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 気がつくと、一面が白に包まれていた。
 ぼんやりと映していた神社の境内。何か白い霞みが下りているよ
うな気はしていた。
 石段に座って膝を抱えてから、どれくらい経ったのか。
 スウェットの上下だけの身体は、凍るほどに冷たかった。
 折り重なった枝の向こう、真っ黒な空を見上げた。ゆっくりと舞
い降りてくる白が頬の上に落ちて、冷たい雫になる。
 このまま雪に埋もれてしまうのも、いいかもな。
 到底、家にいる事はできなかった。かと言って、如月邸に行った
ところで、美紅はそこにいない。
「戻るから」
 それだけを告げて出てきた手の中には、携帯電話があった。
 着信履歴には、何の番号もない。美紅は、どこにいるのだろう。
電話もできない場所にいるのだろうか。
 独りだと思った。
 そして、報われない気持ちだけが満ちていた。
 悪かれと思ってした事などほとんどない。小学校の時の給食ボイ
コットだって、中学の時に先生を殴った時だって、高一の時の放送
室占拠だって、坂尻先輩との経緯だって、俺はただ、自然に思うま
まやってきた。
 今度のことも、ただ、好きな人と当たり前のことをした、その結
果のことだと思う。
 雪が吹き溜まっていた足もとの石段には、新たな白が積み重なっ
ていく。
 ほんとうにこのまま、埋もれてしまう方がいいのかもしれない。
 俺が思うように振る舞った時、決してよいことは起こらない。周
りはざわめき、嵐が起こり、傷つく人が出る。きっと、それが俺の
本性なんだ。
 寒いな……。
 息が顔の周りを包み、通り過ぎていく。
 見下ろした石段は、十段目くらいで闇の中に落ち、その先は奈落
に通じているように見える。葉のざわめく音が辺りを包み、微かな
陰影を後ろに、闇から現れた白が積み重なっていく。
 初めて、美紅と抱き合った日のことを思い出していた。
 でも今度だけは、嘘にしたくなかった。いや、絶対に嘘なんかじ
ゃない。あの瞬間の結果がこれだったとしても、彼女を愛しいと思
った気持ちに、何の嘘もないはずだ。
 立ち上がって石段を上り、くぐった鳥居の向こう。
 一つだけついた電灯に照らされて、社の前の地面は少しのほつれ
もない白いベールに包まれていた。
 そのまま、そこに立ち尽くしていた。
 どうすればいいんだろう。美紅の居場所さえわからない、俺にで
きることはなんだろう。
 このままでは、美紅が未来まで捨てて守ろうとしたものは、新し
い命は、何処かへ捨て去られてしまう。それで、いいのか。
 何もできないまま、ここで立ち止まっていていいのか。
 ……だめだ。
 俺のすることが、どんなに嵐を巻き起こしても、俺にはしなけれ
ばならないことがある。もう一度、如月邸に行こう。どんなに頑な
人間でも、言葉は聞こえるはずだ。俺の言葉が聞こえるなら……。
 激しく踵を返した瞬間、信じられない眺めが、振り向いた視野に
映った。
 鳥居の下から、人影が上がってくる。ベージュのニット帽が覗き、
緑のマフラーが現れる。厚手の白いコートを羽織った上半身、そし
て、俺を捉えた瞳。
「美、紅……?」
 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。幻か、幽霊かとさえ
思う。
「やっぱり、ここだった……」
 小さな声が聞こえた時、実感が一気に押し寄せた。駆け寄り、肩
に手を回すと、激しく抱き締めた。
 細い身体が、確かにそこにあった。肩口に当たる息遣い、背中に
回された腕の感触。
「冷えてる……。雪くん、大丈夫?」
 静かな声だった。身体を放し、コートのボタンを外そうとする。
何をしようとしているのか測りかねてから、その手を押さえる。
「いいよ、美紅。俺は大丈夫」
 俯いたまま、彼女は手を止めた。
「ごめんね、連絡できなくて。雪くんの家に電話したら、行き先が
わからないって言ったから、ここかもって思った」
 細く、力のない声だった。
「じゃ、歩いて? どこから? そんな身体で」
「ううん、母の車で来た。今、姉さんのとこにいるから……。雪く
んが家に来たって、知らせてくれて」
 そうか、と思う。身重の身体で、こんな雪の中を来たのではない
ことがわかって、ほっとする。しかも、お母さんの車できたという
こと。やはり、数時間前の戸惑ったような表情は、敵意とかではな
かったんだ。
「そう。よかった……」
「うん。私は、大丈夫。元気だから。でも、雪くんが家を飛び出し
たって聞いて。すごく心配だった。連絡しなきゃ、いけなかったの
に……」
 弱々しい声だった。俯いたままで、らしくない自責するような調
子で満ちている。しばらく躊躇うように息をつくと、コートの下か
ら伸びた手が俺の腕を握り締めた。
 ずっと夜の雪にさらされていた俺よりもさらに冷たい手。
 爪を立てるほどに強く力を加えられる痛みに、俺は、言葉になら
ぬ思いが過ぎるのを感じていた。
「美紅……」
 俯いた瞳の上に、目蓋が下りた。眉根が寄せられ、噛み締めた歯
が、唇の間から覗いた。
「雪生、私……」
 その先は、聞きたくなかった。言葉より先に、身体全体から伝わ
る悲愴な空気が、恐怖に近い感情を呼び覚ます。俺は、美紅の肩を
両手で挟むと、大声で叫んでいた。
「ダメだ、美紅。一緒に行こう、こんな村、出て行けばいいじゃな
いか。俺達だけだって、生きていける。俺が働けば……」
 目は閉じられたままだった。
「大丈夫だ。大学だって、勉強だって、後から取り戻せる。美紅も
言ったじゃないか、『新しい命』だって。一緒にやっていける。俺
が頑張るから!」
 顔は伏せられたままだった。俺の声だけが境内に響き、雪の中に
消え去っていく。
「……ダメだよ、雪生。だって、そうしたら、何もかもをなくして
しまう。出て行ったら、きっと帰ってはこれない。雪生は、高校辞
めなきゃいけなくなる。私の未来も、変わってしまう。そして……」
 握った手に、さらに力が篭った。
「この村の景色も……。全部を失って、一つも残らない」
「そんなことない。俺と、美紅がいれば、それで……。お父さんだ
って、わかってくれるはずだ」
 ゆっくりと頭を振った顔を見た時、俺は、美紅の頬の辺りが赤く
腫れていることに初めて気づいた。
「ダメだよ、雪くん。お爺さんとお婆さん、残していけないよ、雪
くんだって。そんなこと、できるわけがない」
 美紅の声は、どこまでも静かで、押さえた調子だった。ただ、俺
の腕を握り締めた指先だけが、彼女の胸の内を伝えているような気
がした。
 それでも、報われない気持ちが胸の内全てを占め、肺の奥から痛
みの塊が絞り出てくる。止められない。
「……どうしてだよ、どうしてだよ、美紅。なんでそんなに落ち着
いていられるんだよ!」
 腕を握った手が、激しく震え、爪が食い込むのがわかる。でも、
身体の痛みよりずっと、その後で吐き出された言葉が心と身体の全
てを打って、俺は立ちすくむことしかできなかった。
「落ち着いてなんかいない! だって、私の身体の中に、いるんだ
よ。誰よりわかってる。産みたくないわけなんか、ないじゃない!
 でも、でも、だって……」
 震える肩。俯いた目から溢れ、雪の上に落ちる涙。きつく握り締
めていた手が離れ、その場にうずくまった時、俺も同じようにしゃ
がみ込んでいた。
 両腕をコートの背中に回した。包みこむように抱きかかえると、
俺はきつく目を閉じた。
 さっきまで握り締められていた腕を何かが伝わっていく。
 気が付いて僅かに目を開けると、赤が散っていた。手首の下から
親指を伝い、真白の上に、点々と……。
「……ごめん。美紅。俺、ダメだな。辛いのは、俺じゃない」
 ただひたすらにしゃくり上げる背中。それでも、くぐもった小さ
な声が聞こえた。
「違うよ、雪生だって、ううん、雪生の方が……」
 それだけで俺には十分だった。そのまま黙って抱き締めていると、
激していた気分は潮が引くように消え去り、抜け落ちたような感覚
だけが残った。
「行こう、美紅」
 肩に手を添えると、ゆっくりと立ち上がらせた。
 後は、何も言葉を交わさなかった。暗い石段を下りると、入り口
でライトを灯す小さな軽乗用車を目指し、ゆっくりと歩いていくだ
けだった。

 『分娩室』と書かれた部屋の向こうに美紅の姿が消えてから、十
数分が過ぎていた。
 美紅の父親にも、俺の祖父・祖母にも内緒で病院への車に同乗さ
せてくれたのは、美紅の母だった。
「一緒にいてあげて」
 多くは語らず、俺の背中を押してくれた表情の意味が、俺には掴
み切れなかった。切なさとも、悲しさともつかない淡い色を浮かべ
た目の色と、口元。身体全体から醸す穏やかさは普段と変わりない
美紅の母親は、何を思って俺を彼女の側にいさせてくれたのだろう。
 書類にサインをして、『楽にするための薬』を投与された後、俺
はずっと美紅の側に寄り添っていた。
 つまらない話ばかりしていた。
 学校で誰それがバカなことをやったとか、文化祭の騒ぎとか、も
う忘れかけていた小さかった頃の思い出とか。
 美紅も、軽く笑ったりしていた。どこか色の抜けた、空気のよう
な感じだったけれど、緩んだところのないしっかりとした様子で、
俺の側にいた。
 何時間くらいそうしていただろうか。
「それじゃあ、如月さん」
 名前を呼ばれて、ゆったりと着流した黄緑のセーター姿が消えた
後、俺は自然と気持ちが一つにまとまらないようにしていたように
思う。
 ドアの向こうで行われている事を考えたら、到底まともに座って
いることができそうになかった。
 看護婦に背中を押された美紅が現れたのは、思っていたより、ず
っと早い時間だった。待っていた間に比べ、あっけないほどに早か
った。
 ベッド脇の椅子に座っていた俺は、美紅を迎え入れるように立ち
あがった。
 ばらけた長い髪の下、綺麗な稜線を描く瞳が俺の目に合わせられ、
一時微笑んだようにすら見えた。ほとんど色のない頬。ぼんやりと
した口元。目だけが辛うじてそこに踏み止まっているようで、俺は、
何の言葉もかけることができなかった。
 背の低い看護婦の手が離れると、美紅は目を閉じ手を両脇に落と
したままで、額を俺の胸に預けた。
 そして小さな声で、
「終わったよ」
とだけ言った。

 正月が終わり、全ては元通りになったように思えた。隣県に住む
親父の従兄弟が顔を出し、遠縁の子供達が騒ぎまわったりして、い
つもは三人だけの家は、少しにぎやかになった。
 こうして普通の暮らしが戻ってくるのだろうか。日々に追われて
いる時はそう思えたりもした。
 しかし夜に帳が下り、一人になると、胸の奥に鉛が詰まったよう
な苦しさが訪れて、眠ることができない。処置が終わった後に見せ
た色のない美紅の表情が心の内を占めて、夜が明けるまで煩悶した
日もあった。
 そして、冬休みも残り僅かになった、一月の初め。
 再び景色は白に包まれ、夜通し続いた雪は、縁側近くまでの積雪
になって、辺り一面を埋めていた。
 祖父も祖母も、新年の挨拶回りで家を空けたその日の午前中、俺
はまた縁側に独り腰掛けて、純白に輝く世界に身を置いていた。
 裸足の足を伸ばして、縁側近くまで迫り出した冷たさの中に差し
入れた。
 足型の小さな穴ができて、中が白く光って見える。
 その時、古い記憶が何処かから降ってきた。まるで、この景色の
中に埋めこまれていたように。
 そうだ、あの日、俺は……。
 何時間も待っていた、大雪の日。何度親父を問い詰めても、爺ち
ゃんにすがり付いても、『その内、戻ってくるから』としか教えて
くれなかった。
 そして、何日経ったのだろうか。数日だったか、それとも、一ヶ
月だったのか、よくはわからない。ただ、雪の日には必ず作ってく
れた雪だるま。こんなに降り積もれば、絶対に作りに来てくれる。
そう信じて待っていた。
 夜が更け、親父が声をかけても、爺ちゃんが手を引っ張っても、
絶対に動かなかった。
「母ちゃんが帰ってくるまで、ぜったい嫌だ」
 その後のことは憶えていない。眠ってしまったのかもしれない。
親父か爺ちゃんが、無理矢理家の中に入れたのかもしれない。
 どちらにせよ、俺の母は戻ってこなかった。俺は残され、数年後
には父も他界し、祖父と祖母だけが残った。
 そうだ。そうなんだ。
 じっと雪を見つめていた俺は、あの日からずっと押さえていたも
のが、頬を伝うのがわかった。それは、堰を切ったように溢れて、
どうしても止まらない。
 そうだ、俺は、もう一人の俺を殺したんだ……。
 後悔などではなかった。ただ、切なくて、報われなかった。悲し
かった。

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