2063年、冬、クリスマス。夫婦村はひどく冷えこんでいた。


 (もう、一週間になる)
 サム――サミュエル・D・ロングはそう思った。けれど、妻が去
って一週間になっても、彼の机には書類が山と積まれ、仕事を続け
るしかすることはない。
 901160。――キーを叩くと、数値が画面に並ぶ。
 けれど、サムの心はそこにはなかった。慣れた仕事を続けている
のは、ひたすら体の方だけで、心は妻――レイコのことだけを考え
ていたのだ。
 もう、サムには、全ての成り行きがわかっていた。どれくらい、
自分が見通しのきかない馬鹿者であったのかも。
「ニュースです」
 机の片隅に置かれた薄っぺらなラジオが、急に音楽を鳴らすのを
やめた。
 サムはボードから体を離し、少しのびをする。
「2062年の調査で、単独者率が96%を越えていることがわか
りました」
 今日は眠れそうにないな、もう午前0時を告げようとしてる時計
と共にそう思う。何か、この一週間、夢のように感じていたことが、
急に身近になった感じがした。
 彼が仕事から帰ってきたある日、レイコはいなかったのだ。あっ
たのは、この書き置きだけ。
     サムへ
 私は家を出ます。二人で暮らしていくことに何の意味も見出せな
くなりました。リエはもう、未成年者年金を受けられる年ですし、
ジェムとロウはまだ共同体にはいれる年です。あなたももう、離婚
準備金は貯えてあるんでしょう?
 私については心配しないで――。とにかく、疲れました。私達、
第二世代なのだから、この十年間よくがんばったと言えませんか?
 さようなら、サム。

               レイコ

 この時は、何がどうなったのかわからなかったな、サムは窓際へ
歩む。けれど、もう、よくわかっていた。自分は何も作ろうとはせ
ず、安住していたのだ、と。妻に家庭の全てを託していたのだ、と。
「――次は、児童共同体問題です。レポートはリチャード・スマイ
ス記者」と、ラジオの声。
「ここは、ニュー・オーサカのリング児童村です。無邪気な叫びや
笑いの聞こえるどこにでもある児童共同体です。しかし、ここもま
た、近年のフリー・チルドレンの急増で、マーチャー(Moche
ar)の激しい不足に悩んでいるのです。この問題は十年来、心理
学者や社会統計学者が叫び続けてきた危機の具現化であることは間
違いないでしょう。今、この児童村において、一人のマーチャーに
対して三十人近くのフリー・チルドレンが割り当てられています。
これは、クライム博士の唱えた一対十の割合をはるかに越えたもの
であり・・・」
 熱の入った記者の言葉に、サムは苦笑いをした。――ああ、まだ
こんな余裕があったんだな、と思う。でも、俺達の家族が壊れたの
も、一つには社会の影響がある。――いや、本当はこんな冷め切っ
た社会だからこそ、俺達みたいな生き方が尊いんだ。
 ほら、形を求める――。いや、今度はよくわかった。絶対にうま
くやれる。
 けれど、サムの首は振られた。妻はもう、あの汚れた街のどこか
に身を沈めてしまった。もう、戻らないだろう。
 どこに焦点を定めるでもなく、窓の外を見る。
 ぼんやりと霞んだ真夜中の夫婦村。街からは想像できないほどの
自然と、優しさに満ちている。
 けれど、新しくこの村にやってくる夫婦は年ごとに少なくなって
いく。そして、それはまた、サムのように古き、良き家庭にあこが
れる人々が減っていく証明でもあった。
 仕事にもどろうか、いや、やめようか、迷った末にサムはもう一
度書斎の机に向かった。
「そして、マーチャーの不足は心理的な母親意識の喪失から来てい
ることは専門家の一致した――」
 レイコは、あれほど母親らしく、家庭を知っていたぞ、サムは反
論したが、ラジオはお構いなく続ける。
「ちなみにここの児童村で一人のマーチャーに対して払われる賃金
は約5000ドルであり、すでに一流企業クラスの賃金となってい
ます。しかし、マーチャーになろうとしている女性達は、『一万ド
ルでも安い』苛酷な仕事であると主張しています。しかし、これは
純粋に教育の問題です。我々は・・・」
 やっぱり、仕事に身を入れられそうにない。サムはキーボードに
向かおうとする無駄な努力をあきらめた。今日の自分はひどくセン
シティブになっている。本当に、身近に感じられるのだ。もう、妻
はおらず、自分は子供三人と暮らしているのだ、ということが。
 子供達を児童共同体に入れてしまってもいいのだけれど――。彼
は唇をかんだ。けれど、レイコだって、自分でも嫌っていた、あの
殺伐とした単独者どもの巣窟に、そんなに長く耐えられるはずはな
い。
 また、独りよがりな!レイコも言っていた。「男は嫌なことから
逃げようとして、自己正当化する」
 でも、こんな社会の中で、少なくとも俺は心に忠実に生きようと
しているのに。
 ――少し感情のたかぶったサムの心の中に、歴史と社会への怒り
が湧きあがってきたのは当然のことかもしれない。
 彼は、2027年に生まれた。親の顔は知らない。なぜなら、生
まれてすぐ、児童共同体へ入れられたからだった。親は通称、フリ
ーチルドレン第一世代、の子供達だった。二十世紀後半から顕著に
なった莫大な離婚者たちの申し子。彼らの90%は家族に意義を見
出せなかった。結婚など、考えもしなかった。そして、何よりおそ
ろしいのは、子供を愛することができず投げ捨ててしまったのだ。
投げ捨てられた子供達、それがサム達第二世代。
 いつの間にか、フリーチルドレン達を保護するマーチャーなんて
職業も誕生していた。もっとも、サムにとって、彼女らは金の亡者
の偽の母親にすぎなかった。そして、その通りだった。街には愛情
のかけらもなく、全てが寒々としていた。清潔で秩序立ってはいる
けれど、その心の内側は・・・・。"生きがい"と呼ばれるのは趣味
や娯楽や仕事。けれど、それは愛の代用品にすぎないのだ。
(他の奴らはすぐ慣れたな)
 サムは記憶をたどった。そして、自分は物質的な社会に適応する
ことができなかったのだ。土・日、十人の子供を残してエリート達
との遊びに明け暮れるマーチャーを憎悪し、同じようにホノビやゲ
ームにしがみつく共同体内の子供達を避け続けた。そして、家庭や
家族に憧れ、他の子供達と言い争った。そこで彼はひどく孤独で不
幸だった。自分に共感してくれる相手はなく、いつも一人だった。
 だから、十二才、未成年者年金が出るようになるや否や、彼は一
人暮らしを始めた。そして、大学へ――。そこで経営学を学んでい
る時に出会ったのがレイコだった。初めて共感できる相手に出会え
た喜び、そして、それはやがて愛へと発展していった。
(あの時のレイコ、見ればすぐにわかった。目が輝いて、誰よりも
若々しかった)サムは、あの小柄な心優しい日本女性を想い、静か
に微笑んだ。けれど、ぼやけた心地良い過去の写真は、たちまち最
近の痛みに覆われてしまった。
「みなさん、どうぞ金星へ」
 あの時も、このラジオが鳴っていた。
「最高の観光地にして保養地。あたかも楽園を思わせるグレー・キ
ャンベラ。そして、光り輝く未来都市ニュー・ニューヨーク。情緒
溢れる金星最古の年、ロンドン。地球では味わえない新鮮な空気と
輝く太陽。そして、わが社ならではの価格、半年間でわずか15万
ドル!さあ、みなさん・・・」
 その時、サムは自分でスイッチを切った。気楽な単独者の道楽だ、
所詮は。
「あなたも金星に行きたいんじゃない?」
 レイコの口調には刺があった。
「バカを言うなよ、レイコ。夫婦村にいるっていうのに」
 もちろん、金星行きなんて離れ技は10%に満たない婚姻者にと
って離婚を意味していた。
「私は、行きたいわ」
 レイコはポツリと言った。
「――まさか、別れたいってわけじゃないだろう、レイ。急に。十
年間、そんなこと一度も言ったことなかったじゃないか。俺達みた
いに、古き良き家庭に魅せられ、互いに理解しあおうとしている男
女が――」
「待って。その言い方は間違ってるわ。それは、目的のための目的
であってはならないんだから。別に私達、目立とうとか、崇高な意
志とかでを持って一緒になったわけじゃない。お互い、そうするこ
とに価値を見つけただけじゃないの。そうでしょう?」
「・・・ああ」
 その時、サムはうなずいて、彼女の昔から変わらぬ論理性に懐か
しささえ感じていた。
「――それで、君は価値を見つけれられなくなった、とでも?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
(でも、もうレイコは価値を見つけられなくなっていたんだ)
 サムは回想を打ち切った。これ以上考えあぐねてもどうしようも
ない。自分は憧れにとらわれた非現実的な男だったし、レイコは家
族の価値と安らぎを知っていて、精一杯努力してきたんだから。俺
は、どれくらい家族のことを気遣っていたろうか、何度考えても、
ほとんどしていなかった、そう答えるしか方法はない。
「0時の時報です」
 またラジオの音が身近に帰ってくる。チーンという音と共に、さ
わがしく、陽気な声が響いてくる。
「メリー・クリスマス!今日はクリスマス!クリスマスの日がやっ
てきたよ。地球のみなさん、メリー・クリスマス。そして、金星の
みなさんもメリー・クリスマス!クリスマスと言えば、この曲。ク
リスマス・スペシャル1曲目は、永遠のボーカリスト、ビング・ク
ロスビーの『ホワイト・クリスマス』」
 曲が流れ始めて、サムは疲れきった心と身体を椅子の背もたれに
まかせた。ちょっと部屋が明るすぎる。と、後ろから声。
「パパ」
 サムはちょっとびっくりして、後ろを振り向いた。
「ジェム」
 机を離れて、自分似のちっちゃな5才の子を抱き上げる。
「眠れないのか」
「うん」
「ロウは?」
「ねちゃった」
 そうだろうな、とサムは思う。双子のうち普段快活なジェムの方
が、ずっと寂しがりやなんだ。もちろん、ロウにも親の助けはいる
けれど。――こんなことも、レイがいなくなってから良くわかるよ
うになったんだ。
 キッチンを抜け、廊下を歩いて、一番の双子の部屋のドアを開け
る。
「パパ?」
 ロウも起きてしまっていた。サムは、早くもあくびを始めたジェ
ムをベッドの中にねかす。 ――まだ、二人とも5才なんだ。
 しばらく、二つ並んだベッドの間に座っていてあげると、二人と
もすぐ寝息をたて始めた。サムは、二人の顔をのぞきこんで、そろ
り、そろりと部屋を出た。彼らのクリスマス・プレゼントは何にし
たらいいだろう?
 廊下を少し戻ると、左手の部屋から、光が少しもれている。サム
はその部屋のドアの前にも立ち止まった。
「リエ、もうねるのか?」
「まだ」
 今日は機嫌がいいみたいだな、サムは若い13才の娘の部屋を離
れようとする。
「ねえ、お父さん」
 サムは立ち止まり、彼女の部屋の戸を開けた。サムとレイコの最
初の子は、もうベッドに入っていた。
「何だい、リエ」
 枕に埋まった頭がちょっとだけ持ちあがり、サム似の茶色い目が
少し揺れた。
「――お母さん、帰ってくる、わね」
 胸に槍でも突き刺されたように動揺を感じた。けれど、サムは答
える。
「もちろん、帰ってくるよ、リエ」
「そうよね」
 サムはうなずくしかなかった。この子が母親のことを口にしたの
は今が初めてだったし、その声には何か切望に似たものが見えて、
サムは胸がつまった。
「電気、消すよ」
「うん」
 レイがいる時、あれほど手に負えなくて、ちゃきちゃきしていた
思春期の娘が、まるで子供みたいだ。いや、何でも知っているみた
いに思えたって、まだ、13才なんだ。
 サムは、リエの部屋を出た。少し考え込んで、キッチンを抜けて、
書斎へ戻ろうとして、そこで足を止めた。キッチンの左奥の窓が開
いて、夜の風がふきこんできていた。
(早く寝ないと、朝食の用意に遅れるな――、でも)
 サムは、玄関から外へ出た。寒い風に吹かれてみたかった。空に
は、星と雲が相半ばしている。ひどく寒かった。でも、サムは真っ
暗なクリスマスの空の下を、庭の入り口のアーチまで歩いて行った。
(レイ、今こそ君が必要だ。もう、二度と間違いはしないから)
 暗い中にも一軒、二軒、遠くにポツポツと明かりのついた家があ
る。彼らは、うまくやっているのだろうか?それとも、1週間前の
俺達のように、危機に瀕しているのだろうか?
 サムは不意に思った。
 もう、社会は、家族という形そのものを排除しようとしているの
かもしれない。日に日に人間の減っていくこの夫婦村はその象徴で
はないだろうか?――けれど、街の人々の求めている自由とは何な
のだろう?楽しみとは何なのだろう?人間はそこまで解放されてし
まうものなのだろうか。
 最近の街では、あの狂気的なフリーセックスによる多産時代はと
うに終わりを告げ、全面的な避妊時代に入ったと聞く。所詮、彼ら
にとって子供とは、心理的重みとなるやっかいな物にすぎないのだ
ろうか。そう、もう街には2才以下の幼児はまったくいなくなって
しまったそうだ。
 いったい、あの清潔な、しかし、どこかが異常なコンクリートの
城はどこへ行こうとしているのだろうか?彼らの求める『有意義な』
人生とは何なのだろう?
 正直なところ、サムにはそれら全てが理解できるわけではなかっ
た。彼は、古いタイプの人間だったから。
(金星って、どの星だっけ)
 彼は空を見上げ、すぐにあきらめた。雲がかかっているうえに、
彼は金星の位置を知らなかった。けれど、あの惑星の上にも今では
人類が住んでいるのだ。
 ――でも、どこへ行ったって、人間そのものが変わることができ
る?ねえ、レイコ。
 そう思った時、彼の耳に、遠くからの足音が聞こえたような気が
した。サムは、はっとしてアーチから広がる暗い村の景色の中に視
線を走らせた。
(バカだな、戻ってくるはずがない)
 そこには、何もなかった。ただ、冬の冷たい風に吹かれる大地が
あるだけ。――サムは苦笑いした。最近、外に出るたびにこんな幻
聴に襲われる。それは、自分の心のどこかにある、レイコが戻って
くるかもしれない、そんな甘い考えのせいなのだ。
 けれど、それは、未だにレイコを愛している証拠でもある。そし
て、おそらく、レイコだって。
 これは、男の独り善がりだろうか?形を求めているのだろうか?
いや、僕達は、心に優しさの欲しい同類だ。もう、街にはこんな気
持ちを拾うことができる場所はほとんどない。
 風は一層冷たくなり、空はすっかり雲に覆われてしまった。今日
はクリスマスだったな、サムはあらためてそう思った。
 レイコはどうしているだろうか?ねぇ、レイコ、子供達には君が
必要だよ。そして、この僕は、子供達を共同体に入れたり、街で一
人暮しをさせたりしたくはないんだ。あそこにあるものを知ってい
るから。変化を怖れてるわけじゃない。ただ、心理的に豊かな生活
を送れる人間になって欲しいんだ。――親のわがままかもしれない
けれど。そして、レイコ、僕達だって、それは同じだろう?
 サムはうなずいた。することは決まった。
(今日、俺のクリスマスを探しに街へ行こう)
 彼は振り向き、ゆっくりと我が家へと戻って行く。そして、その
肩には、ちらりと白い雪。 どうやら、ホワイトクリスマスになり
そうだ。