的にイニシアティブを取る。持ち物が足りない人がいれば、気
前良く何でもあげてしまうし、自分も借りる。卑怯なことは大嫌い
で、不良系の男子だろうが、先生だろうが、面と向かって意見を述
べて怯まない。
 隣に座ったのは一学期の間だけだったが、行事や用事をこなしき
れないほど抱えた彼女は、いつも暇でぶらぶらしている僕に、何か
と用事を言いつけてきた。僕も別段、異論はなかったし、『坂井さ
んのゲボク』とか何とか言われても、当の坂ネエが真っ当なことで
動いているのだから、どちらかと言えば納得して使われていたよう
に思う。
 彼女の言い出しはいつもこうだった。
「ミチオ、暇? 暇なら手伝ってくれ〜」
 三年生でも同じクラスになり、関係はそのまま続行した。県大会
で優勝するほどの陸上への打ちこみと同時に、生徒会の役員も務め、
勉強にも手を抜かない。相変わらず、万事に適当、頑張る事など頭
にない僕と比べ、彼女は明らかに一頭地抜けた場所にいた。
 実際、男子のみならず、女子からもあからさまな崇拝の目で見ら
れることが少なくない坂ネエへ、ラブレターの仲介役になったこと
も一度ではなかった。
 確か、一度、女子の後輩から頼まれたこともあった。
「うわ。まいったなぁ……」
 さすがに頭を抱えた彼女は、僕の肩を叩いて言った。
「ミチオ、断っといて…、てわけにはいかないよねぇ……。はぁ、
しょうがないか」
 泣かれちゃってね、少し疲れ気味に後日談を話してくれた彼女は、
ラブレター一つにも真剣に取り組む人だった。
 そんな彼女だから、練習中に倒れたと聞いても、『働きすぎなん
だよ、坂ネエ。いくら『身体なら任せろ』って言ったって、一高目
指して受験勉強までしてるんだから……』―そんな気楽なことを思
っていた。
 しかし、それから一週間、窓際の彼女の席は空いたままだった。
そして、入院したと先生から聞かされた日、僕は他のクラスメイト
達と連れ立って、市街の総合病院へ見舞いに出かけた。
 彼女の病室は、大きなベッドの置かれた個室だった。ピンク色の
前合わせの病院着を着た彼女は、いつもと少しも変わらず、何処が
病気かわからないほど明るく、元気が良かった。
「坂井さん、それならすぐ退院できそうだね」
 女子の一人の言葉に、坂ネエはガッツポーズを作って見せた。
 まったく、何でこんなのを入院させるのかねぇ、と。
 でも、僕は、たぶん僕だけは、その時、気付いていた。いつもは
何の曇りのないはずの丸い瞳が、僅かに不透明な色を浮かべるのを。
 十人ほどの見舞いの同級生と共に、挨拶をして病室を後にしよう
とした時、一番後ろになった僕の手に、何か小さい紙が押し込まれ
るのに気づいた。とっさに振り向くと、太い眉の下で、彼女は軽く
ウィンクをして見せた。
 先に行ってて、街に用事があるから―クラスメイトと別れて、病
院のロビーで開いた小さな便箋には、丁寧な鉛筆書きでこう書かれ
ていた。
『少し、話したいことがあるんだ。もし時間があるなら、一人で病
室にきて欲しい。多分、ミチオにしか頼めないと、思う』
 僕にしか。早足になって、今下りてきたばかりの病棟への階段を
上がった。さっき見た、どこか影のある表情が重なって、胸の奥を
かき乱していた。
「ごめんな、ミチオ」
 少し息を乱しながら再び病室に入った時、彼女の顔に微笑みが浮
かんだ。そして、すぐにそう言った。
 でも、全ての仕草が優しげで、いつもの坂ネエとはひどく異質に
感じられた。今の僕なら、儚げだと言い表したくなるほどに。
「らしくないよ、坂ネエ。頼まれ事なら、任せろだろ」
「……そうだね。今さらだよな、ミチオには」
 上半身を起こして、投げ出した足にベージュの毛布をかけたまま、
僕に椅子を勧めた。大きな窓からは夕方の光が照り込んで、淡い色
の病室の壁を、薄赤く染めていた。
 何の音もしなかった。
 そして、閉じて密やかな空間に響いた言葉は、今でも忘れる事が
できない。
「他の人には言えそうになくて。どうしてかな、ミチオしか思いつ
かなかった」
「うん」
「私ってさ、女子には作っちゃうところがあるから。心配かけると、
自分がダメージ受けちゃうんだよな、女の子って」
 視線を合わせず、横目で窓の外に視線をやりながら、呟くように
言葉を続けた。僕は、ただ、頷きながら聞いていた。
「……うちの親、ウソつくの下手なんだ。何でも顔に出ちゃう。私
もウソつけない方だろ? だから、どうしてもお互いにわかっちゃ
うんだよね……」
 辛そうに眉を顰め、視線を落とす表情。鈍感な僕でも、彼女が言
おうとしている事がただ事でないことがわかった。
「坂ネエ……。無理して言わなくても、僕は……」
「ううん」
 首を振ると、真っ直ぐにこちらを見つめた。その視線は、飾り気
がないだけでなく、今まで見たことがないほど激しく、強いものだ
った。
「言わないと、後悔する。後悔だけは、絶対イヤだから」
 そして、大きく息を吐くと、唇を噛むのがはっきりとわかった。
「……わたし、足を切らなきゃいけない」
 心臓が、突然に鉛に変わり、身体の下へ落ちていくように感じた。
「根元から全部。でも、それで済むかもわからない。済まなかった
ら……」
 何を言っていいのかわからなかった。こんな時にどんな言葉が必
要なのか、あの時の僕にはまったく見当がつかなかった。……いや、
今の自分でも、そうだろうと思う。
 俯いて、固く閉じた目の端から、涙が幾粒か零れ落ちた。僕が平
静を失ってどうする、強く心の中で思って、ピンク色の病院着の背
中に軽く手を置いた。
 細かく震えている身体。次々に零れ落ちていく涙。それ以上どう
することもできなくて、ただじっと、彼女の横に座っていた。
「……ごめん、ミチオ。こんな話、聞きたくないよね、誰だって」
 そんなことはなかった。できることがあるなら、何でもしたい。
そうだ、何かなければ坂ネエがこんなことを僕に話すわけがない。
自然に気がついていた。
「ううん、いいよ。大変なのは僕じゃないから。何でも言ってよ、
何か僕に頼みだろ」
 涙を拭った彼女は、静かに湧き上がるような笑顔で僕を見つめて
いた。
「……ありがとう。やっぱり、ミチオだ」
 彼女の頼みは、思い掛けないものだった。差し出されたイラスト
入りの青い封筒。見慣れた字より、ずっと可愛らしい感じで、『原
口さんへ』と表書きされていた。
「原口って、陸上の?」
 彼女は頷いた。高等部の二年生。中等部と合同練習をする姿を、
帰りがけの運動場に見たことを思い出していた。高校総体で優勝す
るほどの高跳びの選手。
「……もしかして」
「馬鹿だろ、私。こんな時に」
 皮肉混じりに唇を歪めたその顔。でも、それ以上の言葉はいらな
かった。手術は明後日。そんな大手術が行なわれてしまったら、お
いそれとは人に会う事はできなくなる。まして、もし、手術が……。
 僕は、心の中で激しく首を振った。考えるだけで、それが現実に
なってしまう気がした。
 病室を出た僕は、必死に走った。まだこの時間なら、部活の練習
は終わっていないはずだ。
 あれほど走った事は、後にも先にもなかったと思う。
 あの時、バスを飛び下りた僕の目の前には、夕闇に染まった高等
部のグラウンドがあった。トラックに人影はなく、遠くに並んだ部
室と運動器具置き場の周辺に、ハードルやマットを持った陸上部員
の姿が見えた。
 その中で、一際背の高い、スポーツ刈りの青いジャージ姿。遠く
からでもその人だとわかった。
「鳥絵ちゃんから?」
 息を切らしながら手紙を差し出した僕に、涼しげで整った顔立ち
のその人は、封筒を手に取って眺め回していた。
「とにかく、読んでやって下さい。彼女の気持ちが、全部詰まって
るはずだから!」
「君の前でかい? 彼女にも失礼なような気がするけれど」
 そんなことはわかっていた。でも、ここで答えを聞いていかなけ
れば、彼女に何も届ける事ができない、そう思っていた。
 部室の裏で、長い事文面を見つめていた彼は、丁寧に便箋を畳ん
で、封筒に戻した後で言った。
「……すまないけれど、君の希望には添えそうにない」
 ひどく冷静な声だった。なぜだ、そう思った。手紙の内容はわか
らなかったけれど、絶対に伝わっているはずだ。坂ネエの気持ちは。
「どうして! ただのラブレターじゃないんだ。わかるでしょう!」
 見上げた顔は、冷酷とさえ言えるものだった。そして、ゆっくり
と首を振った。
「……俺は鳥絵ちゃんのこと、そういう風には思ってないから。病
院の雰囲気は好きじゃないし。それに、何とも思ってない奴が行っ
た所で、何も変わらないだろ」
 悔しかった。何でこんな奴に坂ネエは。……それでも。
「ウソでもいい。お願いします。原口さんが行ってくれれば、それ
で彼女、安心するはずだから」
 最後はどうしようもなくて、涙声になっていたと思う。でも、結
果は変わらなかった。陸上の天才は、ただそれだけのための才能で、
その心はメダルに適うものではなかった。
 だから僕は、今でもこの言葉が嫌いだ。『一事に通じれば、万事
に通ず』。むしろ、一つにこだわる奴は、他が見えなくなる専門オ
タクなんだ。
 救急窓口から忍びこんだ夜の病院。看護婦や医者に見つからない
ように病室に入ると、枕もとの蛍光灯だけをつけて、彼女はベッド
の上で体を起こしていた。
 何も言わなくても、僕の様子でわかってしまったと思う。
 彼女は読んでいた漫画雑誌を毛布の上に置いて、静かにこちらに
視線を向けた。昼までは結い上げられていた髪が、肩口に落とされ
ていて、一層静かで穏やかな感じに見えた。
「……ごめん、坂ネエ」
 目を見る事はできなかった。こんな惨めな気持ちは、十五年間で
一度も味わった事がないものだった。
「ううん、いいよ、ミチオ」
 小さな声で言うと、ベッドサイドへ手招きをした。
「窓側にきて。そっちだと、見つかるかもしれないから」
 ベッドの前を回り込むと、部屋の一番隅に腰を下ろした。
「できるだけ、伝えようと思ったんだけど……。でも、気持ちはど
うしようもないから。変えようと思っても……」
 泣くのだけはだめだ。辛いのは僕じゃない、坂ネエだ。そう思っ
て見上げると、驚くほど穏やかな瞳の色があった。
「いいんだ。別に、結果はどうでも。伝えないと、気が済まなかっ
たから。ただ、それだけ……」
「強いな、坂ネエは。僕なら、到底普通じゃいられない」
「ううん、違うよ」
 唇を結んで、一度目を閉じると、暫く黙った後で、一層静かに言
った。
「本当は、凄く怖い。どうなっちゃうんだろう、って。お母さんは、
大丈夫だよって言ってくれるけど、本当は確信がないんだってわか
る。もし、手術がうまくいかなかったら? この足の痛みが、身体
中に広がったら耐えられるの? って。でも、頭が痺れたみたいで、
それ以上考えられない。この間まで、一高で勉強して、陸上続ける
ことしか考えてなかったから、これが本当だとは思えないのかもし
れない……」
 何を言っても、馬鹿げた慰めにしかならないと思った。ただ、そ
の時感じた事は、今でも忘れない。
 何て凄い人なんだろう。同じ十五歳なのに、強くて、ずっと遠く
まで見通している。そして、どうしてこんな人に、病気が襲ってく
るのだろう、と。
 だから、長い沈黙の後で告げられた次の行動が、あまりに唐突で
信じられなかった。
「……ミチオ。私、スゴイ馬鹿だと思うけどさ、そんなことして、
どうなるかって思うけど……」
 チラリと病室の外の廊下を見ると、ベッドを下りて間仕切りのカ
ーテンを回りに引いた。蛍光灯を消すと、もう一度ベッドの上に足
を投げ出した。何をするつもりなのかわからないまま、椅子に腰掛
けて見上げる俺の前で、彼女の手が、思ってもみない動きをした。
「さ、坂ネエ……」
 前合わせの病院着が肩からするりと落とされると、緑色のスポー
ツブラが現れた。そして、同じ色のショーツも。
「な、何で」
 黙ったままブラも取り払った。形のいい隆起が、目前にさらされ
た。どこにも緩んだところがない、張り詰めた身体が、窓からの僅
かな光で、深い陰影を描いて見えた。
「……ミチオ、綺麗だと思う? 私の身体」
 俯き加減からの上目遣いの視線が、頭の奥を射たように感じた。
僕は、無言で頷いていた。そんなことは、聞かれるまでもなかった。
「ありがと。この足も、こうやって見ると、全然普通に見えるよね。
中身がぐちゃぐちゃになってるなんて、信じられない」
 言って、ショーツからスラリと伸びた足を静かに撫でた。そして、
小さな声で言った。
「……抱きたいと思う? お願い、正直に答えて……」
 その時には、動悸は胸を揺らすほどに強く、反応してはいけない
と思っても下半身は張り詰めて、目の前にいるのが一人の女の子で
あることを否応無しに感じていた。でも、気持ちは不思議なほどに
動いていかなかった。
 よくわからないよ、坂ネエの事、そう言う風に見たことがなかっ
たから。でも、綺麗だ。そんなセリフを口にしようとしてから、僕
は踏み止まった。
 僕らの関係が、そんなものじゃない事は、坂ネエだって知ってる。
それでも、彼女は……。
「うん。綺麗だ。……凄く。抱きたいよ、だって、僕も男だ」
 今でも言えるかどうかわからないストレートなセリフ。でも、そ
の時の彼女の嬉しそうな表情は、決して忘れない。下唇を小さく噛
んで、瞳を真ん中に寄せると、上目遣いに僕を見て、両手を広げた。
 僕は、ベッドに上がると、広げた毛布の中に滑り込んだ。そして、
すぐに服を脱ぎ捨てて、彼女と肌を合わせた。
 暖かくて、なめらかな感覚。僕より一回り大きな身体を抱き締め
ると、肩口の辺りに埋められた顔から、小さな囁きが聞こえた。
「ゴメン、ミチオ。でも、私……」
 いいんだ、全然いいんだ。そう思って、唇を唇で塞いだ。どうや
ってキスしたらいいかなんて、皆目わからなかった。唇を合わせて、
ただただ、吸いつくようにしていた。それでも、初めての唇はとて
も柔らかくて、湿っていて、それだけで頭の中に靄がかかったよう
になった。
 彼女も、同じだったと思う。
 抱き締めあって、無秩序に背中や腰を撫であっていた。初めて触
れる女の子の身体はとても柔らかくて、できるだけ優しくしよう、
まして、病気の坂ネエの負担になっちゃいけない、そんなことを考
えて手を動かしていた。
「あ……」
 下半身に到達した彼女の手が、僕の昂まった部分に触れた。そし
て、軽く握り締めた。
「ドキドキ、してる」
 触られただけで、どうにかなりそうだった。そんな気はないつも
りだったのに、すぐにでも達したい気持ちが止められなくなってい
た。
「……軽蔑、しないでね……」
 毛布の中へ潜り込んだ身体。裸の腰が横を向き、何か生暖かい感
触が僕の全体を捉えた。固い、多分歯の先が当たり、痛痒感と共に、
行われている事自体が信じられない気分だった。
「さ、坂ネエ、いいよ。そんなこと」
 身体を起こそうとする僕を、手が押し止めた。毛布の中で僅かに
頭が動いた瞬間、唇がくびれを抉ったように感じた。そして、その
瞬間、止めようもなく、昂まりは暴発してしまっていた。
 うぐぐ、と苦しそうなうめきが聞こえた。僕は、微かな罪悪感を
抱いたまま、快感に身を任せていた。そして、毛布から姿を現した
彼女が、唇を拭いながら、照れくさそうに俯いた。
「……ちょっと、苦かった。でも、凄いんだね、男のって。ミチオ、
気持ち良かった?」
「坂、ネエ……」
「耳ばっかでさ、いろいろ知っちゃってるから……」
 少し口篭った後で、呟くように言った。
「知ってるだけじゃ、寂しいから。もし、このまま、私が死……」
「馬鹿! そんなこと、あるわけない!」
 出来るだけ抑えた声で言ったつもりだったのに、自分の声が外に
まで響いてしまったように思った。
 そのまま、がむしゃらに彼女の体を抱き締めた。ほんの少しの知
識を頼りに、胸を揉み上げ、腰に手を這わせた。合わせた唇は、舌
を絡め合うことを思い出させ、彼女の息が苦しくなるまで、離す事
を許さなかった。
 耳元で聞こえ始めた微かな喘ぎに、再び力を取り戻し始めた僕自
身。強引に足を開いて腰を合わせると、その場所もわからずに闇雲
に前に進めた。その時、彼女の手が、静かに副えられた。そして、
僅かに開いた場所へ、先端を導いた。
 もう、余分な事は考えていなかった。始めた事を終わらせたい。
坂ネエを満たしてあげたい。ただそれだけを思って、腰を進めた。
 うっ、と小さなうめき。けれど、その後は何の抵抗もなく沈みこ
んでいく感覚があった。腰に回される両足の感触。もう、明後日に
はなくなってしまう足の……。
 今考えれば、あの時彼女が、身体を求めた気持ちがよくわかる。
でも、そこに僕を選んでくれた事が嬉しく、こんな自分でも彼女の
何かになれたことに、今でも小さな満足を抱いている。
 腰の律動は、長く続ける必要はなかった。初めて包み込まれた果
てしない充足感と、強く締めつける感覚は、到底我慢できるもので
はなかった。
 彼女の肩を抱いて、二度、三度と腰をぶつけると、二度目の山は
簡単に訪れてしまっていた。精を腹部に放つと、そのまま崩れ落ち
た。彼女の荒い息が、耳元で響いていた。
「坂ネエ……。大丈夫?」
 手を伸ばして、乱れた髪に触れると、僕の手の甲に、彼女のしな
やかな手がそえられた。仰向けになったまま、乱れ落ちた髪の中で
目を閉じた表情は、とても大人びて、まるで二十くらいの女性のよ
うに見えた。
 そして、にっこり笑った唇が、穏やかに言葉を発した。十五年前
の事なのに、昨日のように思える言葉を。
「今、ホントに全部忘れてた。最後の時、私と、ミチオしかいなく
て。私の身体、一生懸命だった。どうしようもないものに侵されて
るのに。……ありがとう、ミチオ。私、絶対に忘れないから。私の
身体は、間違いなく私のもの。たとえ、どんなに切り刻まれても。
ありがとう。わからせてくれたの、ミチオだよ。ありがとう……」
 彼女が手術の知らせが教室で発表されたのは、それから三日後の
ことだった。そして、すぐに集中治療室に入り、放射線の照射を受
けながら闘病している、そんな話を人づてに聞いたりした。
 三学期の日々は駆け足で過ぎ去り、高校進学への準備が忙しさを
増していった。しかし、そこに彼女の姿はなく、窓際に置かれた机
は、ずっと空のままだった。
 面会は、クラスの誰一人としてできなかった。ただ、先生が重苦
しそうな表情で、「彼女、頑張ってるよ」と一言だけ告げた冬の日
を憶えている。
 僕は、ずっと彼女、坂ネエの事を頭の隅に置いたまま、日々を送
っていた。彼女の自宅に連絡を入れた事もある。病院に出かけた事
もあった。でも、彼女に二度とは会わないないまま、父親の転勤に
伴って、東京を離れる事になった。
 そして高校二年の時、突然にかかってきた中学時代の同級生から
の電話。最後に少しだけ彼女の話題になった時。「坂井さんの事、
何か知ってるか」―勇気を振り絞り、ようやく尋ねた僕に、旧友は
噂だけど、と断った後でこう告げた。
「お前が東京から引っ越してからほどなく、亡くなったらしいよ。
もう、病室にいなかったらしんだ。女子が尋ねて行った時には」
 その話聞いてから何日かは、何をしていても重苦しい気持ちが離
れていかなかった。虚しかった。彼女ほど、生きるべき人はいなか
ったはずなのに。世界は不平等だ。本物の幸福なんて、ありはしな
い。ただ、その場だけの運と、要領よく自らを欺く心だけが満ちて
いる。それが、僕のような人間なんだ。
 そして僕は、平凡な人間なりに勉強を続け、平凡な人間なりの大
学に入った。一浪したのも、ちょうど僕らしいと言ったところかも
しれない。
 大学に入って半年。下宿生活にも、だいぶ慣れた。久しぶりの東
京は、相変わらず空が狭くて、でも、少し懐かしい気がした。窓の
外は秋の空。今日は二限から。ま、楽勝だから三限からでもいいか
……。
『一度は諦めかけたんですよ……』
 ずっとつけたままにしてあったテレビから、どこか記憶にある声
が聞こえた気がした。
『そうですか。治療は大変だったんでしょうね』
 寝転がっていた俺は、マイクを持った女性アナウンサーが映し出
された画面を見た。今の声は、確かに……。
『もう、忘れちゃいました。私、お気楽な方なんですよ。足がなけ
ればないで、そのようにするしかないでしょ? だって、どっちに
しろ生きてるんですから』
「坂ネエ……」
 僕は、TVに呟きかけていた。画面に映し出された、青いランニン
グと、トレーニングパンツ姿の女性。その人は見間違いようもなく。
『こう仰る坂井さんですが、今から見せて頂く跳躍をご覧になれば、
彼女のされた努力が、並大抵ではないことをご理解頂けると思いま
す』
 髪は短くなっていたけれど、あの丸い瞳と、太い眉毛、大きな唇。
背が高く、スラリと伸びた背中までも、五年の月日を感じさせない。
ただ、右足に付けられた、細く伸びた義足を除いては。
 遠目になったカメラのパンと共に、彼女が走り出した。
 信じられなかった。
 少しギクシャクはするものの、身体を少し斜めにしながら、バラ
ンス良く走って行く。手を振り出す小気味良さは、全く変わらない。
 次第に増したスピード。踏み切り板の前で、器用にステップを踏
んで、左足への跳躍へと姿を変えた。
「高いよ……」
 彼女の身体が、秋の空の下で宙を舞った。確かに、反り上がって
姿勢を作り、どこまでも、どこまでも舞い上がるように。
 鳥だ。
 僕は、その場で飛び上がった。狭い六畳の部屋が、着地と共に大
きく振動した。いても立ってもいられず、開け放った窓の外に、大
声で叫んだ。
「……ヤッタ、坂ネエ、凄いぞ!」
 身体中に溜まっていた滓が、全て消え去ったように感じて、大笑
いをしたくなった。馬鹿野郎、馬鹿野郎!
 何故か涙が溢れてきた。嬉しいのか、情けないのか、どうにも判
別できない。ただ間違いないのは、坂ネエは生きて、変わらずに前
を向いている事。
 見上げた空の向こうに、群れた鳥が飛んでいく。東京では珍しい
眺めだった。
 僕は飛び去っていく小さな羽ばたきを見つめながら、鳥と共に遠
い空を飛ぶ自分を思い浮かべていた。