最終章 そして、それから −ここを、すぎゆく時を超えて−

 社の前には五十人ほど男が集まっていた。人いきれだけで熱が満
ち溢れ、湯気が立ち昇るほどの状態だった。
 足の間に白いふんどしを巻いただけの全裸の男達の身体。数十の
目が見上げた社の踊り場の上には、袴姿の神主の姿があった。
 焼けて黒ずんだ肩に、赤らんだ背中、太って白くゆるんだ横腹ま
で、何のまとまりもない身体が目の前にあって、なんとも異様な感
じが拭えなかった。
「おう、雪!」
 野太い声がかかると、鉢巻を頭に巻き付けた黒い顔が迫ってくる。
「おう、啓二」
 目から口まで大造りで四角い顔が、歯を剥き出しにして笑ってい
た。
「お前が裸練り出るなんてさ、台風でもくんじゃねぇか」
「そうか?」
 肩を竦めて鼻で息を吐くと、大きな手がポンと肩を叩いた。
「ま、いいさ。人数多いほうが、盛り上がるしさ。お、力水だ」
 神主と横に並んだ二人の男が、木の手桶を大きく振り回した。
 冷たい水が頭の上から降り注ぐ。
「おうっ!」
「やったろかぁ!」
「やるさぁ!」
 怒号に近いような声が四方から響き上がった瞬間、えっさ、えっ
さの声と共に、社の脇から、二本の担ぎ木に乗った神輿が現れた。
八人の男に担がれた六角、黒塗りの屋根の頂点には、羽根を広げた
鳳凰の飾りが揺れ動き、台の上には紫の鉢巻を巻いた二人の男が仁
王立ちになっている。一斉に耳を聾する唸り声が上がり、神輿を中
心に一気に人の群れが駆け寄った。
 否応無しに巻き込まれると、激しい肌の触れ合いが始まる。
「よっしゃぁ、よっしょぁ!」
 練りの中に身を置くと、えっさ、と言うより、よっしゃぁという
唸りに近い掛け声であることがわかった。
 最初の違和感はあっという間に消え、激しく声を上げている自分
に気づいていた。頭上から掛けられた水と、迸る汗で濡れた身体を
すり合わせ、何とか中心に入りこもうと、あらん限りの力を込めて
中心へとがぶり寄っていく。
 人の塊は、形を変えながら鳥居の元へと向かい、そうする中で何
人かが倒れて、練りの下に巻き込まれていく。
 台の上に乗った二人が、激しく手を上下に振って、練りを活気づ
ける。
「よっしゃぁ!」
 力の限り叫んだ時、遠巻きに見守る人の波の中に、思いがけない
人影を見つけた。
 髪は短く切られ、アクティブなレイヤー風にパーマがかけられて
はいたが、その顔立ちに見間違いようはなかった。
 彼女だ……。
「よっしゃぁ! よっしゃぁ!」
 背中を押しつけながら、見つめた表情。目を細め、少し微笑んだ
懐かしい顔は、どこか眩しいものを眺めているように見えた。
 しかし、表情を確認できたのは一瞬で、練りの中心に巻き込まれ
ると、その顔は人垣の中に消えてしまう。
 頭の中で、掛け声が踊り、久しぶりの目にした姿がない交ぜにな
って、さらに激しく身体をぶつけた。
「くっそお、よいっしゃぁ!」
 延々と続く裸練り。身体をぶつけ合う熱さに、いつまでも身を浸
していたいほどだった。
 掛け声は境内に響き渡り、声が枯れるまで俺は叫び続けていた。

 振る舞い酒を申し訳程度に済ますと、集会場で身体を拭き、Tシ
ャツとジーンズを身につけた。下足場の横に置かれた桶で顔を洗う
と、軽く挨拶をして鳥居をくぐった。
 石段を下りながら、懐かしい顔が見えたことを思い出していた。
 彼女が一年半ぶりに実家に戻っていることは、村の噂で知ってい
た。
「綺麗なったぞ。一段となぁ。雪生、お前には手に余るってとこだ
ったかなぁ」
 からかい混じりに知らされた時、ちょっとした里帰りだろうと思
った。相当な決心だったろうと考えは巡らしたものの、すぐに東京
へ戻るに違いないし、会う気持ちも毛頭なかった。
 きっと、元気にやっているに違いない。それでいいんだ。なんと
言っても、『村はじまって以来の才女』だから。
 思えば、村で彼女のことが口に上れば、果ては外交官かニュース
キャスターか、なんて調子の噂ばかりだった。
 でも、それも満更ではないだろうと思う。彼女なら、きっとでき
るはずだ。
 俺は、下りてきた石段を見上げた。彼女との思い出は、ここから
始まっている。俺にとって、過ぎたほどの出会いと経験だった。
 けどさ。俺も、それなりにやってるさ。
 境内の木立の上には、夏の星空が輝いていた。狭くなった神社の
入り口を抜け、川縁に続く小道へと足を向ける。
「雪生くん」
 俺は一度立ち止まり、しばらく背を向けたままでいた。
「雪生くん」
 もう一度、澄んで曇りのない、あの声がした。
 ゆっくりと踵を返した。そして、星明かりの下の姿を見つめた。
 フレアーなライトブルーのワンピースを纏い、唇を噛み締め、見
上げた瞳。
「美紅さん……」
「久しぶり、だね」
 ゆっくりと、息を吐き出すように彼女は言った。
 俺は軽く頷くと、反射的にあたりを見まわした。
「帰ってきてたのは聞いてたんだ。元気?」
「うん。元気だよ。雪生くんも、だね。裸練りに出てるなんて、び
っくりした。でも、凄く、らしかった。変わってないのに、ね」
 髪は短くなって、頬と眉の辺りに化粧の感じがあったけれど、驚
くほどに印象が変わっていない。
 どうしてか、嬉しくてしかたがなかった。彼女が村に来ていると
聞いた時は、早く帰ればいい、そんな風にさえ思っていたというの
に。
「少し歩く?」
 彼女の方からそう言った。俺は、反射的に尋ねる。
「いいの? 見かけられたら、まずくないか」
「ううん」
 首を振った。
「気にする必要、ないよ。もう、私のこと、誰も縛れないから」
 俺は、ちょっと可笑しくなって笑ってしまった。そのツンとした
調子が、高校時代を思い出させたから。
「……昔からじゃないの、美紅さんの場合」
「そうかもね」
 笑った顔はとても優しい感じで、一年半前の日々、思い詰めたよ
うに受験の事ばかりを話していた彼女は、どこにもいなかった。
 歩き出した夜の村は、ところどころから楽しげな笑い声や叫び声
が聞こえて、今日が一年一度のハレの日であることを思い出させた。
「大学は、どう?」
 漏れ出した家々の明かりの中、こんな風に歩きながら話している
事に、どこにも不自然さを感じなかった。あの駅のホームで、昨日
別れたような気さえしていた。
「うん、いいよ。講義は面白いし、いろんな人がいる。何もかもが
勉強って感じ」
「そうかぁ。やっぱ、頑張ってんだ、美紅さん」
 空を見上げて、俺は自然に漏れてしまった笑みを隠した。声だけ
で、どれくらい充実した日々を送っているかがわかる。
 負けずに乗り越えて、今を生きる彼女。俺は、間違ってなかった。
「ね、雪生くん」
「ん?」
 俺の家への曲がり角が近付いてきた時、彼女は手に持っていた小
さな紙を取り出した。
「雪生くん、インターネットやってる?」
「あ、ああ。まあね。最近、少しは触ってるよ。こんな山奥にいる
んだもの。少しは何とか考えないとね」
「……よかった。昔は嫌ってたから」
「うん、まあね」
 そんなことも言ってたなぁ、高校の頃を思い出して彼女を見下ろ
したとき、メモ書きが差し出された。
「……メアド?」
 小さく頷くと、言葉を繋ぐ。
「迷惑じゃなければ……」
 俺は、大きく首を振った。そして、家へと続く細い砂利道の前で
立ち止まった。
 彼女も立ち止まり、変わらぬ瞳のままで俺を見詰めた。俺は、し
ばらく黙っていた。不意に思い浮かんだ、あの日の眺望。もし、今
もあの眺めが俺達の間にあるのなら……。
「憶えてる?」
 どうしても聞きたいことだった。
「なあに?」
「憶えてる?」
 ただそれだけを繰り返した。考えるように目を閉じた彼女は、一
度俯いた。長い間考え込んだ後で、ゆっくりと、でも少し自信なさ
げに口を開いた。
「あの時のこと? ……山の上から見た、あの時のこと?」
 胸の中で溢れてくる想い。それはきっと、恋とかじゃない。でも、
俺達の間に永遠に流れているものだ。
 一瞬、目頭が熱くなりかけて、慌てて飲みこんだ。
「雪生くん……雪くん」
 美紅は胸の前に開いた手を当てた。
「絶対、忘れない。なくならない。ここが、私の一番の美しい場所。
宝物だよ」
「美紅……」
 俺は、手を差し出した。鼻をすすって、一度目尻を拭った美紅は、
すぐに俺の手を握った。
 柔らかくて暖かい手が、俺の手をしっかりと握り締めてくる。
 俺も、力を込めて握り返した。
 そして長い事、何も言わずに見詰め合っていた。
「連絡、するよ。メールも書く」
「うん。待ってる。村のことも、教えて。私も、あっちのことを書
くから」
「ああ、待ってる」
 手が離され、美紅は小観音の森の方へと歩いていく。
「またね、雪くん」
 一度だけ振り向くと、小さく手を振った。
「うん、美紅。頑張れよ」
 俺も手を振った。
 青いワンピース姿が、月と星に照らし出された木々の間を静かに
歩み去っていく。
 その姿が小さくなり、やがてすっかり見えなくなっても、俺は村
の景色を見詰め続けていた。そして美紅と繋いでいた手を開いて、
静かに胸に当てた。

扉ページに戻る 前節に戻る