外の景色は、空気までが凍って見えるほどに、冷たい静けさに満
ちていた。
 夜の路線バスは蛍光灯の明かりばかりがぼんやりと光って、数少
ない乗客も無言のまま身体を小さく竦め、降車だけを待って車両の
揺れに身体を任せていた。
 最後部の座席に座る、学ラン姿の若い男が立ちあがった。第二ボ
タンまでが外され、はだけた胸元には、金色のチェーンが光り、短
く突き立った髪の下では、獲物を狩る豹にも似た鋭く細い瞳が光っ
ている。
 彼が、背の高い身体を揺すりながら大股で前方へと歩む通路の中
ほどでは、狭い座席に身体を預けたブレザー姿の少女が、窓の外を
ぼんやりと見つめていた。
 飾り気のないセミロングの髪。これと言って特徴のない平板で面
長の顔。ただ、眦の下がった丸い瞳だけが柔らかく輝いて、暗い冬
の景色以上の何かを映し出している。
 少年が少女の座席の横を通り過ぎようとした瞬間、バスが大きく
揺れた。
「おっ」
 喉の奥で小さく声を出すと、バランスを崩した身体が左側によろ
めいた。そして、少女の横に置かれた荷物にぶつかった。斜めに置
かれていた花柄の紙袋が座席から滑り落ち、中に入っていた書籍や
ノートが、ばらけて床に落ちた。

 少女―誠子の一週間は、相変わらず変わり映えのしないものだっ
た。高校に入ってから、いや、自分が誰かを考え始めた、はるか昔
の日々以来ずっと。

 「門限やばいんじゃない?」
 ファーストフードでハンバーガーを一つ胃に落とし込んだ後、書
店の雑誌コーナーで、ぼんやりと漫画を眺めていた。
「あ、そうだね。じゃ、バイ」
 友達に軽く手を振ってついた帰路。マフラーとコートで身を包ん
でなお、制服のスカートの裾から吹きこんでくる風が冷たかった。
 夕闇に落ち始めた街角。行き過ぎるざったな姿の人々。
 背中を丸めて、人の群れに同化すると、誠子は駅前へと横断歩道
を渡っていった。
『何も変わらない日々』
 夜。ベッドに横になりながら、小さな日記帳に鉛筆を走らせてい
た。
『私はこうやって年をとっていくんだろうな。何もできないで、何
も感じないで。みんなはやりたい事を口にするけど、私にはそんな
もの何もない。多分、みんなだって。ただ、思い込んでいるだけな
んだ。だって、この世界には何もないから』
 そこまで書くと、仰向けになって目を閉じた。
 今日、雑誌で読んだ漫画のキャラクターを思い、枕を抱き締めた。

 少年―雄也は憤っていた。くだらない奴らばかりが溢れかえる、
この世界に。

 数発入れた拳が、じんわりとした痛みを返していた。
「ケンカ売んなら、テキ見て言え!」
 腹を抑えてうずくまる、長身、黒いコートの背中。別に、喧嘩を
売るつもりはなかった。店先でぶつかった、大学生くらいの男。
「あ、すまん」
 ―その口のきき方が気に入らない、そう言って詰め寄った視線は、
意に染まぬものは誰であれ我慢できない、ありがちな内側を透かし
見せているように思えた。
 一発入れられたせいか、口の中で血の味がした。投げ出した鞄を
拾い上げると、集まりかけたギャラリーに鋭い一瞥をくれて、街の
雑踏に紛れた。
 右手を突っ込んだズボンのポケットには、触り慣れた金属の重み。
上着から取り出した煙草をくわえると、素早く火を灯した。
  
 目が覚めた時、どうしようもなく身体が冷たかった。
 まだ朝は遠く、動くものの音はほとんどなかった。ただ、ずっと
遠くで、タイヤとアスファルトが擦れ合う小さな音だけが聞こえて
いた。
 深い淵から聞こえた、嘲り、諦め、蔑み。違う!――自分の叫び
で目が開いたような気がした。
 その響きは、いつも優等生だった幼馴染みの声にも、善意の塊だ
った担任の声にも、いや、能面のように日々を繰り返す母親の声に
も思えた。
 冬の夜の静けさが、眠気を奪って返してくれなかった。ただまん
じりと天井を見上げて、長い事頭を空にしていた。
 そして、起き上がって見つめたベッドサイドの小さな鏡。
 開けたカーテン、月明かりに映し出された自分の顔。
 何の起伏もない、丸い鼻の、笑ったような眉の。――魅力の欠片
もない表情が、暗然とした視線で見つめ返していた。
 鏡の傍らに置かれた、ほとんど使う事もない細いルージュを手に
取った。そして鏡に当てると、ジグザグの線で、真っ赤に塗り潰し
た。

 後ろから抱え込んだ白い双丘から、薄く生え揃った黒に縁取られ
た紅い柔肉が、内側の粘膜までを晒して、うっすらと濡れ輝いてい
た。
「やあん、もっとペロペロしてぇ、オマンコぉ」
 おもねりで粘つく声に、見よがしに腰を振る露わな媚態。
 雄也は、長い髪を振り乱す女の腰を捉えると、まだ半分ほどの強
度しか得ていない剛直を、一気に後ろから捻じ込んだ。
「アン」
 声が上がると、女の手が後ろに伸び、足の間で揺れる陰嚢を掴み
上げた。
 腰を激しく動かした。もっと深く咥え込もうと、形の良い尻が揺
れた。
 一層、腰を激しく打ちつけた。
「ああ。いい、ユウのチンチン、いいよお」
 激しい媚態とは裏腹に、雄也の心は別の空間にさまよっていった。
淫らな言葉を叫び続ける女が血の通わない人形のようにしか感じら
れなくなった時、身体だけが弾けた。
 そして、シャワーの音が響いていた。
 ベッドサイドに置かれた青い機械が、短い着信音を響かせた。
『今、時間ある? ちょっとモヨオシちゃったかも、アタシ(爆)。
暇だったらメールちょうだい』
 鼻で笑うと、雄也は携帯を床に投げ出した。

 放課後の会話は、取留めのないエロ話だった。誰それのが大きか
っただの、あいつは下手だの、どこの繁華街でいい男を掴まえただ
の。
 あいずちを打っているうち、誠子は辟易としてしまっていた。
 ただその一方で、何の経験もない自分に、どこかで違和感を覚え
てもいた。
 その夜、何となく下着の中に手を差し入れていた。
 自慰行為は慣れ親しんだものだった。小学校の低学年の頃から、
どこを触れば身体がじんわりとするのか、よく心得ていた。
 草むらの中を探り当て、快感の核の周辺を、円を描くように刺激
していった。キャミソールの上から、やわやわと胸の頂きを周り探
り、強く摘み上げた。
「う…」
 二つの指で、クリトリスの両脇を挟み擦った時、普段は思いも浮
かべぬ残像が意識をよぎった。
 逞しく、均整の取れた男の身体。肩から背中までを包み込むよう
に抱き締められると、閉じた目蓋の裏に、力強い笑みの印象だけが
浮かんだ。
 小さな嗚咽を上げて、誠子は身体を震わせた。
 そして、身体から痺れが過ぎ去った後、細く目を開けて、唇に当
てた親指を小さく噛んだ。

 本とノートが床に散らばる音に、窓の外に向けていた空想の糸を
断ち切られ、誠子は瞬時に通路側を見た。
「あ、ごめんな」
 雄也は素早くしゃがみ込むと、本を拾おうとする。逞しい胸元が、
外したボタンの間から見えた。
「あ、いいですよ。自分で拾うから」
 見上げた先に、豊かさを湛えた黒い瞳の輝きがあった。
 二人は一瞬、時間を止めてそこに佇んでいた。
 ――バスが停車いたします。
 機械音のアナウンスが車内に響いた。
「あ、行ってください。着きますよ」
 誠子の声に、雄也はうなずいた。
「ごめん。悪いね」
 学ランの背中が前方へと進むと、ちょうど停車したバスの降車口
が開いた。定期を示すと、軽い感じでステップを下りていく。
 誠子は一瞬、思いを巡らせるように視線を落としたが、すぐに散
らばった本とノートを集めて、紙袋に入れた。
 そして、再び窓の外に視線を戻した。
 肩に上げた手に鞄を吊るした学ラン姿の背中が、左右に揺れなが
ら歩道を歩んでいたが、誠子の瞳は、もはやその姿に焦点を合わせ
ていなかった。
 ずっと静寂だけを浮かべていた冬の夜空に、一瞬だけ強い風が舞
い、またもとの冷たさに戻った。