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 雪と寒さに閉ざされた大山村の冬は、駆け足で過ぎていった。
 三学期は、何の変わりもなく始まり、いつも通りの喧騒で満ちて
いた。俺達二年生には一番気楽な時期。三年生には、将来の人生へ
の選択をしなければならない、最初の瞬間が迫っていた。
 はしゃぎ、大声を上げて、TVや映画、音楽やファッション、あ
るいは性的な秘め事の話題に興じるクラスメイトの中で、俺は今ま
で通り蚊帳の外にいた。
 それでも、時々言われる事があった。
「飯山さぁ、ますます無口にならんか?」
 そうかもしれない。適当なことを口にして、仲間の輪に入っても
構わなかったが、どうにも気持ちがついていかなかった。
 美紅も、始業の日から元気に顔を見せていた。廊下で行き会う時
も、楽しそうに他の女生徒達と言葉を交わしているようで、何らか
の変化を感じ取ることができた人はいなかっただろう。
 三学期が始まってからも、時間を見つけては屋上で会った。秋ま
での日々でそうだったように、背の低い街並みを見下ろして、取り
留めのない話をしながら。
 ――美紅の受験勉強のこと、国際関係の学科に進むつもりである
こと、都会の眺めのこと、日々の暮らしのこと。
 でも、そんな機会も次第に少なくなっていった。美紅の前には高
い山が聳えていたし、何より美紅自身が、ほとんど憑かれたように、
受験勉強へと気持ちを集中しようとしていた。
 そして、もう一つ。俺達の間にあった恋に類するだろう感情が、
どこかで流れを遮られたように滞り、表われ辛くなっていた。
 あのあとでたった一度だけ、夜を共にしたことがあった。
 時間をやりくりして、忍び合って。
 どうしようもない性欲の昂まりだったような気もする。それとも、
ずっと離れていた気持ちが繋がりを求めたのかもしれない。
 どちらにしても、終わった後に感じたのは、虚しさに近いような
感覚だった。
 そして、毛布を身体にかけたまま呟いた美紅の言葉が、今も忘れ
られない。
「できちゃうんだね、あんなことがあっても……。私って、女って、
最悪だ」
「……美紅」
「わかってるんだ、私。私は、自分のために、一つの命を消した。
だからもう、どんな人のことも責められない。もし、何もかもを失
う気があったなら、できたんだもの」
 思いつめた口調。天井を見つめたままの瞳。俺には、慰めること
などできなかった。なぜなら、俺についても同じ事が言えたからだ。
「でも、これしか選べなかった。だから、どんなことがあっても、
誰が邪魔しても、私は私の道で頑張る。そうしないと、生きていけ
ない……」
 俺は、美紅の長い髪に手を当てた。美しい横顔も整った目鼻立ち
も、以前のように輝いて見えることはなかった。愛しさよりも共感
を強く感じて、身体を寄せることが不釣合いに思えた。
 それから二度と、俺達が肌を合わせることはなかった。唇を触れ
合うことすらもなかった。
 やがて、受験組の三年生の姿が学校から消え、二月から三月への
日々は、静けさの中で行き過ぎていった。
 それでも時々は携帯が鳴った。
「うまくいったと思うよ」
 試験の様子を聞くたび、『やったじゃん』『頑張れ』なんて月並
みな言葉しか出ない自分に苦笑いしながら、それでも俺に連絡をく
れることが嬉しかった。
 私立とか公立とかに拘るのをやめた彼女は、できる限りの大学を
受験し、とにかくレベルの高い場所を目指そうとしているように見
えた。
 やがて陽射しは強さを増し、ところどころで雪の間からぬかるん
だ地面が顔を見せ始めた頃、一通のメールが携帯に着信していた。
 一ヶ月近く彼女の姿を見ることもなかった、暖かい春の始まりの
日だった。
『三月二十九日に出発するから』
 その後には駅の名前とおおよその時間が書きこんであった。
 ベッドの上に寝転んでディスプレイを眺めながら、少しだけ想い
を巡らせた。見送りに来て欲しい、そういう事なんだろうか。
 そんなことが必要なのか、考えた後で俺は、彼女の気持ちが手に
取れるような思いがした。
 俺の決して行けない場所。一度は同じ場所で、一つのものを見た
俺達。今だって、美紅は俺にとってかけがえのない人だ。
 美紅もきっと、俺のことをそう思っている。恋人同士とはいえな
くなったかもしれないけれど、旅立ちの日に俺がいれば、きっと彼
女はしっかりと前へと歩んでいける。
 俺の姿が見えなければ、美紅の気持ちはどこか中途半端なままで、
この村に残り続けるだろう。彼女はもう、ここに戻ってくる必要な
んてない。美しいものだけを抱えて、ずっと遠くの世界へ羽ばたく
べきなんだ。
 バスを乗り継いでやってきたJRの駅。久しぶりに訪れた街は、
近郊から買い物で訪れた雑多な人が行き交って、村とは裏腹の賑や
かさに溢れていた。
 春の陽射しが、薄青い空から斜めに注ぎ、駅前の小さな広場を満
たしていた。
 バスを降り、目の前の白い駅舎を見遣ると、改札に上がる階段の
辺りに、小さな人だかりができているのがわかった。色とりどりの
服を着た女の子達の中には、見覚えのある顔が幾つかある。
 そして、その中心にはスラリとしたロングヘアーの姿があって、
周りの女の子達とにこやかに話していた。
 白いカーディガンを羽織った姿は、十数人の集まりの中で、ひと
きわ浮き立って見えた。
 俯いて大きなバッグを抱え上げ、視線を戻した顔の中で、何度も
見つめあった瞳が、一瞬こちらを捉えたのがわかった。
 俺は軽く手を上げた。少しだけ上がった口の端が微笑を返す。そ
れはほんとうに微かなもので、表情の変化に気づいた人はいないよ
うだった。
 大きな荷物を抱えた美紅は、改札を通り、ホームへと歩み入った。
幾人かの子が、堪えきれないように手を目の辺りに当てるのが見え
た。激しく手を振る数人。「頑張れ〜」、そんな声も聞こえる。
 美紅は、小さく手を振って階段の方へと歩いていく。もう一度、
顔がこちらを向いて、何かを語りかけたように見えた。
 俺は、緑の木の板が打ち付けられた線路沿いの小道へと歩み寄る
と、長く伸び出たホームを見上げた。やがて、ゆっくりと歩く美紅
の姿が、ホームの端に現れた。
 女の子達が、こちらに向かってくる。俺は何気ない振りを装って、
線路沿いに歩き始めた。線路一本隔てた向こうで、美紅の視線が一
瞬俺を捉え、また女の子達に戻って手を小さく振った。
 俺は、先が尖った柵沿いに歩き続けた。美紅の姿も、表情が読み
取れる距離よりも遥か向こうへと遠ざかる。
 そして少し坂になり、小さくホームを見下ろす場所に立ち止まっ
た。駅のアナウンスが聞こえた。
『到着しますのは、特急電車です。この列車は……』
 青と白の車体が向こう側から進入し、美紅の姿は電車の陰に消え
た。
 俺は、ただひたすらに見つめていた。停車した列車がゆっくりと
動き出し、陽光の中を過ぎていこうとするのを。
 胸の辺りに手を上げ、小さく振った。
 そして、目の前を過ぎていく大きな窓。確かに、彼女の顔があっ
た。こちらに顔を向け、瞬きもせずに見つめる黒い瞳。すんなりと
した稜線を描く顔立ち。少し笑ったような口元。
 手が振られた。俺も、もう一度手を振り返す。
「美紅」
 小さく呟いた。彼女の口も、何かを言ったように見えた。
 けれど列車はスピードを上げ、あっという間に後ろ姿になり、視
界の外に去っていく。
 その間ずっと、俺は手を振り続けていた。寂しさよりも強く、言
いようもなく溢れてくる気持ちは、懐かしさに近いものだった。
 その時、ポケットの中の携帯電話がメールの着信音を立てた。
 慌てて開いたディスプレイ。そこには、こんな文字があった。
『雪くん、私、行くね。さよならは言わない。絶対、負けないから』
 並んだ文字をしばらく見つめ続けた後、俺は携帯を閉じた。
 そして、心の中で呟いた。
「さよなら、美紅。俺も、頑張るよ」

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