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 わたしの泳ぐ場所は、どこにもない。気付いたのはいつだったかな……。と
ても幼い時だったような気もするし、受験の二文字が聞こえ始めた頃だったか
もしれない。
 ね、ニヤ。
 どんな綺麗に、早く泳げても、意味なんてない。
 あなたは、どうして、って今言ったよね。佳奈美さんなら何でもできるのに、
って。
 でも、わかる?
 重く積み重なった水が、身体全部を包み込んで、締め付けてくる。
 何度も、今覚めたばかりの夢を見た。
 本当に深くて、重くて、光もない水の底だから……どうやって息を継いだら
いいの、って。
 苦しい。もっとわたしの知っている場所に、どうしたら……。
 でも、きっと、ここにわたしの息つける場所はないから。
 きっと……何処にも。
 陽の落ちかけた山間の廃材置き場。固形燃料から上がる小さな炎が赤を揺ら
す。ディスカウントショップで買ってきた安物のヤカンが、コトコトと湯の沸
きあがる音を響かせ始め、背中を過ぎる冷たい風と、頬に当たる暖かさのコン
トラストが染みて、目を閉じることしばし――。
「ミユ?」
 裸の背中へ飛んできた声。
「お」――毛先の散ったショートヘアが揺れ、視線が後ろへ向けられた。その
先には、白タオルを身体に巻いた柔らかそうな女の子が、見開いた瞳で「どし
たの?」。
「ん、ちょっとね。……そうそう。わかった? 使い方」
 ワープロ書きのシナリオの束を枕元に投げ出すと、美悠はくるりと裸身を仰
向けにした。重力に抗して優雅なラインを描く白い膨らみと頂きの薄桃色が、
真っ直ぐに向けられた視線以上に雄弁で――。
 射られたネコ思わせな瞳は、照れ混じりにか……逸らされ、
「あ、うん、すっごいバスだね。あれ、ミユだけが使うの?」
「ああ、そうだよ」
「なんかさ、」
 つやつやと白銀のシーツが光るベッドの端、腰を下ろしながら「恋人」は肉
づきのいい肩を窄めた。
「洗い場も広いし、ジャグジーだし、いろいろできちゃいそうかなぁ〜、なん
て」
「でしょ?」
 少しはにかむ素振りに、美悠はクスクスと笑い声を立てた。
 今の、スゴ、可愛く見えたなぁ。
 身体を起こすと、巻かれたタオルの背にしなやかな指を忍び入れた。
「続き、する? レミさん。2ラウンド目」
「え……、ま、まあ……」
 頭に乗ったタオルが落ちると、ウェーブ残りの長い髪が肩へ解ける。と、少
し張った頬骨、形だけの思案ぶりな唇の端っこに、チュ。
 まったく、お姉さんぶるもんだから。
 肩口に唇を押し当てると、差し入れた指先が背骨のギュッを感じ取って――
「こ、こらぁ、ミユ」
「いいのいいの、さっきは物足りな、だったんじゃない? ホラ」
 今度は左手を、剥き出しになった太ももから腰へ。タオルがハラリと落ちる
と、フフ、やっぱり。
 少し下づきでふくよかな盛り上がりの頂きでは、真っ赤に染まった果実がキ
ュ。
 周りから揉み解しながら抱きすくめると、息の乱れはすぐに、背中を握り締
める指先に潮を激しくして……。
 小さな喘ぎ声。濡れた髪に手を差し込んで唇を合わせると、閉じていた目が
開いた。
「はぁ……。お、おかしいなぁ。もう、ミユって、なんか、任せちゃってもい
いかなぁ……って」
「そ〜う? なら、任せちゃえば?」
「う、うん……、でも、受け身はね、前も言ったけど、ちょっとニガテっての
か」
「どうして? あたしが2コ下だから? いいのいいの、ホラ」
 耳元に唇を寄せると、吐息混じりに取っときのヒトコト。
「可愛いよ、レミ。あたしのネコになって」
 そして、耳たぶに歯を当てて、小さく甘噛み。
 はぁ……。
 眉根が寄って、大きな吐息が漏れた瞬間、スイッチオンが以心伝心。後は、
全身にキスと幾百の甘い噛み跡で。
「だ、ダメぇ」
 そう? ここも、でしょ?
 脇から腰骨、柔らかい太ももの外側まで。
 ふふ、スゴイじゃない。どこがタチ90%なんだか。
 洪水になった中心に指を三本。そのままズズッとせり上がり――快感→漣に
反り上がったままの喉元に腰を持っていきながら見下ろすと、
「ほら、レミ」
 足の間で薄く目が開けられると、ん、さすがにわかってる。
 張りのある内腿に唇が当てられると、辿り、戻り、付け根の誘いから、そし
て、キラキラ雫に濡れて黒い萌え出しから覗いたピンクパールへと、チュ……。
 う、ん。
 心地よい痺れに一瞬閉じた切れ長の目。でも、すぐ口元に笑み。
 舌を突き出して念入りに舐め上げてくれる表情を薄目に映すと、後ろ手に差
し入れたままの指を、前と横の壁を震わせるように――。
「あ、ダ……」
 唇が離れると、肉づきのいい身体が軽く反り上がるのがわかった。
 指を止める。……ん、一回目。
 目を閉じ、荒い息を吐きながらさまよっている横顔。それに、指先に細かな
震えを返すひだの包み込みに――まだまだ、だよね。
 休憩2分。ROUND2、Start。
「こんなの、どう?」
 ベッドの引き出しに手を入れて取り出すと。
「あ……やっぱりそんなの、持ってるんだ」
 双方向に棒状のものが突き出した淡いパープルのアイテム。当てから伸びる
ベルトを握ってにんまり笑うと、
「使ったこと、ない?」
「う、ん。オンナの子同士は、ね。ほら、カレシがいた時は……ナマの……」
 それ以上は、唇で封印。
「……心配なしってことね。どっちにしろ」
 顔を離して見つめると、逸らされた横顔と頬の色が、無言の同意を伝えて―
―ふふ、可愛い。
 潤滑する必要、ないかな。
 装着側の突起を押し込むと、背中にジン。うん、久しぶりの感覚だ。
 あ、そっか。だよね……。
『全部、あげたいな、ミユ姉に。カラダ中ぜ・ん・ぶ』
 一瞬よぎる、愛しい顔。
 ――こらこら、亜衣。ジャマはなし。
「ね、……い、いいよ。ミユ」
 胸の間で手を合わせて待っている様子に、にっこり。
「怖い?」
「……う、ううん、そんなこと。でも、ちょっと、ね。やっぱり、冷たい感じ、
でしょ?」
「そんなこと、ないよ―」
 ベルトをキュ――GET READY? ううん、こういう時は。
 ググッ――いきなりに。
「あッ」
「―だって、レミのなか、あったかくて、溢れてるから」
 反った腰を抱き上げ、突き出した胸に自分の胸を押し付けると、額から耳元
へ髪を撫で付け、感覚を追い始めた紅い顔に囁く。
「感じさせてあげる。真っ白にしてあげるよ」
「あ、んん」
「思った通りに叫んでいいからね、レミ。エッチな事、いくらでも」
 そして、腰を緩やかに前に進めると……。

「はあ……」
 テーブルの上に肘を付いたままため息をつくと、美悠は淡い光を重ね落とす
幾何学模様の天井を見上げた。
 あらら、またSigh、だよ。
 でもなぁ。可愛い子は星の数だけど、一等星となると、ね。それも、あたし
だけの、ってなると。
 天の星学園食堂(≒高級レストハウス)の五つ星メニュー「ミルキーウェイ
ランチ」を目の前に、思い浮かぶのはあれやこれや、彩なす女の子達のあられ
もない台詞と肢体のコマゴマ。
『ミユ、ダメェ、わたし、ダメだからぁ。オカシクして、オカシクして。なり
たいの、ね、アアンッ』
 Erotic/Sexualなのはいくらでも、なんだけど、なぁ。やっぱ、それはデコ
レイションだよねぇ。
 フォークをくるり――白いソースがかかった柔らかそうな肉に突き刺すと、
トレーを持って行き来するベージュとモスグリーンの制服の群れをぼんやりと。
 あの子も、この子も、それぞれ元気☆印だし、可愛い子、大人しくて上品そ
うな子も……。でも、アンテナ、こないよなぁ。
 ――注:ブレザー姿の約半分(♂)は消去中――
 高く聳え立った白い柱の間、「世界有数サイズの一枚ガラス」から注ぐ陽の
色は、やけに紅く見えて……。何処ともなく流れてくるのは、秋色にMellowな
Standard Number。
 〜♪ 私の好きな場所〜♪
 アアッ、タソガレてる場合じゃないっての。
 今日は白銀に染めた毛先を、両手で首筋からかき上げ。
 モスグリーン/ホワイトのチェックスカートから、完璧な稜線を露わに覗か
せる太ももを、グイッと組み合わせ。
 そして、切れた眉を上げ、勝気な瞳に火をつけて――。
 だよ、な。
 いつも笑みを絶やさない口元に、更なる生気が溢れ出すと、
 楽しいことは、自分で作らないとね。
 七色の野菜が彩り豊かなサラダに、勢いよくフォークを突き刺す。クリーム
の掛かった柔らかそうなミート、小麦に焼けたパンからデザートまで、一気に
サクサクと始末しかけた時、行儀よく並んだアンティークなテーブルの間を抜
けて、見覚えのある姿が近づいてきた。
 冬の白シャツにベージュのセーターを校則どおりきっちり、ちまちま小柄な
おかっぱの女の子は……。
「紅さん〜」
 こちらから声をかけるより先に、真ん中にパーツが集まった子犬を思わせる
顔が、陰りの微塵もなしの、ニコニコッを。
 顔の前に立てた親指を持っていくと、そのままクイッ。見開いた小さな目に、
視線を合わせて――。
「ニヤ」
 少しアンニュイな感じが彼女のカラー。佳奈美のイメージを作りながら声音
を揺らめかせると、
「行っちゃいけない場所なんて、この世界には、何処にもないの。自分で、檻
を作っているだけなんだ」
 一瞬立ち止まった子犬な表情が、すっと色合いを変えた。
「……でも、佳奈美さん……。アタシ、わからないんです。だって、アタシ…
…」
「踏み出す足はあるのよ、ニヤには。それに気付かない振りをしてるだけ……」
 ブルーな迷い子の仮染めがすぐに落ち消えると、屈託ゼロのニコニコ顔が再
び現れ、「本日のランチ」の乗ったプレートをトン。
「こんにちわぁ。あ、スペシャルランチですね。いいなぁ」
「食べる? まだデザート、手ぇつけてないよ」
「え、いいんですか」
 胸の前で両手を組み合わせて、満面の笑み。美悠はフォークをくるりと回す
と、顎の下に指を置いて肘を付き、自分より二回りも小さな共演者を見下ろし
た。
「ほい、どぞ」
「わあ、ありがとうございます」
 やっぱり、面白い子。ん……?
 胸の辺りで何かがピンと鳴りかけた時、ちょっと鼻にかかった甘え声が遮っ
た。
「でも、紅さん、しっかりシナリオ読んでるんですね。四日前に渡したばっか
りなのに」
「ふふ、それは未知ちゃんもじゃない? ニヤちゃん、入ってたよ、1000%」
 今の感じ……ああ、そっか。
 ヨシ、とまっすぐ見つめ――でも、いきなりデザートにスプーンをつけた未
知は、何のためらいもなくこちらから視線を離し、上品なクリームとフルーツ
の彩なしへと、「わあ〜」。
「このプリンアラモード、前から食べたかったんですよ。……とと、わたしは、
もう二ヶ月も前に桃先輩から本もらって、読み込んでたから。ほんとう、役決
まった時から楽しみで……んん、このクリーム、甘くなくって美味しいです」
 ベージュのセーターに包まれた小さな肩が満足げに窄められる。
 おかっぱの旋毛を見下ろしながら、初球空振りに、ふ〜む。
 でも、この感じ、間違いなく、だよ。こないだ桃に呼ばれて映研行った時に
は、全然気付かなかった……。
「ね、みっちゃん」
「……はい?」
 呼び方を崩して言うと、またしても屈託ない視線が答え。プレートの横に置
かれた左手に視線をやると……うん、華奢で可愛い手。
 それとなく指先を伸ばして手の甲に乗せると、今度は的中率100%、角度70
度・覗き込みの視線殺で。
「撮影、10月からだよね。ロードムービー風にするって言ってたっけ、雄志の
奴」
「ああっ、そうなんですよ!」
 フライに運びかけていた手を止め声を上げると、短いハの字の眉を寄せなが
らも、視線は全然逸らさず真っ直ぐに――。あらら、ダメ?
「二晩ぐらいは泊まりで撮る、って雄さんが言ってて。わたし、お父さんに許
可もらわないと……でも、頼み込んでも一晩が限界かなぁ……」
 そして、指先を当てていた美悠の手を、逆にギュッと握り締めてくる。
「紅さんは、全然オッケーなんですよね?」
「ああ、まあね」
「はぁ……、いいなぁ」
 大きくため息をつくと、下を向く。小さな手は、美悠のしなやかな指を握っ
たまま。
「楽しみなのになぁ。あの脚本なら、すごくいい映画になるはず……」
 心の中でため息混じりのクスクスクス。まったく、映研にいそうな子だよ。
今はとりあえず、戦略的撤退、かなぁ。
 と。
 イタタタ!
 突然、こめかみの両側に押し付けられる激痛を感じ――。
「な・に・してるの、あんたは。真昼間の学食で」
 って、お、
「桃か」
 クールな視線が頭の上。口元の皺が、隠れた皮肉色を露わにして――
「あのね、見境ないにもほどがあるのよ、美悠」
「イタタ……。ああ、違うって」
「どこが? あ、あんたには境なんか見えないのか、そもそも」
 と、桃子は美悠の隣にドスンと腰掛け、
「こっちにおいで、未知ちゃん。ビョウキが移るからね」
 不思議そうな表情を浮かべると、未知はいそいそと桃子の隣に移る。
「ひでぇなぁ。たく、人を色魔扱いか?」
 まったく、相変わらずだよ、桃は。……まあ、仕方ないか。
「あら、違ったっけ? とにかく、ウチの部の子まであんたの無限煩悩宮入り
させるなら、わたしも考えがあるからね」
「はいはい、了解了解」
 両手を上げて見せると、言われなくっても、そういう範疇じゃないよ、みっ
ちゃんは……ん?
「あのぉ……、桃先輩」
 当惑と思案を半分づつに、肩口から黒目がちな瞳が桃子を見遣っている。
「……紅さん、すごくよくシナリオ読んでるみたいで。なんか、メチャクチャ
いい映画になるかなぁ、と思うんです」
「ん…、そう……」
 桃子が笑みを浮かべて未知の方へ頷く。さっきと同じまっすぐで曇りがない
視線だけど……あ、へぇ、そうか。
 小柄な身体をもう少し小さく屈めて、テーブルに置いた手の親指を無意識に
か擦り合わせつつ、言葉を待つ様子。
「まあ、この子が演技下手じゃないのは知ってるから」
 鼻先に指をもっていくと、桃子は美悠の方を向き、
「……ね、美悠」
「お、言うじゃない。あたしがいなかったら、あの時どうなったやら」
 桃子がほのめかした一年前の文化祭の眺めをよぎらせつつ、横顔の向こうの
子犬な表情を追う。
「あ、やっぱり、経験ありなんですね。それって、どんな……」
 きっと、気付いてないな、自分でも。ふうん……。ってことは、逆にあたし
にもチャンスありってことか。
 ああッ、でも、下手なことすれば、桃に殺されるな。
 ううん……。
 でも、可愛い子だなぁ。「桃先輩、考えすぎですよぉ」「未知ちゃんは、わ
かってないの。この色魔はねぇ……」――まだ全然意識してない感じだし……。
頭も良さそう、何より、気持ちが真っ直ぐだよ。それに、堅苦しい感じに隠れ
てるけど、きっと意外に服の下は……。
 っと、ヤパヤパ。
「……美悠」
 ん?
「美悠、何にやけてんの?」
「ん、ああ」
 にんまりとやま型の目の中に笑いを投げる。にしても、ちょっと面白いかも、
だよなぁ。堅物度エメラルド級の桃とのことを考えると。
「……あんた、また良からぬこと、考えてんじゃない?」
「違う違う、ははは」
 どうにも笑いがこみ上げてくると、美悠は鼻に指を当てて、クスクスと声を
立て始めた。やがて、天井を仰ぎ肩を震わせてからひとしきり、息を吐いた。
 ふう――つける薬なし。眉間をハの字に引き上げると、桃子は未知の方に首
を振って見せた。
 そんな幼なじみと共演者の様子にはお構いなく、期せず始まった撮影談義の
間じゅう、美悠は邪心入りの笑み混じりに頷き続けていた。

 セピア色の空、セピア色の屋根の連なり、そして、セピア色の陽光が降り満
ちる。――悲しみの壁で二つに分かたれた街へ、天から翼持つ者が降りてくる。
 賑やかなはずの街角も、彼の目から見れば夢か現か。ただ、そこが彼の住処
でないことだけは確かで……。
 座椅子から身を乗り出すと、桃子は、四角い旧型、27インチの画面に顔を
近づけた。
 う〜ん、やっぱりいい色だよね。主人公の心象に重なってる感じがする。と
言うのか、彼自身の境遇を含めた全体のイメージとして、画が作られているん
だ。
 ロゴ入りのシンプルなシャツと7分のパンツを着流した彼女が座る部屋は、
テーブルと食器棚、TVを置けば目一杯の、名ばかりのダイニング。背中にした
座椅子も、それぞれの家具も、遠目にも痛みがわかる使い古したものばかりだ
った。
 ただ、質素に並べられた食器も、TVの上の古い時計も、キッチン横にかけら
れた調理用具も、雑多なようでいて、どこかホッとする雰囲気を漂わせている。
 それは、画面に映っている映画の穏やかな色合いと少し重なり合うようにも
見えて――。
 ガタン。
 TV後ろの扉の向こうから音が響き、人の入ってくる気配がした。
 桃子は手元にあったビデオのスイッチを切ると、腰を上げかける。
「ただいま」
 ドアが開くと、軽く真ん中で髪を分けた中年の男性が、細身の背広姿を現わ
した。桃子は眼鏡の下の穏やかな瞳に視線を合せると、
「お帰りなさい、お父さん」
 ん――皺の見え始めた稜線の中にも、柔らかい頷きが返る。
「遅くなって悪かったな、桃子。もう、食べたか?」
「ううん、まだ。だって、今日は……」
 と、桃子は、背広姿の父の手に、少し不似合いなファンシーな紙袋が下げら
れているのに気付いた。
 自分で口元が緩むのがわかって、へへへ、と笑いをこぼしてしまっていた。
 秋の花が飾られたテーブルの上を見て、桃子の父は、ほう、と唇を尖らせる。
 向かい合わせの席の前に用意された、空の食器と小さなグラスの間。写真立
ての木枠の中で、桃子似の黒髪の女性がふくよかな笑みを浮かべていた。
「そうか、覚えてたか」
「忘れるわけないじゃない。お父さんも、急いで帰ってきたんじゃない?」
「どうかな。庁舎前も回ってきたしな」
「……あ、座り込み、まだ続けてるんだ、支援の会の人達」
 無言の頷きが返ると、紙袋に手を伸ばす。
「これ、冷蔵庫に入れたほうがいい?」
「ああ、その方がいいかな。後で母さんと一緒に、な」
 桃子が大きく頷くと、桃子の父はずっしりと膨らんだ革カバンを下ろし、グ
レーの背広を脱いだ。

「そうか、ヴェンダースか」
 白い陶器に入ったコールドデザートにスプーンを入れながら、固い意志を覗
かせる口元が、考え深げに頷きを返した。
 写真立ての前には、今食べ終わったものと同じ料理が、一箸もつけられるこ
となく捧げ置かれている。もちろん、大好物だった洋菓子店のデザートも一緒
に。
「彼のを観るなら、一度小津の映画に当たるのもいいかもな。ええと、何て言
ったかな、東京に来て……」
「『東京画』。そうなの、わたしも小津の映画はもっとちゃんと観ないとなぁ
って思ってたから」
 丸い目がいっそう見開かれて、茶色の光を清々と輝かせる。桃子の父は、す
っと視線を外し、白いものが見える頭を向けてデザートをすくい取ると、
「……んん、やっぱり美味いな、これは。変わらない、何年経っても」
 桃子は小さく頷くと、自分もスプーンを口に運びながら呟いた。
「15+5で20年かぁ……」
 母が現世を後にしたのは5年前、そして、命日は結婚記念日と同じ日――。
 父は眼鏡の奥の瞳を一瞬だけ写真立ての中に向けると、スプーンを落とし置
いた。そして、軽く息を吐き、
「……それにしても、ロードムービーか。雄志君も、いろいろやるなぁ」
「身のほど知らず。思いつきでいろいろやりたがるのはいいけど、まとめる方
の気にもなれっていうの、まったく。部費が無限にあると勘違いしてんのよ。
ホント、ブルジョアジー。天の星じゃ、誰でも多かれ少なかれ、そうだけどね」
「はははは」
 面白そうに笑い声を立てると、うんうんと頷く。
「いいんじゃないか。それに、美悠ちゃんが主演だって? どう、元気、彼女
は」
「主演じゃなくて、助演。主演は未知ちゃんの方なのよ。……そう、そうなの!」
 桃子は机を軽くパンと叩くと、唇をへの字にした。
「まったく、相変わらずで頭痛いんだ、わたしは。ほんっっと、友達やめたく
なるから。どうすればああ、無頼無軌道、恥ナシ社会性ゼロになれるものだか。
ああ……細かく話すとびっくりするからやめとくけれど」
 それでもふぅ、と息をつくと、
「でも、わたしが付き合わなきゃ、誰も面倒みれないからなぁ、あの子の場合
は。ホント、参っちゃう……」
 繰り返しため息をつく様子に、桃子の父は視線を柔らか、軽く目を伏せ気味
に、それから眼鏡を外して手元に置いた。
「……ねぇ、お父さん」
「ん?」
「恋愛って、一番の約束は心の問題だと思うでしょう? そういうの、わから
ない人が増えすぎてるんだよね……」
「そうだな」
「身体も同じように必要って言っても、たぶん、言い逃れだと思う。心に忠実
であるのは、とても苦しい事だし、それが人間にできる一番のことでしょう?」
 桃子の父は、娘似の口元に柔和な線を浮かべながら、うんうん、と頷き続け
る。
 そして一しきり。思うままに恋愛観を述べ立ててから、桃子は父親の肯定と
も否定ともつかない表情に気付いた。
 言葉を止めて、残っていたデザートに口をつける。
 ――もどかしいような、ちょっと悔しいような。
 でも、そんな気持ちはすぐに解けて、心の中で淡く想いを紡いだ。
 わたしと違うものが、父には見えているのかも。わかっているつもりでも、
きっと、年齢がいかなければ見えないものがあるんだろうな……、うん、多分、
そうだ。
「お父さん……」
 そしてひと息、頭に篭っていた熱を冷まして。
 なぜか前から聞きたかった事を口に出したくなった時、TVの横でパラパラと
メロディが響いた。
 ――どうして、美悠の家の顧問弁護士をしているの? 企業や行政に侵害さ
れた弱い人の権利を主に扱っているお父さんが。
『あ、どうもです〜、桃先輩』
 席を立って携帯電話を取り上げると、耳元に響いてきたのは、未知の元気一
杯の声だった。
「ん、どうも♪ 未知ちゃん」
 ゴメン、また話してね。テーブルの方に視線をやると、父は外していた眼鏡
をかけたところだった。
「え、うん、美悠と読み合わせ? ああ、わたしも行く。月曜日? だって、
あの子、柔道部のアシスト頼まれたって………、ああ、その後? うん、わか
った。うん、うん、ああ、あそこはね、ニヤが佳奈美の気持ちがわからなくて
……」
 話しながらドアを開け、自分の部屋へと消えていく背中を、眼鏡の下の穏や
かな目が見送っている。
 そして、話し声が小さく聞こえるだけになると、父はカバンの中から小さな
ワインのビンを取り出し、紫を注いだ。それから、グラスを写真立ての前のデ
ザートカップにカチンと合わせ、満足そうに飲み干した。

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