第三章 冬 −純白を染めて−
1
空には灰色に重なった雲が低く垂れ込めていた。
煤けて黒っぽくなった縁側に腰を下ろし、俺は庭の景色をぼんや
りと見つめていた。
視野に適う一面に白が舞い踊っている。いつから降り始めたもの
だろうか。こうして外の景色に向かい合った時には、見渡す限りの
空間に淡いベールがかかっていたような気もする。
小さな林に両側を遮られた狭い入り口。節くれだったもみじに、
栗と柿の木。そして、蓋の被せられた石造りの井戸。この場所から
は、家の古びた庭のほとんどを見渡すことができた。
散らされた砂利は、ほのかに白く化粧をしつつあった。降り落ち
るぼた雪にはまだ遠かったけれど、これだけ盛んに舞い下りてくれ
ば、ほどなく積雪になるだろう。
投げ出したスウェットの先、靴下も履かずにぶらぶらとさせた裸
足に外の空気が冷たかった。トレーナー一枚の首筋にも、雪が降り
続くほどに増していく静けさが忍びこんでくるようだった。
もう一度、色の褪せた林の向こうに視線を戻す。
全身を冷気が包み込んでいるはずなのに、どこか懐かしいような
気がした。
遠い昔、こんな風にずっと縁側に座って誰かを待っていたような
記憶がある。何日も、降り積る雪を見つめながら。
気のせいかもしれなかった。ただ、あてどもなく考えごとをする
時折、ここに座りこんでしまっている。
どれくらいぼんやりと気持ちをさまよわせていただろうか。結局、
はっきりとした答えを出すことができなかった。
美紅の中に宿った命。俺はそれをどうやって受け止めていけばい
いのだろう。自分の中には、なんの材料もない。身体の求め合いの
結果となるものに、一つの準備もしていなかった。互いの気持ちの
表われ。その証しとしてのセックス。その向こう側にあるものは、
遠くて、ただの知識にしか過ぎなかった。
それは、美紅だって同じだったんじゃないだろうか。
……いや、そんなことじゃない。
後悔や反省なんて、今は意味がないことだ。どうするか、それを
考えなくてはいけない。
「二ヶ月――六週目に入ったところ、みたい……」
昨日の夜、低い声で告げた彼女の言葉が、今でも耳元にあった。
「まだ少し、信じられない気がして。でも、最初に雪くんに話した
かった」
俺には返す言葉がなかった。緑のマフラーの上に乗った青白い顔
が、儚さとも虚ろとも定まらない表情に見えて、ただ胸が痛かった。
「とにかく、今は家に戻って。俺も……、考えてみるから」
その時言えたのは、そんな台詞だけ。保健だったか、TVだった
ろうか、妊娠初期は身体と心のダメージを最も避けるべき、そんな
おぼろげな知識から、美紅の身体を思いやるくらいしかできなかっ
た。
ゆっくりと歩いていく、ベージュのコートを羽織った後ろ姿。ひ
どく頼りなげに見えた……。
くそ!
唐突にこみ上げた感情に、拳で縁側の枕木を叩いた。
「雪生」
後ろから響いた細い声に振り向くと、小柄な割烹着姿があって、
少し背を屈めて俺の方を覗きこんでいる。
「何」
確か、村の集まりで外に出ていたはずの祖母。もう、帰ってきた
のか。
「そんなとこ座っとると、風邪をひくさ。中に入りな」
今は誰にも話しかけて欲しくなかった。俺は無言で頭を振ると、
外へと視線を戻した。
床板を軋ませながらゆっくりと歩み去っていく音が、奥の部屋へ
と消える。
俺は大きく息を吐いた。空気が白く染まり、すぐに霧散する。
このことが明らかになったら、どうなるだろう。爺ちゃんや婆ち
ゃんは、そして、彼女の両親はどんな態度を取るのだろう。
推測は難しかった。
村の大人の考える事は、唐突で、ひどく理不尽な時すらある。俺
達の考えなど、一顧だにされない怖れも十分だった。
特に、俺との付き合いすら認めなかった如月先生――美紅の父が
どんな態度を取るのか。彼女の行く先を考えた時、空恐ろしい気さ
えする。
いや。そんなことじゃない。周りがどうではなく、妊娠したこと
自体で、彼女の行く先が全く違う方向を向いてしまうんだ。
俺達二人で、しっかりした結論を出さなきゃいけない。
結論? 何の?
閉じこめていた恐ろしい言葉が頭の中をよぎる。
ダメだ。そんなこと、できるはずがない。
けれど、意識がもう一つの選択肢を囁くのを止める事ができない。
――子供を堕ろすこと。中絶。
ダメだ。美紅は言った。『新しい命』って。それは、俺達の責任
じゃないのか。そんなことを安易に考えていいのか。
その時、左手から聞き慣れた着メロが鳴り響いた。俺の部屋
からだ。
慌てて部屋の襖を開けると、着信を確認して通話ボタンを押した。
「はい」
『あ、雪くん』
落ちついた調子の声だった。
「美紅。どう、大丈夫?」
『うん。昨日は、ゆっくり寝た。考え過ぎても、しょうがないから
……』
「今、話せるの? 自宅の電話だろ」
『大丈夫。母の携帯借りてるから。雪くんは?』
「婆ちゃんはいるけど。まずそうだったら、外に出て話すよ。それ
とも、会って話す?」
『ううん』
短いけれど、はっきりした声で言った。昨日の儚さは、もう感じ
られなかった。
『私、母に話す。そうしないと、ダメだと思う。私たちだけの力じ
ゃ、どうにもならない。わかるでしょう、雪くん。だって、これは
私達だけのことじゃない』
淀んだところが一筋もない、真摯な言葉。
……そうだ、彼女の言う通りだ。
「わかった。だよな、命のことだもの。俺のでも、美紅のでもない。
ごめん、俺、ちょっと的外れな事考えてた気がする」
『ううん、そんなことないよ。きっと、私も雪くんと同じようなこ
と、ぐるぐる考えてたと思う。でも、覚悟決まったから』
「うん」
覚悟……それは、新しい命を育むと言うことに違いない。
なんて強い気持ちだろう。自分の逡巡が、余りにも情けなく思え
た。そうだ、俺は新しい命の父親になるんじゃないか。それを引き
受けずに、どうするんだ。
「俺も、爺ちゃんか婆ちゃんに話すべきかな。何とかわかってもら
うように……」
『ううん、ちょっと待って。まず、私のほうをちゃんとしてからの
方がいいと思う。母を説得できたら、真っ先に連絡する。そうすれ
ば、少しは道筋が見えると思う』
「わかった。でも、美紅……」
美紅は大丈夫なのか、それは、俺と社会的にも結ばれることなん
だ。君の見ている未来は、上京は、進学は……。
『なあに、雪くん』
俺は、胸の中の言葉を握り潰した。今そんなことを言って、どん
な意味がある。
「いや、なんでもないよ。愛してる、美紅。一緒に頑張ろう」
受話器の向こうの声が、一時途切れた。
『……うん。私も、愛してる。ありがとう、雪くん』
「礼なんてよせよ。俺、そばにいてやることもできないから」
『ううん。今ので充分。私、頑張るから』
そして、もう一度『愛してる』と小さく聞こえた後で、通話は切
れた。
携帯を机の上に置いた後、俺は自分の手をじっと見つめていた。
この手は、美紅と、生まれてくるだろう命を支えるほど強いのだろ
うか。
俺に、その覚悟はあるのだろうか。何の後ろ盾もない、ただの高
校二年生の俺に。
ダメだ。大変なのは俺じゃない。美紅なんだ。
どんな事があっても、折れない心を持つんだ。譬え、たった独り
になったとしても、美紅を支える力を持つんだ。
開いた手の平を、強く強く握り締めた。そして一度だけ、机を強
く叩いた。
美紅からの連絡を待って、二日間が過ぎた。既に学校は冬休みに
入っていて、携帯電話以外での連絡は不可能だった。うつらうつら
しては、すぐに目覚めを繰り返す長い夜。幾度か自宅の電話を鳴ら
そうと思ったけれど、そんな危険を冒すことはできなかった。
こんなことなら、ネットのメールアドレスも聞いておけばよかっ
た。コンピュータの画面を見ながら、動けない自分に歯噛みしてい
た。
何をしても、どんな場所にいても、美紅の姿と声が離れずそばに
あって、ただまんじりとしていることが罪に思えた。何かをせずに
はいられず、意味もなくマイケルを連れては散歩に出かけた。
けれど、決して川沿いの道を西へと向かうことはしない。小観音
の林に近づいてしまえば、自分を制御する自信がなかった。橋の上
から見える白く化粧した村の景色。ゆっくりと流れる冷たい水面を
見つめて、願うことしかできない。
どうか、美紅が守られるように。彼女を傷つける全てが遠ざかる
ように……。
「雪生、雪生はいるか」
ベッドに横になり、低い天井を見つめていた三日目の夜。土間か
ら響いてきたのは、聞き慣れた太い声だった。
「雪ぃ!」
家中に鳴り渡る声の調子が、俺の背中に慄とした予感を走らせた。
飛び起きて襖を開け、居間の床を軋ませながら応える。
「……なんだ、爺ちゃん」
板の間に足を踏み入れ、土間を見下ろした時。
グレーの作業着に煤けた茶のジャンパーを羽織った出で立ち、灰
色の帽子の下の厳つい表情、吐き出される白い息。
そして灰色の眉の下、俺を真っ直ぐに見上げた、目。
その、奥に宿る色。
「雪生」
巌のように仁王断ちになった姿、そして低い声とともに、俺は何
が起こったのかを悟っていた。
「爺ちゃん……」
「雪、そこに座れ」
顎でしゃくったその様子は、決然としたものだった。
足の下の板張りが、ぬかるみになって足が動かない。勝手に奥歯
が噛み締まり、腕が震える。
「爺ちゃん」
声が出ない。何か言わなくていけないんだ。美紅さんを守る、俺
の気持ちを証明できるなにかを。
「座れ、雪。話は、わかっとるな」
座ることはできなかった。爺ちゃんの顔を見ればわかる。その瞬
間に、俺は屈服したことになってしまう。
「違う、爺ちゃん、俺は……」
「何が違う。いっから、そこに座れ。如月先生からおよその話は聞
いた。お前にも、聞かなならんことがある」
「違うんだ、爺ちゃん。俺達は、俺と美紅さんは、適当な気持ちで
付き合ってたんじゃない。覚悟は、あるんだ。俺達は……」
皺の刻まれた口元がさらに引き締まり、目を逸らさぬままに首が
振られた。
「そんなことやない。気持ちとは別の事だ」
何かを言わなくてはいけない。慣れた土間の眺めが、ひどく狭く、
歪んで見えた。
「雪。好きじゃすまんこともある。突き通しても、なんもよくなら
んこともある。お前の気持ちがわからんわけじゃない……」
違う。そんなんじゃない。
握り締めた手の平に、つめ先が食い込む痛み。同時に、足の下の
ぬかるみが解けた。
俺は、美紅の、かけがえのないひとが見つめる先にまっすぐでい
たいだけだ。俺の気持ちなんて、どうでもいい。そんなこと、最初
から決まっている。
話さなきゃいけない。どんなことがあっても、彼女と。
「雪! 待て」
一瞬肩にかかった手を振り払って、俺は外へと飛び出した。
外は真っ暗だった。
星の光すらない。
ただ、美紅の顔だけが全てを埋め尽くしていた。
どう走ったかなんて、わからない。
ただ、触れると痺れるほどに冷たい、鉄の感触。内側から閉まっ
た門扉を登り越えると、玄関を照らす灯火を目当てに、植木の並ん
だ庭を抜け、格子のはまった引き戸の前に立った。
握った拳で力の限りに叩く。二度、三度、四度。
「開けてください!」
こだまが返るほどの声で叫ぶと、また叩く。戸が軋み、はめられ
たガラスが鳴った。
「開けるな」
小さな声が中から聞こえた。
「でも、これでは……」
玄関に下りる音と、どこかで聞いた女性の声。中の電灯が付けれ
られると、ガラス越しに背の低い影がうつった。
開けられた扉の間から見上げた丸顔の中で、小さな目が一瞬視線
を合わせて、すぐに伏せられた。そして、小柄な頭越しに見えた広
々とした玄関に立つ、背の高い、細身の男性。
白衣姿しか知らない俺にとっては、トレーナーとソフトパンツの
くだけた姿が、ひどく違和感を感じさせた。
「用はないはずだ、雪生君」
腕を組んだまま、抑揚なく発された声がひどく冷たく感じた。
「美紅さんは。話をさせて欲しいんです。美紅さんは……」
「美紅はいない。話すこともないよ、雪生君。話しても何も変わら
ない。意味がないだろう」
「どうして。美紅さんと俺の間のことじゃないですか。いい加減な
気持ちじゃないです。美紅さんだって、真剣に……」
堪えなくてはいけない。心を乱したら、何もかもが終わってしま
う。
「気持ちは関係ない。自分のやったことを考えろ。やっていいこと
と悪い事があるだろう。高校生程度で付き合いのまねごとをすれば、
こんなことになる。美紅には、もう会うなと言っておいた筈だ。隠
れて会って、こんなことになったら、自業自得だろう」
低く繋がった声には、糸口が見つからない。違う、そんなことを
言いたいんじゃない。美紅の気持ちを、声を聞きたい。気持ちは、
決まっていたはずなんだ。
「違うんです! 美紅さんの気持ちが……」
「関係ないといってるだろう!」
怒気を含んだ声が響き渡った。やや伏せ気味になっていた落ち窪
んだ眼窩の中で、険しく俺を射る激しい目の色と共に。
「……お父さん」
扉に手をかけたままだった小さな肩が振り向き、俺と同じ方を見
た。
「お前は黙ってろ。最初から言ったろう、子供の付き合いは、子供
の付き合いだ」
どうすればいい。俺は、どうすれば美紅を守ることができる?
「雪生!」
言葉を捜して歯を食い縛った時、後ろから太い声が響いた。
「飯山さん」
腕組みのまま、頭越しに視線をやったその先に振り向くと、がっ
ちりとした身体が、肩で息をついていた。
「……爺ちゃん」
「雪生、失礼だろうが。帰るぞ」
感情のこもらない声だった。
どうしてだよ、爺ちゃん。俺は、いい加減な気持ちで言ってるん
じゃない。爺ちゃんはわかるはずだ。
「困りますよ、飯山さん。ほんとに、困ったお孫さんだ」
灰色の眉の下、色のない目が閉じられると、ゆっくりと頭が下げ
られた。
「……申し訳ない限りです。よく言って聞かせますから。なにとぞ、
穏便にお願いします」
腕組みを解いた美紅の父親は、軽く息を吐くと、小さく頷いた。
「それは、さっきも言った通り、こちらこそです。他に漏らすこと
だけは……」
無言で頷きを返す祖父。
背中を、どうしようもない震えが過ぎる。これはなんだ。どうい
うことだ。なぜだ、これは俺達のことじゃないか! 俺と美紅の!
「違うんだ! そんなんじゃねぇ!」
「雪ぃ!」
玄関の中へ詰め寄ろうとした瞬間、後ろから腕が回り、両腕を押
さえつけられた。
「放せ、爺ちゃん! 俺は、俺は……」
「ダメだ、雪。ダメだ」
身体を捉えた腕は岩のように重く、どう抗っても解けない。後ろ
へ引き摺られると、目の前で玄関の扉が閉まる。
すぐに電気が消え、鍵の落ちる音が響いた。
「どうしてだよ! 俺は、本気なんだ! 何にもいらない。俺は!」
頭の中で血が沸騰して、まともな言葉が紡げない。
美紅、どこにいるんだ。美紅。
俺の声は、もう、雄叫びのようでしかなかった。
そう思う。
それでも、祖父の腕は決して緩められることなく、俺を押さえつ
けたままだった。