美悠が突入して20分ほど。
 居たたまれなくなって、公園の一角から飛び出した未知の耳に聞こえてきた
のは、思いがけない声だった。
「……って、じゃ、あのおやじさん、あたしを待ってたってわけか」
「そう。なんかね、今日……ああ、もう昨日なのか……柔道大会で、あんたの
様子を見たらしいのよ。それで、ね」
「しかし、はなから全部見てたとは……どこだよ、監視カメラ。そんなもの、
少しも……」
「素人にわかるように備え付けてあるわけないでしょ。まったく、むこうみず
もいいとこ。信じられないよ、わたしは」
「ま、桃、言うなって。終わりよければ全てよし、だろ? それにしても、と
んでもないマニアだな、あのおやじさん。コワイコワイ。まったく、30男の
執念だねぇ」
「あのね……。あんたの言えるセリフ? 新井さんはホント、真っ当な人だよ。
あのお嬢様の……ううん、葉谷川に雇われているなんて、ちょっと信じられな
い」
 緩やかに着流した緑のハウスウェア。
 そして、隣には黒のタンクトップ姿が並び――。
「……おおっ、寒ぅ。ああ、しまった。あのニット、お気にだったのになぁ。
戻るかな、取りに」
「ちょっと、やめなさいよ」
 振り返りかけたジーンズのポケットをつかみ、引きずるようにこちらへ近づ
いてくる小柄な姿は、見紛いようもなく。
「……あ」
 こちらに気付いて手が振られると、未知も建物の横側、歩道から手を振り返
した。
「桃先輩!」
 桃子と美悠、二人は並んで近寄ってくる。
 大丈夫でしたか!――駆け寄りかけて一瞬、ためらいのようなものが胸に突
き上げた。
「ほら、sweet heartがお待ちだよ、二人も。まったく、とんだドンファンだ
ねぇ、桃も」「はいはい」
 腰を手に身を屈めるスーパーモデルばりの長身に、呆れて頷くクレバーな横
顔――しかし、交わす視線は、柔らかく通い合っているような……。
 辺りは暗闇。
 しかし、風に吹かれ冷気に落ちているはずの空間は、そこだけ暖かく淡く、
輝いて見える。
「未知ちゃん、来てたんだね」
 気が付けばすぐそこ。柔らかな黒髪の下の丸い顔は、いつも通りの……よく
知っている先輩の笑顔。
「あ、はい。……桃先輩、ホントに、ホントに、大丈夫だったんですね」
「うん、なんとかね。ありがと。携帯、聞こえてたんだね……よかった」
 と、肩越しに視線が伸び、道の向こうを見やった。
「雄志」
 同時に、ザッザッと駆けてくる音が近づき、
「桃子、美悠ちゃん。いいのか、大丈夫か?」
 そして、未知の横に並んだ雄志は、門の向こうを心配げに見上げた。
「ああ、オッケーだよ。心配無用」
 少し離れた後ろから美悠の声が響く。続けて桃子が小さく頷くと、
「ごめんね。心配かけて」
 茶のジャンパーの肩が大きく頷き、桃子の腕に手を当てる。
「謝るなよ。そんなんじゃないだろ。とにかく、……ふぅ、よかった」
「うん」
 桃子は柔らかく頷いた。その表情は、ホッとした、と言うより、ありがとう、
と優しさに溢れているような……。
「いい人が助けてくれてね。葉谷川のガードマンリーダーの男性。……話のわ
かる人だったよ。本当は、すきを見て逃がしてくれる予定で」
「そっか……じゃあ、大丈夫なのか、本当に。でも、あのキレたお嬢さんは?
 そうは言っても……」
「うん、それもオッケー。今はいないし、たぶん、新井さんが……今言ったガー
ドマンの男性ね、その人が言ってくれると思う……本家の、あのお嬢様の父親
に。家のメンツにまで泥を塗ることは、しないと思うから」
「そうか……」
 雄志は心底ホッとしたように息を吐くと、桃子の肩をポンポンと叩いた。
「ゴメンね、雄志。心配かけて。わたしらしくなかった……マンションの鍵、
開けっ放しにするなんて。父にもいつも言われているのにね」
「謝るなって。そういう問題じゃないよ」
 再び息を吐き、半歩ほど下がって手を組んだ雄志は、もういつも通りの「雄
さん」に戻っていた。
 そして、また一言二言、何か小さな声で言葉が交わされる。
 見慣れた、映画研究部の部長と副部長の2ショット。桃子への気持ちに気付
く前は、最高の組み合わせだよね、そう思っていた――
 でも、今は。
 何かが胸をよぎる。
「じゃ、美悠ちゃんは?」「そうなのよ、暴れるだけ暴れて、憂さ晴らしじゃ
ないんだから……」
 あっ、と桃子の大きな瞳が上を向き、後ろを振り返った。
 未知も気が付いて、辺りを見回すと……跳ねた黒髪にしなやかな体躯は、い
つの間にか、ずっと向こうを足早に去っていくところ。
「あ、美悠! 待ちなさい!」
 鋭い声が響き上がる。そして、
「ちょっと待っててよ。雄志、未知ちゃん。あの子には、今度こそ言っておか
なきゃいけないことがある」
 緑のハウスウェアが、あっという間に小さくなると、
「こら! あんたは。逃げようたってそうはいかないよ。待ちなさい! 今日
のことはね!」
「そりゃ、誤解だって。桃。あたしはこのカッコじゃ寒いから、速攻で服を買
出しに……。だいたい、救い主に上着一つも供給なしとは、あり得ない!だよ」
 美悠の声が小さく届く。それはもう、躍るように楽しげにも聞こえる……。
「どこの誰が救い主? 災禍の元凶の間違いでしょう! 言っておくけどね…
…」
 桃子の声も、鋭く問い詰めるように。しかしそれは、何一つ飾らず、他の誰
にも発さないような生々しさを孕んで――。
 空は、星だけの闇。遠くからmegalopolisの光がおぼろに照らすけれど。
 美悠と桃子、二人の頭上だけには、輝きMax、目の眩むスポットライトが落
ちているかのよう……。
 もしかして、もしかして。
 未知は、小粒な瞳を目一杯見開いて、二人の姿を捉えた。
 もしかして……じゃない。そうだ、どうして、気付かなかったんだろう。わ
たし。
 胸がカーッと熱くなる。
 それはたぶん、憧れとか、ときめきとか、そんな淡い感情ではなく。
 もっと強い、おそらくは、嫉妬に近い感覚。
 あんなに、強い力で結びついて、自然でいられる関係って……、そして、こ
んなにいつも輝いて見えるのって。
 言葉にするなら……ううん、そんなことできない。したくない。
 ふ…。
 その時、吐息まじりの小さな声が聞こえた気がした。
 横に並んだ映研部の先輩の声。ハッとして隣を見上げると。
 桃子と美悠、二人へと遠く視線を投げ、眩しそうに……でも、どこか寂しげ
に笑みを浮かべている。
 今抱いた想いとリフレイン――強く、確かに。
「もしかして、部長……、雄さん?」
 雄志は少し皮肉めいて笑って見える目元を、ン?と。
 瞬時に視線を斜め上に逸らす表情から、聞こえる。
 ――気付かれたか。
 しかし、すぐに形作られた言葉は、色合いの異なるものだった。
「……未知ちゃん、桃子にアタック中だって?」
「え、……あ、はい」
「美悠ちゃんの影響だって? ……でも、忘れて欲しくないなぁ」
 自分の方を指差し、
「俺のこと」
 そして、ニヤリと笑う。
「え、そんなこと。雄さんに……あ、でもそうなんですよね……桃先輩と雄さ
んは……。わたしって、本当、まったく」
 へへへ、と笑って、ほとんどドキドキしていないことに気付く。桃子と美悠
に気付いた時とは違って。
「じゃ、ライバルですね。わたしたち。負けませんよ、絶対。だって、まだ、
勝負はついているわけじゃないんですから」
「そうだな」
 桃子のステディは楽しげに頷くと、
「確かに、勝負はついてない。未知ちゃんの言う通りだな」
 互いにふふふ、と笑って視線を合わせた時、遠くからエンジン音が響き始め
た。
 やがてそれは、ライトを暗く落した数台の車の姿を取り、ふた辻ほど向こう
で停車する。
 後は、事後処理、ドタバタ、ファニーなひと騒ぎ。
 四人が車に乗り込んでベイエリアを後にした時、東の空は少しずつ白み始め
ていた。

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