オレは、煙ににじむネオンサインをぼんやりと見つめていた。
 ビールの銘柄を象った赤と緑の輝きを透過させながら立ち昇るタ
バコの煙が、陰影を作りながらバーの狭い空間を流れ、薄れ消えて
いく。
 靄がかかったようで、うまく焦点が合わなかった。目も、耳も、
頭の中も。
 一つ置いた席で会話を交わす三人連れは、学生だろうか。楽しげ
な響きが曖昧に耳を抜けていくが、具体的な言葉はほとんど頭に留
まらない。
 細長く狭いカウンターの中、奥まって影になった厨房からは、フ
ライパンの鳴る音と、何か香ばしく焼ける匂いが漂ってくるが、そ
れもまた、あっという間に霧散していく。
 少し、酔ったのかもしれない。
 ロックグラスの横に置かれた水を干すと、肩越しにウインドウを
振り返る。
 背中に広がる全面ガラスのウインドウは深夜の街へ開いていて、
大通りを行き交う車のヘッドライトと街の灯りに、背中を丸めて歩
み去る人々の背中がどこか儚げに思える。
 風の届かない、一段高い場所から見下ろしているからだろうか。
 馬鹿な事だ、オレだって、帰る場所もなく、この狭いショットバ
ーで飲んでるってのに。
 勢いよく歩くライトカラーの背広、優雅に肩を揺する銀のフェイ
クファーのコート、ポケットに手を突っ込んだ上半身を屈める暗色
のブレザー、様々な色合いの姿が、ウィンドウ越しの眼下を過ぎて
いく。
 そして、親しげに腕を組み合わせたおそろいのブルゾン姿が右手
からやってきて、見下ろした頭から背中になって左側の坂の向こう
へ消えていく。
『ね、いいよねぇ。あたしも、あんな風にしたいなぁ……』
 鼻にかかった声が頭の奥で鳴って、オレは息を吐いた。
 目の前に漂ってくる濃い色の煙。
 オレも、一本吸おうか。
 カウンターに向き直って胸ポケットからケースを取り出すと、軽
く振って飛び出した一本を口に――
「空いてるじゃない。おかわりは?」
 口元に飛び出してきたライターが、紅い火をかざした。
「あ、ああ。今日は少し飲み過ぎかも」
 視線を上げると、縮れたアフロ風のパーマが目立つ面長の顔が目
の前にあった。
「……そう?」
 細い指先がオレの席の前に立ててあったオーダー表を取り上げる
と、
「全然じゃない。まだ三杯だよ。マサくん、風邪でもひいてる?」
 目尻に小皺を寄せて、少し悪戯っぽく笑う。
 こんな表情をする時、この店のママは年よりずっと若く見える。
そう、オレと大差ない年の頃に。
「なんかね、調子出ないってのか。……でも、もう一杯貰うよ」
「何にする? 今日は特別なのが……」
 ――じゃ、ごちそうさん。
 その時、一つ置いた隣に座っていた三人組みが立ち上がった。は
い、ありがとう――黒く塗られたアイラインの中で大きな瞳が横に
流れ、緑のセーターが背中を向ける。
「あ、俺達もしめて」
 奥からも声がかかると、会社員風の二人も会計を済ませ出て行っ
た。
 さっきまでぼんやりと見ていたネオンの隣に浮かぶデジタルの表
示は十二時を超えていた。客が引けるのも当たり前、もう終電の時
間帯だ。
「さっき、何か考えてたでしょう。マサくん」
 戻ってきたママが、乗り出して客の残していった皿に手を伸ばし
ながら、紫色の唇の端に笑みを浮かべた。
「また、ぐるぐる昔のこととかじゃない?」
 オレは曖昧に頷く。客の様子をそれとなく観察している事、いつ
もながら感心混じりの驚きを憶えてしまう。
「ふーん、じゃ、今日はとことん聞いちゃいましょうか?」
 そして、席の数が十にも満たないうなぎの寝床のような店内を振
り返ると、
「何だか、ちょうどお客さんも引けちゃったみたいだしね」
 言って、逆さに並んだボトルに填められたコックに手をかけた。
「……シングル? ダブル? 奢るよ」
「あ、いいって、ママ。結構きちゃってるしさ」
「ほら、そういうこと言わないの。はい、ダブルね」
 ロックグラスに注がれた琥珀色の輝き。視線を落として苦笑しな
がら受け取ると、口を付ける――その瞬間、軽やか、でもどこか深
いモルトの風味が喉の奥に広がった。
「……あ、うまい。何これ?」
「いいでしょ?」
「へぇ……、スコッチ、じゃないよね? カナディアン?」
「当たり! さすがだね。……ほら、どこが「きちゃってる」の?
 味わかってるじゃない」
 ママは、特別に取り寄せたと言うその銘柄について一くさり話す
と、自分もグラスを一つ取ってウィスキーを注ぎ、カウンターの向
こう側に回って壁のスイッチを押した。
「ママ、ちょっと早くない?」
 オレの問いかけに、どうせ火曜だからもういいのよ、あとはマサ
くんの貸し切りね――ウィンドウの外のネオンも落として、オレの
隣にスッと座った。
「さて、じゃあ白状させちゃおうかな、今日こそは」
「……いいって。もうだいたい話したじゃない。面白い話じゃない
し」
 煙に満ちた空間にいたにも関わらず、肩口から立ち昇るツンとし
た香水の匂い。オレはグラスに口をつけると、さっき頭の中で鳴っ
たばかりの声を軽く反芻していた。
「そぉう?」
 ママも軽く唇を湿らせて、取り出した煙草を口にした。オレは、
ライターを擦ると火をつける。
 さっきまで聞こえていなかったスピーカーからの音楽が静かに広
がり始めて、オレもまた煙草を一本、口にした。
 時間がゆっくりと過ぎていく。天井の電灯と、ウィンドウからの
街の灯りに照らされたほの暗いカウンター。こんな夜が、前にも一
度あったような気がする。
 何曲かが流れ、繊細な女性の声がフェードアウトすると、カント
リー調のメロディが始まり、少し野卑た調子の男性ボーカルがかぶ
さった。
「……あ、ジョン・フォガティだね」
 煙を顔の前に散らしながらママが呟くと、オレは頷いた。
「雨を見たかい、……CCRだっけ?」
「うん、そう」
 言って、微かに笑った。
 その懐かしいように細められた瞳の輝きに、いつか聞いた身の上
話を思い出す。
 米軍基地のある街に生まれて、幼い頃から洋楽の鳴り続ける場所
で育ったこと、そして、米兵相手のバーを経営していた母と、「父
親」のこと……。
 オレは、残っていたカナディアン・ウィスキーを飲み干すと、マ
マにグラスを示した。
「もう一杯、いい? もちろん、今度はちゃんと注文で。……あ、
いいよ、自分で注いでくるから」
 自分のことは、もう、何度か話したことだった。
 オレの母親は貞淑には程遠い女で、仕事で忙しい親父をよそに、
男をとっかえひっかえするのが日常だった。
 時には昼間から見知らぬ男を家に入れて、居間でTVを見たり、酒
を飲んだり。特に親父のいない夜には、階下から妖しげに秘められ
た様子の会話が聞こえ、最後には耳を塞ぐほかない露わな嬌声が響
き渡ることもたびたびだった。
 小学校に上がるか上がらないかの頃からそんな環境で育ったオレ
は、異性関係というものにひどく遠い感覚しか持てず……、いや、
「性」そのものに違和感を抱き続けてきた。
 それは二十代半ばを過ぎた今でも変わらないし、反応すべき肉体
も、心も、ほとんど解けることがない。
 そして、そのことにかえって安堵感を憶えている。強い思い入れ
なしに人と付き合えることに。
 これは果たして、育った環境だけが原因なのだろうか。営業のよ
うな仕事をしても、浮き沈みせず淀みなく業績を上げることのでき
るオレは、初めからこういう人間だったのかもしれない。
 断片的には何度か話してきた過去を辿った後で、オレは一度大き
く息を吐いた。
 グラスの中身はまた空になりかけていて、耳ではどこか懐かしい
音が鳴り続けていた。
 でもそんな日々の中、たった一度だけ、心を揺らさずにはいられ
なかった表情がある。ほとんど高校には出てきていなかった、真っ
黒に焼いた顔とおんなじ色のアソコに違いないだろ、その隠語で呼
ばれていた同級生、笹谷博美――ヒロの開けっぴろげで陽気な顔だ。
「ガングロ、って奴だよね。もう、十年も前だったっけ」
 ママは、いつのまにかサーバーから外してきたボトルを持ち上げ
て、オレのグラスに注いだ。
 決して整っているとは言えないそばかすばかりの顔が蘇り、言葉
に変わっていく。
 ヒロと同じクラスになったのは、高校二年の時だった。
 何がきっかけで話し始めたのかはもう覚えていない。委員会が同
じになって、「出て来いよ」と電話をかけた時からか、体育祭で三
人四脚のパートナーになったからなのか、偶然座席が前と後ろにな
ったせいなのか。
 ヒロの家族も、オレと同じように……いや、オレ以上に「壊れた」
状態だった。
 その会社の名前とは裏腹に、社会道徳とはかけ離れた業種に携わ
るヒロの親父は、幼い頃から彼女をおもちゃにしてきた。時に猫可
愛がり、時に強圧的にしつけ、後には、性の対象として組みしだき
……。
「人とどうやっていったらいいのか、よくわかんないんだ」
 ヒロは、そんなことを言ってはくるくると長い髪を指に巻いてみ
せた。
 お世辞にも可愛いとは言えない容姿なのに、その首の傾げ方に横
目遣いの視線、添えられた手とそこはかとなく空いた胸元は、おそ
らく普通の男にならば、何かを感じさせるものだったのだろうと思
う。
 でも、あの頃のオレには血の通った人形が不可解な姿態を作って
いるようにしか感じられなかった。
 よく、学校の横を流れる川原沿いの遊歩道を二人で歩いた。
「終わってるカップル」――そんな陰口が叩かれているのは知って
いた。でも、オレ達の関係はそんなものじゃなかった。
 肩を並べ、時には小突きあったりしながら、ヒロのつらつら話を
オレが聞く。そして、街に繰り出してメシを食べたり、カラオケに
行ったり。ヒロ好みの男が見つかればその場で別れて、また学校に
顔を出した時に、事後談を聞く。
「こういうの、なんてんだろうね。マサちんの言い方なら、おんな
じ穴のむじなってのかな」
 昨日の男のアホさ加減を笑いながら、不ぞろいな歯でカカカと笑
って見せた顔が忘れられない。
 その頃にはオレの母親は親父と離婚して、ずっと若い「後妻」の
ような女が家に出入りするようになっていた。
 しかしそいつも、暇があればオレに色目を使うような、どこも変
わり映えのしない「オンナ」だった。
 頻繁に訪れるようになったヒロの住み処は、都内有数の繁華街の
入口、造りばかりは立派なビルの四階と五階にあった。言うまでも
なく、親父の経営する会社と同じ棟の……。
 調度とは裏腹に荒れ放題になった居間の張りだし窓からは、上下
三車線の車道と綺麗な並木が見えて、オレとヒロはアルコールなど
を片手に、煌びやかな光の中、人が縦横に行き交うさまを見下ろし
たりしていた。
 それは、並木に掛けられた金色のイルミネーションがタイル張り
の歩道に光を投げていて、いつにも増して、肩を寄せ合ったカップ
ルが目をひく夜だった。
「いいよねぇ。みんなLOVELOVEで。ね、あたしもあんな風にしたい
なぁ……」
 張りだし窓を半分開けて、ヒロの茶色の髪が冬の風に吹かれてい
た。そんなことをできる相手はなく、身体を使わず言葉と心で思い
を繋ぐのに、手がかりの一つも見えないヒロなのは、オレもよくわ
かっていた。
「そうだよな。あんなのもいいかもね。ベタベタ、LOVELOVE。ん、
ヒロ、あれ見ろよ。ほら、公然ワイセツだよ」
 並木にもたれた二人組みが、アンティークな街灯の下で手と足を
絡み合わせて唇を貪り合っている様が小さく見えた。
 オレは、露わな太腿を晒してヒロが腰掛けた張り出しに腕を組み
乗せて、いかにもな格好のカップルが絡み合う様子を眺めていた。
「……あれくらい、あたしもしたことあるけどね。もっと、過激な
奴も」
「へぇ……。思いっ切り本番とか?」
「うん、まあねぇ。ちょっと入った路地のとこで、おしゃぶりとか」
「はあ〜。メチャクチャ恥かしくない?」
「う〜ん、まあね。やってる時は、アタマいっちゃってるからね。
そこにあるの、チンチンだけって感じ」
 一しきり絡み合った二人連れは、街の灯りが溢れる方角へと消え
ていく。
「でも……いいよね。何だか……」
 夜の通りに次々と現れては歩み去っていく背中。その三組に一組
は、二人連れだった。当たり前だろう、見下ろした通りは都内でも
有数の恋人通り、そして、その日はバレンタインだった。
「ね、マサちん」
 腕の上に顎を乗せたオレを見下ろすと、ヒロは言った。
「あたし、ヒドイ奴? マサちん、ヤにならない? 友達やめたく
ならん?」
「どうして」
 オレはヒロの細い目を真っ直ぐに見上げた。
「だってさ、あたしバカだし、エロしかできんし。こんなオンナと
いても、面白くもなんもないでしょ」
「何言ってんだよ、お前は」
 後にも先にも、オレが「お前」なんて呼べた人間は、ヒロしかい
なかった。
「オレ達、超世紀末カップルだろ」
 校内で聞いた自分達に関する噂をすぐさま挙げて、悪態混じりに
笑い飛ばしたりしながら、その後も、イルミネーションが点滅する
通りを見下ろしていた。
 どういうきっかけだったかは覚えていない。
 外面だけはカッコつけなあいつらの悪行を並べたてているうちに
自然にそうなっていた気もする。それとも、はやりのドラマの話か
ら始まったような記憶もある。
 いつのまにかヒロもオレの隣で組んだ腕の上に顎を乗せていて、
耳元に息がかかるほど近くに唇があった。
「……マサちん、してあげよっか」
 太腿に手が触れて、顔がこちらを向いた。
 濡れた声だった。時々、うまくいった彼氏とのエロ話をする時の
ように。
 オレは、ゆっくりとヒロの方を向いて、彼女を見つめた。
 ちょっと出っ張った顎、だんご鼻、細くて吊り上がった目がひど
くアンバランスな顔を。
 その中でただ一つ、黒い瞳の中に弛まない、強い光があって、そ
の色を認めた瞬間、腹の下に引き締まるような感触が兆した。
 少しだけ、胸の鼓動が早くなった気がした。
「気遣うなって、お前は。いらんいらん」
 鼻息混じりに言うと、下半身の違和感は淡く散って、オレは何と
なくホッとした気分を感じていた。
「うん……」
 すぐに太腿に当てていた手を引っ込めて、目を逸らし伏せた表情
を目前にした気持ちは、どうにも形容しにくいものだった。
 今でも、それが何だったのか説明する事ができない。
 ただ、どこか切なくて悲しくて、なのに、辛くはなかった。
「ね、見て見て、マサちん」
 突然立ち上がったヒロは、出窓に掛けてあったレースのカーテン
をブチブチと引きちぎると、身体に巻き付けた。
「ほら、ウェディングドレスみたいでしょ」
 細かい刺繍の施された白いレースを巻いた華奢な姿は、確かにド
レスに見えなくもなかった。
 オレは、にやっと笑って立ちあがると、傍らのテーブルの上から
丸く白い布地を引っ張り取った。乗っていた青地に赤の紋様の細長
い壷が、絨毯の上にゴロゴロと転がり落ちた。
「ほれ、ベール代わり」
 パサパサになった茶色の髪の上に乗せると、ヒロは頭に手をやっ
て、にっこりと笑った。不揃いな歯がのぞき、オレは何かが音を立
てるのを聞いた……そうだ、思い出した。胸の中で、静かに満ちる
ような音だった。
「ね、政志」
 ヒロは目だけでオレを見上げると、唇を結んでから顔を伏せた。
「何だよ」
「……スして」
 小さな声だった。でも、何を言ったのかはわかった。
 キス。
 オレは、こちらに向けられている旋毛を見下ろして、軽く奥歯を
噛み締めた。嫌だとは、思わなかった。いや、むしろ、今のヒロに
ならしても構わない――。
 一度目を閉じて、ヒロの肩に手をかけた。そして、頭に乗ったま
まのレースを取り上げて、身体を屈めた。
 ヒロの顔も上を向き……、目はもう、閉じられていた。
 そばかすだらけの鼻の頭が間近に見えた時、オレも、目を閉じた。
 押し付けられた感触は柔らかく、じんわりと染み透るようだった。
吐息がすぐそばにあって、胸の中の音が、響きを残しながら静かに
広がっていくのがわかった。
「……ありがと、マサちん」
 ヒロは自分から身体を離すと、真っ直ぐにオレを見上げ、そして
大きく笑った。
 その肩に手を伸ばして……思った瞬間、オレは心の中で首を振っ
ていた。いったい、どう表わせばいい気持ちだったのか。愛しい…
…違う。そうじゃない。でも、その時のヒロは今まで見た誰よりも
眩しかった。誰よりも、心の傍にあった。
「そう……、それで、ヒロちゃんとは、その後どうなったの?」
 オレは、タバコをまた一本口にしようとして、箱が空っぽなこと
に気付いた。
「はい」
 ママが自分の奴を一本、箱から突き出してよこす。
「その後も、ずっと友達だったよ、ママ。でも、いつだったか、あ
いつの親父がいなくなって……」
 オレはタバコに火をつけてゆっくりと煙を吐き、目を閉じた。
 ヒロの親父の会社が倒産して、しばらくは取れた連絡も、いつか
通じなくなった。そしてオレも高校を卒業してすぐ、家を出て働き
始めた。何とか行き先を探そうと思った時もあったが、オレにも、
ヒロにも、手がかりを聞ける友達なんていなかった。
「何だか、他人事の気がしないね……」
 ママはグラスに口を付けると、大きくため息をついた。
「私のことは前にも話したけどね、ヒロちゃんの気持ち、わかる気
がするよ」
「うん、そうだね……」
 オレは肩で息をして、ウィンドウの外を見下ろした。
 時刻は三時に近くなっていた。夜更けの街は、さすがに車も人通
りも少なくなり、立ち並ぶ街灯の光ばかりが物憂げに見える。
 ママの低い声が、自分の過去を綴る。軍人相手のバーを経営して
きた母と、新生児だけを残して去った父。そして、母親の上を過ぎ
る愛憎の行方を見つめ続けた日々と、音楽への想い……。
「ホント、バカばっかりだよねぇ。まともな奴なんて、滅多にいや
しない」
 ボトルをグラスに傾げて、もう空になっていることに気付くと、
ママは濃い眉毛を持ち上げて、はあ、と声を出した。
「なくなっちゃった。飲む? マサくん」
「……いいよ、オレはもう」
 まだ、街の灯りを見ていた。肩口に気配を感じて横目でうかがう
と、縮れたアフロヘアが傍にあった。
 オレは何も言わず、ママが身体をもたれるに任せていた。交わす
べき言葉がなくなって、動きを止めた街並みだけが心に映り続けて
いた。
 そばかす顔が見下ろす景色に重なって、数え切れない色合いの表
情が浮かび、走馬灯のように過ぎていく。
「……してあげようか?」
 小さな声が立ち上った。一瞬、ここが何処か、今がいつかわから
なくなりかけて、オレは鼻で息を吸う。
「こら、冗談。ママ」
 クスッと笑ってから言うと、
「別に、冗談じゃないよ。本当に、構わないよ、マサくんなら」
 真面目な調子で言った後で、鼻でクスクスと笑った。オレも視線
を落としてクスクスと笑うと、しばらく二人でため息混じりの笑い
を交わし続けた。
 息をついた後、横を向いて、身体を離したママの顔を見た。
 少し稜線が崩れ、目尻や口元に皺が目立ち始めた、面長の顔。そ
の中で、黒く縁取られた大きな目の中、瞳だけが強く弛まない光を
湛えている。
「……少女に戻れたらなぁ、って思う時もあるよ」
 再びウィンドウの外の夜空を見上げた瞳の色は、深く優しげなも
のに変わっていた。
「もう一度、何もかもをやり直せたら、って」
 首を軽く振って頷いた。気持ちは、わかる気がした。オレはママ
よりも十以上も年下だけれども、分かち持つ何かがある。それは多
分、ヒロもだ……。
「でもね、これも悪くないと思うんだ、マサくん。しょうもないと
ころがある旦那だしさ、結局親達と同じことをしてる気もするんだ
けどね」
 オレはもう一度頷いた。胸の中で何かが鳴った。
 耳を澄ます……静かに、満ちて溢れるような音だ……。
「ヒロちゃんもさ、きっと元気にやってるよ。マサくんんがこんな
に元気なんだから。……チンチンは、そうじゃないみたいだけど」
「そうだね、そうだなぁ……」
 ふたたびクスクスと笑い合った時、店の入口のベルがチリチリと
鳴り、ドアが軋む音がした。
 椅子を回転させたママが、細長い店内を歩きながら、入口へ声を
かける。
「もうとっくに閉めちゃってるから……」
 大声で言いかけて、トーンが変わった。後ろを向いて店の入口を
のぞき込むと、淡い光に照らされて、ドアのところでしゃがむ緑色
の背中が見える。
「……どうしたのぉ。目、覚めちゃった?」
 柔らかい声が聞こえると、ピンク色のパジャマを着た小さな姿が、
ママの前に立っていた。
 ――恵ちゃんか。
「コワイ夢でも見た?」
「……ううん……、でも……」
 小さな声でやり取りが続く。オレは、入口へと声をかけた。
「ママ、いいよ。どうせオレ、始発までいるし。めぐちゃん、寝か
せてきてよ」
「ごめん、いい? 勝手に飲んでていいから」
「もう飲めないって。……おやすみ、めぐちゃん」
 小さい声で、「おやすみ」の声が返ると、入口のドアが軋んで、
ドアベルがカランカランと鳴った。
 オレはもう一度椅子を回してウィンドウの向こうをぼんやりと見
つめる。そして、握った拳でコツンとガラスを打った。
 不思議なほど意識は冴え、窓越しに空気の流れすら感じられる気
がした。
 ずっと、真夜中の街を見下ろし続けていた。ずっと。
 やがて、街の灯りがその色を薄くにじませ、淡く白い光が、地平
から全てを染め始めるまで。