漆黒の闇。寒ささえ感じさせる星々の光。湾曲が如実に見て取れ
る灰色の地平の彼方に、青の奇跡が輝いていた。
　研究棟と居住エリアを結ぶラウンジ。飾り気のない金属の床とベ
ンチ。コンテナに申し訳程度に生けられた小さな花々。けれど、真
空の外界と内とを隔てる分厚い強化ガラスの向こう、母なる星の美
しい姿が、この狭い空間を何処よりも特別な場所にしていた。
　生命亡き冷え切った空間を超えて、ここへ降り注ぐ穏かな波動。
如何なる種類の特別な波長の素粒子の流れでもなく、遺伝子に刻ま
れた記憶でもなく、生後に蓄積された経験の喚起するものでもない。
　ディビィはこの場所で母なる青い星の姿を見つめる度に思う。そ
れは、本当の奇跡なのだろう、と。
　もし、父達の好む言葉を使うなら、『個の意識を超えた、存在の
内奥に流れる純然たる意識の端緒との繋がり』――でも、そんな言
葉で表わした所で、自分の胸の内に満ちる強く、そして静かな、祈
りにも似た想いを伝えることなどできない。
《脳波、睡眠レベル。休憩を要する。疲労度Ｄランク。情報収集力、
３０％ダウン》
　付帯脳がデータを送ってよこす。
　……いいんだ、これは疲労ではない。
　ディビィは漆黒の天空を見上げ、想いを放ち続ける。綺麗に刈り
揃えられた頭髪に、まだ幼さの残る顔の稜線。十にも満たぬ幼い容
姿の中に、その細い瞳だけが、不釣合いに老練な印象を残していた。
　バタン。
　研究棟の……、三階の扉が閉じられた。ゆっくりと階段を下りて
くる足音。これは…モーガンさんだ。
　彼の特殊な聴覚に届いた微かな音は、やがてラウンジの入り口に
姿をとった。
「やあ、ディビィ、今晩も星空と対話かい」
　黄のトレーニングウエア姿の若い研究員は、椅子に腰掛けて空を
見上げる、この世ならざる子の横に立った。
「ええ。今日はラフな格好ですね、モーガンさん」
　振り向きもせずにディビィは言った。襟の付いた水色のパジャマ
の首筋、細く入ったスリットから、概略視覚データが付帯脳に送ら
れ続けていた。
　そして、その言葉の後で背の高いブロンドの青年を見上げる。人
が良さそうに笑う『父達』の一人は、ディビィの頭に手を置いた。
《対象者、身体の中心部で僅かな体温上昇。別個体のものと思われ
る分泌物の臭気》
　青い瞳の脇で、僅かに光る赤い焦点が体温分布を伝え、鼻腔の奥
のバイオセンサーが自然に反応を返した。
　ストップ。プライバシーの領域。そういった詮索は意味がない。
《………》
「そんなに、気分がいいかい？　あの星を見ていると」
「はい。なぜでしょう。遥か彼方の恒星達の光は、あれほどに冷た
いというのに。温かさ……、ちょうど、モーガンさんが今、感じて
いた温もりと同じように」
　穏かに笑っていた青年の柳眉が瞬間かき曇る。
　しまった。余計なことを……。
「ご、めんなさい」
　俯いて口篭ったディビィに、モーガンは表情を緩めた。
「……、ディビィに隠し事はできないなぁ」
　そして、ポン、と小さな肩を叩いた。
「母なる、星か」
　穏かな声。自らの困惑よりむしろ、暖かい同情。
　ディビィは顔を上げると、静かに言った。
「部屋に、戻ります。スミオに怒られてしまうから」
「そうだな。今の君には、ここはデータが多すぎる」
　『人』の持っている、無為の優しさが、好きだ。きっと、僕の内
にも流れている、その特性。
　ディビィはラウンジを後にすると、第二研究棟へのハッチをくぐ
った。

　次の日も、ただひたすらに文字を追い続ける時間だけが過ぎた。
　既に、データとして流し込まれる膨大な量の数値や文章は意味を
失い、この数週間は、実際の文字や数式を『読む』作業に費やされ
ていた。
　モニター上の文字を追うディビィの座る、四方十メートルほどの
部屋。淡いブルーで統一された質素な空間には、飾り気のないデス
クやベッド、棚、端末が並ぶ。ほぼ完全に防音された密閉空間には、
小さな窓があるだけだった。そして、その外には灰色の地面と、真
空の闇。そして幾つかの冷たい星の輝きが見えるだけだった。
　『論理においては、何一つ偶然はなく、もしある物が事態の内に
現れうるとすれば、事態のそのような可能性は当の物のなかに既に
予定されていたのでなければならない』……論理的である事、全て
の可能性の背後にあるもの。
　ディビィは息をついて文字から目を離した。その時、微かな作動
音と共に、背後のドアが開いた。流れ込んでくる概略視覚データ。
《個体名：スミオ》
　無言で背後に歩み寄った白衣の男性は、繰るのを止められた薄っ
ぺらなモニターを覗き込んだ。
「『論考』はつまらないかな、ディビィ」
「いえ。ただ、僕にとっては自明のことが多いので」
「……そうかもな。曖昧さの排除は、君達のような存在には大前提
だろうからね」
　なんだろう。スミオの語彙と、声の響きに通常と違った様相が感
知される。
　ディビィは顔を上げると、眼鏡をかけた中年男性の全身を詳細視
野に入れた。外面に変化はない。
《心拍数の増加。前頭葉の感情部位に大きな熱量》
　付帯脳がデータを返す。確かに、肩に掛けられた手からは、微細
な震えが感じられる。
「それならば、読みたい本はあるかね」
「そうですね……」
　注意深く、眼前の男性の秘めている感情を読み取ろうとしていた。
「では、カントのものを。このブックには、データがないので」
　わからない。けれど、僕自身の不安までも喚起する、この声の揺
らめきは……。
「わかった。ライブラリを調べてみよう。それとも、君自身がコネ
クトするかね？」
「いえ」
　ディビィは首を振った。もとより、データの直接回収は、『精神』
の部分に大きな負荷がかかる。増して、最近の疲労感は……。
《データ合致。僅かな憂慮。痛み》
　そうか。そうなのか。
　その瞬間、ディビィは一つの可能性としてずっと推測し続けてい
た状況が、自らの体に迫っていることに気付いた。
「さ、もう休むといい。君には、もっと多くのことを学んでもらわ
なければいけないんだ。人類の未来のために」
　再び、通常のスミオとは違った声の波長のぶれ。やはり、それは
不安を表わすものだ。
　そして、早足で部屋を出、階下へと下っていく硬質な足音。
　ディビィは第一研究棟へと消えて行くスミオの気配を見送ると、
ドーム型のベッドの中に身体を横たえた。
　確かに腎臓の裏、左の背中周辺に蟠る熱を感じる。
　恐怖。そうだ、確かにこれは、恐怖だ。
　しかし、湧き上がろうとする感情の奔流を、強い自制で押さえ込
むと、目を閉じた。

　夜。
　限界まで聴覚を拡張して捉えた声。
「なぜだ！　なぜ、ここまで来て、拒絶反応が……」
「擬似神経との接続部が……」
「そんなことはわかっている」
　何かを叩きつける音。
「ここまで血液が汚れる前に、何か手を打てなかったのか」
「免疫系の、異常亢進を押さえる手立てを……」
「もはや、手遅れだ。この状態は、Ｍ２、３の時に経験済みだろう」
「それより！」
　若い男の声。
「あの子は、まだ、本当の『物』を感じ始めて数週間なんですよ？
　そんな、幼い子を……」
「わかってる。そんなことは」
「いや、あなた方はわかってない！」
「やめろ、モーガン。言い始めた所で、辿り付く結論は一つだ。我々
は、そこに踏み出したのだからな」
「ならば！」
「仕方がないんだ。あの子は、まだ幸福だった。光を見、自ら考え
ることができたのだから」
「……そんなことを、あなたが決められるのか」
　意識の集中を解いた。
《脳波の乱れ。呼吸数・心拍数の増加》
　わかってる、わかってるよ。
　白い頬を、一粒の真珠が流れ落ちていった。

　第一研究棟の最上階に、大きなスチールの扉で閉じられた部屋が
あった。精密な機械が所狭しとならぶ、無菌状態に保たれた青白い
部屋。かつてはディビィも、この部屋で長い眠りの床についていた。
ただひたすらに情報を蓄積し、二つの要素によってできた身体が
『なじむ』まで、夢を見続けて。
　綺麗に並べられ、パイプや結線で繋がれた透明で流線型の装置の
中は、既に殆どが空になっていた。
　ただ、中央に置かれた一つを除いては。
　滅菌室から室内に入ったディビィは、ゆっくりと歩み寄ると、ガ
ラスの中を覗き込んだ。
　白いシーツの上には、自らと瓜二つの十才くらいの少年が、青い
上衣を纏っただけの姿で、目を閉じている。
　ディビィは、素早く装置横のコンソールを操作すると、繋がった
ケーブルの一本を抜き去った。そして、左上腕の付け根で、皮膚を
通して微かに光る円形の場所に、ケーブルの先端を押し付けた。
　付帯脳を通じて、直接的なデータの流入を感知した。ピリピリと
した感触が、別の意識とのリンクを告げる。
（……誰？）
　まだ睡眠状態に近い意識に、小さな出力で呼びかける。
（僕だよ、ディビィだ。久しぶり、シオン）
　シナプスの弾ける微かな音。そして、奥深い場所で、彼の意識が
目覚めた。
（君か、ディビィ。もう、僕も動き出す時になったのか？）
（いや。でも、おそらくもう、間もなくだと思う）
（憂慮。不安。寂しさ……。意識が乱れている。君の出て行った現
実世界で、何かあったのか）
（いや。また、同じ事が起こるだけ。ずっと前にいなくなった、僕
達の兄弟のように）
　二人にとっては長い、しかし、客観時間的にはひどく短い、情報
の空白があった。
（それは、確定的な事実？　回避する方法はないのか）
（おそらく、不可能だと思う。人為的な組織と、本来の生体組織を
確実に連動させる方法は、ない。最終的には確率の問題）
（ディビィ……）
（大丈夫だよ、シオン。僕の中にはあの、悪しき感情は湧き上がっ
ては来ない。きっとそれは、自己への執着から生まれるものだろう
から。その意味で僕達は、本来の人間では有り得ない）
（でも、君の中で、何よりも強く輝く青い星は……）
（きっと、人であるよりずっと、深い場所から顕れる感覚。だから、
僕は嬉しい。生き物として中途な存在であってなお、この美しさに
抱かれることができる幸せが）
（……僕には、捉えることができない、深い、想い。でも、わかる。
あの星を、そして、人間達を、守る、こと）
（そう。だからシオン、君に托したい。僕達が父達に望まれたよう
に、人を導いて欲しい。君になら、出来るはず。最後の、兄弟）
（しかしディビィ、人達は気付かない。救いはもたらされるもので
はなく、常に自らの内にしかないことを。そして、僕は、引き裂か
れる）
（それで、いいんだ。わかっているだろう、シオン。だから僕は、
今去っていくことが痛くない。君に全てを残し、あの眺めを見るこ
とができた瞬間を信じられるから）
（信、じる……）
　ディビィは、目覚めてから数週間に蓄積された、全てのデータを
解放した。僅かなうめきと共に、それらを受け入れるシオンの意識。
　シオン、君が目覚めた時、これらの全ては意味を持つだろう。
（さようなら、兄弟）
　コネクトを切断する直前、シオンの意識が聞こえた。コンソール
を操作したディビィは、ゆっくりとガラスの上に手を乗せた。そし
て、一度目を閉じると、踵を返して部屋を後にした。

　処置は、ディビィの申し出によって行われた。このまま治療を続
けても、生体と擬似組織の間の乖離は急速に進展し、全ての感覚を
消し去るほどの痛みと忘我が待っている事は、既にわかっていた。
　それより、信じた美しい眺めを傍らに、安らかな眠りにつきたか
った。
「モー、ガンさん。もう、少し、カーテンを……」
　ベッドの窓からは、漆黒に輝く青いオアシスが見えた。
《体温、低下。心拍数、低下。生命維持危急レベル……》
　シオン、頼む。人たちを、あの星の全てを……。
「ディビィ…」
　傍らに立った青年は、急速に冷たくなっていく少年の手を握り締
めていた。
「あ、りがと……」
　人…、優しさが、……好き……だ…………
《エマージェンシー。生命活動停止の危機。脳波、低下》
《反応、なし。全レベル、Ｅ。データ領域、退避。脳付帯域、停止
……》
《……………………………………》