7

 武道場の中は、朝の怜悧な空気で満ちていた。
「お、やっぱり最後まで当たらないな。アズミとは」
 エントランスの広間、扉の横に張り出されたトーナメント表。
 白い道着姿で見上げると、美悠はうんうんとうなずいた。
「紅さん、本当にパンフレット見てなかったんですね。まあ、必要ないかもし
れないですけど、紅さんには」
 ベリーショート、小柄な道着姿が見上げると、
「ああ、そうだね。「あたしは誰の挑戦でも受ける!」ってとこかな」
 美悠は笑いながら応えて、ポンと安海の肩を叩いた。
「……でも、できるといいですね、決勝戦。本当に」
「ん? だねぇ。まあ、アズミなら、大丈夫だよ。実力出せば、負けるとは思
えないな。何しろ、あたしでも気を抜いたら、「おっ」だもんなぁ」
「言いますね、紅さん」
 きりっとした生のままの眉の下で、瞳が勝気さをにじませると、
「当たったら、簡単には奥襟掴ませませんよ。スピードなら、私の方が上です
から……って言うか、負ける気はないですよ。もちろん」
「ふふふ」
 楽しげに見下ろすと、一重まぶたの目と視線を合わせた。
「そうでなくちゃあね。ガチンコ勝負、見せてやろうか。地区大会レベル遥か
オーバーのね。それで、ご覧のみなさんをfascinate、拍手にハートマーク飛
び散り、でこちらはpassionateと」
「もう……、紅さん」
 苦笑いを浮かべると、安海は視線を逸らした。
 まったく、こういうところがなければなぁ、と言いたげに。
「とにかく、紅さんとは今回だけですものね。真剣勝負ができるのは」
「ん、ああ。そうだね」
 美悠は一瞬考えてから頷くと、もう一度トーナメント表を見上げた。
 総勢40人、それなりの人数に見えるが……実際はこれが全部。他のトーナメ
ント表は一切ないのだった。
 つまり、当地区、女子の個人戦は無差別で行われるということ。
「お、そろそろみたいだね」
 何人かの道着姿が場内へと入っていくのに気づいて、美悠が言うと、
「あ、そうですね」
 曖昧に頷いた安海の肩が「じゃ、頑張ろっか」、ポンと叩かれる。
 そして、よく見れば毛先が少し脱色されたハードレイヤーの髪が、両手です
き上げられ、ステップを踏むと。
 歩き始めたlike a fashion model――肩の張ったすんなり長身の背中、道着
からでもしなやかに伸びる足――後ろ姿も合わせ、同じ服をまとってなお、周
囲とはあまりに異彩を放つ――。
「紅先輩〜、頑張ってください」
 階段の踊り場からかかった声に「まかせなさい」、屈託なく手を振る。
 とどのつまり、美悠にとってはトーナメント表が一つの無差別開催も、学校
代表も何も、委細関係なしなわけで。
 と、正面扉をくぐりかけた端正な横顔が、視線の端で、歩み去る華やかな制
服姿を捉えた。
「どうかしましたか?」
 安海が立ち止まった長身の姿に振り返ると、しばしたたずみ、奥の廊下に視
線を流している。
 少し内へ、ロール気味になった髪を揺らす長身は、見映えのするスタイルの
……。深青のスカートが軽やかに翻り、壁の向こうへ――一瞬だったが、見覚
えがあるような。
「ん、なんでもないよ。ちょっと、見たような子がいたもんでね」
 美悠が唇を斜にして眉を上げると、「紅さん、いくら何でも、そろそろ真面
目にお願いします。本気で」――少し荒げ気味の安海の声が響いた。
 その、入り口横から奥へと伸びる回廊。
 関係者以外立ち入り禁止、と書かれた立て札の向こう、ソファーの置かれた
休憩室に、三つの影があった。
 その一人、首筋〜肩口で華やぐロールレイヤーの女子高生が、ひだのきれい
に入った長いスカートの腰に手を当て、入り口付近に鋭く立ち塞がっていた。
 ソファには、道着姿の巨漢の女子と小学生かと見紛う小粒なboyish Girlが
かしこまった風に。
「あの女と当たるのは、食事前になるわけね」
「はい。ベスト8で当たりますから。午後は準決勝以降の試合になるので」
 ほとんどスポーツ刈りのざんばら頭に、太眉と細目、ごつい描線の顔が頷い
た。
「それは好都合ね。で、春希、あなたの方は?」
 白い胸元についた大きな青いリボンが揺れ、隣より頭一つ半も低い顔を見下
ろす。
「普通にしてるよ、綾乃さま。だって、そういう奴なんでしょう? 紅美悠は」
「そうね」
 綾乃が頷くと、ベリーショートのboyish girlはややつり気味の円らな目で
にっこり、手を当てた制服の腰のそばにススッと。
 しなやかな指が伸び、短い黒髪を柔らかくかき分けると、子猫のようにスリ
スリ……。
 目を閉じて、緩みのない立ち姿に身を委ねる図は、お姉さんに甘える小学生
の男の子のよう……。
 しかし、その内実は。
 そんな二人の様子を、マッシブな道着姿が満足げに眺め……が、それは一瞬。
「では、頼んだわ。茜、春希」
 凛とした声が響くと、立ち上がってなおさらにアンバランスな二人は、「は
い」「うん」と声も不協和音に頷いた。
 そして、足早に道場へと消えていく。
 一方、長方形に会場を見下ろす観客席では。
 プラスチック製の座席が斜面を作る正面の一角――ビデオカメラが三脚を立
てて置かれ、モニターには開会式を待つ場内の様子が大きく映し出されていた。
 三々五々に入場し、赤畳の外側で時を待っていた道着姿の女子達は、「それ
では」の掛け声と共に、中央に集められ――。
 カメラのセッティングに、手馴れた様子で制服の腕が動くと、「ま、こんな
もんかな」――知性溢れる横顔が軽く頷いた。
 その横には、同じパフスリーブの制服を着た小柄な女子が一人。
 最近短く刈ったばかりの黒髪を揺らしながら、機材の小物をバックに詰め込
んでいる。
「どうです、桃先輩。他に何か手伝うことは……」
 横に視線を向けると、柔らかく分けられた前髪から秀でた額へ、視線をパン
ダウン。
 と、「憧れの桃先輩」は手元のリモートコントローラーに目を落としたまま、
「うん、ありがと、未知ちゃん」――素っ気なく言葉を放った。
 未知は桃子の横顔から視線を外して、小粒な目をパチクリ。所在なげに手荷
物を膝の上で一回転、二回転……。
 報道部がサッカーの取材で人員不足、桃子の頼まれ仕事な撮影に、無理やり
付いてきたわけだけれども――。
「あ、始まるみたいですよ、桃先輩」
 四角に整列させられた白い柔道着姿の面々。
 ちっちゃいのから大きいの、がっしりから細身まで、凸凹・雑多に並んで開
会の辞を待っている――と、よく見慣れた顔が、最後列から観客席へ、軽くウ
ィンクを寄越した。
 遠くに見下ろしてもビビットな姿に、未知はニコッ、微笑んで小さくshake
handする。背中からも、「紅せんぱ〜い」、控えめながらもはっきり聞こえる
声で、即席部員達のコール。
 まだまだ観客もまばら、静かな空間に異質な響き。居並ぶ役員から、観客席
まで届く咳払いが聞こえ――
「……未知ちゃん」
 桃子の視線にたしなめられて、「は〜い」、手を下ろした時、白髪の背広姿
の背中が、一歩前へ。
『武道に精進することで、心と身体の調和を目指し、日々向上の道を歩む高校
生のみなさん、よく集まってくれました。本日は、日頃の稽古の成果を存分に
――』
 紋切り型の挨拶が続く中、未知の目は印象的な風景を捉えた。
「あ、桃先輩、すごい人がいますね。あの、ミユさんの隣の人――」
「ん、そうだね」
 さっきから気づいてるよ、との頷き。確かに誰が見ても、目を引くだろう巨
大な体躯が、美悠のすぐ隣にのっそりと立っている。
「ミユさんより、頭一つ以上高いですよ。幅なんて……ふた回りも。あんな大
きな人、いるんですね」
「確かに。あの子より背の高い女子は、滅多にいないんだけれど」
 相変わらず素っ気なく言うと、ビデオを回したまま、顎に親指を当て、ふむ。
 ――こちらを一顧だにしない様子。再び会話の端っこを見失うと、未知は
「ふぅ」、小さくSigh。
 そしてそのまま、しばらく時の流れるままに。
 やがて、「一回戦は、9時30分からの開始となります。各自、準備を怠ら
ないように」のアナウンスと共に、選手達がばらけ始めた。
 見ると、美悠は先ほどの巨漢と拳を合わせ、にやり、何かを確かめ合ってい
る。
「……なんだか、静かな感じ」
 未知が誰に言うでもなく呟くと、桃子は膝の上のメモ帳に何かを走り書きし
ながら、
「こんなものよ、報道系の撮影は。まして、あまり派手な会場じゃないしね。
でも、報道撮影はできるだけ客観性を意識して撮るのが大事、これはこれで、
難しいところが多い仕事なんだよ」
 一瞬、最近ずうっと冷たげだった口元に優しい笑みが――。
「あ、やっぱり、そういうカメラはカメラで、いろいろあるんですね! 奥が
深いなぁ……」
 テンション↑で言葉を発すると、
「ん、そうね」
 冷却度1000%のクールな返答。
 ――もう。
 桃先輩のいけず!
 心の中だけでなく、頬も不満で膨らみかけた時、桃子の向こう、昇降階段付
近から、もっさりとしたジャージ姿が現れた。
「お、ご苦労さん。西涼」
 ガラガラ声を響かせながら筋肉質なタワシ頭が近寄ってくる。柔道部顧問、
体育教師の田山(クマ)太郎。
 と、斜め上の即席女子部員達にも、
「どうだ、君たち。しっかり見て、勉強してくれよ」
 ――「はい」「しっかり見学してま〜す」
「ご苦労さまです、田山先生」
 桃子が中腰になって軽く礼をすると、未知も合わせて会釈。ごつごつした四
角い顔が、ん、それらしい頷きをすると、
「ちょっと覗かせてもらっていいか」
 モニターに身体を屈めて、桃子の方をチラ。
「撮影が映研部になってラッキーだったな、柔道部としては。何しろ、銀河祭
一席。TVからも話があったんだろう? 聞いたぞ」
「はい…、まあ」
 桃子が曖昧に答えると、うんうん、そうだよな、と満足げに頷き、
「いい画像で収めてくれるだろう? ホント、マジラッキー、ラッキー」
 そしてもう一度、桃子の制服の胸元?をチラリ。
 妙にフレンドリー+いかがわしさ隠しようもなし、な態度に、うあぁ――鼻
筋に皺が寄りかけた時。
「それを言うなら、ラァキー、短くラッキーね、クマセンセ」
 いきなりな声。見事なブレッシングで背後に立ったのは、道着姿が涼やかな
――。
「お、紅」「ミユさん」
 未知と田山が同時に声を上げると、桃子はちら、大きな瞳を一瞬、上に向け
ただけで。
「紅先輩、試合はいいんですか?」「頑張ってください!」
 上の座席からも声がかかると、「ありがと、みんな。あたしの試合は次の次
だからさ。応援、頼むね。後、安海にはマックス、シャウトでね。あたしは即
席部員なんだからさ」
「はい。わかりました」――明らかに担当教諭に対するより恭順な返事。
 美悠がうんうんと頷くと、先刻までとは明らかに異なる声色で、田山のガラ
ガラ声が響いた。
「紅、どうだ、調子は。ずいぶん、デカイのがいたけどな」
 それはむしろ、男子部員に言うような。
「う〜ん、ま、絶好調とはいかないけどね」
 切れ長の目が、未知と桃子の方をチラと見下ろすと、
「問題ないと思うよ。……一番の強敵は、やっぱ、アズミかな」
「ほう、そうか。あの、大きいのは」
「……そうだなぁ、当たってみないとわからないけれど。力だけじゃあたしに
は勝てないよ。まあ、いい子だったけどね、さっき話したら」
「子ってなぁ……そういうガタイじゃなかったろう、あの化け物」
「ほらほら、差別発言。センセイが問題じゃない?」
 ニヤっと笑いかけると、体育教師の方が「ははは、そうだな」――どっちが
指導者やら。
「同じ学年らしいしね……ま、母性溢れる感じかな、あたしのタイプじゃない
けど」
 そろそろ試合が始まりかけた会場、見下ろしながら美悠が軽く欠伸をすると、
「はははは、母性なぁ……」
 ほぼノーコメントな笑い声が無骨な口から上がった。
 と、突然。膝元から声が。
「それなんですけど!」
 ん?――美悠が見下ろすと、子犬な顔立ちが真っ直ぐに見上げていて、そし
て。
「ミユさん、桃先輩がひどいんです!」
 唐突な言葉に眉を寄せたのは一瞬、全て無視で仕事に淡々な桃子の顔に視線
をやってから、美悠はふんふん、頷いて未知の横に腰を下ろした。
「もう、今日もずっと、わたしのこと冷たくあしらって。お手伝いで一緒に来
たのに……」
「未知ちゃん」
 わずかにこちらへ顔が向けられ、かしこげに孤を描く眉がふぅ、軽く歪めら
れると、
「一人で充分、そう言ったでしょう。映画の撮影とは違うんだから。まして、
もともとうちの部の仕事ではないし……」
「でも、一人だと困る事も……。だって、わたし……」
 視線を落として、「もう」――悲しげに寄せられる唇。美悠は、そうだよね、
小さな肩をポンポンして(でもどこかファニーに)頷くと、桃子の方に身体を
伸ばした。
「おい、桃。それはいかんだろ? オンナの子の純情を――」
「あのね」
 今度は間髪入れず言葉を挟むと、ギロリ、半円形のまぶたが、円に近く見開
かれ――。
「わたしは、わけのわからない痴話をするためにここに来たんじゃないの。天
乃星が参加した柔道大会の、きちっとした絵を残すため。特に、安斎さんに取
ってはね。一年一度、大事な大会なんだから」
 そして、苛立たしげに息を吐くと、
「だいたい…」
 一度ちゅうちょしてから再び口を開き、
「…純情って言わないでしょう、美悠、あんたのは。リピドー解消、肉欲……
何でもいいけどね……ああ、もう、口が腐る。それはわたしだってね、未知ち
ゃんがちゃんとした気持ちで言ってるなら――」
 下を向いていた未知の顔がパッと明るくなり、
「え、ちゃんとした……?」
 と、場違いなハハハ笑いが頭上から降ってくると、
「ま、俺は行くからな。……何も聞こえてないぞ、何も。じゃ、紅、頼むから
な」
 そそくさと歩み去っていくジャージの背中に美悠は、「アズミにも声かけて
やってよ。下で打ち込みやってるからさ」
「お、おう」――ドキマギ声が返ると、
「で、桃、ちゃんとした気持ちならってのは」
 キラキラ悪戯っ気な視線。桃子の方に身を乗り出すと、未知も、
「そうです、桃先輩。わたし、いい加減な……」
「違ぁう!」
 上の席まで聞こえる大声が響き上がると、はあ、大きく息が吐かれた。
「言うと思った、そうやって。……あのね、未知ちゃん」
 半分諦め気味な調子で口を開くと、
「ちゃんとしたってのは、そういう意味じゃない。この…色魔に引き込まれて
ね、グラグラした状態で話をしても、意味がないってこと。きちっと考えた上
で、そういう気持ちがあるって言うなら、わたしがどうこうってことじゃなく、
きちっと先輩として……」
「桃先輩、誤解してます」
 はっきりした言葉が飛び出ると、美悠は「お」――唇を丸くした。
「わたし、ちゃんと考えて言ってるんですから。ミユさんは、気づかせてくれ
たんです、本当のわたしに。とても感謝してるんです、本当に。……それで、
わかったんです、自分がどういう気持ちを持っているかって。桃先輩が……ス
キ……だって。だから……」
 スキの部分はとてもとても小さくなっていたものの、確かに。
 しかし、桃子は少し芝居っ気混じりに頭に手をやると、
「わかった……。わたしは貝になる」
 もう……。再びフグになった未知の肩を、美悠の手がまた、ポンポン。
 もうもう、もうもう!
「ほらほら、みっちゃん。ずいぶんにぎやかなのが上がってきたよ、ホラ」
 制服の肩を叩きながら、向こう正面に目をやると、実際、昇降階段から、優
雅な制服姿が10人、20人……。
「ん、あれは聖テレサ女学院の……おお、50人はいるかな」
 大きな深青の胸リボンに同色の長いひだスカート。上品さが際立つトラッド
なセーラー服はまさに、超級お嬢さま学校のもの――。
 どんどんと歩み出てくる、見るからに「格」の違う少女達は、3桁に届くか
の人数。
 向こうの観客席の一角を占めると、他の観客の目も釘付け。試合そっちのけ
で、ざわざわ声が上がり始める。
 正面の天乃星の女学生達、それに、聖テレサ女学院の一団。いつもは閑散と
した雰囲気で行われるはずの地区女子柔道大会の今年度開催は、いったい――。
 ああ、そうか。
 美悠は、一人心の中で頷いていた。
 さっきの開会式、「お互い、力が出せそうだね」――なかなかの好敵手、対
戦が楽しみと思っていた茜という名前の子――たしか、聖テレサだと……。
 なるほど、それだけ有望だってことか……それは、そうだろうなぁ、あれだ
けの体格だと。
 ん…?
 唇にもニコリ、気持ちが溢れ出すと。そうか。
 ここでパシッ、華麗に勝負を決めれば、最高のsituation。
 んん、思ってもみなかったな、この大会で……。ふふ、テレサの子たちにも、
きっとあたしとfit!get!できそうな子が、間違いなく……。
 視力2.5の目で観客席を見つめると、うんうん。あの子も、あの子も……。
 と、中央に空席をいくつか置いて、ひときわ目立つ長身、艶やかな黒髪で印
象++な姿が目に入った。
 明らかに、他とは一線を画しているような位置&態度で、近くの生徒に頷い
ている。
 美悠の頭の中で、開会前に廊下で歩み去る制服姿がlinking――ああ、あの
子は……。
 レセプションでの雄志の言葉。確か、葉谷川の……綾乃ちゃん。
 ふうん――組んだ足に肘、あの日の風景を思い出しながら見遣ると、自然に
ふふふ、笑みが漏れ。
 そうか、聖テレサ女学院の。それにしても、やっぱり目立つなあ……、テレ
サの大ネコちゃんか。と言うか、ボス猫かもね。
「ミユさん」
 と、薄れかけていた隣から声が聞こえた。
「ん」
 横を見ると、未知が何かもの言いたげな表情で見上げていて――隣のブロッ
クに座る女子高生に指先を。
「あれ、美城の制服ですよね」
 とりあえずは苛立ちを散らして見える未知の顔から目を向こうへやると……
確かに、他に仲間もなさそう、レイヤードな制服姿が会場を見下ろしていて。
「何だか、前に見たことがある気がするんですけれど。同じ制服だから……そ
んな気がするのかな……」
 首を傾げる未知に、「ううん、違うよ」――美悠ははっきりと声を上げた。
 細身で色白な肌/ミディアムロングの大人しげな黒髪/目鼻立ちのくっきり
とした……間違いなく、安海の「お友達」、ひろみちゃんだ。
「ちょっと、いい?」
「え? ミユさん、知り合いですか?」
 立ち上がって、白と赤緑チェックの制服姿に歩み寄ろうとした時、
 ワァッ!
 大歓声が上がる。そして、睫毛の長い、パッチリした目もパッと明るく見開
かれた。
「あ、スゴイ!」
 未知の声。ひろみの横顔から視線を外し下げると、まさに会場では――。
 短い黒髪の小柄な道着姿が、二回りも大きな重量級の女子を、巴投げで投げ
捨てたところ。
 お、アズミか。
 口の端を上げて目で頷いた後、気が付いたように「ん」と口が結ばれ、
「――そうか、もう下に降りないとね……」
 美悠の試合順は、安海の次の次、控えに入っていないといけない時間だった。
 一瞬、歩み寄りかけていたひろみの方を見て、
 ま、また後で声をかければいいか。
 踵を返した瞬間。黒雲……いや、泉のように湧き出る、ふふふ、な気分。―
―そうだよ、まったく、それにしても。
 ひそみ笑いを心に浮かべた美悠に、高い声が届いた。
「すごいですね……ミユさん! 始まってすぐですよ……初めて見たけれど、
あんなにきれいに決まるものなんですね……すごいなぁ…」
 感嘆しきりな未知に、美悠はふふふ、人差し指を向けると。
「ま、見ててごらんなさい。あたしも派手に決めてやるから。アズミ以上にね。
そうだ、みっちゃん、惚れ直すかもよ。ああ、ミユさんを振ったの大失敗だっ
たなぁ……ってね」
「もう、振ってなんかいません。最初から」
 未知はすっかり普段?の調子に戻ると、
「それに、そんなこと、あり得ませんよ〜。だって、わたし、桃先輩一筋なん
ですから」
 ははは――茶目っ気、でも真っ直ぐな未知を見下ろすと、
「よしよし。ホント、みっちゃんは可愛いねぇ〜」
 手を伸ばして、頭をポンポンすると、
「あ〜あ、やっぱ、もったいなかったかなぁ、桃に譲ったのは」
「あのねぇ!」
 ついに沈黙の左手から声が上がると、
「何も譲っていないし、誰も譲られてもいないでしょう! さっさと行きなさ
い! あんたの仕事はそれなわけ? それに、未知ちゃん、あなたね――」
「……はいはい」
 美悠は手を振ると、軽いステップで階段へと。
 いや、まったく、プレシャスな状況だよ、これは。
 これこそまさに、花・華・華・花……。こうドキドキなシチュエーションに
なるとは――予想もしなかったなぁ。
 やりがい120%。ふふ、こうでなくっちゃ。
 フロアーへと白い道着の背中が消えていくと、閉じた扉の向こうから、パチ
ン、手が合わさるような音と、
「よしッ!」
 妙に気合の入った声が、もれ響いてきた。

 第二試合が終了、軽いステップで試合場を後にすると、美悠はエントランス
に続く回廊へ扉をくぐった。
 背後では、まだ歓声とどよめきがビビット。
 一回戦から秒殺2連発――しかも、今決まったばかりの技は。
 光速で踏み込み、相手の股間に送った左足。そして、ひねった腰を跳ね上げ、
高く足が上がると……。
 それは、到底普通の内股ではありえず。
 バレリーナやフィギュアのスケーターもかくあらん、スワンの形で高く高く
相手が跳ね上げられると、勢い任せに自らの軸足まで空に浮かび上がり。
 そのまま、組み手が一番奥の襟を引くと、空中で形が変化し、頭から垂直に
落とす形――。
 これでは、ほとんど受身が取れない……いや、そういう問題ではなく、あま
りに現実離れした空中での舞。
「うわ〜、スゴイ!」「おいおい、マジかよ」「紅さ〜ん、サイコー♪」「真
空なんとか投げ? そんなのなかったか?」
 決まった後、対戦相手の女子はしばらく立ち上がれず――。
 ほとんど乱れのない道着の襟を直すと、美悠は一つ息を吐いた。試合モード
の心地よい緊張が解ける。
 ちょっと、可哀想だったかな。
 そして、控え室に向けて歩き出すと――ま、勝負だからね。情けは禁物。
 試合前、気合充分だった黒帯の対戦相手を思い浮かべつつ、回廊の角を曲が
ると――。
 ん?
 控え室前のベンチに、ちっちゃな道着姿が、ぼんやりと宙を見つめて座って
いる。
 坊ちゃん刈りっぽい短い髪に、わずかに釣った円らで小さな瞳。活発さを秘
めていそうな口元……は、少し悲しげに歪められていて。
 ちょっと見には小学生高学年の男子に間違えそうなその子は、確か……。
「どうしたのかな、ボーっとして」
 立ち止まって気さくに声をかけると、boyish girlの黒い瞳に色が戻った。
「あ……、紅さん」
「うん、春希ちゃん、だったっけ? さっきは、どうもね」
「あ、はい。憶えていてくれたんですね、ボクの名前」
「うん」
 美悠はにっこり笑うと、ここぞとウィンクを。
「あたしは、一度聞いた女の子の名前は忘れないよ。ホント」
 今の試合の前、一回戦で当たった聖テレサの選手。さほど実力はない――と
言うより、ほとんど初心者の選手だったわけだけれど……。
「もう、本当? そんなことばっかり言ってるって、聞いたけど」
 鼻にかかったlike a boyの声が響く。でも、それはどこか、暗い影を漂わせ
ていて。
「誰だい? そんなウワサを流してるのは。ま、否定はしないけどね」
 美悠はカラカラと笑うと、すぐ雄弁な唇を軽く引き締め、少し真顔になった。
「で、どうしたの?春希は。試合終わったの、ずいぶん前じゃない。……それ
とも、あたしに負けたのがショックだったとか?」
 ストレートな物言い。すこしびっくりしたようにボーイッシュな丸顔が歪む
と、肯定とも否定ともとれないため息が、口元から。
 ん? これは――美悠は春希のとなりにポンと腰を下ろすと、覗き込むよう
に小柄な姿へ身を屈めた。
「キミを叩きつけちゃったあたしが言うのはなんだけど、話せるようなら、相
談に乗るよ。何か、さっきの試合がらみのことじゃない?」
 再び、びっくりしたように見開かれる瞳。
 やっぱり――頷きながら身を更に乗り出すと、春希は目を伏せ、しばし黙り
こくった後で……。
 やがて、辛そうな横顔、眦から雫が溢れ、涙がポタポタポタ。
「……ごめん。紅さん」
 喉の奥でくぐもった音が漏れ、またしばらく……。
 廊下の向こうで響く声と拍手、アナウンスの声――ひとしきり嗚咽が続いた
後で。
「どう? 落ち着いたかい?」
 いつの間にか取り出したハンカチを華奢で指の短い手に渡すと、春希は涙を
拭って、コクリ。
 そして、美悠の方を一度見て、唇を引き結ぶと、下へと視線を散らし。
「……本当は、紅さんに話すようなことじゃないんだけど」
 低い声で始まった春希の話は、こうだった。
 自分はずぶの素人、柔道の練習を始めて2ヶ月ほどしか経っていないのだけ
れど、ある人の命令で、試合に出ることになって。
 その人が言うには、何でもいいから、美悠に恥をかかせたい。だから、試合
で当たるようなことがあったら、手段は選ぶな、と。
 本当はそんな命令は聞きたくないのだけれど、身寄りもない自分を世話して
くれている人、到底断れない。
 で、たまたま一回戦で美悠と当たることになってしまい、いろいろ手段を考
えたのだけれど、結局何も思い付かず、そのまま秒殺負け。そのことを散々叱
責され、辛くなってしまった、と。
 時々涙混じり、はめようとした本人を相手にゴメン、と話す姿は真剣そのも
ので、可哀想に、と思わずにはいられないような――。
「……まったく、仕方ないなぁ、綾乃ちゃんも」
 美悠が大きく伸びをしながら呟くと、しみじみしていた小粒な瞳が再びビク
ッ、見開かれ。
「どうして?」
「うん? ああ、それはねぇ。そこまで聞けば、綾乃ちゃんしかないだろ、ふ
ふ、困った困った」
 さばさばした様子に、円らな瞳はマジマジと美悠の横顔を見つめ、しばし沈
黙が流れる。
「……あんまり、怒ってないんだね。紅さん」
「ん?」
 美悠は春希の方を笑み混じりに振り返ると、
「怒るようなこと、されてないからねぇ。どっちかって言うと、恨みを買うの
はあたしのしたことの方じゃない?」
 カラカラと笑うと、春希はますます小さな瞳を大きく見開き――それから、
へへへ、軽く笑った。
「紅さん、変わってるなぁ」
「そうかい?」
 整った稜線がニコッ、口元を歪めてなお輝きを放つと、
「……ああ、なんか、話してホッとしたら、おなかが減っちゃったよ。ボク」
 春希は唐突に言って、横に置いてあった緑の巾着を開けた。
 そして、中の四角い箱を開けると、茶色のクッキーをパクリ。モクモクと満
足そうに口を動かす。
「ん、何かと言うと、とりあえず食べよう!派かい? 春希は」
「え? 何、そのわけのわかんないカテゴリー。まあ、そうかも、だけど」
 楽しそうに笑みを浮かべる様子に、美悠は手を伸ばすと、
「あたしにも一つ貰える? おいしそうじゃない」
 あ――一瞬、手が止まると、「うん」、丸くて黄色いのを取り、
「これ、美味しいよ。真ん中にあんずが乗ってて」
「ホントだ」
 美悠は手に取ったクッキーをくるりと回すと、にやり、切れ上がった眦から
横目で春希を伺い、
「毒でも入ってないだろうね」
 笑いかけると、
「え……、ないよぉ、そんなこと」
「だろうね」
 ポンとクッキーを口に放り込んだ。そして、「うん、これはいけるね」――
楽しそうに呟きながら、味わうように口を動かしている。
 春希はその様子をしばらく横目でうかがっていると、自分ももう一つ、小さ
めの奴を取って口にし、モクモクモク。「も一ついいかい?」――そのまま二
人、何を話すでもなく肩を並べて、5分ほど。
 「はぁ」――春希は息をつくと立ち上がり、「じゃ、ボク、戻るね。……な
んだか、ちょっとホッとした」
「ん、そう?」
 パラパラと手を振った美悠を背に、春希は向こう正面の階段へと歩み入って
いく。
 そして、観客席へ上がると、白と青が溢れる聖テレサの生徒達の前をパタパ
タと通り過ぎ――中央に座る、長いスカートが優雅な女生徒のそばへと。
「……どう、春希。首尾は」
 正面を向いたままの整った横顔。桃色の唇が低い声を発した。
「オッケーだよ、綾乃さま」
 先刻までとは色合いを変えた、自嘲めいた笑いが春希の口元に浮ぶ。
「少し、シナリオが変わっちゃったけどね。紅、スゴク鋭い奴だよ……ボク、
一瞬バレたかと思った」
「そう。……でも、首尾よく行ったのね?」
「うん」
 長い睫毛が彩る、黒く大きな瞳がチラ――一瞬、boyish girlの小顔を見や
り、
「ご苦労さま。これであとは、茜に任せるだけね。ふふ…」
 すぐに会場に視線を戻すと、満足げ/しかし、小悪魔な笑みを。
「あか姉なら、間違いないよ。腰を引いたら、紅だってそうは投げられない」
「そうね。できれば、効いてくるのがjust on timeだったらいいのだけれど…」
 声がさらに小さくなる。しかし、瞳の色はいっそう悪魔的に。
「…痛みがきたところで、じりじり引き伸ばせば……まあ、ちょっと茜には可
哀想かもしれないわね」
 汚物にまみれる白い道着。それは確かに、例えようもない屈辱。
 そうでなくても、惨めな敗北を味わわせることができるなら――
「ね、綾乃さま」
 鼻にかかった声が、密かに響く。
 ん?――黒々と光落ちる瞳に色が入ると、胸のリボンの前で軽く組み合わさ
れた手が解けた。
「……どうしてそんなに紅のこと…」
 言いかけて、春希は言葉を止めた。
 再びほとんど無感情に正面を向いた横顔に、問い掛ける言葉はなく……。
「それじゃあ、綾乃さま、ボクはあか姉のところに行くから」
 春希がその場を辞すと、会場を見下ろす瞳ははっきりと細められ、知的な口
元には、冷たい笑みが溢れていく――。
 一方、役員席の上、正面から試合場を見下ろす天乃星サイド。
 モニターから目を離して、武道場全体をグルリ――ひとしきり見回した後で、
桃子は呟いた。
「ふ〜ん。ずいぶん一杯になってきた」
 隣に座った小粒な制服姿は、無言のまま。小ぶりな唇に不満を浮かべて、会
場のあらぬ一点を凝視し続けている。
 美悠が試合場に降りて行ってからしばらくの間。
 自分らしいって言うのは、そんな簡単なことじゃないんだよ――きつい言葉
も交えて、説教めいたことを並べ立てたのは確かだけれど。
 ふぅ――桃子は心の中でため息を付くと、軽い調子で始めた。
「これだけ入ると、美悠もパワー全開かもね。本当、不思議。普段はもっと地
味な大会なんだけれどね……。なんでこうなっちゃうかなぁ」
 子犬な瞳がパチリ、動いてこちらを見ると。
「ま、未知ちゃん、あんたの気持ちもわからなくはないよ。……ずっとわたし
も見てるけどね、あの子のこと。スポットが当たっちゃうってのか、ねぇ……。
まったく、同じ人間に思えない時があるもの。だから、あんたが――」
「桃先輩…」
 構えていた身体を崩して、ニコリ、「…でも、」――言いかけて、黒目を上
に、言葉を止めると、
「本当ですよね。ミユさん、凄いですもん。きっと、燃え燃えですよ、間違い
なく」
 満員に近くなった会場を見回して、小さな肩が桃子の方へスリッ。
 ほとんどくっつくぐらいの距離に近寄ると……桃子は胸の奥でsigh。
 まあ……仕方ないか。わたしが面倒見てあげてないと、この子もどこに行く
やら……。たぶん、風に吹かれて、時代の変わるまま……いやいや。まったく
no answerな世界に突っ走っちゃうかも。
 再び明るく話し始めた未知の楽しげな様子をうかがいつつ、ホントに美悠は、
余分な仕事ばかり増やして……頭が痛い。
「あ、桃先輩! 安斎さん、また勝ちましたよ!」
 勢いよく指差すと、それとなく腕を組んでくる素振り。
 今度は無理に振り解かず――それにしても。
 このちょっとピントのずれた弾け方、どこかで憶えがあるような。
 日替わり時間替わり、分刻みでくるくる、コロコロ。拗ねたと思えば甘え10
0倍、ついでに倫理観が希薄で……。
 懐かしい顔が浮かびかけて刹那、通路を隔てて隣の声が耳に届いた。
「もうすぐですかね、紅の試合は」
「そうだな、あそこでやってる次だろう。さっきの試合も、相当なものだった
らしいが」
「僕は見ましたよ、ちょっと、ケタが違う感じですね――ウチの中堅どころで
もどうか……」
「そんなにか? しかし、それほどの素材が、どうして今まで――」
 どうも柔道関係者らしい体格の男性二人組み。それとなく目の端に捉えなが
らモニターを調整していると、
「桃先輩」
 ひそひそ声が右から。
「あれ、ミユさんを見にきたスカウトじゃないですか? 見るからに……」
 無言で頷くと、
「うわ、凄いなぁ。『Breathless』の時も、どこかの雑誌社の人が――」
 その時、ウワー! そして、激しい拍手、口笛が会場に響き渡った。
「……あ、いよいよですね」
 未知の呟きを耳に、次は第4試合場で間違いなかったはず――モニターを覗
き込むと。
 向こう側から現れた巨体がのっそりと赤畳をまたぎ、そして、手前からはす
らりと伸びた、お馴染みの背中。
「あ・か・ね〜!」
 聖テレサの一群から、どこか上品な掛け声が響き、
「紅さ〜ん」「美悠さま〜!」
 後ろからは、ちょっとズレた、でも、音量では負けない雑多な呼び声
が。
 確かに、地区の小さな柔道大会とは思えない。美悠が降り立てば、そこはア
リーナ――
 ん?
 桃子は、眉をひそめてモニターの絵を見つめ、それから生の景色へ視界を広
げた。
 何か、美悠の動きがおかしい。
 審判が手を広げ、互いに中央に寄るように――礼を促し、試合を開始しよう
とすると、スタスタと中央に歩み寄り……。
 背広の中年男性の耳元で何かを囁いたように見えると、四角く無骨な稜線が
歪み、表情が曇った。
 いいのか?――そんな様子。
 すると、しなやかな道着姿は、くるっと踵を返し、そのまま試合場から外へ
――。
 対戦相手の巨漢も呆然とした表情、そしてもちろん、会場全体も。
 審判は残った聖テレサの選手を呼び寄せると、そのまま、右手を上げて、勝
利を告げる。
「えーッ」「どうして!」
 驚き、ざわめき、混乱、その他もろもろ。
 聖テレサの一群も、喜んでいいやら、気が抜けたやら――どう反応していい
のか、戸惑い満ち溢れで。
「ど、どうなっちゃったんですか?」
 未知の問いかけに、桃子は頭をフルフル。
 まったく、何を考えているんだか、あの目立ちたがりは。
 一番の盛り上がりをスルーされ、いまだざわつく会場を見遣ってため息混じ
り、まあ、到底普通で済むとは思っていなかったけれど――。
 ことの次第がわかったのは、昼の休憩時だった。
「いや、ゴメンゴメン」
 あれだけの肩透かしを食らわせながら、ひょうひょうとした様子で現れた美
悠は、「どうしたんですか?」「もう、びっくりしました!」の応援団の声に、
「不可抗力でねぇ」と軽口を投げながら、隣の席にポン――腰を下ろすと、ふ
わぁ、大きく伸びをした。
「いやぁ、参った参った。まったく、間が悪いったら」
「何か、あったんですか? 事故?」
 未知が少し心配そうに問い掛けると、ハハハ、笑い声を上げつつ、
「まあね、事故、だろうなぁ。どうやったって、生理現象には勝てないよ……
んん、それにしても、スッキリした」
「スッキリって……、美悠」
「ん?」
 横目で桃子を見ながら、フフ。
「そういうこと。不要物をドーッとね……なかなか快感だったなぁ。ま、もっ
ともあたしは基本、毎朝快……」
「……やめなさいよ、まったく。大きい声で喋るようなことじゃないでしょ。
それにしても、そんなことで棄権? まったく本当に、あんたは……」
「お、言うか、桃。生理現象に勝てる人間はいないぞ。桃だって……」
「ああ、ヤメヤメ」
 桃子は手を振ると、続きの言葉を封じ込めた。
「それ以上喋らせると、破廉恥な言葉しかアウトプットしないでしょう、あん
たの頭は。公共の場で、わたしの方が困る」
 ふぅ、かなわないねぇ、美悠が眉根を上げて隣にポーズを作ると、
「でも、ミユさん、残念でしたね。あの大きい人や、安斎さんと試合したがっ
てたのに」
 わかったような、そうでないような未知の言葉がファニーに。
「そうだねぇ」
 笑みを浮かべて未知に頷くと、美悠は会場の反対側へ遠く視線を流した。
「まあ、別の収穫もあったから、仕方ないかな。お、そうだ、桃」
 そして、未知の頭越しに手を伸ばすと、
「オペラグラスとか、持ってるだろ? ほら」
 指をクイクイ。
「持ってるけど……、ほら」
 小さいながら本格的な双眼鏡を受け取って、椅子に片手、足を組んだまま、
反対側の観客席をウォッチ。
「……何見てるんですか? あ、もしかして、女の子?」
 もう、ミユさんは――未知の言葉にニヤリ、双眼鏡から目を離すと、
「大当たり。……サンキュ、桃」
 立ち上がりながら、ポンと双眼鏡を投げると、「あ、投げるな! これだか
ら、あんたは」――そのままスッと階段を下り、向こうのブロックへ歩き出す。
 と、唐突にSTOP。未知の方に身体を屈めると、
「……みっちゃん、雰囲気良くなったんじゃない。カミナリは去ったかい、桃
の」
「え……、うん。わかります?」
 いつもと変わらずキラキラ流麗な瞳が覗き込み、
「よしよし、頑張る頑張るッ。応援してるからね、あたしは」
 ニコニコ笑みなone night loverの肩が軽く叩かれ、今度こそ目的の場所へ。
「あ……」
 未知は美悠の歩いていく様子に目を遣ると、行く先にちょっと呆然、目は真
ん丸。
 道着の上に羽織る黒いジャージの揺れもファッショナブルに、目指すは通路
二つ隔てた階段向こうのブロック――そこには、ベージュのブレザーに赤緑の
スカートがsweet&cuteな美城の制服の背中――。
「桃先輩」
 肩を寄せて小声で言うと、桃子は美悠の歩いていった方をチラ、すぐに視線
を戻す。
「あんなもの、あの子は。どういう精神構造してるのか――わたしは、とうに
分析を諦めたけれどね」
 当たり前のように言う桃子の表情を見ながら、未知は目をパチクリ、もう一
度美悠の方へ視線をやってから、少し考え深げに唇をすぼめた。

 頭の中では、さっき桃子から双眼鏡を借りて眺めた向かいの観客席の様子が
リフレインしていた。
 白と深青、黒髪で埋め尽くされた真ん中で、オペラグラスを構えてこちらを
覗っているスタイル抜群/可憐で強気な顔立ちのお嬢さま。
 唇に浮かんでしまう笑み、椅子にかけた片方の手で軽く親指を立ててやると、
レンズの中でもありありと。
 ――悔しげに歪む唇。肩の震えまで確認できるような。
 綾乃ちゃんもなぁ……ま、いつかビシッとお仕置きしてやらないとね。何し
ろ、絶好のGET!チャンスを奪われたわけだし。
 自分の出番の終わった会場はまた、風がクリアー。最前列をスタスタと隣の
ブロックへ歩きながら。
 それにしても、ホントにしつけの悪い大ネコ。毛並みは立派だけどね。
 ふふふ――さらにはっきりと、口元から笑いが漏れると。
 それに、わがまま振り回されっ放しに違いない、可哀想な世話係の春希クン
もね。
 人懐っこさを秘めたboyish girlの可愛い横顔を思い出しつつ、いや、それ
より今は、こちらのgirlish boy?のご機嫌伺いかな。
 そう、アズミのためにも、ね――どう見てもヨコシマな光を目に浮かべつつ、
ぽつねんと一人座る、ベージュのブレザーの背中へと。
「こんにちは」
 気さくに声をかけると、ぱっちりとした目が、マジマジとこちらを捉え――
「隣、いい? ずっと一人じゃ、つまらないでしょ」
 すぐに視線が下へそらされ、おとなしげな口元に華奢な小鼻がうつむき加減
に。
 ……なるほどね。
 あいまいな頷きに任せて隣に腰掛けると、ちらと色白の顔が横目になり、ス
カートの前で組んだ手に、力が入る感じ――。
 うんうん。
 揺れるミディアムロングの髪、瞬きを繰り返す大きな目と長い睫毛、少し下
がったビビットな眉毛。
 予想した通りの、雰囲気乙女全開、ガーリーな。
「どう? アズミは。ひろみちゃん。この辺の奴じゃ、相手になってないでし
ょう」
 ひろみちゃん、と言ったところで「あ」と口が開き、それから、「はい」―
―大人しく頷くと、拒否するでも何を主張するでもなく、なでた肩を窄めて、
しとやかに止まっている。
「たぶん、そのまま優勝しちゃうと思うよ、アズミ。何しろ、あたしがいなく
なっちゃったからねぇ」
 ふっふっふっ、鼻で笑うと、再び目がパチクリ、今度ははっきりと美悠の方
を覗うと、口元に手を当てて、クスクスクス。
「でも、怒ってるだろうなぁ、あいつ。さっきの試合後も、睨んでたし……ま
あ、仕方ないけどね」
 ざっくばらんに言うと、思ったより低めの声が、落ち着いた、でも明るさを
奥に秘めた調子で、
「残念でしたよね、さっきの試合。何かあったんですか……、紅さん」
「まあね。ちょっとした不可抗力。あ、美悠でいいよ、ひろみ。堅苦しいの苦
手だからさ、あたし」
 視線が合うと、うん――薄い茶の入った瞳が清楚に頷く。
「ん、ひろみ、カラコン? いい感じじゃない、そのカラー」
「あ、わかりますか? わたし、目がチャームだと思ってるから……」
 美悠は真摯にうんうん、再び視線を逸らした横顔に頷くと、
「あたしも、ひろみのベストは目だと思うなぁ。んん、それだけパッチリした
子はなかなかいないもの。やっぱり、女の子は目が命だよね」
 ストレートな賞賛にビクッ、「女の子」とすんなり続いたセリフに唇が噛ま
れ、
「紅さん……」
「ま、ちょっと一緒させてよ。アズミを応援しないとね、お互いさ」
 美悠もスッと前を向くと、試合場を見下ろす。
 女子としてはそれなりの体格、でも制服姿が可憐/しとやかなひろみを隣に、
もう一回り背丈↑道着にジャージを羽織った美悠が、ファッショナブル/しか
し大胆に足を組み……。異なるビューティーが並ぶ様子は、かなり目を引くツー
ショット。
 とりあえずファーストランデブーは終了、そのまま二人無言で試合場に目を
落とし続けると。
 4面取られた試合場のこちら側では、いよいよ大会は午後の部、準決勝へ。
役員の姿がちらほら見え始め、後は、選手の入場を待つばかり。
 さて。
 美悠はチラと横目でひろみの姿をうかがうと――。
 やはり、少し控えめが自然体。ミディアムロングの黒髪を落とし気味に、緩
めた唇も無理に黙っている風ではなく……おそらく、安海の出番を待ちかねて
いるに違いない。
『どうしてあんなになっちゃったのか。本当に私、ひろみのこと、心配してる
んです』
 あの日の安海の言葉がリフレイン。惑う本人の理屈は裏腹、どう見たって溢
れ出していたニュアンスは、綴りがLで始まるあの言葉に間違いなく――美悠
は心の中で頷くと、それでもまあ、もう少し確かめてみないとね。
「ホント、可愛いデザインだよね、美城の制服」
 ベージュのブレザーの胸元に視線を流しつつ言うと、
「あ、はい」
 モスグリーンのリボンにしなやかな指を当てつつ、ひろみはあいまいに頷い
た。
「そのレイヤードのスカートなんて、いい感じだもの。あたしは、この辺の制
服じゃ一番好きだなぁ。ウチのは、狙いすぎなんだよね、妙なところを」
「え、そんなこと」
 初めてビビットな表情が浮かぶと、
「天乃星の制服も可愛くていいと思います、わたし。柔らかそうで――」
 ちらと、階段向こうの天乃星の一団を見遣り、
「――袖が膨らんでるところなんかも、ちょっとビクトリア風でいいかなぁ、
なんて」
 鼻にかかった素直な声。作っているわけでもないのに、殆ど肉体性別を意識
させない――。
 うんうん、明るく咲き始めた横顔に頷きつつ、特上のニッコリを。
「でも、誰でも着れるわけじゃないからね、ウチのは。ホント、分ってると思
うよ、美城の学長……いや、理事長さんだったけ。「制服自由化」したのって」
「あ…」
 目に比べておとなしめな造りの唇が開かれて止まり、
「……よく知ってるんですね、紅さん」
「う〜ん、まあ、有名な話だからね。美城の男女制服自由化。ついでに、美城
の三大『美少女』とか」
 にや、と笑いかけると、恥ずかしげにうつむく。
 ――あらら。これは、もしかして。
「……まさか、ひろみ、該当?」
「え……、ま、まぁ……。わたしは知らないですけど」
 口元に手を当てて、大きな瞳をパチパチ、言葉を捜すように。
 美悠は、「ふふふ、そうかぁ」明るく笑うと、自分よりこぶし二つ低い黒髪
を、よしよし、軽く撫でかけ――おっと、悪いクセ悪いクセ。
 アズミは……と、まだ出てきてないか。
 武道場に視線をやると、まだ選手達は出てきていない。こんな光景を見られ
たら、安海がどう思うか――今から大事な本番なんだしね。
 美悠は身体を少し離すと、腕を組んだ。
「ま、それで、ひろみは美城を選んだわけだ。……じゃない?」
 目がまじまじ、唇が引き締まると、girlish boyは、真摯に小さな頷きを。
「……もちろん、それだけじゃないですけど」
「でも、他じゃ、女の子の制服は着られないもんね。そりゃ、拷問だ」
 パッと明るくなる表情。
「美悠さん……。はい、本当に。凄く、大きいことなんです……ありがとうご
ざいます」
 美悠は大きく頷き返すと、とっておき、肝の一言を。
「大好きなアズミとバラバラの学校になっても、だよね」
 あ――驚きに溢れた表情。
 美悠は、聞こえないため息を心の中で、sigh。おのれのカン働きに感心と言
うか、恨めしいと言うか。
 ま、いいけどね、こういうのも。
「あーちゃんに聞いたんですか……、でも」
 うんにゃ、美悠は首を振ると、
「アズミはまるでわかってないよ。マジで」
 ホント、女心、女知らず。朴念仁レベルだな、あのイケズは。
 と、その時、会場の気配が変わった。
 見下ろすと、ショートの黒髪がアクティブな道着姿が、リズム良く畳の上へ
歩み入り――。
 隣の制服の肩が身体半分乗り出し、見るからに力が入るのがわかる。
 そして、反対から現れた気合充分、体重差はかなりありそうな対戦相手が両
手を広げると、
「サアッ!」
 『始め』の声がかかるか、かからないかの内に甲高い気勢を上げ。
 ――が、それは一瞬。
「ふぁ、セイッ!」
 組んだ瞬間に沈み込んだ安海の身体は――
 ん、いいね。
 見事なタイミングで背負いに入り、こらえる一瞬を見逃さず、瞬時に反転。
 大内を刈ると、そのまま相手は背中から真っ直ぐに畳を叩き――。
「一本! それまで」
「あ、あーちゃん! やった! うん、凄い! うん!」
 掛け値一つない喜びの声が、間髪入れず響き上がり。
 そして安海は、ふぅ、と一息。礼が終わると、頭の両側を撫でつけるように
表情を緩め。
 視線を横にやると、小柄な道着姿を追う瞳に書いてある文字は、まさにL・
O・V・E。
 美悠は両肘を椅子、じっと様子を眺め………
 やがて、その流麗な横顔/Graceな瞳に溢れ出す、深く愛しむ色。
「ひろみ、本当にアズミのことが好きなんだね」
「え」
 安海が視界から消えても試合場を見つめ、余韻を追っているかの横顔が、ハ
ッと美悠の方を振り向き、
「……はい」
「カッコいいもんなぁ、アズミ。きりっとしてるしね」
「そうなんです」
 両手を握り締めると、控えめな色合いを落として、Max直情的に言葉が飛び
出す。
「もう、昔から、中学の時からずっとなんです。真っ直ぐで、強くて、それで、
やっぱり、可愛くて……」
 大きな目は明星、色白な頬は赤く染まり、それはもう、隣の星系へ恒星間旅
行、虹色の新惑星を発見したような。
 矢継ぎ早に、ただ、落ち着いた感じはどこか残したまま、安海の魅力が語ら
れる。
 ウンウン――頷き続ける美悠に、初めてOver Driveを意識したらしいのは、
一ページほども喋った後。
「あ、ごめんなさい、美悠さん。……わたし、喋りすぎですよね」
「いいや、そんなことないよ」
 それはもう、くすぐったいくらいなPureさ。これを聞いて、どうこうなんて
ある訳もナシ。
 そして、さらに続けられた言葉が、いっそう愛しさギュッ、な。
「あ、でも、比べるわけじゃないですけど、すごくいいですよね、美悠さんも。
時々、練習盗み見してたんですけれど、もう、キュッとなる感じで。いいなぁ、
恋しちゃうなぁ、なんて。こんなこと言うと、あーちゃんは怒るかもしれない
ですけれど……ううん、そんなこと、ないかな、わかってないかなぁ。……あ、
あ、わたし、また変なこと、言ってますね、もう、恥ずかしい」
 美悠は視線を逸らすひろみの顔を見下ろしつつ、はんこをペタン。
 間違いなし、ひろみ、キミは乙女の中の乙女だよ。
「よし」
 会場にできた異空間、美悠はポンと胸を叩くと、大きく頷き、
「任せなさい、ひろみ。ひろみの想い、あたしが届けてあげよう!」
 まじまじと見つめる瞳。意味が取れず、しばらく戸惑いが浮かんだ後で、控
えめなgirlish girlの表情に光が差した。
「本当ですか? ありがとうございます……わたし、嬉しいです」
「ああ、美悠姉さんに任せなさい。乙女×乙女の恋結びなら、あたしほどの適
材はいないよ」
(エ? ホントウですか? う〜ん……)
 ――と、その雄弁な唇にヨコシマなニュアンスが浮かんだ。
「ただし、条件あり、だよ」
「え……条件?」
「うん、大したことじゃないよ」
 ウンウン、小鼻に嬉しさを漂わせながら頷くと、
「どう、飲む? ホントに、大したことじゃないから」
「あ……、はい。わかりました。美悠さんに応援してもらえるなら……」
 すっかり醸成された美悠ワールド、ひろみが真摯に頷くと、
「よし、いさぎいいね。ますます気に入った、ひろみのこと。じゃ…」
 上目遣いに視線を投げると、
「これからは、あたしのことは美悠姉さんと呼びなさい。いい?『姉さん』だ
よ」
「え……、そんなことですか? はい、わかりました」
 一瞬よぎったに違いない、黒雲な不安と、ギャンブルな後悔。しかし、答え
はあっけないもので。
「じゃ、ドンと任せといて。絶対、悪いようにはしないから、ひろみ」
「あ、はい、美悠……姉さん」
 美悠はウンウン、楽しげに頷くと、ベージュの制服が可憐なひろみの肩を、
ポンポンと軽く叩いた。

 「だいたい、何でいつまでもこんなところで時間潰してる必要があるんです
か? できれば私、早く帰りたいんですけれど」
 あきらかにイライラとした素振りで携帯を持ち上げると、安海は化粧っ気ゼ
ロの顔を歪めて見せた。
「ま、いいじゃない、アズミ。せっかくの地区優勝記念だしさ、真っ当な女子
部員はあたし達だけだろ? それに、ひろみが一番喜んでたんだし。ね、ひろ
み」
 人気の少ないイタリアンカフェのチェーン店。美悠が、隣に座ったベージュ
/赤緑の制服姿に視線を流すと、ミディアムロングの髪が、うんうん、大きく
揺れた。
 地区女子柔道大会決勝は、天乃星高校の新星・安斎安海と聖テレサ女学院の
巨漢・島原茜の対戦となり、判定の末、安海に軍配が上がったのだった。
 とは言え、試合は終始安海のペースで、ほとんど危ない場面のない、「完勝」
に近い内容のものだった。
「……何度も言うようですけど」
 安海は携帯を置くと、コーヒーカップに目を落した。
「私は真剣に思ってたんです。決勝で当たるのは紅さん以外いない、って。紅
さん抜きで優勝しても、あまり意味なんてないんです。それなのに……、当の
紅さんからお祝いとか言われたって……。それに……」
 一重のboyishな目がひろみの方を捉えると、ため息を一つ。
「まあ、それについては謝るよ、アズミ。本当はあたしも、アズミとやるの、
楽しみだったんだけどね。それでもさ、これから機会はあるだろ? とりあえ
ず、優勝は優勝だしね」
「機会っていつです? 紅さん、春の大会には出ないでしょ?」
 唇がキツイ線を描く。
 参ったねぇ、美悠が眉を上げると。
「もう、あーちゃん。せっかちだから」
 なだめるように、穏やかな声が右手から。
「いつもこうなんです、あーちゃん、美悠姉さん。試合なら、市民大会とか、
いろいろあるし、勝負は逃げていかないよ、あーちゃん。……そうですよね、
美悠姉さん」
 うん、そうだね、美悠が頷くと、ひろみは前髪を後ろに流しながら、ホッと
したように笑み。
 そして、ほっそりした指でメニューを取り上げると、
「わたし、まだケーキも一つしか食べていないし、せっかくのお祝いなんだか
ら、もう少しゆっくりして行こう。……ね」
 ひろみは、並んだケーキの絵を見つめて、ええと。
 そのナチュラルな表情を横目に、美悠はフフフ、楽しげに笑みを浮かべると、
撫でた肩に身体を寄せ、
「お、このフルーツタルト、美味しそうじゃない。まったく、最近は侮れない
なぁ、こういう店のも」
「そうなんですよ。美悠姉さんはきっと、レベル高いところばっかりでしょう?
 結構、いろいろ変わるんですよぉ、こういうところのメニューも」
 大きな瞳をパチパチ、柔らかさを浮かべる口元に美悠が頷くと、正面からま
た、ため息が一つ。
「……いいけど」
 そして、尖り気味の声が改めて。
「ひろみ、少し馴れ馴れしすぎない? さっきから聞いていれば、姉さん姉さ
んって。ちょっと気になるんだけれど。紅さんは先輩なんだから」
「え? だって……」
 いきなりな突っ込みにメニューを繰る手が止まると、困ったように視線が落
された。
「だから、アズミ、言っただろ? 一緒にアズミを応援して意気投合ってさ。
そりゃもう、ひろみ、一心不乱に応援してたんだから。いつもはこんなに可憐
乙女なのに(ニコッ→もう、美悠姉さん)、思いっきりシャウトでさぁ。……
お、もしかして」
 美悠は形の良い鼻先を指先でさすると、
「……アズミ、嫉妬か? ま、仕方ないか。ひろみ、こんなに可愛いしね」
「違います!」
 道場での対戦張りに一条の眉が険しく寄せられると、続けて小さく独り言風
に。
「……まったく、どういう……。だいたい、私が先に話して……」
「どうした、アズミ。何か言いたいことでも?」
「何でもないですっ!」
 乱暴にメニューを取り上げると、ペラペラと捲り始めるジャージの腕。
 心配げに美悠をうかがうひろみの顔に、ま、Don't worry、Don't worry。
 美悠はブーツカットのパンツの足を組むと、エスプレッソの入ったカップを
一口、表情を柔らめた。
「あー、ゴメンゴメン、アズミ。あんたの祝勝会なのにね。怒らせちゃいけな
かったな。ほらほら、アズミ。渋め系もあるみたいだよ、これなんか」
「知ってます。ここのメニューなら」
 無表情にメニューに専心する拒否な空気に、ひろみが席を立つと、
「ちょっとすいません、美悠姉さん。わたし……」
 美悠も席を立ってひろみを通すと、レイヤードな赤緑スカートは、お手洗い
方面へと裾を揺らめかせながら――。
「……ほら、アズミ。そうプンプンしてたら、ひろみが困るだろ? まったく
……」
 ゴールドのネックレスを垂らしながら前屈みに顔を寄せると、生のままの眉
の下で、黒い瞳がギロリ。
「どういうつもりです? 紅さん。私、こんなこと頼んだ憶え、ないんですけ
れど」
 まあまあ――美悠は黒いジャージの肩を叩くと、
「じゃ、ちょっと、あたしもね」
 怒り収まらぬ安海を後ろ、テーブルの間を抜け、ドレッシングルームに向か
う。
 人気のない化粧室の扉を開ければ、ちょうど、個室のドアが閉じたところ。
 洗面台に腰を預けながらしばし待っていると、水の流れる音が二回、それか
ら、すらりとした細身の制服姿が現れた。
 ベージュのブーツカットパンツ、身体のラインがビビットな黒のニットシャ
ツ姿の美悠に気づくと、ひろみは一瞬目をパチクリ、それからすぐに、控えめ
な表情に戻った。
「お、やっぱりレディースで済ますんだね、ひろみ」
「あ、はい」
 少し恥ずかしげに目を逸らすと、美悠の隣へパタパタ――洗面台のコックを
静かにひねり、
「本当は、ちょっとまずいかもしれないんです……でも、わたし、そういう風
にはほとんど見られないから……」
 深くうつむいたまま手を洗い、脇に置いたポーチにハンカチを戻す様子は、
確かに「そういう風」には全く見えず――。
 と言うより、清楚で控えめな女生徒以外、何に見えようと言うのか。
「ま、」
 美悠は柔らかくひろみの横顔を見下ろしながら、胸に腕を組み、顎を手に乗
せると、
「それは、どうでもいいんだけどね」
 頭半分低い薄茶の瞳を覗き込むと、セミロングの黒髪、顔の横に手を添えた。
 マジマジと見つめる大きな目の中に、笑みを送り……う〜ん、やはりそのカ
ワイさは……今すぐ食べてしまいたいくらいの。
 しかし、アズミのため、いやいや、ひろみ自身のため、ここはガマンガマン。
「今から席に戻るけどさ、ひろみ」
 はい、目で頷く美少女に、
「あたしが何をしても、言っても、ビックリしないで任せておける? いい、
あたしは、ひろみの「姉さん」なんだから、さ。逆らわずに」
「は、はい」
 小造りな唇をグッと寄せる表情にのぞく、少しドキドキな覚悟。
 美悠は肩へと手を落すと、
「大丈夫。悪いようにはしないからさ。試合が終わった後も、うまく誘い出し
ただろ? アズミのこと」
 ええ――目蓋を落して頷くどこか不安げな様子。
 大丈夫大丈夫、どう転んだって、ひろみに悪いようには絶対しないよ。
 ――そして連れ出たドレッシングルーム→店内。安海の背後からゆっくりと
歩み寄った二人の距離は……。
「よ、アズミ。何か頼んだ?」
 揃ってソファに座った二人の姿を、安海はチラッと上目遣いに。……と、短
い黒髪の下で、boyishな顔立ちは凍りつき――。
「な……」
 肩口に手を添えられたひろみの頭は、完全な恋人距離で美悠の肩に委ねられ
ていて……。
「どうする、ひろみは? やっぱり、甘いのにする?」
 残った左手でメニューを持ち上げると、ぴったり密着した身体の間で広げる。
「え、ええと……」
 戸惑いながらも、メニューに視線を流すひろみ。色白の頬は、明らかに赤ら
んでいるようで――
「……な、なんです」
 目をマジマジ、持っていた携帯を取り落とし、アズミが声をカクつかせると、
「ん? 何が? ……ね、これにしよっか。あたしも、ちょっと甘めが気分だ
なぁ」
 肩に添えられていた手が上、長い黒髪が流れる耳元へと。髪の毛をクルクル、
指先に絡めながら梳き上げる。
「……あ、ダメですよ、美悠姉さん。もう……」
「ん?」
 困ったように横目でうかがうひろみに、美悠の切れ長の目が、悪戯っ気に瞬
きを。
「何が、ひろみ。 ……あ、そうか、弱いんだ」
 しなやかな指が黒の中へ忍び込み、うなじへ流れる。
「あ、もう、ダメです、……あん」
 身をよじり、少しイヤイヤな素振りをするベージュの制服姿。
 一瞬、呆然と見つめていた黒のジャージが、生体に戻った。
「ちょ、ちょっと、何やってるんです! こんな場所で!」
「え?」
 美悠はひろみを抱きすくめたまま、身を乗り出した安海を見つめると、
「……客、他に誰もいないだろ? それに、肩抱くくらい、電車だって街中だ
って……」
「違う、そうじゃなくって!」
 テーブルの上の両手が握られ、乗り出した背が目一杯伸ばされた。
「何で、紅さんが、どうして、ひろみの肩抱いてるんですか! 何考えてるん
です? ……それに」
 頬を赤らめてされるままになっている幼馴染を見下ろすと、
「ひろみ、あんたも! 何やってるの!」
 さして広くない店内に、安海の凛とした声が響く。「え、でも……」――口
を開きかけたひろみを制して、美悠の雄弁な唇が鋭い色を放つ――
「何って、それはもう、こういうことでしょ」
 ひろみの頭をかいぐると、首を傾けて、ホッペにチュ。
「……ひろみ、可愛すぎるから。もう、あたしのモノにしちゃおうかなぁ、と」
「……え、美悠姉さん」
 マジマジ見つめるひろみに、にっこり。
 それは、ウソッ気? 本気?
「何言ってんです!」
 いっそうトーンが上がった声が、瞬時にほのぼの感を打ち破った。
「ひろみは……違うでしょう! 紅さん、そういう人だったんですか? 何で
もアリ、そういう……。そりゃ、ちょっと趣味は変わってるけど、筋は通って
るって言うか、私、そう思ってたんですけれど!」
「は?」
 美悠は、顔色がみるみる悪くなったひろみに大丈夫、大丈夫、肩を撫でさす
ると、
「わけわかんないこと言ってンの、アズミの方だよ。ひろみが、どう違うって?
 ん……それ、オトコってこと? は〜ん」
 大声でからからと笑うと、すでに立ち上がっていた安海は、唇を震わせて継
ぐべき言葉を失い――。
「……わかってないなぁ、アンアンは。だから、アンアンって言われるんだな、
男どもに。……ね、ひろみ?」
 腰に手を落すと、耳元で、
「ちょっとだけ恥ずかしいこと、聞いていい? 無粋で悪いけど、さ」
 言いながら、チュ、耳たぶにキスをすると、
「今ひろみ、「オトコ」してる? なっちゃってる?」
「……そんなこと、言えません」
 ふるふると首を振り、うつむくひろみ。よしよし、髪の毛を愛しむと、美悠
は、
「ごめんごめん。そうだよね、そんなこと、言えるわけないよね」
 大きな瞳が下を向き、見る見る濡れた光を帯びる。
 溢れかける雫。
 ああ、ゴメン、答えなくっていいから――指先で拭い取った時、小さな声が、
「……ならないです……だって、違うもの。だって、わたし……」
「よしよし、ゴメン、ゴメンよ、ひろみ。あたしが悪かった。ひろみは、可愛
いよね。んん、いい子だよ、すごく」
 肩を抱き締めると、うつむいた顔を美悠の胸にうずめて、ヒックヒック。
 醸成される異空間。
 言葉を完全に失い、安海は呆然と立ち尽くし。
 美悠はしばし華奢な肩を抱き締めると、言葉にならない囁きでひろみを包む。
 と、キリリとした表情で上に視線を投げ、
「まあ、そういう訳だから。あたし、ひろみが気に入っちゃった。こんな可愛
い子、いないよ。あたしが言うんだから、間違いない」
 「可愛い」にビクッと、そして、解け始めた身体。再び、「よしよし」――
ひろみの髪を愛しみながら、
「知ってると思うけど、あたしは、欲しいものがあったら遠慮しない方なんだ。
躊躇しても、結果は悪くなるばっかりだからね。……ほら、ひろみ。もう大丈
夫でしょ? ね、どうする? タルト、食べるんじゃなかったっけ」
 ほっぺに優しくキスすると、「うん」――顔を上げ赤みを帯びた表情は、す
っかり美悠に身を任せきっていて。
 うんうん――清楚さ控えめさを落して、可愛いばかりの幼子のようになった
ひろみの風情に、指先で額をチョン。
 そして、頬に手を添い落すと、かすかに力を込めて。
「……美悠姉さん」
 まだ潤みの残った瞳はすっかりハートマーク。桃色に溶けた様子を全開で瞳
に捉えた時、黒いジャージの手は、携帯と椅子に置かれたスポーツバックを乱
暴に取り上げ、テーブルを後にしようとする。
 と、歩み去りかけた安海の肩に、美悠の声が。
「いいんだね、アズミ。この子のこと、あたしがもらっちゃうからね」
 低いが、はっきりとした調子。
 その言葉を聞いた途端、肩に預けられた黒髪が、ピクリ、とかすかに揺れ―

 そのまま、小柄なジャージ姿は、無言で歩み去っていく。
「……美悠、姉さん」
 肩口から見上げると、不安そうに細い声が上がる。
 唇を軽く噛み、目を瞬く可憐な顔を見下ろすと、美悠はふぅ、大きくため息。
「もう、ひろみ。あんなイケズ、やめときな。それよりあたしが、楽しいとこ、
連れてってあげるから。あたしに任せとけば、何でも教えてあげるし、もっと
カワイ綺麗になれるよ。ひろみ、ホントに、Bestなベース、持ってるから。…
…ね、どう?」
「で、でも……」
 真ん中で分けられ、少し乱れた前髪の下、揺らめく茶の瞳。
 その時。
 パシパシパシ、とシューズの音が背後から響き近づいてくる。
 そして再び、黒いジャージ姿が現れ、テーブルの前に仁王立ちになった。
「忘れてました。これ」
 ポン、千円札が二枚、テーブルの上に投げ置かれる。
「……あーちゃん」
 ひろみが、険しさ爆発な安海の顔を見上げると、
「おいで、ひろみ」
 手を差し伸べ、美悠の顔を睨みつける。
「……こんな女の側にいたら、あんたまでどうにかなっちゃう。一緒に帰ろ。
家で夕ご飯、食べてくといいから」
「う、うん」
 身体を離して、美悠の方をうかがう素振り。
 美悠は、眉を上げ視線を逸らし、シラッと足を組むと……、テーブルの下で
は、手をシッシッ、さっさと行きな。
 すいません、ありがとうございます――目だけでシグナルが投げられると、
あっという間に二人の姿は消え――そして。
 すっかり暮れ、冴えた空気に星が輝きを放つ晩秋の空の下で。
 冷たい風に揺れる木々を背景に、二人の少女が手を握り、肩を添わせて歩い
ていく。
 かたや、小柄で引き締まった黒いジャージ姿。
 他方、ベージュのブレザーに赤緑チェックのスカートが可憐な制服姿。
 ふと、頭半分低いジャージの少女の方が立ち止まり……、握り締めた手を引
き寄せると。
 黒い瞳と薄いブラウンの瞳が互いを映し、しばし……想いの交わし合い。
 何ごとか勝気な唇が呟き、控えめな口元が恥ずかしげに微笑むと、静かに頷
く。
 そして――。
 上に伸ばし髪に添えられた黒いジャージの手に従い、わずかに屈められる制
服の腰。
 ゆっくり唇と唇が近づき…………。
 ――うんうん。
 美悠は頷くと、陸橋の上から構えた双眼鏡を目から外して、星の降る空を仰
ぎ見た。
 触れ合った安海とひろみの唇は、清楚に閉じられていて、決して激しく貪る
ようなものではなく……。
 いいねぇ、可愛くって。やっぱりお似合いだ、あの二人は。
 桃子に借りてきて正解――小さな双眼鏡をクルリと回し、ショルダーポーチ
に放り込むと。
 軽やかに陸橋を下り、街路樹にライトの陰影が淡い大通りを、安海達とは反
対側へ歩き出す。
 『美悠姉さん』――紅潮した頬に、柔らかく委ねられた華奢な身体の感触を、
いまだリフレインしつつ。
 それにしてもひろみ、可愛かったなぁ……あの朴念仁が戻らなきゃ、あたし
がそのままGET!だったのに。
 ふふ、それじゃひろみが可哀相か。
 ん?――と、目蓋が何かを顧みるように彫りを深くする。
 そう言えば、あの春希クンにしても、桃を相手に奮闘中のみっちゃんにして
も。
 何だか、最近、そんなんばっかな気もするなぁ。
 いやいや――しかし、唇に笑み、Graceな瞳に夜の風が過ぎると、
 まあ、こういうのも悪くないかな。
 そしてさらに兆す、いくつもの眺め。
 葉谷川綾乃の悔しげな表情、対戦が楽しみだった安海に茜、ちょっとdamnな
試合直前の棄権、天乃星に聖テレサ、女の子たちの華やかな歓声と、感嘆の拍
手……。
 思えば、deliciousな一日だったよ、ウン。七色、きらめき、万華鏡。ああ、
毎日、こんなだったら、何も言うことなし。
「蝸牛、地に這い、神、天にいましめし、世は全て事もナシ。……違うか、そ
れは」
 独り言を呟いて、降り注ぐ星光を背に家路を急ぐ美の女神。その表情には、
一点の曇りもなく………。
 そして、深夜の紅邸。
 今日は早々と電気が落され、つかの間の静けさを得た美悠の部屋の扉の向こ
うで。
 長い廊下の果てから、ガタガタという低い音と、淡々とした言葉のやり取り
が聞こえてくる。
 やがて、階段をリズム良く上がってくる足音が響き、壁灯りだけの薄暗い廊
下に、背の高い影が落ちる。
 その影は美悠の部屋の前まで歩み来て、薄紺の背広に、年齢の割には不揃い
/派手に刈られた短髪が目立つ、面長の中年男性の姿を取った。
 コンコン――よく焼け、角張った拳がドアを叩くと、
「美悠、もう寝たか?」
「あ……、オヤジか……ああ、いいよ」
 半分眠たげな声が小さく聞こえ、ドアが細く開けられた。
 キングサイズのベッドの上、ディムランプだけが朧に光る、薄暗い部屋の中。
 隙間から覗き込んだ精悍な顔が、顔立ちに合わぬ柔らかな声を――。
「あ、起こしたか。いいぞ、そのまま休んで」
 衣擦れの音。薄明かりの中で、顔だけが起こされる。
「ん、ああ。……なんか用事?」
「いや、いい。……Good night、Miyu」
「ん、おやすみ、オヤジ」
 再び枕に埋まる華やかな顔。
 しかし今は、乱れた髪を額にかけ、長い睫毛で目蓋を落し、満足げに微笑ん
だ口元は、どこか愛しさを醸し出し――。
 一瞬ドアを開けたままで視線を止めた彫りの深い面差しが、すぐに、閉じる
扉の向こうに消えた。
 聞こえてくる、小さな声。
「いかがでしたか、お嬢様は」
「うん、お前の言う通りだったな、志乃」
「だから申しましたでしょう、旦那さま。お嬢様のこちらの回路は、少し違う
のですよ、旦那さまと同じで」
「ん? そうか? ふふふ、そうかもしれん。ま、負けて覚える勝負って言う
のもあるが、あれには当てはまらないのかもな」
 明朗、健やか、華やかな夜。
 今まで繰り返してきたが如く、しかし、平凡/単調ではない、楽しみに満ち
たひとコマ。
 ブブブブブ……。
 と、ベッドの足元、暗がりの中で携帯が揺れた。
 メールの着信を知らせる、バイブレーション。
 穏やかに響く寝息、開けられることがないそのメールには、こんな内容が記
されていた。
『あなたの大事なお友達と過ごさせてもらっているわ。
 いつもあなたと一緒の、とても賢いお友達と。
 会いたいんじゃないかしら、美悠さん。
 会いたければ、連絡を待ちなさい。
 ここはとっても遠いから、すぐには帰れないって言っているから。
 ・・・桃子さんも』

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