午後から始まった披露宴は、次第を追うにつれて盛り上がりを増
して、新郎新婦が一度目のお色直しのためにひな壇を離れる頃には、
すっかりたけなわになっていた。
 結婚式から披露宴まで通しで出席したことなんて、初めてだった
と思う。子供の頃にはあったかもしれないけれど、背広を着られる
年になってからは、友達の披露宴に呼ばれたことでさえ皆無に等し
かった。僕にとって結婚は、遠い未来の出来事どころか、推し測る
ことも難しい、非日常の現象だった。
 だいたい、数年ぶりでやってきた母の実家。式の時から並んだ面
子は、名前と続柄を一致させるのがやっとで、「ほら、これがマサ
兄さんのとこの」とか言われても、思い当たることすらもできなか
った。
 ただ、ケーキカットが終わって、次々とひな壇へ歩み寄った来賓
達に笑顔で応える女性――今日一番の主役だけは、幼い頃から中学、
高校、今の花嫁姿に至るまで、はっきりと表情を思い綴ることので
きる人だった。
 宴が始まってから、時折目をやったひな壇の上。
 煌びやかな金色のかんざしが彩りを添えるかつらの下、白く塗ら
れた顔の中で、眦の下がった流線形の目が優しげに寄せられて。
 銀と赤が鮮やかに調和した着物の袖が揺れ、小ぶりな口元を隠し
て、話しかけた和装の女性へと何事かを囁き返し。
 ひたすらに、注ぎ足されるビールを飲み、料理を口に運び続けて
いた。向こうのテーブルに座る父と母、叔母を除けば、ほとんど言
葉を交わしたことのない人間ばかり。
 あとはぼんやりと宴の進行を眺めることくらいしか、できること
はなかった。
 ベージュの絨毯の張られた披露宴会場は、白銀のシャンデリアに
照らされ続け、集った百人近い来客の誰もが、新しい門出を楽しん
でいるように見えた。
 華やかな雰囲気の中、落ち着いた笑みを浮かべる背の高いスポー
ツ刈りの新郎は、県警に勤める実直な男性だと聞かされていた。
 この港町で生まれ育った同士の結婚は、もろ手を上げて祝福され
る慶事であるのだろう。首都圏のベッドタウンで育った僕にも、そ
れくらいは容易に推測できた。
「なみちゃん、きれいだよなぁ。おまえもそう思うべ」
 お色直し退席のアナウンスと共に、着物の裾を引きながらゆっく
りとテーブルの間を抜けていく菜海(なうみ)さん。
 披露宴の始まりから大声で話し続けていた、名前もうろ覚えな従
兄弟の囁きを耳元にしながら、面長の横顔を見送る。
 テーブルを過ぎる一瞬、出合った視線の先で、黒目がちな瞳が緩
やかで湿ったような笑みを送って見えた。
 僕は少しだけ視線を逸らせ、白く塗られたうなじに目をやってい
た。
 式が終わった後、披露宴を待つ親族の控え室。一人離れた場所に、
着物姿のままで静かに座る彼女と目が合った一瞬。
 いつか見た、そして今も垣間見た瞳と、同じ色――。
 でも、それはやはり気のせいだったに違いない。
 付き添いを従えた菜海さんは、赤を基調の鮮やかな花の散らされ
た着物の背中を見せて、披露宴場から消えていく。
 少し落とされていた照明が明るさを取り戻し、そこかしこで陽気
な話し声が響き始めた。
 ――菜海さんは、僕が憶えている頃からずっと、叔父の家ではど
ことなく異質な場所にいる人だった。
 母の実家に帰る度、やんちゃ盛りの従兄弟達は、年下で街育ちの
僕を、からかい遊ぶのを楽しみにしていた。
 持ってきた玩具を取り上げ、磯に飛び込んでは泳げない僕をから
かい、本好きを「女みてぇ」と言って蔑んで見せた。
 だから僕は、盆が近付いて、この港町に来ると聞かされる度にひ
どく憂うつになったし、滞在している間は、できるだけ従兄弟たち
と一緒にならないように、離れで本を読んだりしていた。
 でも、そんな中で、実家の四人兄弟の一番下、僕の二つ年上の
「なみ姉さん」だけは、気が付くと傍にいて、何かと声をかけてく
れる人だった。
 『面白そうな本だね』『アイスでも食べようよ』『兼雄くんって、
頭いいね』『私も一度は東京に行ってみたいなぁ』。
 彼女自身とても頭の回転が速い人で、中一の夏に会った時には、
中三なのにてきぱきと法事の切り回しをする様子に、とてつもなく
大人に見えたことを憶えている。
 そして、夜、一人離れて花火をかざす僕の横に並んで、
「打ち上げ花火と線香花火、どっちが好き?」
 淡いピンクのTシャツの首筋から萌(きざ)した、初めての香り
に戸惑って答えに詰まる僕に、
「私は普通の花火が好き」
と言って、七色の火花を散らす手持ち花火を振り回して見せた。
 口元の笑みとは裏腹に、どこか愁いを秘めた瞳の色。その色は、
二年ぶりに会った中三の夏へとそのまま繋がっている。
 その年は、親父の仕事の都合で母の実家に行くのが遅れ、内海を
望む小さな港町を訪れたのは、夏休みも終わりに近付いた頃だった。
 あれほど厭わしかった従兄弟達も、いつのまにかそれなりの年頃
になって、上の二人はすでに家を離れ、残りの一人も姿が見えなか
った。
 ただ菜海さん一人が、車でやってきた僕たち家族を叔父さん叔母
さんと共に出迎え、少し照れたように俯いて、「久しぶりだね」と、
長く伸びた髪を風に揺らしていた。
 ブルーのストライプの襟なしシャツを着た彼女に、僕はどう挨拶
していいのかわからなくなってしまっていた。
 二年前に一瞬萌したものが、今はほとんど全てになっていて、僕
は初めて女の人を「綺麗だ」と思った。面長な顔の中で優しげに揺
れる瞳の奥は底が見えなくて、不用意な言葉を発すれば、小ぶりに
尖った唇から思いもかけない答えが返ってくるような気がした。
 でも、彼女はとても親しげだった。荷物を持って車から下りた時
には、僕の肩口を指先でつついて「背、高くなったね」と少し見上
げ加減になって微笑んでいた。
 言われて初めて、頭半分ほど下に菜海さんを見下ろす形になって
いることに気付いていた。そして、柔らかいふくらみのありかを想
わせる胸元が視線のやり場を混乱させて、
「ここんところで、急に伸びたのよね。部活のせいかもね」
と、先に車から下りていた母の言葉に、「うん、急に」と短く肯く
のが精一杯で、母屋へと続く石段を、菜海さんの背中に続いて上っ
ていくほかなかった。
 その時の僕には、菜海さんの何かもが、謎めき、捉え切れず、そ
れでいて心離すことのできない磁力に溢れていた。
「今、こんなの読んでるのよ、知ってる?」
 潮の香りが届く二階の部屋、棚から取り出された本はモーパッサ
ンの「女の一生」だった。
 題名しか知るところがない、昔の外国文学。曖昧に首を振る僕に、
「だよね、中学生だもんね」と、長い髪を揺らしてからからと笑っ
た。
 ふざけて遊んだ二年前までの菜海さんが戻ってきたようで、何か
が違った。
 柔らかい緑で統一された古い部屋は簡素で、余分なものは何も置
かれていなかったけれど、窓際に置かれた小さなアンティークや、
可愛らしい額に飾られた写真が、僕の知らない何かを醸している気
がして、息が詰まるほどだった。
 何を話したかはよく憶えていない。
 ただ、気詰まりを感じる一方で、今まで知らなかった興奮に近い
感情が、話すごとに昂まっていくのを感じていた。
 「スイカ食べよ」――煤けた畳の上でテーブルを囲んで、尖った
切れ端を運ぶ口元。胸が高鳴って止まらず、身体の調子がおかしく
なったのかとさえ思った。
 それが、「恋」という感情だったのか、今でもわからない。
 ただ、あの時の菜海さんは同級生の女子には決して感じることの
なかった柔らかな雰囲気に溢れ、伸びやかなくるぶしも、すんなり
とした腕も、細いうなじも、海沿いのこの街で暮らしているとは思
えないほどに白く、輝いて見えた。
 短い滞在の二日目、出掛けるはずだった港町の花火大会は、母の
同級生達がやってきて始まった酒宴でうやむやになり、僕は離れの
板張りの廊下にうつ伏せになって、本のページをめくっていた。
 菜海さんが貸してくれた本は、正直、意味がわからなかった。と
言うより、どこをどう読んでいいかわからなかった。
 ただ、文字を流しながらパラパラと捲ったページの最後、「人生
はひとの思うほどよくもなし悪くもなしですわ」の一文が何となく
心に残った。
 そうだろうか、そんな風に言うのは寂しくないだろうか。もっと
楽しく考える方法だってあるはずなのに――そんなことを考えた時、
扉が開く音がした。
 廊下を軋ませながら近付いてきた菜海さんは、「読んでる?」と
口元に笑みを浮かべながら、僕の傍に腰を下ろした。
「ごめん。よくわかんないよ。難しいみたい」。答えると、「そう
だよね。「女」の一生だもんね」と少し面白そうな声で返し、差し
出した本を受け取った。
 うつ伏せの顔の横、投げ出された足の間近さ。僕も反射的に膝を
抱え込んで、少し離れた場所でガラス戸の外を見上げていた。
 そのあと、取り止めもなく話をしていた。男子と女子、中学と高
校の違い、都会と田舎の差、お互いの親のこと。
 やがて、ドン、ドンと響きが上がり始め、「花火がよく見えるよ
うに」廊下の電気が消された。
 木枠にはまったガラスの向こう、家々の合間に僅かにのぞく海の
上で、小さな花が開いては消えていった。けれど、瞳は儚い輝きを
映すだけで、心には何一つ留まっていなかった。
 何を話していたのだろうか。
 結局は「男」と「女」を基本にした話題から逃れることはできず、
唐突に斜め後ろから響いたのは、直截な問いかけだった。
「兼雄くんも、時々自分で、するの」
 ――低い声だった。
 それまでの話の落ち着き処のなさに、ガラス戸にくっつかんばか
りになっていた僕は、ほとんど戦慄に近い感覚に襲われて、抱え込
んでいた膝を一層引き寄せていた。
「え、うん。でも、ほんとに時々だから……」
 嘘じゃなかった。自慰を覚えたのは、まだ一年も経たない去年の
冬。時々どうしようもなく股間に手を持っていくことはあっても、
終わった後はいつも何処かで罪悪感が残る頃だった。
 僕の答えに、すぐに返事はなかった。そして、小さな息遣いのあ
った後で、
「そうだよね、誰でもそうだよね」
と、掠れた声が聞こえた。
 誰もいない離れ。電気の消えた板張りの廊下。かすかに聞こえる
母屋からの声。ガラス戸の向こうの光り輝きと、花火の弾ける低い
音。
 今すぐにこの場所から逃げ出したいと思った。長い沈黙が訪れ、
背中では服の擦れるような音と、湿ったようなため息。
 でも、周りの空気が身体を押し潰すようで、指の一本さえ動かす
ことができなかった。
「なに、してるの」
 辛うじて尋ねた問いに、
「何でもないよ」
 一層掠れた声が短く響いた。
 頭の中で血の流れる音が聞こえるような気さえした。歯が自然に
食いしばり、目をきつく閉じた。それでも、腰の辺りで何かが蠢き、
それが何かを教えようとしていた。
「菜海さん……」
 何とかもう一度口を開いた時、苦しげな声が聞こえた。
「私も、おんなじ……」
 発作的に後ろを振り向いた。そして、暗がりに映った姿に、その
場から逃げ出したくなった。
 淡い光に照らされた菜海さんの手は、ジッパーの下がったパンツ
に差し入れられ、もう一方の手は、ぴったりとしたTシャツの中で
ゆっくりとした動きを繰り返していた。
 長い睫毛が被さり、薄く開いた目が、七色の光に浮かび上がって、
僕の瞳を捉えた。唇を強く噛み締めると、腰の奥に兆しているもの
が何か、はっきりと意識した。
「兼雄くんは、どうなってる……」
 僕の心を盗んだように、菜海さんが切なげに呟いた。しかし、身
体の昂まりとは裏腹に、怒りに近い怖れが湧いてきて、強い声で言
ってしまった。
「やめなよ、なみさん!」
 でも、まったくの本心からではなかった。それは、Tシャツから
抜き出された手が僕の腕に触れた時、誘い込まれるように部屋のふ
すまを開けていたから。
 あとは、息の乱れと、指先の感触、そして、時折光る花火の輝き
に、白い隆起が浮かび上がっていたことを鮮明に憶えている。
 無言で導かれた指の先は、湿り気を帯びていて、ただ触れている
だけの傍らで、彼女の手が激しく動いていた。
 苦しげに寄せられた眉根と、閉じられた目。そして、小さな口元
からは、喘ぎに近い吐息が漏れ出していた。
 無言でたくし上げられた胸元は、添えられた手で形を変え、頂き
ではせり出した突起が影を作っていた。
 全てがあまりにも間近で、まともに捉えることができないほどの
衝撃に溢れていた。
「あぁ」 
 吐息混じりの高い声をはっきりと聞いた時、潮が腰から足の間へ
と集まって、これ以上どうしていいのかわからなくなっていた。
 もし、今自分も触ったら、一気に達してしまうかもしれない――
途方もなく恥ずかしいことに思え、再び逃げ出したい気持ちが兆す
のを感じた瞬間、菜海さんの身体が少しだけこちらへと寄せられた。
 そして、伸ばされた手が、僕のそこを包み込んだ瞬間。
 暴発し、噴き出した体感は、今も昨日のように思い出すことがで
きる。
 身体中を快美感だけが支配して、何も考えることができない。下
半身が弾け、通り過ぎる熱さが時間さえ止めてしまう――。
 何が起こったかを自覚し始めた時、菜海さんの足の間で挟み込ま
れていた手が、細かい震えを感じ取った。それは、しばらくの間続
き、終わりに、弛緩したような吐息が残った。
 まだ低い打ち上げ音は続いていて、会話の閉じた狭い部屋には、
淡い光が注いでは薄れていた。
 次の日の朝、帰路に発つまで、菜海さんと言葉を交わすことはな
かった。見送りに立つまで、彼女は僕の前に姿を現さなかったし、
僕も自分の気持ちをどう扱っていいかわからなかった。
 車のドアを閉めたウィンドウの向こう、黙って手を振っていた彼
女の様子を憶えている。落ち着いた静けさに、少しの茶目っ気を帯
びた、いつも通りの印象。ただ、黒目がちに細められた瞳だけは、
緩やかで湿ったような笑みを浮かべて――。
 それからも、何度か菜海さんと行き会うことがあった。でも、ま
ともな会話になることは一度もなく、離れて暮らす親戚同士の、当
たり前の挨拶を交わすだけだった。
 そして、ここ数年は、この港町を訪れることもなくなっていた。
 外で煙草でも吸おうか――新郎新婦が退席し、解け始めた雰囲気
の披露宴場を出た。回廊型になったロビーは、巨大なシャンデリア
が下がった吹き抜け構造になっていて、淡い紫の床敷きが高雅な雰
囲気を醸している。
 広くなった一角まで歩き、ソファに腰掛けようと腰を屈めた時、
見覚えのある顔が小走りにやって来るのに気付いた。
 小柄な紅色の和服姿は、横を通り過ぎかけて、僕の姿に気付いた
ようだった。
「あ、かっくん。ちょうどよかった」
 小さな白い箱を帯の前に抱えた丸顔の女性は、菜海さんの母親、
幸枝叔母さんだった。
「どうしたんですか?」
「大変なことになっちゃって」
 叔母さんは、状況を勢いよくまくし立て始めた。どうやら、衣装
屋さんの手違いで、花嫁用の髪飾りが届いていないらしい。今から
急いで店まで取りに行くので、もしお色直しに間に合わないなら、
とりあえず都合した箱の中の代替品で済ませておこう、という話だ
った。
「叔母さん、すぐに車でひとっ走り行ってこなきゃならないから、
この箱、衣装部屋まで持って行って。着付けの先生がいるはずだか
ら」
 そして、僕の手に無理矢理箱を押し付けると、やってきた方へと
戻って行ってしまった。
 参ったなあ――出しかけていた煙草をポケットに戻すと、ちょう
ど宴場から出てきた給仕の女性に、花嫁用の衣装部屋の場所を聞き、
エレベーターで階を上がった。
 そして、緩やかにカーブした絨毯敷きの廊下を歩き、別棟に入る
と、教えられた通り、曲がり角に「ドレッシングルーム」の矢印が
あった。
 細い廊下に入り、白に金があしらわれたドアを右手に歩いていく
と、三つ目の部屋の壁に、菜海さんの名前があった。
 とにかく、着付けの人を呼び出して、さっさと箱を渡して戻ろう、
自分に言い聞かせながらドアを叩いた。
 しかし、返事がない。
 もう一度、手の甲で強くドアを叩いた。
「はい」
 確かに聞き覚えのある声が、部屋の中から小さく響いた。
 どうしようか、戻ろうか。
 一瞬、足が竦むような感覚があったけれど、着付けの人に渡せば
済むことだと思い、ドアをゆっくりと押した。
「……兼雄くん」
 見えてきた部屋の中は思ったよりずっと狭くて、散らばった衣装
箱の奥に、彼女は座っていた。
「すいません」
 僕は、目を合わせないように軽く頭を下げると、白いレースが広
がった足元だけを見ていた。
 着付けの人は見当たらない。どうやら、菜海さん以外は誰もいな
いようだった。
「……これ、代わりの髪飾りだそうです。叔母さんは本物を取りに
行くそうですから」
 ドアの脇に箱を置いて、一歩も踏み入らないまま部屋を後にしよ
うとした時、はっきりとした声が僕の背を引いた。
「待って、兼雄くん」
 なぜだろう、ウェディングドレス姿を見るのが怖かった。
 でも、今、少しハスキーな声に呼ばれて顔を上げた先に座ってい
たのは、この世で一番美しい女性だった。
 肩口から胸元が透けたレースになった白いドレスは、服のことな
ど何もわからない僕が見ても、華やかな清楚さに溢れていて、眩し
いほどだった。
 そして、何より、薄いピンクを頬と唇に引いた菜海さんの表情は、
穏やかな輝きに満ちていて、僕は、馬鹿げた怖れを一瞬でも抱いた
ことを悔いていた。
「ありがとう。でも、無駄になっちゃうかも。ほんと、母もおっち
ょこちょいなんだから……。着付けの先生も、今さっき車で行った
ばかりなのよ」
「そうだったんですか」
 半開きになったドアの前で立ち尽くした僕は、このまま下がるべ
きか、もう少し菜海さんと話すべきか迷っていた。
「写真も撮らなきゃいけないし、困っちゃった」
「何かできること、ありますか?」
 菜海さんはゆっくりと首を振った。優しくて、少し茶目っ気の混
じった黒目がちな瞳は、昔の彼女と少しの変わりもなかった。
「その内、誰かが来ると思うから。……ね、兼雄くん、中に入って。
少し話、しよ」
 一瞬ためらいが兆したけれど、僕は狭いドレッシングルームに入
り、勧められた壁際のパイプ椅子に腰掛けた。
「すごい格好でしょう。身体を動かしづらくて困っちゃう」
 両脇で結った髪を揺らして、菜海さんは屈託なく笑った。僕がお
ぼろげに花嫁なるものに抱いていた緊張感や満ち溢れるような幸福
感はどこにも見えず、そこにいるのは綺麗な衣装を着ているだけで、
数年前の菜海さんそのもののようだった。
「一度も声かけてくれなかったね。私、これが兼雄くんだったよね、
って何回か思い直しちゃった」
「え、うん。何だかペースが掴めなくって。結婚式なんて、初めて
だったから」
 自然にくだけた話し方にすることができた。どうしてか、こうし
て話していられることが嬉しくて、胸の奥が熱い。
「そっか……。でも、カッコ良くなったね、彼女もよりどりみどり
でしょ。東京の大学に行ってるんだよね」
「ううん。僕なんか、まるっきり目立たないよ。派手な奴は凄いか
ら」
 嘘ばっかり――笑った後で、僕の通っている大学の名前を言った。
名前だけでころり、でしょ、と。
 確かに、そうかもしれない。でも、欲しいのはそんなものじゃな
かった。多分、菜海さんのような……。
 話しながら考えかけて、何て馬鹿なことを連想しているのか、と
思い直していた。今まさに、式を挙げている人だと言うのに。
「どっちかって言うと、ネクラ系かもね。相変わらず」
 自嘲気味に笑った僕に、菜海さんは口をへの時に曲げた後で、静
かに言った。見えた瞳の色は、確かに、今日、そしてあの時見たも
のと同じ、穏やかで湿った笑みの浮かんだ――。
「ダメだよ、兼雄くん。自信持てば、兼雄くんは何でもできるんだ
から。誰よりカッコ良くなれる人だよ」
 まったく、買い被り過ぎ。笑って答えた僕に、菜海さんは少し哀
しそうな顔をした。そしてその後、お互い言葉が見つからなくなっ
て、沈黙が続いた。
 どうしてそんなことを尋ねただろうか。
 どうにか気詰まりな雰囲気の切れ端を掴みたくて、口を開いてい
た。
「菜海……、なみさん、今日はやっぱり、嬉しい?」
「あ、うん。そうね。やっぱり、今日は「ヒロイン」だから」
 視線を落として笑った表情は、「嬉しい」と呼べるものではなか
った。もっと落ち着いた、何かを認めるような感覚のものに感じら
れた。
 そんなことを尋ねたのは、少し寂しげにも見えた表情のせいだっ
たのかもしれない。
「……愛してる? 旦那さんのこと」
 自分でも驚くくらい低く、真剣な調子になってしまっていた。本
当は、もっと茶化して聞くはずだったのに。
 僕の顔をまじまじと見詰めた後で、菜海さんは目を伏せ、静かに
言った。
「いい人よ。……とても」
 そして、大きく息を吐いた後で、口元に笑みを浮かべながら言っ
た。
「ね、今日は家の方に泊まっていくの?」
 たぶん、と肯く僕に、
「今日ね、花火大会なんだ。もし良かったら、見て行ってね。最近
は数も増えたみたいだから」
 唐突な内容に、どう応えようか迷う肩口で、ドアが叩かれる音が
響いた。
 はい、どうぞ――明るく答える声で、菜海さんとの会話はそれま
でになった。入ってきた着付けの人と、叔母さんの笑い声混じりの
言い訳話で狭い空間は一杯になって、僕は静かに部屋を後にした。

 そして、夜。式は滞りなく終わり、僕は、菜海さんの実家で、夜
空を見上げていた。
 離れの廊下で、後ろ手を突いて足を投げ出し、一人きりで。
 開け放った引き戸の向こう、母屋からはにぎやかな話し声が響い
てきていた。
 ボン!
 折り重なる屋根の向こう、僅かにのぞく海の上で光が弾け、低い
音が届く。
 何十発かの花火を見送った後、僕は投げ出した足の下、砂利のひ
かれた黒い庭土を見下ろしていた。
 今、空に開く打ち上げ花火を頭上に、中一のあの夜、この場所で
かざしていた手持ち花火を思い出す。
「打ち上げ花火と線香花火、どっちが好き?」
 あの時、菜海さんが問い掛けた意味が、何となくわかるような気
がした。
 そして、目を伏せて土を蹴った時、遥かな海の上に、激しい光が
弾け始めた。
 華々しく散る、仕掛花火の万色の輝きだった。