2

 朝の陽が、花の散らされたレースカーテンを淡く輝かせ、部屋の真ん中に置
かれたキングサイズのベッドまで曙光を届けている。
 流麗な木目の台座の上、オールホワイトの寝具からのぞいた艶やかな肩口が
揺れ――
 う〜ん。
 裸の腕が伸ばされると、なめらかな絹のタオルケットに浮かぶ稜線と共に、
宝石の輝きが目蓋を開いた。
 眩しげに、少しの間、大窓にかかるカーテンを横目に映してから、
「ふぅ〜」
 息を吐いた瞬間、毛先の散ったショートの髪の中で、整った顔立ち全てに光
が宿る。
 ボン、勢いよく上掛けをはねのけて立ち上がると。
 淡い琥珀色の身体が、部屋の中央に降り立った。
 一糸まとわない、そして、緩んだところの微塵もない伸びやかさが、両手を
高く掲げて、朝の笑みを浮かべる。
 ツンと張った胸をゆっくりと揺らしながら、3歩、4歩。
 大窓のカーテンを両側に引くと、格子になったガラスの向こうを見下ろす。
 うん、今日もいい天気だ。さて、ピシッといこうかな。
 美悠は、伸ばした両手をしなやかなうなじに持っていくと、乱れた髪を軽く
梳きながら柔らかく目を閉じた。
 コツコツ。
 遥か後方、両開きの扉でノックが響いた。
「ほ〜い」
 くるりと振り向くと、ガチャッという音とともに、薄紺のワンピースにエプ
ロン姿の中年女性が現れた。
「おはようございます、お嬢さま」
 捧げ持たれた白いお盆の上には、鮮やかな赤色が映えるタンブラー。
「あ、サンキュ」
 大股で近づいた美悠は、ドリンクを手に取ると、ゴクゴクと飲み干した。そ
して、タオルを受け取って唇を一拭き――そのまま部屋の北側に置かれた木製
の衣装棚へと踵を返してから、
「……どした、志乃バア」
 空になったコップを胸の前に置いたまま、子供の頃からの家政婦は、笑いと
も憂いともつかない色を口元に。
「前にも言いましたけれど、そろそろ、少し寒い朝もありますからね……」
「……ああ」
 ウンウンとうなずきつつ、ライトブルーのタンクトップをつけた後、にっこ
り。
「サンキュ。でも、大丈夫。そんなヤワな鍛え方してないからね、あたしは」
 誰びともあらがいようのない、影一つない笑み――中肉中背の家政婦は、静
かに扉の向こうに消えた。
 いつも通り、別棟のジムでストレッチと軽い打ち込み、汗で濡れた身体をプ
ールに放り込んだ後、制服に着替えて食卓についた。
 色鮮やかなサラダが大ボールに、数種類のパンが籠に盛られた大きな丸テー
ブルには、今日は父だけでなく、母の姿もなかった。
「乃璃絵は?」
 訊ねてから、ああ、と思う。そっか、今日は……。
 湯気を立てながら注がれたモーニングティーにミルクを落としながら、ふむ。
「ドレスの方がいいかな、志乃バア」
 ひっつめ髪の丸顔が、そうですね、わたしでは……、と首を傾げると、奥の
小テーブルで食事を取っている背広姿の男に視線をやった。
「あ、ご心配なく、美悠お嬢さま。いくつかみつくろっておきますので」
 そして、斜め後ろに控える志乃バアも、
「お嬢さま、今日はくれぐれも遅くなりませんように。旦那さまも奥さまも、
今回のレセプションは……」
「――オッケー」
 紅茶を飲み終えた美悠は、言葉が終わるより早く、すっと立ち上がった。見
遣った視線は、にんまりとしているようで、優しく、どこか深く広がるもの―
―。
「ちょっと野暮用はあるけど、ささっと済ませて I'm Home! するからさ。じ
ゃ、よろしくね」
 と、風の速さでハートジュエルのピアスを耳元に。
「……お嬢さま、また、そんなに飾られていくと……」
「いいんだって、朝のリクレーション。羊ばっかじゃ、センセもつまんないだ
ろ」
 いつも通りの空、変わらない一日の始まり。
 でも、やはり今日も特別な一日。
 さて! パシッと行きますか。
 聳え立つ鉄扉の横、通用口から陽光満ちる街路へ出ると、白とモスグリーン
の制服姿は、軽やかに歩み去っていく――。

 乱取りを続ける道着の群れの中に、見慣れた姿があると気付いたのは、ロケ
ハンを始めて少したってからだった。
「お、美悠ちゃんじゃん」
 武道場の周囲を、光の具合を確かめながら歩いていたYシャツの背中が立ち
止まって、赤く囲まれた畳の方を伺う素振りを見せた。
「あ、本当だ」
 ここからパンダウンして――。
 心の中で天井の梁を四角く区切っていた桃子は、男子部員の一人と組み合っ
ている幼馴染みの姿へと……、あ。
 柔道部員と向かい合えばさすがに華奢な長身が、ぐっと相手の胸を押し、力
任せに押し返されそうとした瞬間――。
 バン!
 とても人間の身体と思えない軽さで宙を舞って一閃、相手の身体は畳に叩き
つけられていた。
 ヒュ〜!
 横に並んだ頭一つ半高い面長の顔が、驚きに口を尖らせて見せた。
「見たか、桃子。やっぱすごいよな、美悠ちゃんは」
「うん? そうかなあ」
 素っ気なく応えると(そりゃ、今さらだから)、映研の相棒は身振り足ぶり
で解説を始める。
 こう、出足払いを…、で、踏ん張るところを入り込んで……。センスがなき
ゃ、できないって。
 畳の上では、部員たちの間をぬって、美悠と投げられた男子部員の方へ近づ
いてきた「クマ太郎」が、腰に手を当てて一しきり。
 おまえなぁ、素人か。なにバタバタしてんだ――。
 あ〜あ、かわいそうに。
 まあ、細かいことはわからないけれど、あれだけ大きな人を投げるのは、大
したもんだよね。
 運動分野で、この派手な幼なじみに驚かされるのはもう、慣れっこだった。
 別の部員から声をかけられて、次の相手と組み始めた道着姿から目を離すと、
あごに手を当てて見つめている相棒のわき腹を肘でつつく。
「やっぱり、意外と暗いよね、武道場。いい感じで撮れるかなぁ」
「ああ……」
 次々回に予定しているタイトルでは、剣道の朝稽古が大きなシーンになる。
この光の具合で、さらに早朝の雰囲気を出すとなると……。
 木の壁に寄りかかって一しきり、撮影時間やライティングについて言葉を交
わす。
 窓の位置や天井を指差しつつ、細かく映像テクニックを語るファッショング
ラスの下の目は、いつものちょっとすかした感じではなく、真剣そのもので…
…。
 うなずきながら、セイ! オウ! バン!と響きがBGM。
 これなら、また、いい絵ができそうだなぁ。やっぱ、雄志だ。
 と、映画とはなんの関係もないことを思い浮べて、あ。
 ――なに、はずかしなごんでるんだろうか、わたしは。
 スカートのまましゃがみ込んで、肘を膝に、手にあごを乗せてうんうんして
いる姿を外から考えて、ぐるりと振り向く。
 誰も、見てなかっただろうね………
「ギャ!」
 背中には、白い道着に身を包んだ、しなやかな体躯が……。
「よ、桃」
 肩に掛けたタオルで豊かな胸元を拭いながら、にやりと口の端を上げたイタ
ズラ顔は、何を言いたいか詮索するまでもなく――。
「映画の下調べかい? ご苦労さん」
「どうも。美悠ちゃんも、また助っ人?」
 言葉を返す雄志に頷きながら、美悠が歌う鼻歌は、
《アイラァ〜ァブユゥ〜♪》
「……美悠ぅ!」
 はずかしメーターが頬まで駆け上がって睨みつけると、美悠は、
「何?」
 シラッと眦を上げただけ。
「ちょっと気合入れてやってくれって。クマさんにね」
 面白げに視線を散らす雄志に美悠が再び答えた時、目の前にある道着の胸元
が妙にはだけていることに気付いた。
「女子にやられてりゃ、未熟さがわかるだろうって?」
「そいうこと。まったく、人を何だと思ってるんだか」
「……ちょっと、美悠、あんた」
 肩を押して雄志に背を向けさせると、目配せをする。豊かな谷間がはっきり
と見て取れる胸元は、まさか、ブラだけ?
「あ、ああ」
 美悠は屈託なく胸元を広げると、ニッコリ。
「あのTシャツ、重っ苦しくてさ。デザインも、生地も」
 ――TVなどでお馴染みの白いTシャツではなく、大きく胸元がU字にカッ
トされた青いタンクトップ。
「しょうがない奴らだよねぇ。道着がずれた瞬間に、おっ……、スキあり、だ
って。修行が足りない足りない」
 肩から力がいっぺんに抜けていく感触。はあ、まったく。
「そういうこと……。あんたねぇ、ひょいひょい見せて、恥がないわけ?」
「どこが? あいつらに見られたからって、減るもんでも。そりゃ、カワイイ
子にジッと見つめられたら、あたしだって……」
 突然、パンと手を叩くと、
「あ、そうだ」
 くるりと振り向くと、ほぼ同じ高さにある雄志の耳元に口を寄せると、
「あそこ、見える?」
 今度は何よ?
 相変わらずのクルクル千変万化ぶりに、いつもの諦めモードが兆しかけた時、
「へぇ〜」という雄志の声と共に、二人の視線の先にあるものに気付いた。
 休憩時間で、めいめい壁の近くでくつろぐ野郎どもの群れの中に、異質な姿
がある。
 髪はベリーショートで、ちょっと見には紛れてしまいそう――でも、華奢な
肩とその立ち振る舞いは、間違いなく。
「どう思う?」
「う〜ん。どうかなぁ。ボーイッシュ、って感じだけど」
 柔道部には女子はいなかったはずだけれど……、ああ、少し前に噂で聞いた。
最近になって、ずっと柔道やってた子が……じゃない!
 臆面もなく女の子の品定めに同調する横顔に――、さらに、美悠、あんたは
……。
「ちょっと、何やってんの。失礼でしょうが、二人とも!」
 お、ゴメンな――指を顔の前に掲げて上目遣いにする相棒。
 何が?――タオルで顔を拭いながら形のよい眉を上げる幼なじみ。
 怒りのディレクション。定まる。
「……だいたい、美悠、あんたは。パートナー、見つけたって言ってたでしょ
う? この間」
「は? ……ああ、ああ」
 にっこり笑うと、
「優希かぁ。なんかね、新しい恋をみつけるってさ。うん。いいよなぁ……」
「新しい、恋ぃ?」
「ああ、そうだよ。あたしとは、恋の入学式、ってとこかな。大丈夫、優希な
ら、いい子が見つかるよ。素直だし、カワイイし」
 って、つい半月前まで、「美悠センパイ〜」とか言って、くっつき歩いてた
じゃない。
 ああ、アタマが痛くなってきた。やっぱり、普通じゃないよ、この子の周り
は。
 それでも、口が動いてしまう。
「その、いい子が見つかるって……。聞かなくても、だけど」
「ああ、そうだよ」
 再び、無敵の微笑み。
「……あの子なら、可愛がってくれる優しいコがベストだろうなぁ」
 はあ、やっぱり。まったく、無邪気に広げないで欲しい、そういうシュミの
輪は。
 桃子は、薄い茶の入った丸い瞳を諦め色全部にすると、胸の中で、…Sigh。
もう慣れっこ、だけどね。
 と、野太い声が向こうから飛んできた。
「お〜い、紅。頼むぞ」
 頭一つ半高い頭がくるりと振り向くと、
「Sorry、クマ先生。本日は、ここまで」
「おい、もうバテか? 持久力ないのが、お前の欠点だからなぁ」
 美悠は、カラカラと笑うと、手を振った。
「違うって。もうちっとスキッとしたいけど、オフィシャルワークありだから」
 濃い顔立ちの体育教師の口が、おうっ、と開かれた。
「おお、おお、そうか。例のエセプションか」
 平板なイントネーションにハハっと一息、見事なブレッシングで
「リセプシャン、ね」
 それじゃ、また来るからさ。部員たちに手を上げた背中に、隣から声がかけ
られた。
「やっぱ、行くんだ、レセプション」
 2、3歩先で美悠は振り向くと、
「あ、雄志、あんたも?」
「まあね。ちょっと社会見学込みで」
「ふ〜ん。……桃、あんたは?」
 桃子は眉を上げて、首を軽く振った。ここまでの話の展開で、雄志と頷き合
っていた。ここに来る前にも少し話題にしていた、政財界のお歴々の集う晩餐
会――。
「まさか。わたしの家とは縁のないところでしょう」
「そうかな。ウチの父上は、あんたのとこの親父さんも、って言ってたような
気がしたけど」
 ま、いいか――そんな様子で歩み去りながら、部員達に手を振る道着の背中
を見つめて、ため息混じりの呟きが耳に届く。
「やっぱ、大したもんだ。美悠ちゃんは」
 桃子は、雄志の面長の顔を視野の端に、鼻で息をついた。
 なんとなく、わかる気はした。
 こうして近くにいれば、くるくると七色に様変わりする空気。普通なら、ヒ
ンシュクを買ってもおかしくない振る舞い――でも、柔道部の男どもは屈託な
く、じゃあな〜、と手を上げている。
 それでも、続けて放たれた入学以来の映研の相棒+Somethingの一言に、ち
ょっと待ってよ、と言いかけた。
 ――考えてみないとなぁ。「Breathless」のキャスト。
「すいません」
 その瞬間、後ろからきりっとした声が響いて、桃子は背筋をビクッとさせて
振り向いた。
「はい?」
 この子――あれ、さっきまであそこに……。
 しかし、視線の先には、もう誰も立っていない。
 雄志もやあ、と手を上げる。真っ直ぐにこちらを見つめているのは、今しが
た話題に上っていた柔道着の女の子だった。
「あの、映画研究部の西涼さんと、小田桐さんですよね?」
 ベリーショートの黒髪の下、引き締まった眉と黒目がちな瞳は、緩みなく清々
としていて――。
「……そうですけれど」
 自分とさほど身長差のない小柄な下級生にまっすぐ視線を返すと、一瞬小ぶ
りな顔が下を向いた後で、またこちらを見つめた。
「すいません、突然で……」
 わずかに逡巡する様子に、雄志が柔らかく、
「どうしたの? 何か聞きたいこと?」
 唇を結んで頷くと、ボーイソプラノの声色が、意を決したように、
「お二人、紅先輩のお友達なんですよね」
「それはまあ、そういうことになると思うけれど」
 唐突な出現と質問に、不可解さが背中をもどかしくくすぐる。彼女は目を瞬
くと、
「紅先輩って、以前からあんな感じなんでしょうか?」
 さらに唐突な問いかけ。
「あんな感じって?」
「男の子っぽいって言うのか、さっぱりしているって言うのか……」
「まあ、あんな感じだよな。俺は、中学からしか知らないけどさ。どう、桃子」
 気にした風もなく、雄志はこちらを向いて同意を求める。
「ま、まあ、ね……」
 小ぶりな唇が、一瞬何かを想うように引き締められ……美悠の消えていった
方に目を開いた表情は……。何か、思い巡らせている? 少なくとも、先輩〜
っ、と朝に夕に雲霞の如く湧き出てくる女の子たちとは、違う様子だった。
「すいません。ありがとうございました」
 ぺこり、と深く礼をすると、道着の女の子は足早に畳の方へ戻っていった。
「へぇ〜。また、新規会員誕生かな? ファンクラブの」
 素軽い調子のコメントを聞き流しつつ、男子の集まりに紛れていく小柄な道
着姿を目に映していた。
 頭を小突かれて、何か高笑いしている周りに、屈託なく声を上げている様子。
やっぱり、遠くから見ると、普通の柔道部員にしか見えない。
 ふ〜ん……。
 桃子は少し考え深げに視線を落とすと、雄志に言った。
「さ、次に行こう、雄志。プールサイドだったよね」

 優雅に捧げ持たれた銀のトレイの上では、パステルカラーのデザートが、盛
り付けられたグラス越しに七色の光を散らしていた。
「一つもらえる?」
 ダークグリーンの三つ揃えが折り目正しい長身のウェイターを呼び止めると、
ブルーのブレスレッドが光るしなやかな腕が、透かし彫りの入った小さなグラ
スを受け取る。
 手の平にひんやりとした感触。白・赤・紫が重層的に交じり合った冷たさを
スイッと切れ長の瞳の高さに掲げると、
「トライフル?」
「はい、少々特別な製法でお出ししております。どうぞお召し上がりください」
 シャンデリアの輝きが作り出す、金と白銀の陰影。毛足柔らかな薄紅色の床
に、光のロンドが映し落とされている。穏やかに微笑むと、中年のウェイター
は華やかなドレスに和服、イブニングフォーマルが集うテーブル群へと、滑る
ように歩み去っていった。
 銀色のスプーンで、アイスとビスケットに衣づけられた赤いベリーを口に運
ぶ。
 あ、結構お酒が入ってる。かなり高級なブランデーかな、これは。うん…、
おいしいおいしい。
 少し前まで目まぐるしく動き回っていた人の流れが緩慢になり、歓迎会は落
ち着きを見せ始めていた。
 今日のレセプションの始終を思い浮べながら、美悠は青い光を放つ手首を指
で押さえて、くるくると回した。
 細いチェーンが絡まりあい、アクアマリンのブルーが散らされたブレスレッ
ド。そして、ネックレスとイヤリングが光る乳白色のうなじから稜線を描く、
しなやかな身体に纏うのは……。
 今日は薄茶に大人しく整えられたショートヘアーの見上げた先には、中央の
大シャンデリアから流線形に白い梁を延ばす、薄紫色の天蓋――そして、とり
まく小シャンデリアの下では、白い肌にカラード、もちろん日本人まで、どこ
か覚えのある面々が、グラスを手にあちこちで歓談していた。
 半世紀ぶりに訪日した、欧州大国の皇太子。何より家族を重んじる、かの国
の王族を迎えるにあたって、子供も交えたレセプションが催され――とは言え、
それは名目だけで。
『王子さま方も、成長なされましたね』
 うやうやしい英語のやり取りの後、そつなく曇りない立ち振る舞いで父親が
紹介したのは――
『私の娘も、ちょうど同じ年頃なのです』
『そうですか』
 温和な表情で頷く、でもジャラジャラとセンス古め、正装の皇太子夫妻に、
『妻と、娘です』
 そして、にこやかな歓談、数分。
 いつもは豪快に笑うゴツイ系の父が、隠した頷きをくれた瞬間、はいはい、
オールオッケーってことね。
 そして、ちょっと重めのドレスを引きずる母と腕を組んで人の海の中へと。
『美しく、聡明なお嬢さんですね。この国での、息子の友人になってくだされ
ば嬉しいです』
 皇太子が、あたしの方へ視線をくれて(まあ、落ち着いたいいお父さんって
感じではあったけれど)、少しタイトで、ロマンスブルー/シースルーなドレ
スをにっこり見遣った時、父上の思惑は九割方成功、というわけか。
 ビジネスも大変だ、まったく。
 食べ終わったデザートグラスを真白いクロスがかかったテーブルに置くと、
えんじのカーテンがかかった見上げるほど高い格子の飾り窓をちらと仰ぎ――
 と、素肌の肩口に、人の気配。
「お一人で、退屈ではないですか?」
 目蓋を落とし気味に、
「いいえ、少し人いきれに当たったので」
 続けて、20半ばか、の髪を撫で付けた男。
「紅さんのお嬢さんですよね。わたくし……」
「ごめんなさい。今、あちらに行かないと」
 ああ、まったく、場所が高貴になろうが、人は変わらないか。
 窓側をもう一方の端へと歩きながら、おっと……。くるぶしへと斜めに切れ
上がったフリルの裾が、足首にからまりかけた。
 ああッ、やっぱりこういう格好はあたし向きじゃない。……とは言え、先に
引き上げるわけにはいかないか、さすがに今日は。
 早くお開きにならないもんか――王子様たちも引き上げたし、そう時間はか
からないはず。
 ニコッ。
 オードブルが乗った丸テーブルの向こうに何となく目をやると、真ん丸な輝
きがすぐそこにあった。
 ん。へえ……。あんな子、いたっけ?
 レースが繊細、でも大きく胸元が開いたピンクのフレアドレスをまとった女
の子は、少し悪戯っ気をのぞかせるネコちゃんで。
 胸がドキ。うんうん、退屈ばっかりじゃね。これは、GOD BLESS ME、かな。
 となれば、さて。
 胸の内のふつふつに、グッ。心のスイッチをオン―――
「こんにちは。紅さんですよね」
 え?
「あ? はい。 ええ、そうですけど」
 こちらから歩み寄るより先に、近づきつつの声。
 おっと予想外。ともあれ、いつもより丁寧にしないと、ね。
「ああ、やっぱり。先ほどから、そうではないかと思っていました」
 優しく、にっこり、極上のスマイルを送る。肩口へ巻いたセミロング、内に
秘めたものはありそう⇔上品そうなこの子のドアノブ、見つけなきゃ。
 へえ、背が高い。あたしとそう変わらない。
「わたし、葉谷川綾乃と申します。紅さんも、お父様のお付き合いで?」
「ええ、まあ」
 にっこり、まっすぐこちらを見つめ返してくる大きな瞳。ちょっと尖った顎
に、白くて柔らそうな肩口。それに……。
「お互い、暇で困りますね。……綾乃さん」
「ええ、本当に。紅、美悠さんでよろしかったですか」
 カチッと、胸の中で鳴った。
 ボリュームのありそうな身体が、すんなり、息がかかるほどそばに立った時
に。
「舞踏会などは、催されないんですね。今日は」
 冗談めかしながら、薄桃色のジュース(アルコール?)の入ったグラスを持
って、斜め横に肩を並べてくる。
「それは、ね。もっとオフィシャルな歓迎行事なら、わからないだろうけれど」
 開いた胸元に視線を落としつつ、少しくだけた調子で答えると、
「でも、女性同士では踊れませんものね。どちらにしろ」
 密やかに返ってくる、唐突なレス。……なるほど、ね。
「ふふ。悪くないんじゃない? ドレスの女の子が二人で踊るって言うのも」
 真っ直ぐな線を描く眉、流線型を描くまつ毛の下で、もの思わしげに伏せら
れる瞳。緩やかな三角をつくる頬の稜線が、薄く染まったように……けれど、
それは。
 手の甲に、柔らかい感触がそえられ――
「どこかで、また、お会いできるかしら」
 囁き。そして、包み込むように動いた指先は、微妙に誰からも見えない、テ
ーブルの影で。
「できたら、この後でもいいのだけれど……」
 ホールの片隅とは言え、向こうではたくさんの来賓たちが行き来している。
 普通なら、何か答えを返さないといけない状況か。…でもね、あいにく――
「うん……、どうしようかなぁ……」
 オードブルを探す素振りをしながら、もっと壁際へ。
 ――あたし、受け身はきらいなんだよね。
 手首をグッと握り(ん、結構華奢なんだ)、ふわり、えんじのカーテンをひ
るがえし、影へと引き入れる。
 握った手首を、寄せた身体の間にはさみこんで、肘から腰を抱きすくめ……
まんまるに見開かれた大きな瞳が、ズームイン。
 そんなに、固く窄めなくても、ね。
 一気に押し付けた唇は、少し塩辛いテイストで。
「やめ……」
 空いていた右手が肩を押しのけようと抗う。でも、ダ〜メ。
 ドレスの上から、ふくらみに手を添え――抱き寄せた右手の下で、びくっと
する腰。
 のどの奥で、あらがう声がくぐもって。
 少し開いた唇。離さない。
 太ももを押し付けると、続けて体全体を密着させる。空いていた右手も身体
の間で拘束――ほら、もう、動けない。
 そして、お尻と胸に添えた手で、柔らかく、ギュッ。手の平に返ってきたの
は、ふんわり柔らかい、薄布をまとっただけの感触で。
 へぇ……、そんなにファンデーションしてない。生のままで、あのスタイル
なんだ。
 唇が苦しげに開くのと同時に、見つめ返していた瞳が、少し潤みかけた。
 ……さ、もう許してあげようかな。
 身体を離すと、見開いた瞳が停止中。
「裾、直しなよ」
 そして、カーテンを開けて光の下に戻ろうとした瞬間。
 ヒュッ!
 ……っと。
 飛んできた平手を肩口で受け止めると、
「どういうつもり!」
 高い声が響き渡る。
「どうって? あたし、受け身はキライだから」
 周りをハッと伺うと、女の子は唇を引き締める。きれいに真ん中で分けられ
た前髪の下では、燃えるような瞳の色。
 そして、低い声で、
「……わかって? あなたのした事…………無理に。訴えてやるから」
「どうぞ、ご自由に」
 美悠はうんうんと頷くと、涼やかに、
「誘いかけてきたのは、そっちだと思うけど。それにさ、恋は邪心ナシでいか
なきゃね。余分なモンは挟まないで」
 握り締めた拳が、離れていてもわかる。さらに、顔全体がランランと臨戦体
勢。
 あらあら、こりゃ、大ネコだ。
「どういう意味? 何を根拠に」
「どんな意味も。何となく、カンかな。でも、外れてないでしょ」
 奥歯の軋みが顎に浮かんで……ギリギリギリ。
「……このままじゃ、すまさないから!」
 頭をそびやかすと、肩先を風が通り抜ける。にっこり見送る視線の先で、突
然、足がガクッ、腰がくだけかける。でも、何事もなかったように立て直すと、
ピンク色の背中は、出口の方へ歩いていく。
 はは、やっぱり、ヒールか。背の割には、華奢だと思った。
 消えていく背中を見届けると、小さく一つ、息。
 ふぅ。にしても、まったくどんなつもりなのかねぇ。……綾乃ちゃん、って
言ったかな? カワイイ&柔らかそうなコなのに。
 と、視野に入り込んできたのは。
 後ろを振り返りつつ、見慣れた短髪+細面の顔がこちらにやってくる。
「お、雄志」
 胸の前で軽く手を上げると、向こうも手を上げてから、もう一度後ろを振り
返った。
「どうも、美悠ちゃん」
「こちらこそ。やっぱ、来てたんだ」
 自然にもう一度軽くもれる鼻息、はぁ。
「…退屈そうじゃない」
「まあねぇ。……でもさ、似合わないなぁ、それ」
 ダークブルーの三つ揃え、いつもと落差な出で立ちに笑いが漏れてしまう。
「ひどいな。これでもさ、目一杯何とかしようと思ったんだぜ……それより、
今の、葉谷川のお嬢様じゃなかったかな? えらく肩怒らせて出てったけれど」
「綾乃ちゃん、かな?」
「そうそう、綾乃嬢。知ってたんだ、美悠ちゃん」
「まあね…。あ、葉谷川……ああ、そっか」
 華族の流れを汲むとか言う……我が家なんかとは歴史が違う、名家、だった
かな?
「あんたこそ、知り合い? 気になるみたいだけど」
 まだ振り返っている幼なじみの彼氏に問うと、いつも通りちょっとすかした
調子で、
「知り合いってのか……まあ、そういう階層の中じゃ、外せないって言うのか、
ね。いろんな意味で」
「ふ〜ん。あんたもいろいろ大変そうだねぇ」
 代々政治家の雄志の家を思い浮べつつ、自分や桃は気楽かな、と思う。ホン
ト、退屈そうな世界だわ。
 まわりくどく儀礼的に行われたレセプションの始終、さっきの唐突な出来事
をもう一度思い浮べつつ、…Sigh。ああ、今日はこればっかりかも。
 雄志としばらく話している間に、ようやくざわざわと人の群れが解ける気配
が。じゃあね、帰るから――手を振りかけて、言い忘れた一言に気付いた。
「そうだ、雄志」
「ん? 何」
 今日は伊達メガネなしの細い目を、軽くにらみ付け、
「桃、たまにはどっか連れてってやりなよ。この間、ブツブツ言ってたからね。
映画ばっかにかまけてると、別のオトコにさらわれるよ。あれで、結構もてる
からね、桃は」
「ああ、」
 ちょっとびっくりしたように唇を閉じた後、目元にいつもの調子が浮かんだ。
「わかったよ。サンキュ、美悠ちゃん」
 そして、何かを隠したような、少し鼻にかかった笑いが漏れる。あ、こいつ。
「……ほら、気に入らないんだよね、その笑い。武道場でも思ったけどさ。な
んか、自分だけわかってる、って感じでさ」
 おっ、という表情で、雄志は顔の前に手をかざした。
「ゴメンゴメン。クセでさ。まったく、美悠ちゃんには敵わないよ」
「わかったならいいけどね。気ぃ悪くしないでよ。ま、友達としての忠告って
とこかな」
 口元に笑みを浮かべると、くるりと踵を返して歩み去っていく後ろ姿。
 非の打ちどころのない優雅な稜線をうかがわせつつ、少しマーメイドに広が
ったドレスの裾を揺らす背中を見つめながら、雄志の唇は小さな呟きを漏らし
た。
「うん、やっぱり。美悠ちゃんしかいないな……」

 学生会館への長い回廊は、午後の陽射しで溢れ、ベージュの壁に並んだブラ
ウンの格子窓は、先へ先へと誘っているよう。
 足取りが、軽くなる。
 今日は、授業当番の御用聞きがあって、少し遅れてしまった。
 ……時々、思う。
 別に嫌なこともないけれど、変わり映えのない、学校での日々。朝のホーム
ルームが始まった時、その後永遠に一日が続くような気分の時もある。
 誰もかれもが優しくて楽しいけれど、それ以上ではなくて。
 でも、放課後が近づくにつれて、陽が差し始める。
 部室に行けば、今日も、きっと。
 多分、わたしは、この時間を過ごすために、学校に来てるんだよね。
 階段を上がって一番上、「映画研究会」と大きく書かれたドアを開けると。
 部長、遅れてすいませ〜ん!
 カメラや照明器具、編集機材やパソコンが所狭しと並んだそこには、モスグ
リーンと白の制服の小さな背中が見えていた。
「あ、未知ちゃん」
 内側に毛先が散ったショートの頭がくるり。なだらかなやま型の目が、落ち
着いた様子で頷く。
「あれ、他の人は? 雄さんとか……」
 子犬を思わせる懐こい表情が、おかっぱ気味の黒髪の下で、ちまっとした眉
を寄せた。
「もしかして、撮影ですか? いつも雄さんの、『この光だ!』って」
「ううん、今日はお開き」
 桃子は首を振ると、胸元、緑のリボンを軽くもてあそんだ。
「……どうかしました? 桃先輩、ちょっとブルーですよぉ」
「ああ、そうでもないけどね」
 ふ〜ん、と息をついてから鼻の頭に手を、そして、まっすぐに視線をくれる
と、
「ね、未知ちゃん」
「はい?」
 いつも思慮深い先輩が、わたしに何を? ちょっと胸にグッとしながら待つ
と、薄く知的な唇がトーンを落として、
「なんか、ちょっと考え込んじゃってね」
 真面目な調子に、未知は桃子の隣のパイプ椅子にちょこんと腰掛け、丸い肩
を乗り出した。小柄な二人が、機材満載のテーブルの間、埋もれるように向か
い合う。
「雄志がねぇ、『Breathless』のキャスト、あの子に振ってみようか、って言
うのよ」
「え、もしかして、『佳奈美さん』のキャスティング?」
「そう。あの役。
 未知ちゃんも、困ってたでしょう、決まりがつかなくて」
 次回作「Breathless」の主役は、未知に決まっていた。ただ、ストーリーの
ポイント、主人公・ニヤの「逃避行」、そこで一緒になる憧れの人、佳奈美の
配役が……。
「難しい役どころですよね、すごく影があるし。わたし、改めて思っちゃいま
したもん。雄さんと部長、よくこんなの書けるなぁ、って」
「……それは、ね。でも、全然念頭になかったから」
 また桃子はため息をついた。
 誰だろう、こんなに桃先輩が悩む人って。
「……よかったら、聞かせてもらえません? っていうか、聞きたいです」
「うん、それは、未知ちゃんに言わなきゃ始まらないもの」
 そして、桃子は「その人」の名前を口にした。
「ええ〜ッ! 紅さんですか! う〜ん……」
 一瞬驚いた後、すぐに脚本と絵が頭の中で重なるのがわかった。
「………、でも……」
 桃子の大きな目と視線が合った時、そこにあるのが、同じ思いであることが
わかった。
「やっぱり、そう思う? ぴったりだって」
「はい……。全然、違うタイプなんですけど」
 膨らんだ袖から伸びる両手を首筋に当てると、桃子はあ〜あ、と声を上げた。
「参ったなぁ」
「どうしてですか? 紅さんなら、すぐにオッケーくれると思いますよ。何で
もやる人、なんですよね」
「まあね……」
 納得していないのが、口ぶりからよくわかる。そんな桃子を目にするのは、
初めてだった。
「あの子が参加して、タダですんだこと、あんまりなかったから」
「え? 前にもウチの作品に出たこと、あったんですか?」
「ううん、そういうことじゃなくって。長い付き合いだから、何度か、一緒に
コトを運んだこともあるの」
 へぇ……。未知は、小さく頷いた。それは、紅さんがいろんな意味で「スゴ
イ」人だってのは、知ってるけれど。
「大丈夫ですよ、桃先輩。わたし、がんぱっちゃいますから。紅さんと競演な
ら、やる気もまた出ちゃいますし」
 桃子は、くすっと笑うと、パイプ椅子から身体を起こした。
「いいなあ、未知ちゃんは。いっつも前向きで。よし、わかった。わたしも腹
が決まったかな。雄志にも、オッケーって言っとく」
 桃先輩の明るい顔。うん、よかった。
 そっか……。「Breathless」、主役が決まっただけでずっと楽しみだったけ
れど、紅さんとか。
 いい映画が、できそうだなぁ……。

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