部屋に入る一瞬前、窓の外に見えた遠景のタワー群。
 その位置関係から、ここが南の、海に近い場所だとわかった。
 目隠しをされたまま車を降りた時も、かすかに潮の香りがした。おそらく、
港の周辺、都心直近のリゾートエリアに違いない。
 緑のハウスウェアの両肩を屈強な男二人に封じられ、頭をそびやかしたミデ
ィアムロングのお嬢さまに続いて踏み入ったそこは、階段を下った地下だった。
 冷たい感じの調度が並ぶ、窓もない灰色の続き部屋――と言うより、むしろ
別の意図を持って作られているような……。
「さて」
 ファーでさりげなくデコレイトされた高級そうな緑のコートが揺れると、桃
子の方を振り向いた。
 少し縦にロールが入った、ワイルドさも隠し味になったレイヤーの長い髪。
 パチリと大きな瞳が、整った稜線の中で悠然と見下ろし――。
 綾乃の顔を正面から見つめ上げた時、最初マンションで向き合った時と同じ
感情が湧き上がってくるのを感じた。
 ――このしょうもないお嬢様は!
 雄志からそれとなく聞いていた。『葉谷川財閥の(かなり問題ありな)ご令
嬢』
 少し前にレセプションで美悠とひと悶着あったらしいし、今日の柔道の試合
でも――。
 美悠がいわくありげに眺めていた聖テレサの一群。そこにも、綾乃に似た姿
があったはず。
 いや、たぶん、本人に違いない。
 とすれば、ほとんど面識もない自分のところに、どう見ても堅気じゃない男
を二人も引き連れて、「ご同行」を願うと言うのは……。
 ――そしてそれは、案の定。
「申し訳ないけれど、しばらくここにいてもらうわ。桃子さん」
 綾乃はコートの腕を組んで悠然と言い放った。
 そして、後ろに控えたレスラー並みの体格の男に、「……頼むわよ、新井」
「はい」――茶のトレーナーにトレパン、ラフな格好の角刈りは、簡素に頷い
た。
 そして、もう一人の、こちらは一回り小さな若い男を細い目で促すと、洗い
ざらしのTシャツの背中が、奥の方へと。
 その歩みゆく先、素っ気ないのスチール製のテーブルの向こうには……こん
な場所にあってはならないはずの、鉄格子の扉が。
「ずいぶん、珍しい建物を持ってるのね、あなたの家は」
 見上げれば、打ち付けコンクリートの天井では、蛍光灯が素っ気ない光をに
じませている。
 間違いない。
 ここは、当たり前の部屋ではなく、もっと特殊な目的のために作られたもの
――。
 まったく、怖い怖い。あるところにはあるんだから、こういう奈落が。
 桃子は大きな瞳でぐるりと部屋を見回すと、心の中でため息をついた。
「そんな緊張しなくてもいいわよ、桃子さん。さっきも言ったけれど、帰りた
ければいつでも帰っていいのだから」
 ふふ――微笑みながら車の中でも言ったセリフを繰り返す綾乃に、桃子はし
らっと視線を逸らして見せた。
「別に。どうせ、実質帰れないのと同じことなんだから」
 『桃子さん、あなたが嫌ならいいのよ。他をあたるだけだから。ほら、美悠
さんには知り合いが多いみたいだから、そちらから呼ぶこともできるでしょう?』
 マンションでの会話を思い返した瞬間、別の情報が脳内で並行稼動した。
 こんな怪しげな建物を持っている葉谷川グループ。確かに、いい噂は聞いて
いないけれど――そうだ、そう言えば……。
「そう……。じゃ、あなたの自由意志でここにいる、そういうことでいいわね。
わたしの方は、お願いしているだけだから。美悠さんにきていただくためにね」
 ずいぶん念の入ったこと。でもね。
「まあ、いいけれど」
 桃子は淡々と言葉を返した。同時に、脳裏で父の顔と言葉を浮かべる――と、
 ギシ。
 部屋の奥では今まさに、鉄格子の扉が開けられるところ。
 目に入ってくる、打ち付けのコンクリートに格子窓の「部屋」。
 完全に拘置施設じゃない。もう、デリカシーも何もない――視線を流しなが
ら、言葉を繋ぐ。
「……さっきも言ったように、ちょっとあの子にはお灸をすえてやらないとと
思っていたし。いつか刺されるよ、その時は知らないからねって、時々脅かし
てやっていたから、わたしも」
 綾乃を横目で見上げてニヤリ、からかうような視線を送ると、悠然とした構
えがわずかに揺れ――。
「でも、葉谷川さん」
 言葉を一度切って、まっすぐに顔を戻し、
「連絡の一つくらいは入れさせてもらえない? ……このままだと、騒ぎにな
るから。家もそのままにして来てしまったし、父が帰ってわたしがいないと…
…わかるでしょう?」
 依頼の言葉が発されるや否や、解けかけた腕は組み直され、今度は顎が片手
の平の上に――綾乃の構えは威圧的なものに復した。
「それは、ダメね」
 にっこり、勝気な唇が笑みを作ると、
「あなたのお父さまが、今週自宅に戻らないのは、わかっていることだから」
 やっぱり、ね。
 桃子は落していた視線を上げ、上目遣いで綾乃を捉える。
「ふうん、よく知っているのね、葉谷川さん」
 そして、こちらも笑み混じりに、
「……もしかして、お父さまからの情報?」
 父がこのところ取り組んでいた集団訴訟。それは確か、とある大手自動車会
社の孫請けで続けざまに起こった労働災害についての……。
 そして、その自動車会社の系列、ヒエラルキーの頂点にあるのは。
「――どうかしら」
 綾乃の表情は動かない。
「……でも、あなたのお父さま、西涼賢悟さんが、とても頑張ってらっしゃる
のは確かよね」
「それは、ありがとう」
 いんぎんに言葉を作ると、ふん、形の良い鼻がうごめき、
「それが、「困った人」に本当に役立っているかはわからない、とわたしは思
うけれど」
 桃子は眉を軽く上げただけで、挑発めいた言葉には乗らず、さらに深い笑み
を浮かべて綾乃を見上げた。
「でも、知っている? 葉谷川さん。父が戻らないって、なぜかあなたは知っ
ているみたいだけど、犯罪は、偶発的・衝動的なものより、計画性があるもの
の方が重いのよ」
 大きな孤を描く瞳同士が正面から出会う。先に目を逸らしたのは、葉谷川綾
乃の方だった。
「……そう。でも、あなたはいつでも帰っていいのだから。無理に、とはわた
しは言っていないわよ」
 黒髪が流れる横顔に、怯んだ色が見える。
 クスクスクス。
 桃子は視線を落してひそみ笑うと、
「そうね」
 頷きながら、本当に、しょうのないお嬢さま。でも、わたしも無用心だった
かな、鍵を閉めないでおくなんて――。
 瞬き浮んだ、母の顔――すぐに消し去ると。
「でも、葉谷川さん」
 静かに淡々と、しかし言い聞かせるように言葉を繋ぐ。
「自由意志と強制、そんなことも、知っている? 今のわたしの置かれている
状況が、法律上の客観性に立って強制になるなら……それって、誘拐になると
思う。誘拐って重罪だから、葉谷川さん。ちょっとした時間の誘拐でも、5年
とか、10年とか、ね」
 知的な目元をキリリと開き、少し斜に視線を送る。
 しかし、すでに顔を逸らした綾乃は、その言葉には答えなかった。
 すっ、と斜め後ろを振り向き、
「新井」
 巨体のガードマンに何かを手渡し、そして、そそくさと、
「さっき言った通りに。いいわね」
「はい、お嬢さま」
 間髪入れず、彫りの深い角張った顔が下げられた。
「……では、申し訳ないですが」
 巨大な影が背後に回れば、低いながらも驚くほど柔らかい声が響き、桃子は
さっき見た奥の格子部屋へ促された。
 そして。
 ガチャン――鉄格子の扉が閉じられた。
 すぐに、これ見よがしに付けられた鍵穴に鍵が差し込まれ、軋みながら閉め
られる。
 2メートル四方ほどの狭い部屋。扉の前に立って冷たい空間を見回すと、言
いようのない寒気が兆さずにはいられない――。
「こんな場所に閉じ込めるんだ、結局」
 緑のハウスウェアの腕を組むと、桃子は唇をグイッと結び、普段は知的な孤
を描く眉を、強く引き締めた。
「……帰りたいなら、そう言えばいいわ、そこの新井に。ただ……その時は、
わかっているわね」
 視線を合わせないまま背中が向けられる。
 襟元のファーにかかる黒髪は、どこかはかなげにも見えるけれど――。
 そのまま足早この場所を後にしようとするコートの肩に、桃子は声をかけた。
「葉谷川さん」
 事の深刻さがどうあれ、聞いておかなければいけない。
 車に乗っている時から、これだけは、と思っていた。
「一つだけ聞いていい? こんな、実質監禁された状況なんだから、理由ぐら
い聞く権利はあると思う。違う?」
 淡々としたやり取りの間も、兆して見逃せなかった憤りの根っこ、それが何
なのか――。
 桃子の言葉が届いた瞬間、素っ気ない銀のスチール扉の前で、しなやかな長
身が歩みを止めた。
「……どうしてあの子を――美悠を、そこまで挑発したいの?」
 そびやかされた頭がしばし静止し、答えが返らないかと思った時、葉谷川綾
乃は、ゆっくりと振り向いた。
「理由、ね」
 冷静な声だった。
「そんな特別なものはないわ。ただ、気にいらないだけ――人間にはそれぞれ
の領分があるの。無防備にそれを侵す愚か者は、試練を受ける決まりになって
いるのよ」
 感情を押し殺した怜悧な光が瞳を支配している。
 ふぅ……。
 桃子は心で息を吐くと、影に隠れた深層を見つめて、なんとももやもやした
気分が満ちるのを感じた。
 そして、実際にも、……sigh。
「そう……」
 瞳の本気、理屈の本気、でも、それだけなはずもない……きっと。
 本当に、しょうもない、気の触れたお嬢さま! だから、わたしがいつも言
っているのに、あの大バカ女は!
 自分の置かれている状況とは関係なく、綾乃が可哀相に思えてくる。
「……理屈はともあれね、綾乃さん」
 ゆっくりと口を開く。これは、本当に忠告。
「やめといた方がいいと思う、わたしは。あの子をこんな格好で敵に回すこと
は、何の役にも立たない。はっきり言って、美悠がぶち切れたら、どうなるの
か……わたしにもさっぱりわからないから。きっと、後悔することになるよ」
 冷視線からマジマジと桃子を眺めていた表情が、再び高慢な色を戻した。
「それは、歓迎ね」
 ふふふ――再び笑い声を上げた後、
「本気になってもらわないと、意味がないわ。……それに、あなたなら、美悠
さんを本気にさせる、ってことね、それは。
 そう、『天乃星の最強コンビ』、だものね、あなた方は」
 両口の端が皺を作り、目がからかいを露わにする。
「あのね」
 呆れた気分と怒りがない交ぜになり――プチンと音がした。
「そういう話じゃない。これだから……まったく。葉谷川さん、そういうつま
らない誤解に思い込みしていると、本当に破滅するよ? わたしは良く知って
いるんだから、あの腐れ縁のバカのことは………ああ、こんなことを言うから、
余計に誤解されるのか……ああ、もう、好きにしなさい。忠告だけはしたから、
わたしは」
 桃子の混乱した様子を眺めると、綾乃は満足そうな笑みを浮かべて一しきり、
「じゃ、大人しく待っていてよ」――言い残して、部屋を去っていった。
 足音が消えていき……、沸騰して収まらない頭。
 冷やして――落ち着け、まったく、こんな馬鹿げた騒ぎ……cool down,cool
downだよ……目を閉じることしばし。
 桃子は口で息を吐くと、瞳に冷静さを戻した。
 再び、打ち付けコンクリートの狭い独房、眼前を塞ぐ冷たい鉄格子、その向
こうに広がる細長い部屋――閉ざされた景色が戻ってくる。
 灰色の壁が四面の、素っ気ない調度ばかりが並ぶそこには、すぐ目の前のソ
ファで腕を組んで座る屈強な男と、壁際のパイプ椅子で足を組んだもう一人の
若い男。
 天井からは黄色の蛍光灯が淡い光をにじませ、空気は滞って重みを感じるほ
ど……。
 気持ちを整え直してみれば、やはり尋常ではない、寒気→恐怖を覚えても仕
方のないシチュエーション。
 桃子は落し気味にしていた顔を上げると、唇を引き締め――
 ただ手をこまねいている訳にはいかない、よね。
 ――いや、それは、笑み?のようにも……。
 鉄格子ごし、2歩ほど先で、茶のトレーナーの腕を組んだマッチョな横顔に
目をやる。
「ね、新井さん? 新井さんでいいんでしょう?」
 角張った顔がこちらを向いた。斜になると、分厚い胸板と丸太のような二の
腕が、ラフなトレーナーで凹凸をいっそう威圧的に際立たせている。
「何か?」
 しかし、角刈り/厳つい顔からは想像できない、柔らかい調子の言葉が返る
と、さっきから感じていた印象がいっそう強さを増した。
 隙のない立ち振る舞い、丁寧な態度、相当に鍛え上げられ、屈強そうな身体。
しかし、出で立ちは茶のトレーナーに黒のトレパンと、かなりラフな。
 そしてそれは、壁際に座る若い男も同じ……。
「少し話してもいいですか? このまま黙っているのも退屈だから。……別に
いいでしょう?」
「構わないが。そちらが話される分には」
 色のないまま肯定の意を示した細い瞳に、にこやかな笑みを送ると、桃子は
ゆっくりと始めた。
「わたし、映画がとても好きなんですよ。ううん、好きって言うより、もう、
虜……少し恥ずかしい言葉で表すなら、恋してるって言ってもいいかもしれな
い。……新井さんは少しは映画を見ます? あ、やっぱり。映画館とかも行き
ますか? ……うんうん。そうですよね、やっぱり、映画は劇場で……って言
いたい所ですけど、最近はそうでもないかなぁ。音響でゴマカシって言うのか、
劇場が大規模になる一方で、どんどん作り込みが甘くなっていると思うんです
よ……え? いいえ、全然です。わたしなんて、まだ何もわかってなくて。え?
 そうですよね、時間があるのは、学生の内だけ。わたしも、そう思います。
だから、今の内に。……でも、やっぱり、忙しくなると、なかなか映画館には
出かけにくくなりますか? ああ……そうか、そうなんですか……。あ、新井
さん。もし失礼でなければ、少し伺っていいですか? わたし、少しだけ不思
議に思っていたんですけれど――――」

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