第2章 秋 −深まる彩り−

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 県道とは名ばかりの細い山道。バス停を降りて林の間の小道を抜
けると、すり鉢状になった盆地に、村の景色が広がっていた。
 北から南西へと緩やかに流れる川を中央に、たわわな穂を垂れる
黄金の海原。眼下には黄と橙、緑と赤を入り乱れさせた、こんもり
と茂る社の森。遥か西に目をやれば、小観音の林が真っ赤に染め上
がり、山々の稜線を背景に浮かびあがっている。
 改めて思い返せば、十月も半ば。あまりにも早い日々の移りゆき
に、驚くしかなかった。高校生になってから、時が過ぎるのが早く
なったとは思っていた。けれど、忘れ得ない夏の終わりの夜から一
月半。以来、カレンダーのマス目全てが、彼女の色だけに埋め尽く
されて、一瞬で時が跳躍したような錯覚にさえとらわれる。
 坂を下り終えて、村の入り口のT字路に出る。帰りに買い出しを
頼まれていたことを思い出して、ズボンの前ポケットに手を突っ込
んだ。小銭入れを確かめながら、正面を向いて間口を広げた小さな
商店を見やった。
 ドリンク剤の古いポスターが貼りつけられた木枠のガラス戸。錆
びついた自動販売機に、タバコ販売用の小さな間口。村唯一の商店
の暖簾をくぐろうとした時、店内に濃紺のブレザー姿があることに
気付いた。
「ごめんください」
 できるだけ表情を変えないようにして、狭い店内に入る。
 パンの入ったガラスケースの上、四十くらいのひっつめ髪の女性
と向かい合って代金を払う、流れ落ちるようなセミロングの髪の女
子高生。
 俺の声に気付いて振り向くと、少し大造りな唇ににっこりと笑い
を浮かべて、穏やかな声で言った。
「あ、こんにちは。飯山くん」
 俺も、軽く頭を下げて当たり前のように挨拶する。
「あ、どうも。如月さん」
「……じゃあ、おばさん」
 茶色の紙袋を抱えた美紅さんが、俺の横を行き過ぎた。肩が擦れ
合うほどの距離で、長い髪から届いた柔らかい香り。身体が憶えて
いる、愛しい匂い。
「いらっしゃい、雪ちゃん。お婆ちゃんのお遣いかい?」
 俺たちの間に流れた空気にまるで気付くことなく、人のよさげな
丸顔が、がらがら声を上げた。
「あ、うん。小麦粉と、干しシイタケと……」
 俺は、ポケットからメモを取り出すと、婆ちゃんから頼まれてい
た買い物のリストを読み上げ始めた。

 肩に背負った緑の布バックの中で、小さな音が響いたのは、店を
出て歩き始めてから程なくだった。
 イワシ雲が高く流れる青い空の下、薄赤いトンボが、羽を震わせ
ながら群れ飛んでいる。俺は、黄金色の海の中にしゃがみ込んで、
取り出した携帯の通話ボタンを押した。
『もしもし、雪生くん。もう、お茶目なんだから』
「美紅さんこそ。あ、こんにちは、飯山くん、って何だよ」
 クスクスと笑い声が聞こえた。
『今、何処?』
「中村さんの田んぼの所。ジベタリアンしてる」
『私は、小観音さまの林のところ』
 こうやって、携帯電話越しに話していると、今でも胸の何処かが
痛い。どうしてなのか、理由はわからないけれど。
『……もう、だいぶ赤くなってるんだなぁ』
「あ、観音様のところのモミジ?」
『うん』
 俺は、美紅さんと取留めのない話をしながら、青い空を見上げて
いた。そして同じ空の下、今日の放課後に屋上で話し合った事を思
い出していた。
「……もっと、いっぱい会いたいよね」
 四階建ての理科塔の屋上は風が冷たくて、ブレザーだけでは肌寒
くさえあった。でも、誰にも目に付かずに会える場所は、そこくら
いしかなかった。
「そうだよね」
 美紅さんは、鉄柵の上で組んだ腕の上に顎を乗せ、高校のまわり
の街並みを目に映していた。
 二学期が始まってから一ヶ月半。時間を見つけては屋上にやって
きて、終わることのない言葉のやり取りを繰り返していた。二人、
給水室の壁に寄りかかり、手すりに持たれ、時には寝そべって空を
見上げながら。
 俺は、かけがえのないこの女性が、誰よりも素直で、飾らない人
であることに気付き始めていた。そして、どんなことからも逃げず
に、真っ直ぐに思考の糸を手繰り寄せる人でもあることに。
 時折それは、あまりに直情的で、可愛いとさえ思えるほどだった。
 今日交わした会話も、そんな感じだった。
「このまま、ここで埋もれるわけにはいかない。父や母がそれを望
んでいないのは知っているけれど」
「……東京の眺めは、きっとこことは全然違うだろうね。美紅さん
は、ここを出て行く力があるんだ。そういう人は、行けばいいと思
う。考え方も、違ってると思う。この閉じた場所から、ただ出て行
きたいと思ってるわけじゃないから」
 確かに美紅さんなら、近くの短大ではなく、ある程度のレベルの
四年制大学に行く事が可能だろう。経済的にも、学力的にも。
 あの時の俺も、そんな風に考えて言葉を発していた。
「ここにいたら、自分が自分じゃなくなる。でしょ? ただ逃げる
ために出て行く奴はたくさんいるけど……」
 睫毛の長い目を少し伏せがちにした美紅さんが、こくりと頷いた。
緩く閉じられた口元が、何処か解けない思いを抱いているように見
えた。
 彼女が何を思っているか、わかるような気がしていた。ただ、俺
から口を開いてどうなるものだろうか。
 いつか、別れる時がくる。俺がこの場所を離れられない事は、誰
よりも彼女が知っている。でも、今それを考えて、どうなるのだろ
うか。
 もたれていた鉄柵から身体を離した彼女が、景色を背に、給水室
の方を見ていた俺の前に立った。
 そして、真っ直ぐに見上げた後で、軽くつま先立った。少し甘い、
でも爽やかな香りに包まれた瞬間、柔らかい感触が唇に残った。
『……どうしたの。何か考えてた?』
 携帯から響いてくる声。
 美紅さん、なんて可愛い女性だろう。それでいて、遥か遠くまで
行く末を見つめる、伸びやかな心持ち。俺には到底及びようもなく
て……。
「今日のこと。……好きだよ、美紅さん」
 携帯の向こうの声が、一瞬途切れる。そして、再び聞こえた声は
密やかな艶やかさを秘めて、身体の中心が熱くなる。
『うん。私も、雪生くんが好き。いっぱい、キスしちゃう』
 耳元で、チュッチュッと啄ばむ音が響いた。
 もっと、一緒いたいよ、美紅……。
 熱さは全身を包み、激しい衝動になって胸を締め付けた。眉を寄
せて、痛みに近いその感触を抑えつけると、何とか言葉を繋いだ。
「もう、美紅さん。調子乗りすぎ。俺、我慢たまらなくなっちゃう
よ」
 ふふふ、と声がした。
『ごめ〜ん。でも、本当にキスしてるつもりだったから。あ、充電
ピンチだ。また、夜電話するね』
「あ、うん。待ってる」
 そして、最後に聞こえた声。
『いつも大好きだよ、雪生くん』
 その言葉が、脳裏に強く刻み込まれ、夜になっても離れていかな
かった。
 食事をしている間も、ずっと上の空で、何を食べたかも憶えてい
ない。何を話しても適当に受け答えしている俺に、祖父も祖母もつ
いには口をつぐんでしまった。
 自分の部屋に戻っても、身体の熱さは増すばかりで止まるところ
がない。ベッドに横になった俺は、自然にトランクスの中をまさぐ
っていた。
 夏の日から、彼女と身体を合わせる事ができたのは、数えるほど
しかなかった。会える場所がなかった。
 殆ど擦り上げなくても、昂まりは張り詰めていて、頭の中には彼
女の姿しかない。人のいない場所を見つけては、何百回も交わした
キス。数少ない逢瀬で彼女が見せた、愛らしくて、それでいて艶や
かな姿。
 美紅さん、愛したいよ。その身体を、隅々まで……。
『あ、気持ちいい……』
 一週間前、再び忍び入った夜の公会堂で、初めて聞いた直截な彼
女の喘ぎ。
 美紅。好きだ。美紅……。
 激しく手を動かした瞬間、快美感が身体を突き抜けた。散った欲
情の証し。
 力を抜いて息を吐くと、ティッシュで精を拭った。それでもなお、
胸の内の熱さが抜けていかない。いや、身体の欲求を解放すればな
お、彼女を求める心の奥底が剥き出しになった気がして、収めどこ
ろのない衝動が兆す。
 その時、古びた机の上に置いた銀色の携帯電話が、細かく振動し
た。
 時刻は十時。美紅さんに違いない。
 身体を起こしてディスプレイを覗き込んだ俺は、そこに思いもか
けない名前を見た。
 暗緑色の液晶に表示された黒い文字―名前は、坂尻史郎。
 数秒間躊躇したあとで、俺は通話ボタンを押した。
「はい……」
『お、出たか。さすがに、お前だな』
 一瞬、着信表示が間違っていたのでは、とさえ思った。それほど
に、話し方も、声のトーンも、自分の知っている先輩のものとは異
なって感じられた。
『要件はわかるか? お前は馬鹿じゃないよな』
「……美紅さんのことですか」
 来るべきものがきたのか。先輩に決定的な別れを告げた、と聞い
たのは、もうひと月も前のことだった。ただ、俺の名前は一切告げ
なかった、と彼女は言っていた。
『それしかないよな』
 抑揚の少ない、人を嘲ったような調子の言葉だった。「変わって
しまったあの人」―美紅さんの呟きを思い出していた。でも、信じ
られなかった。あれほど思慮深く、人の気持ちを知っている先輩が、
道を踏み外す事など有り得るのか? 俺のようなどうしようもない
奴ならともかく、誰よりも賢く、明るい道を歩んできたあの人が。
『……どうした。何か言う事があるんじゃないのか? それとも、
こっちから言うか?』
「携帯じゃ、しょうがないでしょう。直接会わなきゃ、わからない。
いいでしょう?」
 野卑た笑い声。その響きを胸にした時、何かが壊れていくのを感
じていた。違う。この人は、俺の知っている坂尻先輩じゃない。
 視野が狭まり、背中に冷たいわだかまりが沈殿していく。それは、
ずっと昔から知っている感覚。かつての俺がいつも抱えていた、怒
りと……そう、憎しみが支配する閉じた感覚だった。

 次の日、先輩と待ち合わせたのは、高校近くの狭い公園。ベンチ
と時計、小さな花壇があるだけの、閉じて人気のない空間だった。
 鉄の車よけをすり抜け、踏み入ったその場所には、三人の男がい
た。一人は、茶色い皮のジャンパーが目立つ、角刈りの男。もう一
人は、襟が灰色の羊毛風にあしらわれた黒いキルティングジャケッ
トを羽織った、短い茶髪。
 そして、背の高い二人に挟まれて、白いセーターに薄茶のハーフ
コートを着た黒髪の下の細面は、確かに俺の知っている顔だった。
 今日一日、美紅さんとは連絡を取らずにいた。会えば、冷静な気
持ちで向き合う事ができなくなるだろう。顔を合わせた瞬間に、ぶ
ち切れる可能性だってあった。
「何で、ダチなんて連れてくるんだ、先輩」
 真ん中で分けられ、後ろへ流されたオールドサーファースタイル
の髪が、吹きこんできた風に揺れていた。
「……一人で行くとは言わなかったろう。ん?」
 横一列に並んだ三人から二身長ほどのところで立ち止まると、俺
は腕を組んで息を吐いた。
 不思議なほどに怒りは湧いてこなかった。ただ、哀しかった。ど
うして、先輩はこんなになっちまったんだろう。これは、中学の頃
の俺と変わらない。そんな俺を、しょうもない俺を、あの場所から
救い上げてくれたのは、先輩の言葉だったってのに。
「そうだね。でも、話くらいはできるんだろう、先輩」
「ああ。ま、話しても同じだけどな。お前には、ちょっと痛い目に
会ってもらう。それが、当然だろ? 人のオンナを寝取ったんだか
らな」
 口の端を上げて笑った。これが、『お前がどうやって生きてきた
かなんて関係ない。今が大事なんだ』――そう言ってくれた人と同
じ表情なのか。
「……まったく、驚いたよ。美紅の奴が、どうあっても別れるって
ごねて、ぶん殴っても言う事聞かねえ。新しい男でもできなきゃ、
ここまで突っ張るまいと思ってたが、まさか、雪生とはね」
 ぶん殴って、と聞こえた瞬間、色のない細い目を睨み付けずには
いられなかった。ただ、それでも、気分が乱れるようなことはなか
った。
「確かに、俺と美紅さんは付き合ってる。それに関して、先輩に申
し開きはできない。でも、これは俺の問題だ。美紅さんとは関係な
い。俺がどうあれ、美紅さんは先輩と別れるつもりだったはずだ」
「ふ〜ん」
 トーンを僅かに下げた声が、薄い唇の端から響いた。
「お前、俺を馬鹿にしてんのか。俺が、美紅に捨てられた、そう言
いたいわけだ」
「そういうことじゃない」
 俺は視線を一瞬も逸らさず、先輩の目を見つめ返していた。誰に
も公平で、優しかった先輩は、まだ何処かにいるはずだ。これは、
よくあることだ。誰だって、心が荒れる時はある。
「美紅さんに罪はないってことだ。だから、これが済んだら、もう、
彼女を縛らないでやって欲しい」
「おお、こいつ、ナイトだぜ。坂尻ぃ」
 角刈りの方が、四角い顔を歪めて笑った。組んでいた腕を解いた、
俺と同じくらいの身長の男を、先輩が手で制した。
「待てよ、池田。こいつは、昔からこういう男なんだ。馬鹿正直で、
向こう見ずでさ。ぶつからなきゃ気が済まない奴なんだよ」
 何の感情も篭らない声だった。つま先からせり上がり、首筋にま
で走る、万本の針が流れていくような痛み。
「……なんでだよ」
「ん?」
「なんでそんなんなっちまった。ラッパ吹いて、『音楽には上も下
もない』て俺に言ったやないか! 俺は……」
 美紅さんと会うまで、ずっと支えだった言葉。でも、次にあいつ
の口から発されたのは、俺と先輩の信頼の根っこを丸ごと引っこ抜
く言葉だった。
「お前にはわからんさ。あばずれの母ちゃん持ちの、ててなしのお
前にはさ」
「この、野郎!」
 信じられなかった。絶対に。俺が行く場所を失って、紐の切れた
凧のように暴れていた、一番奥底の理由を知っているはずのこの人
が。
 どうしてだ! 先輩のおかげで、俺はあの場所から出る事ができ
たのに。
 拳を振り上げて殴りかかろうとした瞬間、後ろから腰を抱え込ま
れた。羽交い締めにされて、近づいてきた茶髪の男に、腹部を強か
に殴られた。衝撃と共に胃液が遡り、目に火花が飛ぶ。
 もう一発。今度は腹に力を入れて、衝撃を和らげた。
 後ろに立ったあいつは、高をくくった表情で、腕を組んでいる。
どうあっても、ぶん殴ってやる。お前は間違ってる。絶対に。
 抑えつけられた腕の力、ボディに打ちつけられた拳の威力。二人
の男が、見かけだけなのはすぐにわかった。
 身体が憶えていた。どうしようもなく。
 少しだけ身を竦めると、羽交い締めにした男の顎に、強力な頭突
きを食らわす。うっ、と苦しげなうめき。すかさず、肘で鳩尾を痛
打する。
 驚いた茶髪の男の大ぶりな拳を交わすと、最短距離のジャブ。頭
を抑え、膝蹴り、背中から肘。
「馬鹿ヤロウ、なめんじゃねぇ!」
 倒れた二人に、強かに蹴りを入れる。そして、奴の叫び。
「この、できそこないが!」
 見当違いの拳、意味のない蹴り。俺は、奴の腹に、拳を叩き込ん
だ。一発でうずくまる、茶色のハーフコート。襟を掴んで上を向か
せると、額に頭突きを入れる。
「どうしてだよ! なんでだよ!」
 頭をぶつける度に、目から火花が散った。悲しいのか、怒りなの
かわからなかった。
 ただ、この男をとことん殴らなければ気が済まない。
「やめ……」
 黒髪の下から、鮮血が滲み始めていた。馬乗りになって、きつく
締め上げていた手を、僅かに緩めた。充満していた正体の掴めない
感情の迸りが、少しずつ潮を引いていく。うめきを上げる細い顔の
中で、焦点を定めていない黒い瞳。
 手を離して、土の上へ細い身体を横たえた時、自分の額からも血
が流れ落ちているのがわかった。
 頭がクラクラする。
 身体全体の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
「……あそこです」
 誰かの声が、公園の外から聞こえた。そして、複数の人間が駆け
寄ってくる音。
 ああ、また、やっちまったな……。
 そんなことを考えながら、俺はぼんやりと秋の空を見上げた。

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