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 Coolで抑揚が少なく、でも、どこかでいつも優しい感じがあったかい、聞き
慣れた声。
 ――感じが変わり、低く抑えた調子になったのは、突然にだった。
『ちょっと待って、未知ちゃん』
 それは、携帯越しでもわかる、警戒心を前面にした声色。
『……そのまま、待ってて』
 ガサガサ。
 布の擦れ合うような音が耳元に届き、「桃先輩?」――問いかけに答えは返
らず、何か遠くで会話するような音が聞こえた。
 もう一度、「桃先輩?」
 耳を澄ますと、途切れ途切れに聞こえてくる。
『で……、どうすればいいわけ』『そう。ずいぶん勝手なことを言うんだ、綾
乃さん』『この状況で、付き合うとかそういう話なの? わたしの方こそ、馴
れ馴れしく名前で呼んで欲しくないのだけれど』
 相手の声は聞こえない。
 しかし、硬い声音に、敵対的な言葉のやりとり。尋常でない雰囲気なのは確
かだった。
 と、ひときわ鋭い声が、耳元で響いた。
『触らないでもらえる!』
「桃先輩!?」
 思わず叫んで、すぐ口をつぐんだ。
『だいたい、こんなでっかいのを二人も連れてきて、話も何もないでしょう』
 そして、しばらく何か言葉が交わされ、
『わかった。一緒に行く。拉致されてあげる。……え、ふ〜ん。物は言いよう
ね……。でも、葉谷川さん、実質ってモノがあるのよ』
 そして、何かガタゴトと響いた後、ドン、と扉が閉じるような音がした。
 それっきり、何も聞こえなくなる。
 2分、3分――
 待った後、「桃先輩」「桃先輩ッ!」――何度呼びかけても、返事は返らな
かった。
 何かとんでもない事態が起こっている。
 たぶん、桃先輩が誰かに「誘拐」された――。
 すぐに思いついたのは、110番すること……でも、少しは知り合いのよう
な言葉の調子……それに、桃先輩の家族は?
 確か、お母さんは小さい頃に亡くなっていて、弁護士のお父さんはとても忙
しいって……どうすれば。
 一瞬考えた後、自然に思い浮かんだのは、いなせな中にいつも冷静な瞳の色
を崩さない、映研部の先輩の顔だった。
『ありがとう、未知ちゃん。真っ先に俺に連絡してくれて。……で、葉谷川っ
て言ったんだね、桃子は』
 大要を話すと、雄志はつっかえつっかえで声が裏返る未知を落ち着かせつつ、
冷静に言葉を返してくれた。
 葉谷川さん――確かにそう言っていたはずだった。それに、他にも何か……
そう、「あ」なんとか――
『綾乃、じゃないか? 葉谷川綾乃』
「そう、そうです。綾乃さん、って」
 それからの話は早かった。
 雄志は、「それなら多分、美悠ちゃん絡みだ」――しばらく連絡を待つよう
に未知に言うと、息つく間もなく、今度は美悠から携帯が入った。
『あ、みっちゃん、桃がさらわれる前に話してたって?』
 そして、「あんたも来るかい?」――言われるままにやってきた桃子のマン
ション。
 玄関の鍵も閉めないまま、中扉が放たれたリビングルームに入ると。
 電気も消されず、テーブルで映画雑誌が広げられたままなその空間は、慌し
い出来事を暗示していて――。
 そして、向きの曲がったソファの背もたれには、ピンク色の携帯が隠すよう
に挟んであった。
 状況をしばし眺めた後。
 腕を組み、考え込むように中央に立った背中は、こんな時でもタイトな黒の
ニットシャツに濃紺のビンテージジーンズで決めた美悠。
「で、どうする?」――こちらは少し乱れ気味の茶のジャンパーをまとった雄
志に、曖昧な感じで頷いている。
「警察に知らせるべきかな」
「いや……何かする度胸はないと思うよ、綾乃ちゃんには」
「何かって、充分してるだろ? 未知ちゃんの話を聞けば、間違いなく犯罪、
誘拐じゃないか」
 わずかに荒げられた声にウンウンと頷くと、美悠はおおよそ同じ高さの肩を
軽く叩いた。
「そうだねぇ、悪い悪い。大切なパートナーがアブナイ女にGET!されちゃ
ったんだから、そりゃあ、心配だ。それに、みっちゃんだって、だよね」
 伊達メガネの横顔を一瞥してから、ソファの横に立った未知の方へ振り向き、
軽くウィンク。
「あ、はい」――ドギマギしながら頷くと、こんな状況なのにほとんど普段と
変わらない美悠に、いったいこの人の神経はどうなっているんだろう――。
 と、「ちょっと見る?」――パチンと開いた携帯、色のない文字が並ぶメー
ルが示された。
「さっき話した一通目に、続きがきてね。ここに来る途中。……どう思う? 
みっちゃんもさ」
 鼻先に指を当てて、口元ほのかに皮肉な?笑み。ジャンパーの肩に並んで、
少し背伸び気味にディスプレイを覗き込めば。
『桃子さんは、頭のいい人ね。
 私のもてなしを、逆らわずに受けてくださるそうよ。
 とてもおとなしく、礼儀正しくしてくれているし。
 こうしてくださっているうちは、私も楽しく過ごしていられるわね。
 あなたもお招きしたいのだけれど、もう少し待っていてもらえる?
 楽しいことは、急がない方がいいものね。
 ただ、それまで、桃子さんが大人しくしてくれていると良いのだけれど』
 頭の上で、「この」と小さく苦しげな呟きがもれるのが聞こえた。雄志は携
帯を突っ返すと、
「完全、キちゃってるじゃないか。……ここまで壊れてるとは思わなかったよ、
あのお嬢さま。ダメだ、きちっと対処した方がいい」
 厳しい声だった。
 普段はどこか笑って見えるファッショングラスの下の目が、紛れのない色を
――。
 雄さんのこんな顔、見たことがない……そうだよね、だって、桃先輩がどん
な目に会うか……わたしだって。
「んんー」
 受け取った携帯をクルリと手の中で回すと、美悠は視線を逸らして一しきり。
そして、小さく鼻で息を吐いた。
「なんかなぁ、あたしはあんまりおおごとにしたくないんだよね。どう考えて
も狙いはあたしっぽいし、このメールもねぇ……」
「そういう問題じゃないだろ、複数で来てたらしいし、お遊びとは違う……要
は、人質ってことじゃないか」
「そうですよ、ミユさん。わたし、桃先輩が心配です。こんな気の違った人に、
何かされたら……わたし、わたし……」
 急速に胸の中に湧き上がってきた熱いもの。涙がこぼれそうになって、指で
目の端を拭った。
「うーん」
 未知の方をチラ、腰に手を当てて天井を仰ぐと、ギャザーの入った黒い肩が
大きく揺れた。
「……仕方ないか。このままじゃ、どうにも手の出しようがないし……」
 そして、決意したように唇が引き締められると、
「まず、桃のオヤジさんに連絡取らないといけないかな……、とすると、ウチ
のオヤジに聞くが早いか。さて――」
 しなやかな指が携帯を開き、ボタンを繰ろうとした瞬間。
 プルルルルン〜♪
 短く、メールの着信を知らせると思われるメロディが鳴った。
「ミユさん」「美悠ちゃん」
 未知と雄志が身を乗り出すと、美悠はゆっくりと頷き、着信したメールを開
いた。
 そこには――――。

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