横長な三階の建造物――ちょっと見には公民館か何かに間違えそうな素っ気
ない施設を見つめて一時間あまり。状況は、先だって数人の若い男が入って行
ったきり、ほとんど変化がなかった。
『桃子さんは食事も召し上がって、もう休まれたようよ。
 また明日、連絡を入れるから、待っていてね、美悠さん』
 しばらく前に届いた5通目のメール。
 文面から見ても、美悠たちが犯人の確証を持っていることも、桃子の囚われ
ている場所を知っていることも、綾乃はまったく気付いていない。
 おそらく、散々焦らせた末に、どこかへ呼び出す算段だろう。
 しかし、美悠たち3人はすでに――。
「雄志、ちょっと遅くないか? あんたのとこの私設軍」
 広い車道を挟んで南側、湾を望む公園の片隅。木陰に身をひそめてからずっ
と、美悠は手元の雑草をちぎっては投げを繰り返していた。
「環状線が混み合ってるんだよ。もういっぺん、聞いてみるかい? たぶん、
もうしばらくすれば着くと思うけれど……」
 雄志は、後ろの茂みに座り込んだ未知に、「大丈夫、未知ちゃん?」――声
をかけてから、
「でもさ、美悠ちゃん。私設軍はひどくないか。普通のガードマンなんだから
さ」
美悠は前を向いたまま指先をふっ、からかうように視線を投げた。
「個人的に3人も4人も呼べるなら、そんなようなもんじゃない? まったく、
雄志のオヤジも裏じゃ何をしてるやら、だ」
「ウチのはそういう目的じゃないよ。それはまあ、なしでは済まない世界なの
は、間違いないけれどね」
 次第に冷えてきた秋の夜の空気、雄志がジャンパーの襟を寄せながら低く答
えると、美悠は枝の間の空を見上げて一息、星に向かって視線を投げた。
『桃子さんのいるのは、間違いなく今書いた住所にある保養所です。3階建て
の、細長くて地味な建物、黒い鉄の塀で囲まれていて――』
 あの時、突然着信してきた携帯メール。
 春希の必死な思いは文章越しにも伝わるものだったわけで……。
『桃子さんを助けてあげてください。いるのはたぶん、地下にある特別な部屋。
ひどいことはされてないと思う。綾乃さまは、ホントは無茶な事ができる人じ
ゃないから。だから、できるだけ早く、紅さん。こんなこと、言えるボクじゃ
ないんだけど、いいわけ不能なこと、したわけなんだけれど――』
 背丈の長い草を千切って、風に乗せて向こうへ飛ばして……。
 横目に、心配を露わに親指を噛み、彼女が囚われていると思しき建物を見つ
める、中学からの同級生の表情を。
 そして、眠気を抑えるように目をしばたくかつてのone night lover、可愛
い後輩の顔に振り返ってから。
 真偽が疑わしすぎると雄志が主張した、春希からのメール。
 警察を呼ぶのはひとまずstop。建物の所在を確かめ、雄志の家のガードマン
を呼ぶことにしたわけだけれども――。
 どうにも、こういうのは苦手なんだよなぁ。
 美悠はおもむろに両手の指を組み、押し合う力を込めてから、フン、唇を鼻
に寄せた。
 さらなるメールの続きが頭をよぎる――それはもう、けなげさ全開な。
 そして、聞き分け0%でネコっ気悪戯っ気1000%なお嬢さまの表情が重なり
……。
 ブルルルル。
 隣でバイブレーションが響き、すぐに雄志の手が携帯を開いた。
「ん。……どう、今、どの辺だい? あ…、んん、そうか。ン……マジ? そ
んなこと、あるんだな……。わかった、あと30分か。待つよ。一体どういう
ことだって? それは、こっちにきたら説明する。とりあえず、急いでくれ」
「……どうした? まだ30分かかるって?」
 苦々しげな顔を見つめると、「ああ」と短い返事が返った。
「なんか、この建物、カーナビに載ってないらしい。ゼンリンの地図にも。勘
違いして降り間違えたって、首都高に」
「ふう〜ん」
 鼻を指でさすりながら、流線型の目蓋を閉じて一息。
 なるほどね。ありそうな話だよ。
 葉谷川かぁ……オヤジがなんか言ってたっけ、歴史のあるものにはその分の
影があるとやら。
『綾乃さまは、本当はとても優しい人なんだ。でも、ボクも知らないいろいろ
なことがあったみたいで……。どうして紅さんのことを恨むのか、ボクにはわ
からない。でも、ボクはこんなこと、綾乃さまにこれ以上して欲しくないから
……』
 そうは言っても、あの大ネコちゃんのことだ。遊びのつもりが爪立てちまわ
ないとは限らんし……。
 頭の中で想いをグルリ、組んだ指先をギュム、切れ長の眦を見開くと。
 唐突に、小柄な背中、秀でた額とクールで知的な瞳がよぎり――。
 チッ、小さな舌打ちが自然に口の中。
 スゥゥ……、ザーッ。
 と、後ろから聞こえたかすかな風の音が、葉を揺らす大きなざわめきになり、
突風になって、建物の方へと過ぎ去った。
 スッ。
 3人が隠れた木陰でも、小さな風が起こる。
「美悠ちゃん」
 立ち上がった美悠を見つめ、雄志が声を上げた。
 美悠は、雄志と未知、二人を見下ろしてニヤリ、そして、開いた手の平に拳
をパチン、勢い良く合わせると。
 聞こえたよ。……やっぱ、待ちはあたしらしくない。
 それに、この方がおおごとにならずに済むだろ、結局。
 試合場の控え室で見た、boyish girlの切なげな顔が思い浮かび――。
「……ミユさん?」
 眠気を弾き飛ばされた未知の声。
「ちょっと、美悠ちゃん、待てって!」
 制止の手を伸ばす雄志の手を、軽く振り払った。
 ポンと植え込みを飛び越え、人影もエンジン音もない、ただ広い舗装道路に
降り立ち、そして。
「ちょっと、済ましてくるよ。チャチャっとね」
「って、ミユさん」「おい! 美悠ちゃん」
「たぶん、5人ぐらいだろ? さっき入ってった奴らのコンビ二袋、さ」
 門の中、車が一台停まっているだけの駐車場。
 そして、高校生に毛が生えた程度に見えた買出し部隊。あの時目にしたドリ
ンクの本数から察するに、中にいるのは5人か、6人か。
「待てよ、美悠ちゃん、一人でどうしようって……」
 立ち上がりかける桃子の彼氏に振り向くと、
「いいから、あんたは、ここで待ってる。兵隊さんたちがきたら、よろしくね。
ま、それまでには形をつけちゃうつもりだけどさ」
 そして、軽くステップを踏むと、斜めに道路を走り、門の反対側のフェンス
をひらり。
 さっき見た奴らの素人丸出しぶり。つるんで買出しに行くようなオトコども
じゃ、タカは知れてる。
 高窓だけの灰色の側壁、身を寄せて玄関方向へ忍び走る。
 気配のないもの静かな敷地。足を進めるほどに、唇には含み笑い、目には涼
やかな光が浮かび始め――。
 ついには、跳ね飛ぶショートの黒髪を指先が撫で上げると。
 デクな奴らの尻を一発、お仕置きも悪くないか。
 ふふ……、ついでに、綾乃の大ネコちゃんも一緒なら、キツクしつけてやら
ないとね。
 回り込んできた正面玄関。しゃがみ込んで、オフィスライクなドアのレバー
に手をかける。
 さて……。
 どうやって侵入するか――頭を巡らせかけた時、押したドアに引っかかりが
ないことに気付いた。
 鍵がかかっていない。
 飾りガラスの壁を背中、慎重に中を覗き込むが……非常灯に浮かぶリノリウ
ムの廊下が、ひっそりと奥に伸びるばかり。
 ふぅん……。
 そこまで抜けた奴ら?――暗い天井から壁まで目だけで見回すが、別段、普
通の建物と変わるところもなし、監視カメラらしきものも見えない……、か。
 そのまま静かに忍び入って、会議室・研修室と札が並んだ冷たい廊下を進む
と、かすかに音が聞こえた。
 ……ハハ、……でさ。
 マジかよ、それ、……オイ。
 奥の方――すぐにわかる。重そうな鉄扉の向こうからだ。
 滑るように扉のそばに添い、ジーンズにローカットの革スニーカーの足を構
えるが……。
 響いてきたのは、大げさな調子の会話に、ゲラゲラと緩んだ笑い声。
 ちょうど、修学旅行の泊まり、テンションUPで止まらなくなった高校生の
ような。
 ふふふふ。
 ひそめた笑みが、はっきりと見下した暴力的な笑いに変わる。
 まったく、いい加減にしなっての。構えたあたしがバカみたいだろ。
 中を覗くと、鉄扉を開け、下り階段を一気に。
 ドン!
 十数段を駆け下りると、銀色のノブを押し、勢いよく踏み入る。
「な……」
 最初に目に入ったのは、長方形の部屋の真ん中、テーブルを囲んでスナック
を食べ散らかし、ドリンクや……果てはビールまで煽っている男どもの呆けた
表情だった。
 その数、4人。
 そしてもう1人、視界の端、壁を背中に視線を投げる、細身の若い男。
 さらに、奥の鉄格子?の前で腕を組んだ大柄で筋骨逞しい男は、ゆっくりと
顔を上げ――。
「なんだ、お前は。どうやって入ってきた!」
 6人、ね。
「どうやって、って言ってもね。真っ直ぐにだよ」
 右の手首を左手で握り締めながら、肘をグイッ。
「友達を返してもらいに来たよ。どこだい、桃は」
 飾り気のない灰色の部屋を見回すと、一人異質な雰囲気を放つ三十男の向こ
う、鈍く光る鉄格子の中で、見慣れた頭がチラと動いた。
 ……が、確かめる間もなく。
「何言ってやがる!」
 椅子を蹴り、飛び掛ってくるツンツン頭の鉄砲玉。
「オンナが!」
 そしてもう1人、ひょろりと細い、長髪の欠食男。
 大ぶりな拳、意味もなく広げられた腕が迫り来た瞬間。
 ハアッッ!
 高速で背を向け反転し、的が消える。
 ハンマーが如く、最短の孤で振り回された中段のかかと蹴り。
 うぁッ――Tシャツの腹を捉えると、落した足を軸足にそのまま、
 オウリャァァ!!
 鞭のようにしなり、振り上げられた右ハイキック。細身の男の首筋を痛打す
ると、そのまま崩れ落ちるように昏倒した。
 一瞬、空気が凍る。
 止まった時の中、左奥、非常用とおぼしき扉へ上がる鉄階段を見つけると。
 濃紺のジーンズの腰が躍り、疾風となって部屋の中央を横切る。
 テーブルを踏みつけ、高くジャンプ。タン、と向こうの壁の近くに降り立ち、
 カンカンカン――。
 手すりを持って踊り場へ駆け上がった時、再び時計は動き始めた――が。
「このぉ!」
「捕まえろ! 女じゃねぇか」
 時すでに遅し。
 美悠が立つのは、上から段を見下ろす狭い踊り場。相対できるのは1人ずつ、
数的優位はほとんどきかない――。
 ソリャァ!
 顎にヒットする鋭い前蹴り、うぐぅ――顔を抑えてうずくまる1人。
 セイ!!
 腰が割れ、体重の乗った掌底、げぇ――胸元に拳を当てて、息を吐き出す1
人。
 そして3人目、茶髪のひげ面。突き出されたヘロヘロの拳――軽く交わして
脇に捉えると、横目同士に視線を合わせた。
 指をねじ上げ、関節を逆に捻ると、
 ギシギシッ。
 やわな腕はすぐに悲鳴を上げる。
「悪いね」
 ニコッと笑みを送ってから、力を込めれば。
 うあぁ、イテぇ、やめてくれ!
 そのまま足を踏み外し、もんどり打って落ちる先には、すでに苦痛に身体を
歪めた2人。
 うわぁぁ!――折り重なって倒れ伏し、マンガもかくあらんの醜態でknock
down。
 うめき重なるオトコどもを睥睨するは一瞬、まっすぐ奥、最初に確認した鉄
格子の向こうに視線を……
 目に入ってきたのは、壁に寄りかかりながらこちらを見ている、グリーンの
ハウスウェア姿。
 ――それは、確かに。
「おい、桃」
 声を上げると、独房の中の小さな姿は、片膝を抱えた指先で鼻先から唇をさ
すり、斜め視線でふんふん。
 動揺も恐れも、そして同時に、嬉しげな風もなく。
 カワイイ系はちょっと見のfake、知的で鋭いエッジが切っ先露わな、いつも
通りの西涼桃子だった。
 ふふ――美悠の雄弁な唇が、滞りのない笑みを作る。だろうね、はなっから
わかってる。桃だからな。
「さあ、お次は誰だい! そっちの兄さんかい? それとも、そっちの…」
 壁側に座る若い男から、奥で悠然と構える巨漢へと視線を流し、
「…おっさんが先かい?」
 向こう側で気配。若い男の方がスッと立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩み
寄ろうとする――と、
「このぉ!」
 突然、階段の下で叫び声が上がり、鋭い光が目の中に飛び込んできた。
 最後に転げ落ちた茶髪のキツネ顔。起き上がり、階段を踏み上がろうと……
その右手には銀の飛び出し式ナイフ。
 見上げた目は執拗な光を、口の端を歪ませ/剥き出した歯は野卑た色を帯び
……。
「ふん」
 蔑んだように形のよい鼻から息が吐かれた。
 黒のニットの腕が組み合わされ、しなやかな長身が仁王立ちに見下ろせば―
―。
 整った稜線の中、愛を語るきらめく光の代わりに今、瞳にあるのは、深く重
く断を下す、新月の夜の漆黒。
「へぇ。オンナがオンナがってさげすむその手が、その女を相手に、刃物を持
つわけだ」
「うるせぇ! 許せねぇんだよ! おめぇみたいなクソアマは!」
 いきり立って聞き取りにくい叫びを共に、登り来るざんばらの頭。踊り場の
一段下まで上り来て、立ち止まると、
「さあ、謝れよ。この――」
 その言葉は、最後まで語られることはない。
 ハァ!
 瞬、振り上げられた革スニーカーの爪先が、男の手元を捉えると、ナイフは
グルグルと回り、
 カチン。
 美悠の斜め後ろ、踊り場の上に落ちた。
 優美な曲線を描く腰が屈められ、銀の光を拾い上げる。そして、ふぅん……、
ナイフの柄を持って切っ先を眺め回す。
「いいナイフだねぇ。ホント、良く切れそうな。……まさか、誰かを刺したり
した事、ないだろうね。そう……」
 しなやかな指が、飾りの付いた柄を握り締めると。
「こんな風に!」
 グサッッ!
 漆黒の瞳に射抜かれ、既に硬直していた男は、「うわぁ!」――叫びを上げ
て目を剥いた。
 突き立てられたナイフは……美悠の横の壁に、深々と刺さり、細かく揺れて
いる。
 男は、その場にしゃがみ込むと、そのまま、動きを止めて手すりに背を預け
た。
「待て! 山尾」
 低い声が響き上がる。
 階段の下まで歩み寄っていた灰色のTシャツ姿、角刈りの若い男が動きを止
めた。
「お前がかなう相手じゃない」
 鉄格子の前で、巨体がゆらり、と立ち上がる。
「しかし、新井さん」
「いいから、下がっていろ」
 近寄ってくる茶のトレーナー姿。確かに、ただ一人異質な雰囲気を漂わせて
いたlike a レスラー……いや、鋭く鍛え上げられた身体は、むしろ、警察か
軍隊関係者を思わせるものか。
 跳ね飛ぶ黒髪の下で、瞳の色が鋭く塗り変わった。革スニーカーの足がゆっ
くりと踏み出し、1歩、2歩――階段を下りる。
 一方、太い腕が中央のテーブルを押しのけながら近づいてくると、「山尾」
に目配せ、うめきを上げる男どもは脇へと――。
「御大の出陣かい?」
 歩み寄りつつ、美悠はいなせに視線を上方へ投げた。
 その角度は斜め45度。間違いなく身長は2メートル近く、体重は100キロ
超か。
「一人で瞬時にこれだけ……大したものだ」
 短く刈り上げられた髪の下で、彫りの深い角張った顔が低く声を発すれば、
美悠も、組み合わせた指に力を込めながら、唇を舌先でチロリ、全身に緩みの
ない色をみなぎらせる。
「アプローズは大歓迎だけど」
 視線を正面から交えたまま、
「相手がこれじゃあね。フヌケ相手に一つや二つ決めたって、少しもbeautifu
lじゃない」
 そして、おもむろに黒いニットの裾に手をかけ、頭から脱ぎ去った。
 艶やかな肩が露わになる。そして、黒のショートタンクトップに引き締めら
れた腹部は、張りつめて完璧な稜線を描き――。
 巨漢の細く黒い目が、かすかに色を帯びた。笑みともつかぬような。
「その意気やよし。そうでなくてはな」
 薄い唇が、今度ははっきりとした色を浮かばせる。
 美悠は両手で首元に乱れた髪をすき上げながら、同じく笑みを返した。
「聞いたようなセリフだね。おやじさん、どこぞの古い拳法マンガの読み過ぎ
じゃない? でっかい馬に乗ってる奴とかね」
「そうかもな」
 短く答えた巨躯は、2歩手前で足を止めた。
「ただね、」
 美悠も足を止める。
「あたしは女だから。実利がないことはしないよ」
「そうか」
 言いつつ、表情はまったく別の言葉を交わし、視線は片時も離れない。
「プライズは何にする? この勝負、あんたが倒れたらね」
「さあ」
 浅黒い肌が次第に紅潮して見える。
 美悠が一瞬、視線を奥の鉄格子、桃子の座る方へ向けると、低い声が間隙を
埋めた。
「負ける勝負は初めから考えていない。それなら、お前が負けたら何をくれる?」
 壁を背に、自然体でこちらを見ている幼なじみ。視線を戻すと、上目遣いに
ニヤリ。
「あたしも、負ける勝負は頭にない」
「だろう」
 巨漢も背後にそれとなく気配を投げる。再び視線が交わった瞬間、伝わるも
のが感度100%、身体に頷きを走らせた。
 決して敵意だけとは感じられない雰囲気。ふ〜ん。面白いじゃない。
「手加減はしないよ! あんたなら死にそうにもない」
「上等。さあ、こい!」
 素早く踏み出されるジーンズの足。鋭いエッジが空に刻まれると、光速の右
ハイ――いや、それは幻影だけで切っ先を散らし、軸足へと落ちて後ろ回し蹴
り、後ろ回し蹴り、そして、
 フッ。
 黒のタンクトップとジーンズのしなやかな姿が、空から消え、沈み込むと。
 茶のトレーナーの足元に旋風、かかとを払うように水面蹴りが放たれる。
 しかし、巨躯は似合わぬ軽やかさで上へとジャンプアップ、事もなげに切っ
先をかわす。
 そして。
 セアッッ!
 太く低く力の込められた息とともに、振り出されるハンマー。
 拳が迫り、ストレート、ストレート、さらに、肩が突き出されると、巻きつ
いて遅れるように繰り出されるブラインドフック。
 すんでのところで身体を反らしてかわすと、重く鋭い風が鼻先をよぎる。
「ひゅう」
 芝居っ気な声を上げると、美悠は口の端で、「やるね」。
 シュッ!
 しかし、鋭い呼吸音を前奏に、間髪入れず繰り出されるは、さらなる拳。
 迫りくる巨躯と共に烈たる圧力を持って、サイクルを上げていく。
 ワンツー、ワンツー、ショートレンジへ入り込み、アッパー、スウェーする
ところへ、さらに踏み込み、ボディへ。
 とっさにガードした左ひじを、重く鋭い衝撃が襲う。
「クッ」
 振動は腕を通じ、身体にまで。
 身を屈めた瞬間、分厚い背中が突然視界に……マズイ!
 とっさ、顔の横に上げた右ひじ。身体を反らした紙一重の距離を、バックブ
ローがかすめた。
 参ったね、これは。ホンモノだ。
 気が付けば、1歩後ろは壁。さて、どうするか。
 正対した眼前、揺るがぬCoolさで立つ巨躯は、背後と合わせて、挟み込む壁
がごとし。
 隙は――頭・肩・腰・足……どこにもない。
 思い巡らす時は一瞬。見る間に細い瞳に兆す黒い炎は。
 来る!
 伸びてきた両手は……、こちらの動きを止め、抱え込むため。下から繰り出
されるに違いないのは、膝!
 わずかに身体を左に逸らし、先に屈み込む。
 取るか、撃たれるか。
 跳ね上がろうとする膝を髪の毛一本先で見切ると、両手で足首を抱え込む。
そして、もう片方の足を、
 うりゃぁ!!
 右足で鋭く払いのけると、
 ドン!
 巨体は響きを立てて固い床に背を落した。そのまま、足首の関節を取り、固
める―――しかし。
 似合わぬスピードで巨体は横へ回転すると、ハンドスプリングで立ち上がる。
 美悠も素早くターンして中央へ位置を。
 そして再び、拳を構え、腰を入れて相対する。
 刈り上げた髪の下で、一条の目が皺を作り、明らかにそうとわかる満足げな
光を見せた。
 美悠の流線型の目も、気持ち上目遣いになって充ちるものを返す。
 強いな、このおやっさん。……でもね。
 ハァッ!!
 ひときわ高く、鋭い声を発して突き出された正拳。アシストブローなし、最
短で胸元を狙った拳が、固い感触に突き当たる。
 それは、分厚い両手の平。グッと握られ、二回りも細い美悠の手首は、瞬時
に関節を決められそうに――。
 フワッ。
 と、自ら身体を前へと回転させ、残った片手を床に、足を天に突き上げる。
 そのまま握られた手ごと股間に引き込み、ふくらはぎで太い首筋を捉えると。
 相手の手首を両手で抑え、肩から首を足全体でかんぬきに決める、三角締め。
 しかし……その豪腕は伸び切らない。いやそれどころか、美悠をぶら下げた
まま、揺らぎすらしない。
 さらに、余った左手が美悠の首筋に伸び――。
 その瞬間。
 あっさりと手を解き、足を地に付けたしなやかな身体が、左へとステップを
踏んだ。
 さっきの膝蹴りの一瞬、そして、今の三角締め。
 イメージがリフレインし、重なる。そうだ、間違いない。
 構えを反転、右足を踏み出し、左手を引く。
 サウスポースタイルから、すぐさま鋭い左ローキック。太い足がガードを取
る。さらにロー、ロー、ローの連打。
 リズムが乗った瞬間、右に大きく肩を動かし、細い目がそれを追った。その
瞬間、疾風が巻き上がる。
 切っ先鋭く孤を描く、閃光の左ハイ。
 しまった――巨漢の目が行方を追った時、すでに足先は太い首元を捉えてい
た。
 強く、深々と。
 2mの巨体がグラリ、後ろへ揺らめく。
 ……しかし。
 すぐにバランスを取り戻し、何事もなかったかのように構え直される茶のト
レーナー姿。
「いいハイだ」
 短く返した角刈りの下の目に、美悠は呆れた表情を投げた。
「タフだね、おやじさん。普通、今ので倒れてるよ。て言うのか、生身相手に
ノーリミッターで蹴ったのは、初めてかな」
 そして、間髪入れず、
「右の目、見えないんだね」
「ああ、そうだ。だが、それはハンデにはならないぞ」
 さあ、と再び巨体が構えを取ろうとした時、美悠の拳は解かれ、ジーンズの
腰の両側に落ちて、しなやかな指に姿を変えた。
「どうした」
 これからが面白いところじゃないか、そう言いたげにウェルカムな構えを見
せるが……。
 No thanks。
 美悠の目は伏せられ、眉はハの字に持ち上げられて、頭がフルフルと左右に
振られた。
 この感じ……もし思った通りなら。
 ケジメを取るのも悪くない。けれど、今は、ね。
「おやじさん」
 構えないまま視線を合わせると、口元に笑み――今度は挑発するようではな
く。
「その目は、元々? それとも、何かの事故?」
「仕事中だ」
「何か……うん、そう……、「実戦」で?」
「そんなところだ。さあ、紅美悠。遠慮など無用、ハンデにはならないと言っ
たはずだ」
 闘いを急かす男に、美悠は再び首を振った。
「わかるけどね、おやじさん……新井って言ったっけ?」
「そうだ」
「……新井さんさ、今日はノーサイドってところで手打たない?」
「何を言う。押し入った方にノーサイドもないだろう」
「まあね……」
 美悠は頭を掻くと、片手で申し訳ないね、軽く拝むように、
「もっともだけど、どうもあたしには、新井のおやじさん、あんたがこんなと
ころでゴロ巻く人間に思えないんだ。まして、あの綾乃ちゃんが使える器にも
見えない。……それは、あたしももう少し、あんたと手合わせしたい、って気
はあるんだけどね……。でも、正直」
 ニヤリと目配せすると、
「勝てるかわからない。もし勝ったとしても、ノーダメージってわけにはいか
ない。そうしたら……、そこのプロっぽいお兄さんも含めて、相手にするのは
キツそうだもの。今日の目当てはFightじゃない。だからさ……」
 拳を前に突き出し、
「ノーサイドにしない? あたしも、そこにいる友達さえ返してくれたら、事
を荒立てたりしないから。きっとその方が、新井さん、あんたにもいいんじゃ
ないかな……」
「面白いことを言う。俺にもいいこと、とは」
 厳しく構えた巨躯が、緊張を緩めるのがわかった。やはり。
「なんて言うのか、感覚でわからない? あんたはフラチな奴らとは違う。…
…この状態、そぐわないんじゃない?」
 がちゃがちゃに荒れた部屋、壁際に腰を落した男たちを見回してから、握っ
た拳をさらに前へ伸ばす。
「だから、今日は勝敗なし。Are you sure?」
 と、唐突に響き上がったのは、低い声。
 ふっ、ハハ、ハハハハハハッ!
 笑い声だった。
 ゴツイ拳が伸ばされ、コツン、一回り小さな美悠の拳に合わせられた。
 そして、後ろを振り向くと、
「桃子さん、出てくるといい」
 格子の中のハウスウェア姿が立ち上がり、鉄棒に手をかける。
 スゥ。
 あっけなく扉は開いた。鍵がかかっている風はない。
 その小柄な女性は、当たり前のようにスタスタと歩み寄ってくると、新井の
横、美悠の目の前へ――。
 グリーンに身を包んだ、小粒な、しかし際立ってクレバーな立ち姿。
 それは、確かに西涼桃子だった。
「まったく、大した娘さんだ、あんた達は」
「そうでも。それに、この子と一緒にされるのは、心外」
 桃子はふふ、親しげに笑うと、
「でも、新井さん、いいんですか?」
「ああ。それに、充分わかった。見込んだ通りだ、こちらの」
「へぇ……。こんなワイルドシングでも……ああ、そうか。それだから、かえ
っていいんですね、新井さんみたいな人には」
 今度は、美悠が驚く番だった。
「おい、ちょっと、桃。どういう……」
 思っていたのと大幅に違う展開。全部が茶番?いや、そんなわけはない。
「ご苦労さま、たいした大立ち回りだったねぇ、美悠」
 ニコニコと丸い顔が見上げる。いつも通りの……いや、時折見せるシニカル
な悪戯っ気まで込みの――。
 そうか……そうだ。なるほど、桃ならあり得る。
 桃子の瞳を見下ろすと、思った通りの表情がそこにはあった。
「それにしても、乱暴過ぎ。大ケガさせたらどうなるか……」
 そこかしこでしゃがみ込み、状況を呆然と眺めている男たちを見遣りながら、
「……正直肝が冷えた、わたしは。少しは手加減しなさいよ、あんたは」
「おい、そりゃあないだろ?桃。一応ねぇ、あたしも……」
「新井さん!」
 と、背後から若い男の声が響き上がった。
「まさか、そのまま解放するつもりですか。それじゃあ、お嬢さまが……」
「いいんだ」
 振り返ると、細身の男はTシャツの肩をいからせ、
「しかし」
「いいんだ、責任は俺が取る。お嬢様にも言っておく……納得はしないだろう
が」
 そして、桃子の方へ視線を返すと、
「さ、桃子さん。行くといい」
 桃子はうん、と頷いた。
「ありがとう、新井さん。……約束は、守るから」
「そうしてもらえるとありがたい。……すまなかったね、怖い思いをさせて」
「ううん、全然。ただ」
 横に並びながら、美悠に視線をやると、
「この子が黙っているか、それはわからないですよ。本当、何考えてるのか、
わたしにもさっぱりな不埒オンナですから。だいたい、今日のことだって、原
因はこれ。わたしとしてはこれに怒鳴りたいくらい」
「おいおい、だから桃、それはないだろ。せっかく助けに来たってのに」
 大まかな状況はわかった気がした。もしかして、余計なお世話だったか……。
 まったく、桃には参るな――幼なじみの秀でた額を見下ろすと、固い感触が
肩に響いた。
 拳で突かれる感触。
 視線を前に向けると、厳つく角張った顔が間近にあった。
「紅」
 低い声に、ん、美悠は頷いた。 
「また、どこかでやれるな。久しぶりに、いい仕合だった……わかるか」
 細い目が真っ直ぐに射る。
 そこに全てが込められていた。
 美悠もああ、と同意を返す。貰った問い掛けに100%の回答を込めて。
「こんどはまっさらでね。あたしも結構、楽しかったよ。新井さん」
 ふふ、新井の薄い唇が笑みを作ると、顎で出口の扉をしゃくった。
「さあ、行こう、美悠」
 桃子が先に歩み出す。
「ん」
 大股で美悠も続き、すぐに肩を並べる。
 そして、勢いよくドアを開けると、小柄なグリーンのハウスウェアの/しな
やかな黒のタンクトップの、二つの背中はあっという間に消えていく。
 まるで、風のように。
 後には、嵐に巻き上げられた、多種多様なむくろがそのままに。
「おい、お前たち」
 新井の低い声が響いた。
「片付けるぞ。これでは、旦那様にお叱りを受ける。さあ、早く動け、すぐだ。
少しは役立ってくれよ」
 そして、一度、ちらと二人が消えて行った扉を見遣ると、色の薄い唇に再び
笑みを浮かべた。
「まったく、たいしたものだ」

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