4

 頭上に空いた広く、ひんやりとした空間からは、淡い黄の光がにじみ降りて
きている。
 響くのは、セイ、オウ、オリャァの掛け声――そして、畳と身体のこすれる
音に、ドシンッ!と振動まじりの投げ技効果音。
 視界の下端でツンツン立った黒髪が揺れる。袖が引かれ、右肩がグッと引き
下げられ……。
 うん、やっぱ力強いよ、この子。
 セイッッ。
 少年っぽいハスキーボイス、一回り小さな身体が激しく左右に動き――
 オッ…、ヤバヤバ。
 美悠は釣り込まれた出足に神経を走らせると、奥襟を持った手をグッ。バラ
ンスを優位に戻すと、
「ふふ、ヤバ。やるねぇ、アズミ」
 見上げた黒目がちな瞳は、無言。きりりと引き締まったまさにlike a boyな
眉はちっとも緩んだところがなく――
 サァ、フラァ! セイヤァァ!!
 あらら、参ったなぁ……うわ、こりゃ……。
 無骨な道着姿さえグラビア抜け出しな美悠の長い手足の中で、小粒な黒髪が
激しく動き回り続ける。一息もつかず、次々繰り出される足技、投げ技への入
り。
 周りで組み手をする男子部員のまったりムードの中で、まさに紅一点、そこ
だけスポットライトが当たっている……いやいや、自ら発光しているような―
―。
 ホント、よく動くよ。マジ入っちゃうなぁ、これじゃ。
 真剣そのものの硬く引き締まった表情、にじみ始めた汗――額に、首筋に、
Tシャツから覗く鎖骨のくぼみまで……こんなんじゃななければ、ゆっくりと、
ね……。
 ま、でも、悪くないよ、こういうのも。
『さっきの話は付け足しなんだよ、正直言うとな、紅。安斎、ホントに見所あ
るからな』
 クマちゃんの言い草、満更でもないってことか。いいね、どうせなら、そう
こなくっちゃ。
「紅、ちょっといいか」
 柔道部顧問のクマ太郎こと、中年体育教師の田山に呼び止められたのは、前
回の稽古が上がった時だった。
 すまんが、頼まれてくれんか――それは、らしくない控えめな言い出しで始
まった。
「何? 珍しいじゃない、センセが頼みごとなんて」
 タオルを肩にかけたままざっくばらんに頷くと、生えそろったタワシ頭がこ
そこそと。
 道場の端っこで眉根を寄せて四角い顔を窺うと、曰く、「お前も知っている
だろ、新しい部員の子」
 ああ、安海ちゃんね、そりゃ、気が付かないわけないでしょ。あれだけ目立
ってれば――で? 回りくどいのは嫌なんだよね。本題入ってくれる、クマセ
ンセ。口を開こうと思った時、柔道部の顧問は「なあ」と一息、言葉を吐いた。
「どうだ、紅。次の大会、出てみないか? 個人戦でなぁ」
 何言ってンの、どうして今さら。鍛錬と暇つぶし半分、週一でここに顔を出
すようになってもう一年。しょっぱなでそういう話はナシ、そう断ってあった
はず。
 いや、それはわかってる――クマ太郎は大ぶりな口元の両脇に皺を作ると、
説明を始めた――でもな、安斎の奴が入っただろ、だから、な。
 何? 一人じゃ可哀想ってコト? 今日は組む機会なかったけどさ、そうい
うタマじゃないだろ、アズミちゃん。きっちり馴染んでるし、なんたって、黒
帯でしょ?……と、中年教師の彫り深の目の中に、隠れた意図を見つけたのは
瞬時。
 はっきり言ってくれる――胸元、寸止めの正拳一発で出てきた答えは、冗談
じゃないよ、だった。
「何だよ、それ。人寄せパンダじゃないよ、あたしは………あッ」
 眦の上がった大きな目が見開かれ、輝く明星が宿る。その横顔を見た体育教
師は、だろ、とニヤリ。
 女子部員も増やさないとな、このご時世だし。お前と安斎が成績上げてくれ
れば目一杯宣伝になる……、それにな、来年の新歓でもアピールできるだろ。
 ――冗談じゃない、どころじゃない。
 そりゃもう、あたしにとってだって、その状況は!
 花、華、花!!
「悪い話じゃないだろ、お前にも。華やかなのは俺も大歓迎だしな。週一とは
言わん。もっと稽古に来てくれても構わんぞ」
 口元に一層のニヤリ皺。
「……ワルよのぉ、クマちゃんも」
 華、花、華……ふふ。
「そうかぁ? 真っ当な経営努力だろ……ああ、紅。言っておくが、校外のこ
とはノータッチだからな、俺は」
「わかってるって、お代官サマ。その辺は、もちろん、ね」
 無骨な中年教師の肩をポンポン……で……、
 花・華・花・華・花、うんうん――柔道着の帯がグルグルグルグル、アリエ
ナイ!長さで解けて、ミユ姉〜〜☆☆ ああんッ。ふふふ、もう……。
 と、眼下のツンツン黒髪が視界の右上に。そして、左下へ一瞬で下がり――
 ふわっっ!
 あらら……、淡く光る天井が視界、と、ヤバッ。
 バシッと右手を叩いて受身を取ると、震動が響き渡った。
 仰向けになって転回した視野に、きりりと小粒な顔が真っ直ぐな視線を落と
していて。
「……はは、やられちゃったな」
 心の中でもニヤリ、薄桃の唇の端にも、ニッコリ。
 ――おおっ!
 ――やるじゃんか、アンアン。
 愛称交じりの驚きの声と、一斉の注目が集中線、美悠はスクッと立ち上がっ
た。道着を直してポンと太ももを叩くと、クイッと見つめた先、小造りの顔立
ちの中で――
 少し驚き混じりの惑いが、一瞬で戻る闘い色の熱視線。
「サア、もう一本! 来いッ!」
 よく響くハスキーボイス。よし、そう来なくっちゃ。
「行くよ、アズミ!」
「はいッ!」
 踏み出し、奥襟へ……と見せたところで低く沈み、一気の袖釣り込み。
「セイヤァ!」
 バシッ!
 出足払いから踏ん張るところを背負い……一瞬で転じて大外刈り。
「ホアッ!」
 ダンッ!
 次は、光速一線、高々と跳ね上げる内股。
「トウリャァッ!」
 ズゥン!
「ホラ、まだまだ! 来いッ!」
「はいッ!」
 交わされる息遣い、畳の擦れる音、弾ける七色の技、広がる受身の震動、そ
して、掛け声が応酬され…………。

 熱入ってたな、サンキュウ――相変わらずのJapanenglishで肩を叩くと、ク
マ太郎は騒ぎ合う男子部員の方へ歩いていった。
 それを言うならセンキュウ。TH、TH、センセ――背中に言葉を投げた後、膨
らみ袖な制服の肩をぐるり、グッと天へ両手を伸ばし。うん、今日はいい感じ
だったなぁ。
 さ〜て、この後は……、と。そうそう、みっちゃんか。
 高窓から赤を溢れさせる壁を見遣ると、時刻は六時少し前。夕方からは脚本
の読み合わせの約束になっていた。
 門限厳守の未知のため、使える時間はジャスト二時間。バシッと決めないと
ね、桃のためにも。
 そう。桃のためにも……ふふ、まったく。
 美悠は両手を頭に、鉄扉横の格子に寄りかかったまま、鼻から息を吐いた。
いつもほのかに茶目っ気な口元からは、こらえ切れずの笑み。そして、ハード
レイヤーに波立った髪の下では、輝く瞳が遠い景色を追って――。
 それはもう、きっちり役作りは当然――
『ニヤ、わかる、答えは遠くにないのよ。いつも、ココ、胸の真ん中にあるの』
『わたしにも? だって、佳奈美さん、わたしは……』
『答えはあげられない。それは、ニヤにしかわからない答えだから。全ての人
が、自分でしか見つけられない答えだから』
 ――ア〜ンド、realみっちゃんにも秘密の扉に気づかせてあげて、で、芸域
もグッと広がれば、一挙両得。あたしは役得。
 しばらく前に食堂で、また、ロケ予定の廃工場で見た、桃子を見つめる子犬
のような瞳。あれがそうでなければ、何だって言うんだろ。まったく、ノンケ
な人は気が付かないんだよなぁ。……ふふ。
 でも、乙女ゴコロ、恋ゴコロ、どこでどうやってくるりとするかわからない
から、It's a miracleだよねぇ。
『あんな堅物、やめときなよ。そのJewelな気持ちは大事にして、新しい恋、
にさ』
『……美悠さん☆』
 なんてね……ふふふ。
 と、肩先に風。ん――今日はなじみの気配に横を向くと、道着姿が凛々しい
小粒な立ち姿があった。
「お、あずみ」
 どこか少年を思わせる稜線が、軽く会釈を返す。
「今日はサンクス。いい稽古になったよ〜」
「あ、はい。こちらこそ、ありがとうございます」
 口元に頷きが浮かぶと、きりっとした眉の下で、瞳がわずかに揺れた。
「……ん、どした? 悪いけどさ、もう一本ってわけにはいかないんだよね。
先約あり、でね」
 美悠が壁に寄りかかったままで笑いかけると、安海は首を左右に振った。
「いえ……稽古はまた。そうじゃなくて、紅さん、いつかお時間取れますか?」
「お時間?って、柔道以外な?」
 下目遣いに眉根を上げると、一瞬目が伏せられて、思案交じりに、
「……うう〜ん、まあ……、そうです」
「いいよ〜。何? 服選び? アズミ、地味系だからなぁ。それとも、意外な
とこで、クラブデビューとか? いい店、紹介するよぉ。……じゃない?」
 軽い拒否の素振りに、イケテない?のオーバーアクション。体勢を解いて手
をスカートの膝の上、視線を同じ高さにすると、
「……はい、まあ。その……、ぶっちゃけ、話を少し聞いてもらえると、うれ
しいかな、と」
 逡巡混じり、はっきりいえない感じの。ふぅ〜ん、こんな顔もする娘なんだ
な。ちょっと、ピンッ……うん、感じたかも。
 いいよ。ムツカシイ話なら、ちょっとオミットだけどね――胸の奥にじんわ
り始まるドキドキを確かめながら返した時、背中でガガ、と扉の引かれる音が
した。
「すいません、時間取らせませんから」「はいはい。じゃ、来週の稽古の後っ
てのは?」――言葉を投げながら振り向くと、僅かに開いた鉄扉から覗き込ん
でいるのは、おかっぱ気味な黒髪に、懐こげな丸顔で。
 よっ――指で挨拶を投げると、緑と白の制服が鉄扉の隙間をそのままに、グ
ッと身体をハスにして中へ……。
 心の中でハハハハ。もうちっと開ければいいのに。みっちゃんらしいよ。
「じゃ、お願いします」
 声に振り向くと、安海の方は二、三歩後ろに下がり、会釈交じりに踵を返す
ところだった。
「ん、じゃ、来週ね」
 極上のニッコリで手をパラパラすると、「時間、過ぎちゃいました? もう、
いろいろつかまっちゃって」――ピンと高い声が響いてくる。
「十五分遅刻。ペナルティは大きいよ、忙しいんだからね、紅さんは」
「ああ、すいません! ホント、断れない性格で、わたし」
「……どんな罰にしようかなぁ〜」
「勘弁です。できれば、明日のランチとか……あ……、エッチめなことは、絶
対バツですからね――」
 と、美悠の視線が道場の一角に投げられたままなのに気づいて、未知は小さ
な目をパチクリ、言葉を止めた。
「……エッチめってねぇ。あたしは何だっての……」
 気の篭らない言葉の傍ら、視線の先では、道着の集団が騒ぎ合っている。
『アンアン〜、なんだ、紅さんと』『アタックで爆死か? 男にゃ興味なしだ
ぞ、三四郎姉さんは』『うっさいなぁ、喧嘩売ってんのか。ダイゴ』『それが
ダメなんだって、お前は。もっとおしとやかに、お・し・と・や・か』『うぇ、
キモ。アンがしなしな、カマじゃんか』『それを言うなら、ナベだろ』『チゲ
ェって』『はいはい、そうですか。わかった、わかりました』
 整った横顔の稜線の中、しなやかな口元が堪え切れない雫を浮かばせ、流れ
る眦の奥、七色の光が想いを映しているような……。
「……楽しそうですね、紅さん」
「ん?」
 美悠は振り向いてにっこり笑うと、未知の制服の肩をポンと叩いた。
「行こうか、みっちゃん」
「はい」
 頷くと、掛け声響く武道場を後ろ、二人は別館への回廊に足を落とした。
 そして、板張りの床に足音がキュッキュッと鳴り始めた時。頭二つも高い美
悠の背中が唐突に屈むと、頬っぺたをチョンチョン、ひとさし指で押して立ち
止まり。
 え? 何です?――パーツが真ん中に集まった小造りな顔が怪訝さを露わに
すると、
「ペナルティ。安いもんでしょ」
「え? って、それ……」
「そ。ほっぺに、チュッ」
 長い睫に彩られて、横を向いた瞳がキラリ。
「えーッ。だから、そういうのは、ナシって言ったじゃないですか」
「どこが? 挨拶代わりでしょ、こんなの。人をヨコシマ扱いするから、みっ
ちゃんは〜」
「もう……」
 これ以上混ぜっ返したらどうなるものか――吐息混じりに未知が、「じゃ、
一瞬ですよ」、ミルキーホワイトの頬に薄桃の唇を近づけた時――
 正面、別館への扉から風が吹き込み、ベージュと赤緑チェックの制服の影が。
 ――チュッ。
 現れたミディアムレイヤー、華奢で細身な女生徒は一瞬、その場で立ち止ま
った。
 ささっと身体を離した未知をよそに、美悠は少しビックリな瞳へニコッ。
 見れば色白、目鼻立ちがビビットな美少女系のその子は、すぐに表情を戻す
と二、三歩、思ったより鼻に掛かって低めの声を発した。
「……武道場は、こっちでいいんですよね」
「ああ、そうだよ。この奥ね」
 美悠が親指で後ろを指すと、他校から来たに違いないその子は、ありがとう、
明るい調子で頭を下げ、スタスタと歩み去っていった。
「……びっくり。天の星の子じゃないですよね、当たり前ですけど」
「んん、あのレイヤードは、美城の制服だよ」
「うわ、制服でわかるんですか? あ、でも、見たことあるかも。あの二重の
スカート、アイドルみたいですもんね、本当に」
「ああ、まったく……」
 美悠はまだ、女の子が消えた回廊の曲がり角を見つめている。鼻先に揃えた
指を当てて、匂いを確かめるような素振り。
「どしました、美悠……、じゃない、紅さん」
「んん〜」
 後ろを向いたまま天井へ上目を使うと、しばし。
「ま、いいか」――ライトブラウンの髪をしなやかな指先が梳いて。
「行こか、みっちゃん。時間、無くなるだろ」
「はい、そうですね。行きましょか」
「ああ、そだそだ」
 おかっぱlikeな黒髪の下を覗き込むと、
「今、あたしのこと呼びかけてたけど、名前でさ……」
「ああっ、すいません! 紅さん!」
 素っ頓狂な声が上がる。
「あの、いつも桃先輩が名前で呼んでるもので、つい……」
「は……?」
 突然あたふた、手を胸の前で合わせてスイマセン!な姿勢を作る未知を見つ
めると。
 ハハハハ、美悠は思いっきりな笑い声を響かせた。
 ケタケタ、カラカラ、お腹に手を当ててしばし。
「……ああ、おかしい。みっちゃんが一番面白いな、やっぱり。いいんだって、
美悠でもミユでも。いやね、堅っ苦しいのが一番苦手だからさ、あたしは。そ
の、紅さんってのはやめてもらおうと思ってね」
「……は、はい」
 あたふたがくるりでびっくり顔、すぐに懐こい感じに戻る。美悠は手に持っ
た平たいバックを肩に担ぐと、
「じゃ、行こうか、未知。……で、どこだっけ? 部室……西館はもう閉めだ
ろ?」
「あ、そうなんです……ミユ、さん」
「……うんうん」
「……ええと、第二会議室です。許可取ってあるから」
「お、職員室の隣か〜。いい場所だなぁ」
「でしょう? ギリギリまでできますね、読み合わせ」
 本気か冗談か区別のつかない調子。美悠はもう一度カラカラと笑うと、未知
の表情を見つめた。
 それから回廊を抜け、本館の広間を抜ける間も、つかず離れず、佳奈美/ニ
ヤ混じりで、軽口・真面目にと色合いさまざまに。
 会議室のドアを開ける時には、肩と肩の平均距離は、+50%くらい?接近し
ていたかもしれなかった。

 ベッドで広げっぱなしになった旅行用バッグを見つめたまま、未知はひとつ
ため息をついた。
 丸くて小ぶりな鼻に寄せられた、これまた小さめな唇から、
 フゥ……。
 ぬいぐるみの山に埋もれた星型の時計は、もうすぐ十時を指すところ。桃子
が迎えに来る時間になってしまう。
 手に持ったグリーンのミニポーチのチャックを閉めて、開いたバックの奥の
方に押し込んで……首を小さく右、左。
 もう一度ポーチを抜き出すと、鼻から短く息を吐き――今度は、ため息では
なく意を決したように――シャッとチャックを開けた。そして、ベッドサイド
にあった丸い鏡をポン、と机に置く。
 取り出したのは、ベージュのコンパクトに、シルバーに輝く小さなスティッ
ク。
 パチンとコンパクトを開くと、赤系/暖色の並ぶパレットをブラシでピッキ
ングして――。
 チークはほのかに紅く、眉は少しだけラインを出して、ルージュは甘めなナ
チュラルピンクで。
 鏡に映った表情を見ると、小さく、うん。
 メイクツールをしまい込んだ時、階下でゴ〜ン、と呼び鈴の音が響いた。
「未知さ〜ん」
 母の呼び声が聞こえてくる。
「は〜い、今行く」
 バックをパーカーの肩に担ぐと、ドアを開けた。吹き抜けになった玄関へと、
木造りのらせん階段に足を掛ける。見下ろすと、柔らかく整えられた黒髪の頭
が、ドアの前にあった。
「……よろしくお願いしますね、桃子さん」
「はい、間違いなくお預りします。学校の方にも、きちっと届けてありますの
で」
 肩口でブリーチされた女性の頭が、ゆっくりと頷く。
 トントントン、足早に段を降りると、小ぶりな唇がぐっと引き締まる。
 そして、
「桃先輩、おはようございます!」
 元気よく声を響かせると、理知的な丸い顔ににっこり笑いかけた。
 なだらかに山型を描く目が未知の色づいた顔を捉え、一瞬、見開かれる。
 すぐにバックを傍らに置き、パーカーの背を丸めて靴に手をかける。  と、
穏やかな声が背中に、
「未知ちゃん、西涼さんやみなさんにご迷惑をかけないようにね…」
 しかし、その口元は不安げに歪み、声はすぐに曇った調子を帯びた。
「…未知ちゃん? あなた、もしかして」
 すっと顔を上げると、ピンクに色づく唇で、まっすぐに――
「なに、ママ」
「お化粧……?」
 自分とはまったく似ていない細面の顔に、うん、と頷いた。
「そうだよ。行く途中にも撮影するから。これくらい、高校生なら普通でしょ」
 所在なげに桃子の方を伺う母から視線を外すと、
「ですよね、桃先輩。電車の中でも撮るって、雄さんも」
「うん、そうだね。……では、お母さん、行ってきますので」
 深々とおじきがされると、その手に押されるようにドアの外へと出た。
「言ったね、未知ちゃん。はっきり」
 門扉を閉めた後、桃子は驚き半分、よくやったねの視線をよこした。
「はい。やっぱり、言うべきことはきちっとしないと。いつも、桃先輩に言わ
れているみたいに」
「うん、そうだね」
 ミニサイズでCUTE、同じぐらいの背格好の二人は、バックを肩に街路を歩き
始める。
 しばしの沈黙、午前の空気を吸った後。
 おかっぱ頭が、秋の澄んだ地平線に目をやって、少し考え深げに言葉を継い
だ。
「……でも、桃先輩」
「うん?」
「今日、最初からバシッと行こう、って思えたのって、ミユさんのおかげでも
あるんですよね」
「美悠のおかげ?」
 桃子の深い眉がどういう?と曇る。
「はい。ミユさんが言うんですよ、『退屈〜とか、思ってるんじゃない、ニヤ
みたいにさぁ。なんにも、ちっとも変わらないよ〜〜って。どう、違う? そ
れ、誰かに文句のワガママ。だからさ、どうせワガママなら、わたし自分勝手!
あんたの思惑なんて、知りゃしない!って言っちゃえば、風が吹いてくるんじ
ゃない? ホントは、世の中、楽しいことばっかりだからさ』って」
「……ふぅ〜ん」
「なんか、桃先輩に言われたのと似てるような気がして。『自分らしいって、
人を傷つけるのを恐れないこと』って……」
 一瞬視線が逸らされた後で、桃子の口の端に皺が寄り、
「なるほど、ね」
「ね、やっぱり、さすが桃先輩のパートナーですよね。天乃星の無敵!コンビ
ですもん」
「ああ、それはヤメ。あれは間違ってもパートナーなんかじゃないよ、未知ち
ゃん。もう、腐れ縁。わたしの方は、できれば関わりたくないんだから」
「……そうなんですか」
 未知は納得いかないように桃子の横顔を見遣ってから、正面に視線を返した。
 大通りが前を横切り、駅前の看板が見え始める。
「あ、今日の『逃避行』は完璧ですから。もう、気分はニヤそのものなんです
よ!」
 ぐっとポーズを作ると、桃子はにっこり頷いた。
「頼もしいね。よくわかってると思うけど、今日のシーンが肝だから」
「はいッ、わかってます。目指せ、銀河祭一席!ですもんね」
 おーっ、と軽く拳を上げると、
「その意気、その意気」
 桃子のニコニコ顔に押されるように、未知はもう一度大きく拳を振り上げた。
「がんばるぞ〜。目指せ、ミルキーウェイ・フェスティバルbP!!」
 目の前に迫った駅前に、映画研究部の仲間が見えてきていた。
 部長の雄志に、カメラの尚、小道具・美術の清佳。それに、もう一人、スタ
イル抜群、短い黒髪がかえって流麗な表情を際立たせる――。
 近づいていく二人。「お、元気だなぁ、未知ちゃん」「やる気まんまんだよ」
――これから乗り込むグランドワゴンを後ろに、誰とはなく、楽しげな声が響
き上がった。
 
 ミユさんは不思議な人だ。
 やっぱりさ、人に頼ってちゃダメだな。親のせい、で言い訳できるのは、十
二才までだよ──ものすごく真面目な顔で言ったと思うと、
「わたし、桃先輩のこと、とても尊敬してるんです」
「尊敬、うんうん、いい言葉だなぁ。ソンケイ。でも、尊敬ってどんな尊敬の
こと?」
「尊敬は尊敬ですよ。すごいなぁ、ってことです」
 なんだかにやにや、正直に話しているのに。
 でも、一緒になった昇降口で、バッサバッサのファンレターの山。
「んん〜、花一杯は嬉しいけど、やっぱ、踏み込みがねぇ……おっ」
 入ってきたメールをふ〜んって顔で覗き込んで、「見る? ほら」
『背中にお気をつけなさい。いつも空を飛んでるわけにはいかないのよ、いく
らあなたが軽薄でもね。もしかしたら、刺されちゃう、なんてのもあるかもよ。
ふふふ・・・』
「これって……」
「人気者はつらいねぇ……ん? 大丈夫だって。こんなメールよこすのは、度
胸がない証拠。ああ、ごめんねぇ、面白いと思って見せたんだけど」
 全然気にしてない……嘘みたい。
「あ、このメールはいいね。Precious。『ミユウさんは、天乃星の風。星の間
を抜ける、銀色の風です』だってさぁ、ふふふ」
 風、かぁ……。
「おおっ、今のNG、イエロー二枚目〜」
「ええっ、でも……」
「言い訳はなしッ! はい、罰金。罰金」
 自分のほっぺたをつんつんしてチュッの要求してきて──
「おい、そこそこ! 美悠、あんた、未知ちゃんをおもちゃにするんじゃない!」
「なんだよ、減るもんじゃないだろ、桃」
「ああっ、あんたの魂胆はわかってるんだからね。ちゃんと演りなさいよ。だ
いたい、変な間入れるからでしょ、今のテイク──」
 風……本当に。
 ──ん?
 横顔がこちらに気づいて、眉が上がった。
 いいえ、何でもないです──首を振ると、すぐシナリオに戻って、桃子に指
差された台詞に頷いている。
 でも、やっぱり、桃先輩と一緒にいる人だよね。そばにいると、すごさがわ
かるもの。
 今は佳奈美に合わせて黒くなっている短い髪。わたしも、あんな風に軽くし
たら、いい感じになるかなぁ。
 ニヤの設定は少しざんばらなロング。付け毛の襟元を指ですくと、未知は小
さく息を吐いた。
 赤さを帯びた始めた光が、斜めに入り込んできていた。
 低く、なだらかな山の稜線に四方を囲まれて、朽ちた工場の跡には、冷気を
孕んだ風が静かに吹き込んでいる。
 雑多に転がったドラム缶、錆び付いて動くことのないフォークリフト、窓が
割れ、穴だらけになった作業場。赤茶けた鉄骨が折り重なる一角に灯った光の
中で、カメラやレフ板、照明スタンドが場所を探して動き回る。
「部長、そろそろ、次いく?」
「ああ、ちょっと待てよ。桃子が美悠譲と話してるから──時間は?」
「5時10分前。だいぶ、赤くなってきたかな」
「カメラ、感度、オッケー?」
「ん、ばっちり。いい光だよ、マジ」
「未知ちゃんは、オッケ?」
 はい、準備万端ですよ──手で丸を作ると、大きくうなずいた。
 ニヤが佳奈美と出会ったのは、駅前の公園──
「彼氏」と待ち合わせる時計塔下のベンチの隣、激しい言葉の投げ合いに遭遇
したのが始まりだった。
『なんのつもりです? さっきから断ってるでしょう』
 落とした視界の中で、すらりとしたスニーカー履きの足が、いらいらと地面
を叩いていた。
『いや〜、そう怒らなくてもさぁ。キミにも悪い話じゃないでしょ』
『いい、悪い、の話じゃないでしょう。論理のすり替えはしないでくれますか。
今、わたしはあなたとは何の関係もない用事でここにきているんですから』
 丁寧な言葉遣いとは裏腹の、激しい拒否感が浮かぶ声の色。
『う〜ん、頭いいなぁ。お姉さん。ますます、悪い話じゃないと思うんだよね
ぇ……そういう勧誘とか、危険な話じゃないからさ』
『見も知らぬ女性に、意向も省みずこうして話しかけている時点で、前提が違
うんじゃないですか』
 すぐそばのベンチで繰り返される、不毛な会話。おそるおそる横目で見た瞬
間、目じりが下がってつるりとした肌の──しかし、どこか邪な雰囲気の若い
男は、こちらに向かってにっこりと笑いかけると……。
『お嬢さん、お一人? 実はわたくし……』
 突然女性との会話を中断して、何か名刺のようなものを取り出そうとする。
 と、その腕が止まった。
『言葉で言っても、わからないみたいね、あなたは』
 そして、後ろからねじ上げられる男の腕──外側へと小指を折り曲げられて
……。
『……何すんだよ。マジか、この女』
『迷惑。その単語、知ってる? 興味ない話なんて、誰も聞きたくないの。ま
して、いかがわしい儲け話なんてね』
 再びいくつかの言葉が飛び交った後、捨て台詞を残して去っていく男。
『すぐ別の場所に行った方がいいわよ。ああいうのは、すぐに仲間連れて戻っ
てくるから』
 え、彼と待ち合わせだったの? ごめんね。でも、携帯持っているでしょう?
──にっこり笑って別れた、短い黒髪が涼やかなその女性は、気がつけば同じ
学校の先輩で……。
 いつも繰り返す、穏やかな日常。
 何ひとつ不自由はなくて、ゆっくりと時間は流れて。
 笑い合う友達に、楽しくてドキドキな恋の時間。
 ……でも、どこかでささやく声が、消えない。
 退屈、退屈、退屈。ソレデイイノ? コノママ、オワッテイクノ?
『あ、あなた、日曜日の──』
 ある日の昼休み、再び声をかけてくれたその人は、校内一の才女――誰もが
憧れずにはいられない三年生の花、声楽部部長の山花佳奈美さん。名前だけは、
入学した頃から聞いていた……。
 そして、時折交わす言葉が、日々と共に密度を増していく。
『ニヤ、今度、家に遊びに来る?』
『広い家でしょう。でも、魂は住んでいない「タテモノ」よ』
『憧れなんて、泡みたいに消えてしまう。答えは、自分の中にしかないんだか
ら』
『救いのない人はたくさんいる……わたしも、そうなのかもしれない』
 「理想の人」の中に見つけた影は、いつの間にか自分の中に宿る。そして、
不意に起こった家庭争議。
『いつも思っていたのよ、パパが死んでくれたら、どれくらい楽かって。でも、
あなたがいたから……』
 アタシが? どうして? そんなこと、言わないでよ。じゃあ、今まで見せ
ていたのって、全部嘘? じゃ、アタシがいなくなれば、パパもママも、普通
に生きられるの?
 家を飛び出して、携帯した先は、佳奈美さんの名前。そして、あてどもない
「旅」に、佳奈美さんは付き合ってくれた。
 名前を聞いたこともない駅で電車を降りて、拾ったタクシー。
 小さな温泉街から離れ、奥へ奥へと歩み入った先で、寒気を避けて逃げ込ん
だ廃工場。
 そして、集めた木切れと固形燃料で焚いた小さな炎。
 夕闇が迫り始めた山間の紅の中で、炎の赤がいっそうの陰影を彫り、答えを
求めるでもなく交わされる言葉は、風だけが鳴る滞った空気の中に、淡々と響
く――。
 ――そのまま、動かすな。
 カメラに向けて示される手の平。かすかに聞こえるバッテリーの音。
 隣で炎を見下ろすしなやかな肩から、息遣いが聞こえる。コトコトと鳴る古
いヤカン。雄弁さを押し殺した唇が、小さな息を吐くと、
「あったかくなってきたね、ニヤ」
「……うん」
 目の端で赤に彩られた横顔を捉える……少し、予定と違う台詞。ミユ、さん?
「……言ったよね、ニヤ。あなたは。
 どうして? 全部が嘘だったの? そんな風に生きるためにわたしが要るな
ら、わたしなんていない方がいいっての?って」
 無言で火を見つめ続けた。
「……でも、それは、あなたの心が、その人たちに寄り掛かっているから。行
っちゃいけない場所なんて、この世界には、何処にもないの。自分で、檻を作
っているだけ」
「……でも、佳奈美さん……。アタシ、わからないんです。だって、アタシ…
…」
「踏み出す足はあるのよ、ニヤには…」
 一瞬の間。続くのは『それに気付かない振りをしてるだけ……』――でも、
その唇は、「そ」ではなく、「あ」を形作る。
「…あなたには、踏むための台が、もう用意されてる。それが嘘で作られて思
えても、幻に見えても。あなたは、気付かない振りをしてるだけ……」
 なんて答えればいいんだろう。「でも……」がこの後言わなければいけない
こと。「佳奈美さんは何でもできるから……」って。
 でも……。
 炎から離れた瞳が、天井を仰ぐ。そして、自らを嘲るように、小さな笑い声
を上げた。
「偉そうだよね、わたし。こんなこと言っても、わたしも同じ。ね、ニヤ」
「…はい」
 はい、じゃない。ニヤなら、うん……、って。
 にっこり笑った黒髪の下の瞳。僅かにのぞく、悪戯っ気のようなもの。でも、
すぐに……。
「あなたは、前に、わたしは何でもできるからって、だからわからないだろう
って、言ってたよね」
 小さく頷く。
「でも、わたしも同じ。ぬけがらになった建物、ぬけがらになった関係、ぬけ
がらになった人たち……どんなに綺麗に、早く泳げても、意味なんてない……」
 思い直したように、整った頬の稜線が左右に振られると、
「ううん……いいんだ……」
「佳奈美さん……」
 一緒に天井を見上げる。錆び付き、穴の開いた屋根からのぞく、赤く染まっ
た空。そのスクリーンにほのかに浮かぶ、星々の輝き。
 肩がそばにあった。
 息遣いが聞こえる。
 風がそよぎ、少しだけ、香りがした。
 下ろした指先に、体温を感じて――
「ニヤ」
 耳元に声を感じた時、大きく深い、赤を宿した明星が目の前にあった。
 息がすぐそばにある。近づいてくる、唇。
 静かに、目を閉じた。
 柔らかい、感触。
 湿っていて、でも、暖かい。
 声がする。
 未知、未知、未知。
 頭の中で、ずっと、回り続けている……。
 ずっと………。

 出会っていた唇が離れ、
「苦しかった?」
 優しさを湛えた瞳が、密やかに問い掛ける。
「……そんなこと。でも、空気がすごく……」
「……気持ちいいね。……今わたしたち、同じ空気を吸ってる」
 そして、二人は笑みを交し合った。
 ファインダーの四角に切り取られ、時間が止まる。
「カット!」
 瞬。声が響き渡り、空気が解けた。
 二人の影、赤に包まれた画に引き込まれた一瞬が散って、桃子は心の中で小
さく呟いていた。
 ――まったく、参ったなぁ……。
「ミユさん、ひどいですよ〜、もう、いきなり」
 身体を離した美悠が、ははは、と笑う。
「いや、あそこの台詞、なんかはまらなくてさ。暗いってのか――どう、雄志。
よかっただろ」
「ああ、オッケーだね。ナイス、インプロビゼーション」
 機材を構えた他の部員からも声が飛ぶ。
「いやいや、いいモン見せてもらったわ〜」「紅さんに感染か、みっちゃん」
「そんなんじゃないですよ〜。でも、もう、入っちゃってぇ」「唇だけだもん
ね、未知」「おお、唇だけ、だってよ」「もう、ミユさん!」
 はあ――桃子は、大きく鼻で息を吐くと、一瞬抱いた感慨が、冷めた気分に
落ちていくのを感じていた。 
「雄志」
 腕を組んで頷いていた茶のジャンパーの背中が、桃子の方へと振り向いた。
「どした、桃子」
「……今ので、いいわけ?」
「不満か? 脚本通りじゃなくて」
「そう言うんじゃないけどね……」
「よかっただろ、今のキス。いやらしいもんじゃないし、桃子の言ってた『共
感』出てたと思うよ、俺は」
「まあね……」
『どんなに綺麗に、早く泳げても、意味なんてない……、でも、重く積み重な
った水が、身体全部を包み込んで、締め付けてくる……。あなたの泳ぐ場所は、
どこにもないのよって』
 題名の『Breathless(息切れ)』――ずっと納得いかなくて、何度も直した
末に妥協した台詞だった。
 優等生の佳奈美と、普通の女の子のニヤ。二人の本当の出発点――シナリオ
の肝を、ああやってキス一つで表現しちゃうんだから、やっぱ、認めざるは得
ないけど……でも、ね。
 ジーパンの腰に手を当てると、小柄な背中がツカツカ、炎の側で並んで座り、
他の部員に囲まれた二人のところへ歩み寄る。
「よ、桃。どうだった」「桃先輩、オッケーだったでしょ」――いなせな笑み
と、懐こげな瞳と。
 そのまま手を前へ持っていくと、二人の間を割って、
「はいはい、離れる、離れる」
「おいおい、桃。お褒めの言葉もナシかい。我ながら、会心の……」
「はいはい、よくできました。ありがとう。見事でした」
「おいおい」
「桃先輩、いい感じでしたよ、ほんとに」
 桃子は一度目を閉じると、美悠の方を向いた。
 そして、気を落ち着けるように、一息。幼馴染のまさに「なじみ」な顔を見
下ろすと、
「よかったよ、美悠。わたしも、今ので「はまった」気がした。感じ、出てた
と思う」
「うんうん、そうだろ、桃」
「でもね……」
 屈託なくニコニコと笑う美悠の耳元に口を持っていくと、
「あんたの目論見、わかってるんだからね」
 ん、何が?と眉根を上げて、天を仰ぎ見る表情。でもね、その小鼻のひくつ
きが何よりの証拠でしょ。
 まったく、相変わらず嘘っ気まで本気、ってのか。
「未知ちゃんにも、言っておくけど……」
 と、一点に集まった部員たちに声がかかった。
「お〜い、最後のテイク、行こうか。準備、よろしくな」
「は〜い」
「……桃先輩、何か?」
「ああ、いいの。メイク、行って」
 首を振って未知を促すと、雄志の斜め後ろに戻る。
「桃子、気にしすぎじゃないのか。美悠ちゃんだって、それぐらいわきまえて
るだろ」
 座ったままの背中が低い調子で言った。
「……雄志は甘く見すぎ、あの子のこと。どんな状況でも「そういうこと」し
か考えてない色魔なんだから、あれは」
 ふぅ。――仕方ないか、という調子で雄志が息を吐いた時、
「あ〜、失敗した!」
 ライトに照らされた簡易テーブルの方で、ほそい叫びが聞こえた。
「どうかした? 清佳」
 桃子が小走りに鉄骨を飛び越えて近づくと、メイクブラシを握った女子が、
舌を出して細身の顔を歪ませていた。目の前では、美悠と未知が二人並んでメ
イクを待っている。
「銀、切らせちゃってるよ、桃子」
 パレットを示して、ブラシをパタパタと振った。
「え、マジで?」
「うん、ゴメ。失敗だよ〜。最後、夜のイメージシーンだもんね」
 軽めのショートボブの頭を「はあ」、うなだれるメイク担当の肩を、「ま、
仕方ないよ、別の色でいこう」、ポンポンと叩きかけたその時。
「あるけどね、銀」
 美悠が言った。
「って、美悠?」
 流線型の眉が持ち上がり、前髪をヘアピンで留めた額に、かすかに皺が寄る。
「24色パレット二つ、あたしの荷物の中に入ってるよ。取ってきてくれれば
ね。あたしは、動かない方がいいでしょ?」
「あ、そうだね。行ってくる……どのバックだっけ?」
「茶色のヴィトンの……わかるだろ? で、中のブラックのポーチ。すぐ見つ
かると思うけどね」
「助かる。あんたのジャラジャラも、無駄ばっかりじゃないね」
「一言余分、桃。感謝、感謝」
 はいはい。胸元に指を立てる美悠に軽く唇を尖らすと、
「清佳、ちょっと待っててね」
 ドラム缶と鉄骨が転がる撮影場を走り抜けて、錆び付いたフェンスの向こう
へ出た。
 そして、空き地に停められたグランドワゴンのドアを引く。
「ごめんね、弘さん」
「あ、桃子さん。もう終わりですか」
 ううん、もう少しかかる――雄志の家のお抱え運転手に首を振ると、荷物の
積まれた最後部に頭を突っ込む。
 美悠のバックは……と、真ん中にドンと置いてあるあれね。
 手触りからして高級そうな茶色のバックを開けると、いくつかのポーチと携
帯、ブラシなどが結構ていねいに入れてあった。
 黒いポーチ……これ、かな。
 灰色のブランドマークが浮き出る少し大きめのポーチを取り上げると、小物
が入っているカラカラという音がした。
 これだな――確認の為、チャックを開けると……ん? 何か、ちょっと違う
ような。細長い棒のようなものや、コードみたいな……。
 ちょっと柔らかい手触り――
 手を伸ばして、天井にあるライトをつける。
「うぎゃ!」
 な、な、な、何よ、これは!
「……桃子さん、どうかしましたか」
「う、ううん、何でもないから、弘さん」
 ライトに照らし出されたのは、緑、ピンク、はては紫のラメに輝く、電動器
具。コードの先についた丸いものから、蝶々型、両側に突起を持つもの、ベル
ト付き、どう見ても「あれ」な形状のものまで……。
 慌ててチャックを閉めると、別の黒いポーチが目に入る。恐る恐る持ち上げ
ると、これは……間違いなくメイクツールだ。
 ――ドン!
 テーブルの上にポーチを置いた後、桃子は美悠の腕をつかみ上げた。
「な、なんだ、桃」
「いいから、ちょっと来なさい」
 無理やり美悠を立ち上がらせると、
「ちょ、ちょっと桃子」「桃先輩?」
 清佳と未知の声を無視して、ドラム缶の影になった一角へと押し込んだ。
「……美悠、あんたねぇ」
 ヘアピンで前髪を上げたままの幼馴染を見上げると、大きく息を吸い込んだ。
「どういうつもり。あんなもんまで持ってきて」
「あんなもの…」
 眉根を寄せて、鼻先に指を当ててしばらく、
「…あ、あああ、そっか、あっちを開けちゃったか」
 ははは、少し照れ交じりとは言え、あっけらかんと笑い声を上げる。
 口の端がヒクヒク、もう、限界かも。
「持ち歩く神経が信じられないよ、わたしには。……だいたい、どうしてあん
なものが必要なわけ?」
「ん?」
 こんなこと、突っ込んだって、ね。でも、言わずにいられるものか。
「あんた、曲がりなりにも「女性が好き」なんでしょう。ああいうものを、使
う必要があるわけ?」
「あ〜あ」
 訳知り顔で頷く様子。ますます苛立ちが二次曲線で上昇――
「何のための、同性愛? それなら、男でもおんなじでしょうが!」
「おお、まあ、ね。そういう人もいるけどね〜」
 ポンポンと肩が叩かれて、眦の切れた瞳が、前屈みに側へと寄る。
「あたしは全方位主義なんだ。使えるものはぜんぶ使って、GET!しないとね。
だってさ、あたしだけの一番星が欲しいんだから、あ〜こう言ってられないだ
ろ?」
 桃子の目の中で、黒い瞳が一瞬赤に染まり、すぐに握った拳の中に消し去ら
れた。
「わかった。言ったわたしがバカだった」
 ザクザクと元の場所に戻ると、
「……未知ちゃん、おいで」
「え、桃先輩、でも……」
 背中を押すと、機材が置かれたもう一つのテーブルの方へ立ち上がらせる。
「桃子ぉ」
「悪い、清佳。あの色ボケのメイクは、頼むね。ニヤの出番はあんまりないで
しょ? 未知ちゃんはわたしがやるから」
「桃、そりゃないだろ、佳奈美とニヤは……」
「うるさい! 一緒に出るシーンは終わってるんだから、関係なし!」
「桃せんぱぁい……」
「いいの。もう、演技以外で半径5M以内に近寄らない、あれには」
「おいおい…………監督、それでいいのかぁ」
 撮影現場を横切って飛んできた美悠のよく通る声。チェアーに座ったまま、
雄志は両手を広げた。
『ひどいねぇ。この現場、監督より脚本家主導だよ〜』『だまってなさい、公
私混同の役者が言える台詞?』『ああ、まったく、横暴だよ。ノーギャラなの
に』『部活なんだから、当たり前でしょう』『桃先輩、どうしたんですか? 
車から戻ってきたらいきなり……』
 威勢のいい話し声が、星が輝き始めた秋の冷気の中に響き渡る。
「……去年、『武−タケル−』撮った時にも思ったけどさ」
 と、鼻にかかった男子の声が雄志の隣で響いた。
「副部長と美悠姫、ホントにいいコンビだよな」
「……ああ」
 まったくだ、と桃子の「彼」は首を縦に振った。そして、少し間を置いた後
で、自分に話し掛けるように、
「本当に、俺もそう思うよ」
 と、小さく呟いた。


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