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 俺と坂尻先輩の私闘事件は、すぐに学校の知るところとなった。
 先輩は全治一ヶ月の怪我。俺は……、特に治療の必要はなかった。
 停学三週間。それが、俺に下された処分だった。客観的に考えれ
ば、仕方がない。去年の放送室占拠事件。そして、今回の喧嘩騒ぎ。
 内面を知らない第三者にしてみれば、俺に非があるとするのは、
当然の判断だと思う。
 祖父は、ほとんど何も言わなかった。「ま、いろいろあるわな」
――いつも通り、口数少なに言うと、それ以上は何一つ付け加えな
かった。
 ありがとう、爺ちゃん。
 俺は心の中で礼を言った。そして、祖母の繰り言も、それほど厭
わしく感じずに受け止める事ができた。
 ただ、今度の事で最も被害を被ったのは、美紅さんだったのかも
しれない。
 事件があからさまになった結果、全てが知れ渡ってしまった。美
紅さんが、隣村の議員の息子である坂尻先輩と付き合っていた事。
そして、村のやんちゃ坊、外れものの俺が、この郷一番の御曹司と、
彼女を巡って恋のさやあてを演じた事。
 携帯も取られちゃった――それでもとても明るい声で、美紅さん
は電話をよこした。
「せいせいしてるんだ。もう、隠さなくてもいいし」
 少しも淀んだ感じの見えない張りのある声が、受話器越しでも勢
いよく飛び込んできて、俺は微笑まずにはいられなかった。
 きっと、落ちこんでいるはずなのに―駆け寄れるものならすぐに
でも西の林を抜けて、彼女に会いに行きたい。そう思った。
「全部、私が悪いんだ。坂尻君に、勝手な思い込みをしてたせいで、
あんな風にしちゃったんだから」
 雪生くん、ごめんね。そう言った後で美紅さんは、先輩とのいき
さつを、事細かに話してくれた。辛い話だったはずなのに、少しも
淀むことなく、俺を気遣いながら。
「私、言っていることと、していることって、それなりに一致して
るもの、させていくものだと思ってる。そう言うところ、女っぽく
ないって言われる時もあるけど」
 俺は、短いあいづちを打ちながら聞いていた。
「だから、彼が言ってる事と私が思ってる事―凄く近いと思ったか
ら、一緒にやっていける、そうやって勘違いしてたんだと思う。私
が考えている事も、全部話してたし。でも、それは、彼にとって重
荷でしかなかったのかもしれない。こんな言い方、してはいけない
のかもしれないけど、私が決めていいのかわからないけれど……。
たぶん、彼は言葉で言っていただけ。概念だけだったんだと思う」
 坂尻先輩と美紅さんの間に交わされた言葉が何だったのか、不思
議なほど具体的に思い浮かべる事ができた。
 俺だってそうだ。美紅さんが見つめる、遥か高い理想。美しい未
来。自分の心と身体もそちらへ向けなければ、美紅さんを憎むこと
になってしまうかもしれない。自分が決して及ばないものとして。
 先輩と俺の間に違いがあったとするなら、それは僅かなものだっ
たと思う。俺は、先輩のように、自分のことが信じられないから。
どんなに口で偉そうな事を言っても、結局地面を這いずるしか道は
ないと知っている―ただそれだけの違いだと思う。
「ごめんね、雪生くん。アタマ、痛くない?」
 最後まで明るい調子を崩さなかった美紅さんが、声のトーンを落
として言った。
「大丈夫。……慣れてるし。あ、威張れないか」
「もう。でも、よかった。連絡があった時、どうしようかと思った。
雪生くんに何かあったら……、私」
 声が一瞬、掠れたようになったが、すぐに元の調子に戻った。
「、だめだよね。痛いのは雪生くん。私は、両天秤がけの悪女だも
の。……ふふふ」
 軽く笑った後で、また会おうね、の言葉を残して通話が切れた。
 それから俺は、密閉型のヘッドフォンを耳にかぶせ、移り変わる
音の流れに、ずっと身を浸している。
 サックスとピアノの掛け合い。いつ終わるともなく続く、フリー
フォームのセッション。
 あの人は、どの音楽よりジャズが好きだった。俺も、それに憧れ
て、トロンボーンを吹くようになった。才能なんて、元よりなかっ
た。ただ、俺をあの場所から救い上げてくれた人と同じ場所で演奏
していたかった、それだけの事だったのかもしれない。
『音楽は、自由だよな。雪生。生まれも、肌の色も、言葉も関係な
い。お前、体力あるじゃんか。ラッパ吹いたら、結構いけると思う
よ』
 目を閉じて、ずっと音だけを聞いていた。
 木の格子窓から吹きこんでくる風が冷たい。季節外れの半袖の腕
に、震えるほどの寒さが駆け上がっていく。
 それでも俺は、音の流れゆきに任せて、ずっと目を閉じていた。

 停学処分を受けてから二週間。大山村の短い秋は、すでに行き過
ぎようとしていた。
 十一月の声を聞くと、北の山並みから吹き降りてくる風が、冬の
冷たさを予感させ始める。空は、ますます澄んで高くなり、あとし
ばらくすれば、白く薄い雲が遥か上空に霞みをかけ、秋の終わりを
告げるだろう。
 それでもまだほの暖かさが残る正午過ぎ、俺は稲の切り株だけが
残る田に立って、祖父の手伝いをしていた。
 長く伸びた木のはざに干してある稲を順繰りにおろし、脱穀機に
かける。そして、穂の落ちた藁束を縛り上げると、次々に積み上げ
ていく。
 この作業を始めて三日目。二反近くある田からとれた全ての稲を
脱穀し、積み上がった藁束は、だいたい三m四方、俺の身長と同じ
くらいの高さになっていた。
「雪ぃ、先に帰っとるぞ」
 祖父の声が、山積みになった藁束の下から響いた。
「ああ、いいよ。ここで寝てく」
 俺は、上半身だけを起こして、祖父に言葉を返した。黄土色の作
業服の厳つい背中が、あぜ道を上がり、南の方へと歩いていった。
 もう一度、藁のなかに横になると、空を見上げた。掠れた香ばし
さが、乾いた黄土色の茎から薫り、身体を包んでいく。
 脱穀が終わった後、こうやって空を見上げるのは、小さい頃から
のちょっとした楽しみだった。藁のベッドの上に寝そべっていると、
世界は高い秋の空と緑に黄に彩られた山の稜線だけになって、俺の
他には誰一人存在しない場所になる。
 そして息を吸い込めば、ここが閉じた場所であることなんて、全
く感じない。いや、誰よりも自由な自分を感じる。
 ……美紅さん、どうしてるかな。
 両親の目を盗んでしてるの―かかってくる電話で、そんなに長い
時間は話す事ができなくて、彼女が今何をして、何を考えているの
か、推し量ることすらできなかった。
 会いたいなぁ。受験勉強だって佳境だろうし、大学行きがどうな
ったかだって、はっきりとは聞いていない。
 俺との事が、彼女を縛る原因になったら、どうすればいいのだろ
う。美紅さんの父親が、かなり頑迷で保守的であるのは、今までの
会話の片端から想像することができる。
 先輩との事件以来、はっきりわかったことがある。俺は、美紅さ
んが好きだ。誰とも比べられない、唯一人の女性だ。でも、同時に
思っている。彼女には広い場所に進んで行って欲しい。俺が望んで
も行けない場所へ。
 こんな風に感じるのは、おかしいのだろうか。誰よりも好きな人
と、離れることを望むなんて。でも、それが俺の気持ちだ。本当に
想うなら、その人の行く末を縛る事ができるだろうか。
 空は、抜けるように高かった。愛しいけれど、何処か痛いような
胸の奥。俺は、目を閉じた。暖かかった身体も、秋の終わりの風に
吹かれて――。
「雪生くん」
 不意に、あるはずのない声が聞こえた。
 素早く身体を起こすと、積み上がった藁束の下を覗き込んだ。
「……美紅さん」
 緑色のカチューシャで止められて、秀でた額を露わにした柔らか
い笑顔。濃緑のブレザーに、学校指定の紺色のカーディガンを羽織
った美紅さんは、緑色の布カバンを持って、俺の方を見上げていた。
「ど、どうしたの」
 慌てて周りを見渡す。稲の切り株ばかりが目立つ村の景色。人の
姿はとりあえず見当たらない。
「大丈夫。誰もいないよ。……今日から、実力試験期間だから」
 そうか、もう、そんな時期だったな。思い出しながら、手を差し
出した。
「上、乗る? 誰か通ったら、大変だけど」
「言ってくれると思った。はい!」
 カバンを投げ上げると、俺の手を握って、積まれた藁束に上って
くる。息をついてペタリと座った姿を見ていると、懐かしい考えが
思い浮かんだ。
「美紅さん、ちょっと脇に寄ってて」
「うん」
 手早く藁束を周辺に寄せると、窪みを作る。上手に穴を作り、周
りに取り出した束を積み上げると、ちょっとした藁束の壕ができあ
がった。
「あ、懐かしい〜」
 美紅さんが悪戯っぽく笑った。そして、その穴の中に飛び下りる
と、俺に手を伸ばす。
「これなら、どっからも見えないよね」
 俺は思い出していた。まだ本当に小さかった頃、こうやって『美
紅ちゃん』と遊んだ事を。
 二人並んで、狭い藁造りの壕の中に寝そべった。
 しばらくは、何も言わずにそのまま空を見上げていた。久しぶり
に隣にいられる事。それだけで満足で、嬉しかった。
 手の平に、柔らかい感触。すぐに握り締め返すと、細い指が強く、
手の甲に力を返してきた。
「ここでやってるかな、って思って」
 空を見上げたまま、彼女は呟いた。
「脱穀?」
「うん、だって、雪生くん、毎年手伝ってるじゃない。そんな人、
村の若い人では誰もいないでしょう」
「ウチは、手が足りないから。俺がやらなきゃ、終わらないもの」
 俺の顔の横で、彼女の髪の毛が動いた。そして、綺麗な曲線を描
く瞳が、少し眩しそうな感じで、俺の方を見つめていた。
 そして、俺の額にもう片方の手を伸ばすと、静かに触れた。
「……痛かった?」
「ううん、全然大丈夫。頭突きは必殺技でね」
「馬鹿」
 瞳の奥にある輝きが眩しかった。愛しくて、このまま抱き締めた
くなる。
「……坂尻くん、大丈夫かな」
「大丈夫だよ。先輩のお母さん、しっかりした人だから。先輩だっ
てホントは……」
 言いかけた言葉を、美紅さんの指が塞いだ。
「いい。ごめん、雪生くん。私、本当に考えなしだ……」
 言って、俺の肩に頭を寄せた。甘い薫りが、藁の香ばしい匂いと
混じって、鼻腔の奥をくすぐる。手は握り合わされたままで、息遣
いだけがすぐ側に聞こえている。
「美紅さん、困らなかった? 家の方とかは」
「困ってなくはないけど」
 少し皮肉めいた感じだった。
「お父さんが何と言おうと、私は私だから。絶対に譲れないことは、
何があっても曲げない」
「はは、美紅さんらしいや。全然へこんでない。もう、俺んちなん
か大変。婆ちゃんは、『如月さんのお嬢さんとなんて、畏れ多い』
とか言ってるし」
 肩口でクスクス笑いが響いた。
「もう。『お嬢さん』なんかじゃないよ、私。どっちかって言うと、
アネゴかも」
「そうかも。でもさあ、」
 俺も、少しからかった口調になる。
「ああやって自転車に乗ったり、歩いたりしてる姿見たら、どうや
ったってネコ被ってるもん、美紅さん。『あら、飯山くんのお婆さ
ま、腰の具合は如何ですか』ってな感じで」
「あ、ひどい〜」
 肩口から見上げた瞳。打ち解けた口元。俺は、自然に顔を近づけ
て、唇を合わせていた。閉じられた目蓋に、長い睫毛。一瞬前まで
の闊達さが微塵も見えない、静かで艶やかさを秘めた表情だった。
 俺も目を閉じて、柔らかく湿った感触に意識を預けた。
 やがて、潤いを持った舌先が、口の端から僅かに忍び込んでくる。
頭に手を回すと、強く引き寄せた。やがて、くちづけは激しい唇の
求め合いになって、頭の奥を衝動に染め上げて行く。
 彼女の息遣いが聞こえる。
 俺も、止まらない。彼女の唇を押し開き、上にのしかかる形にな
って、舌を絡ませあった。
 ブレザーの下の柔らかい双丘が、俺の体との間で、押し潰れるの
がわかった。
「あ……」
 小さな声が上がる。
 このまま、このまま……。
 手をその柔らかい膨らみに乗せた時、細い指が手首を握った。
「ダメ、雪生くん」
 開いた目に、潤んだ光。乱れた制服の胸元と、外れかけたカチュ
ーシャ。そして、濃緑のスカートは、太腿が露わになるほどたくし
上がり、青いインナーが覗いていた。
 到底、我慢などできそうになかった。
 密着した身体の間で、自己主張を始める俺の昂まり。彼女も、そ
の存在に気付いているはずだった。
「ちゃんと、したい。ここじゃあ……」
 その時、後頭部に何か柔らかいものが当たった。
 藁の束。
 次の瞬間、廻りに積んだあった藁束の積み上がりが、一気に崩れ
て俺達の身体の上に降りかかってきた。
 立ちこめる香ばしい薫り―いや、むせるほどに濃く、埃も交えて。
 一瞬、完全に藁の束の中に埋もれてしまった美紅さんが、咳き込
みながら身体を起こした。
「あぁ、カシカシする」
 俺も同様だった。着ていたトレーナーの中に、藁の切れ端が入り
込み、くすぐったいような、痛いような。
 一しきり背中やスカートの中を探っていた彼女が、埋もれたカバ
ンを探り当てて、膝の上に置いた。
「もう、エッチなことするから、罰が当たったじゃない!」
「ひ、ひでぇ。だって、美紅さんが先に……」
「私の何処が先に? 雪生くんじゃない、キスしてきたの」
 言葉とは裏腹に、顔は笑っている。ぐちゃぐちゃになって積み重
なった藁の窪みの中で、俺達は見詰め合っていた。
「違うって、美紅さんが、先に頭を寄せてきたから……」
「え〜っ、そういうこと言うんだ。恋人同士なら、当然じゃない。
こんなとこでエッチなことしようなんて、痴漢でしょ」
 大きな瞳の奥は、確かに微笑んでいる。俺は、この女性が愛しか
った。世界中の何よりも。
「……バカ美紅。ホント、猫っかぶりだ。どこがお嬢さんだよ」
 彼女はクスクスと笑った。そして、Yシャツの襟元を直すと、俺
の方に身体を寄せて、唇を軽く噛み締めた。そして、一度瞬きをす
ると、大きな声で言った。
「…好き。雪生。あなたが、大好き」
 俺はさっきまでの身体の昂まりが霧散し、強く暖かい感覚が身体
中に満ちるのを感じていた。
「俺も…美紅。同じ気持ちだから」
 好き、とはどうしても言えなかった。でも、言葉は必要ない、そ
う思った。
 彼女も、それ以上は求めなかった。ただ、静かに立ちあがると、
手を差し伸べた。
「私達、ほんとの恋人同士になれたのかな。幼馴染みや、先輩後輩
じゃなくて」
 俺は頷いた。そんな定義なんて、どうでもいい。こうやって側に
いられれば、それだけで嬉しい。長い間求めて得られなかった、初
めての同志。そんな気さえしていた。
 晩秋の空は高く、風は冷たかった。でも今、俺と美紅の胸の中に
吹くのは、暖かに心満たす、清く穏やかな風だった。

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