第二章
 
 1980年。秋の空気さえ感じる、八月の終わりだった。
 "青山レジデンス"の四階まで登ってきて、聖は「森下明美」と
表札のある403号室の前で一息ついた。そうしてからベルを鳴ら
したが、暫くしても音がなかった。
 カバンからキーを取り出して、玄関に入った。いつも明美が履い
ていく青いスニーカーがそのまま脱ぎ捨ててあった。
 聖はダイニングを抜けると、左にある寝室のドアを開けた。
薄暗い寝室の奥から声がした。
「聖君?」
「風邪でもひいた?」
聖はドアにもたれながら言った。
「そうみたい」
 ベッドのライトがつけられて、少し紅潮した顔が覗いた。
「帰ろうか」
「ううん、」
 明美は体を起こしながら言った。
「起きるから。そろそろ動かないとと思ってたし」
「そう」
聖はドアを開けたままにリビングに戻ると、ガス台にお湯をかけた。
やがて、淡いピンクのパジャマに厚めのカーディガンを羽織って、
明美が顔を出した。少し重そうにソファに腰掛けると、聖の方を向
いた。
「また、どっか行ってたの」
「鎌倉近辺」
「一人で?」
 聖は軽くうなずいた。既に時の視点が紛れ込んでいた。
 キッチンの壁にもたれた聖の目の中で、明美は立ち上がりテレビ
のスイッチをつける。そして、少し寒そうに襟を寄せる。
 見たことさえないイギリスの町並みと、その一角で、アパートか
ら通りを見おろす姿が見えてくる。ベージュのセーターに身を包ん
だ彼女が、かすれた冬の咳をする。
  電話がなる。
「お湯、沸いてるんじゃない」
振り向くと、やかんが激しく湯気を立てて沸騰していた。
聖は火を止めた。
「何にする」
「入れてくれるの、」
 明美はこちらを見た。
「じゃあ、ココアでいい」
「ココアって、粉のやつ?」
「そう」
 いつも使っているマグカップに熱いお湯を注ぐと、ココアの香ば
しいにおいが立ちこめた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 聖はソファに腰を下ろした。明美は熱いカップを両手で持って、
静かにすすった。
 言葉もなく、ゆっくりとした時間の中で聖は六感を拡大した。
 いつしか、時の眺めは独自の動きを持って彼の意識の中を占めて
いく。
「どうかした」
「・・・んん。別に」
 明美はちらっと見ると、また視線を下に戻した。聖は意識に時を
流しながら、複雑な思いにとらわれていた。
「来週どうしようか」
「来週?」
「聖君の誕生日」
「ああ。そんなことやってる時間あるわけ」
「そんなことって、ひどいじゃない。それに、出発はさ来週だし」
「なんでもいいよ」
 そう言って聖はソファに大きく体をもたれて目を閉じた。
「乗り気じゃないんだ。やめようか」
 明美は声を落として言った。
「二人でいよう」
「え?」
 天井を見上げていた頭を起こして、
「二人でいない。そのほうがいいよ」
もう一度言った。
「そうだね。私ももうすぐだし」
 明美はぼんやりとテレビの画面を見た。再放送の学園ドラマが、
少し演出過剰なBGMに併せて流れていた。
 聖は何も答えずに、まだ明美の未来で心を満たしていた。
 結局、いたたまれずに明美を見送りに行くのだ。
 明美の留学が近づいてから、何度演じられたか知れない別れの景
色がまた、頭上から降ってくる。
 ・・・けれど、まだどこかが不明瞭だ。ああ、このもどかしさは
もう御免だ。
 聖はとつぜん左手を延ばして、明美の長い髪を握った。 
「なに」
 明美は聖の手を握り返した。
「、ちょっと、聖」
 そのまま聖が上になって、二人はソファに倒れ込んだ。
「・・行くな」
 自分の頬を明美の肩の辺りに押し付けたまま呟いた。
明美はにっこりと笑うと、聖の頭を押さえて、優しく言った。
「最近、私もね、後悔してるとこある。でも、向こう行くの決めた
の聖君と会う前だったし。心配しなくても、絶対、一年で帰ってく
るから」
聖は、青いソファの上に散った明美の髪を見ていた。
 互いの心臓の刻む音が聞こえた。聖は強く意識に負荷をかけて、
時の眺めを最小限にまで押し込めた。
「風邪、うつるよ」
「んん」
「んんじゃなくて」
「んん」
明美は肩に置かれた聖の頭を静かに抱いた。そうして暫く黙ってい
た。
 暖かさが、今だけの真実を教えてくれているようだった。
 明美の唇にはうっすらと笑みが浮かび、聖は目を閉じて鼓動を読
み取っていた。青いソファの上に横たわった二人の姿は、一枚の美
しい絵のようだった。
その止まった空間を裂いて、電話がなった。
しかし、聖は少しも動こうとしなかった。
「出てよ」
「出れば」
「ちょっと、止まっちゃうじゃない」
 聖は肩に置いていた顔をあげて、おもむろに激しいキスをした。
やがて、電話は鳴り止んでしまった。
「何考えてんの」
 ようやく聖の体を振りほどき、顔にかかった髪をかきあげながら、
明美は言った。
 聖はうつ伏せになったまま息を殺して笑っていた。
「きっと、教授からだったはずよ。かけるって言ってたし」
「またかけてくるよ」
「そういう問題じゃないでしょう」
「まあね」
 聖は体を起こすと、ポン、と立ち上がった。そうして、窓の方へ
歩きながら、二、三回拳を突き出した。
「あさって、時間ある?」
「何かあるの」
明美は不機嫌な声で言った。
「別に。飲みに行きたかっただけ」
「どうかしたの。珍しいこというね」
「そうかな」
 聖は本棚の上に乗っていたルービックキューブを手にとった。
「まあ、別に、何もないけれど」
「じゃあ、決まりだね」
 色違いになってしまったキューブを元の所に置いた。
「ああっ、それ、苦労したのに」
 明美は言った。
「覚えてるんだろう、明美」
「30分はかかるわよ」
「結構かかるんだ」
 聖はそう言うと、ソファの方に戻って、荷物を持った。
「帰るの?」
「風邪だろう、休んだほうがいいよ」
「そうね。あさって、行くんでしょう」
「んん、よろしくね」
 聖はナップを背負うと、玄関の方に歩んだ。
「それじゃあ、あさって」
「いつもの所でいいのね」
 明美はソファから玄関の方へ顔を出して言った。
「そう」
 聖はドアを閉めた。電話の鳴り始める音がかすかに聞こえた。


 マンションを出ると、聖は渋谷の雑踏に身を投じた。見分けのつ
かないほどの多くの時が、人混みの中に消えていく。
 肩にナップをかけて、公園通りを上っていった。
 まっすぐに歩けるほどの所までくると、聖は首を振った。
 ベンフォードの声が耳の奥に張り付いていた。 
今、友美がいなくなったら、俺はどこに行くかわからない。
 「グリーミング」と赤いネオンが輝く階段を下りると、チケット
を買って狭い入口をくぐった。
 熱気と湿気の中に、かすれた歌声が響いていた。
 どこかイーグルスを思わせるウェストコースト風の曲だった。
 聖は混みあったライブハウスの中をかき分けると、奥の壁に寄り
かかった。そして、しばらく音に身を投じていた。
 ポケットからセブンスターを一本取ってくわえると、細い手が伸
びてライターをこすった。
「ありがとう」
 ちぢれた長い髪を後ろで束ねたラフなスタイルの女だった。
「どっか行ってたの」
「ちょっとね」
「最近顔見なかったからね」
「まあね。あつ子さんは元気だった?」
「あたし?あたしは相変わらずよ」
 そう言って、聖の横のパイプチェアーに座った。
 歓声と矯声が沸き上がった。ステージのライトが暗くなって、ボ
ーカルがマイクを取った。 声が通るようになってから、聖は言っ
た。
「このバンド、初めてだな」
「BE−HIVEてのよ。まだ最近よ」
「若いのに、渋っぽいな」
「若い?」
 あつ子はけらけらと笑った。
「若いって、聖、いくつなの」
「もうすぐ17。・・・あ、ほんとにホテルカルフォルニアだな」
「好きなのよ」
 あつ子は顔を上げると言った。
「今日は、お目付け役さんは」
「風邪。マンションで寝てるよ」
「ほんと。じゃあ、あたしが誘ってもいいのかな」
「いいんじゃないの」
 吸殻を灰皿に放った。ギターソロが始まった。
 聖は視線を落としてあつ子を見た。
 君だって、19なんだろう。
「出よう。行くあて、あるんだろう」
「つきあってくれんの? 本気で」
 あつ子は顔を上げた。
「ああ」
 聖はうなずいた。その時演奏が終わって、歓声と拍手が辺りを埋
め尽くした。
 そして、あつ子の肩を抱くと、聖はライブハウスを出た。


 朝の光を感じて目を開けると、体の横にぬくもりを感じた。
 かすかな寝息をたてて、彼女は枕に顔を埋めていた。
 聖は化粧のとれたあつ子の顔を静かに見つめた。頬の辺りが少し
荒れていたが、朝の光に照らされて、張りのある美しい稜線を描い
ていた。
 中学を卒業後、一人で生きてきた少女。一家離散の後、消息さえ
つかめない両親。可能性を諦めない心は、今、揺らいでいる。絶望
はやがて色濃くなる。しかし、結婚、ひとときの安らぎ。やがて、
擦り切れた日常の眺めが。もう、何も見えない。やり場のない焦り
と不満を感じたまま、老いていく。夫の死。悲しみも、時の流れに
かき消されていく。そして、自らの死。71才、2032年。
 聖はベッドを出た。時計を見ると、6時を回ったところだった。
「おはよう」
 後ろから起き抜けの低い声がした。
「まだ寝てなよ」
「んん・・」
 そう言って、彼女は寝返りを打った。聖は窓際に立って、夏の朝
の景色を見ていた。動き始めようとする街がそこにはあって、昼間
の暑さを予感させる心地よい風が静かにそよいでいた。
 聖の胸を過ぎる時はなく、あるがままの自然が彼の目を閉じさせ
た。
 聖はゆっくりと窓際から離れると、支度を始めた。今日は高校の登
校日だった。
 パンをオーブンに入れた時に、あつ子が体を起こした。眠そうに
目をこすりながら、聖の方を見た。
「学校なの」
「ああ、登校日」
 ワイシャツを着ながら、聖は言った。
「ふければいいのに」
「、起きるなら、そこにガウンがあるから」
 ベッドの後ろを指さした。
「彼女、よく来てるんだ」
「たまにだよ」
お湯の沸く音がして、聖はガスを止めた。
「俺はもう出るけど、あつ子さんはどうする。午前中には戻って来
るけれど」
「私も、バイトあるから、行くわよ。出るって、すぐじゃあないで
しょう」
「あと30分位だよ」
「そう」
 あつ子はうなずくと、ベッドから出てガウンを羽織り、バスルー
ムに消えた。
「シャワー、使っていいよね」
 顔だけ出して彼女は言った。 
「いいよ。ガスつけるの忘れないで」
「OK」
 ほどなくシャワーの落ちる音が聞こえ始め、聖は昨夜の感触を思
いだしていた。
熱い女だったな。
 焼き上がったロールパンにサラダをはさみこんだ。
「ドライヤー使うよ」
「御自由に」
 パンを食べながら、聖は皮肉な気分を感じていた。
 結局、セックスでもしなければ、何も忘れられない俺は、凡百の
高校生と同じ馬鹿ってことだ。
「もう、行くんでしょう」
 あつ子は髪を拭きながら椅子に腰掛けた。
「何か食べないのかな」
「あたし、起きてから2時間位、何にも食べられないのよ」
 聖はあつ子のガウンの胸元を見ると、なんの前置きもなく、手を
差し入れた。そして、張りのある乳房をぐっと掴んだ。
「ちょっと!」
「昨日は、どうも」
 そう言って、にっこりと笑った後で手を離した。
 あつ子は一瞬、あっけにとられた表情をした後で、胸を押さえた。
「あたしこそ。久しぶりによかったわよ。ね、今日、ふけちゃえば」
 聖は何も言わずに、パーマのかかったあつ子の髪に触れると、立
ち上がった。
 見つめる彼の瞳は底が知れぬ程に深く、冷たかった。それに引か
れるように、あつ子は立ち上がった。
 しかし、聖は壁にかかっていた紺のネクタイを取っただけだった。
「・・・行くの?」
「もちろん」
 そう言ってうなずいた聖の瞳は、もう元の、どこにでもある不透
明な光を放つだけだった。


 夏休み気分を引きずった登校日は、クラス中がざわめいて、手の
つけようがなかった。
 聖は夏の日差しを背に、クラスメイトの坂本明夫と話していた。
「家族は帰ってきたのか、友村」
「いや」
 聖は言った。
「薄情だなあ」
「そうかな。その方が気が楽だろう」
「そうかあ?」
 明夫は坊主頭を押さえながら言った。聖はその仕草にクスッと笑
った。
「おまえ、また馬鹿にしたな」
「そんなことはないよ、明夫」
 相変わらず、無邪気な奴だ。
 聖は心の中でそう呟いたあと、軽く頭を叩いた。
「・・・友村って、いつから独り暮ししてんの」
 前の席にいた喜田が口を夾んだ。 
「高校入学してからだね」
「ジャカルタだったっけ、家族。いいよな、気楽で」
「女も連れ込んでるし」
「女あ?」
 喜田の反応に明夫は口を押さえた。
「友村、そんなことしてんの?」
「しょうがないな」
 聖は明夫の顔を見た。
「その反応、まじかよ。やらしー」
「何だ?」
 さらに4、5人の男子生徒が集まってきた。
「友村、部屋に女連れ込んでんだって」
「ほんとかよ。独り暮しはいいなあ」
 喜田の言葉にみな友村の方を見た。
「で、明夫、どんな女?」
 明夫は聖の方を見た。聖は大きく息をついてから、自分で言った。
「大学生だよ」 
 一瞬、聖を中心に言葉が消えた。
「すげー美人。早稲田だよ」
 明夫が言った。
「おまえ、会ったことあんの」
「友村のとこ行った時な」
 体格のいい一人が聖の肩を叩いた。
「やんじゃん、友村。真面目ぶりやがって」
「それほどでもないよ」
 あくまで落ち着いた声で、聖は応えた。
「ま、ご謙遜を。大先生。勉強だけじゃなかったのね、友村ちゃん」
「ね、なんなの」
 女生徒が友村を中心にして出来た輪の外から呼びかけた。
「友村君が、美人の大学生連れ込んでんだって。しかも、早稲田の」
 輪の外にいた一人がふざけた調子で言った。
「え? どこに」
「家に決ってんじゃん」
「自分の部屋に?」
「あれ、桐原ちゃん、知らないの。友村って、一人暮ししてんの」
「えー、ほんとにぃ」
 既にクラスの半分ほどがこの話題に集まっており、聖と明夫がそ
の中心にいた。
「明夫、責任取れよ」
 質問責めの合間を縫って、聖は言った。
「悪い」
 明夫は手を合わせた。しかし、そう言った聖の声はどこか嬉しげ
だった。
「おーい」
 声の波の向こうから、聞き慣れた声がした。
「席につけ。始めるぞう」
 担任の中村だった。しかし、容易に騒ぎは治まらなかった。
「先生、友村くん、女連れ込んだんだって」
 調子者の今井が叫んだ。
「ああ、わかった、とにかく、席につけ。すぐ終わるから」
 ようやく、混乱は治まって、各自席についた。
「ほんと、悪かった」
 後ろから聖をつついて、明夫は言った。
「いいよ」
 機嫌良く聖は言った。
 しばらく、聖は微笑んでいた。そうして、外を見た。
「なんか、いいことあったの」
 隣の鳥江がのぞき込むように言った。
「そうだね」
 聖は答えた。
「そこ、ちょっと我慢しろよ」
 教壇から中村が指をさしたので、鳥江は二の句を継げなかった。
その代わりに、右後ろの方で声がした。
「こりゃあ、別れ話だあ」
「いやあ、鳥江さん、あきらめなさい、彼はもう、汚れてしまった
のよ」
 中村は大声で言った。
「静かにしろ」
 その時、堪えきれなくなったように、聖は笑い始めた。周りにし
か聞こえない小さな声だったが、それは30秒くらい続いた。
 いぶかしげに周りは見ていたが、明夫が先に声をかけた。
「何が面白いんだ」
「い、いや、ちょっとね」
 いつもこんな風ならな。
 聖は笑い止んだ。
「友村あ」
 ついに名指しで注意されると、聖は身体を起こした。
「すいません」
 後は静かになった。


 次の日、聖は一昨日の約束通り「グラム・スラム」のカウンター
に座って、明美が来るのを待っていた。
「今日は一人なの」
 バーテンが言った。
「後から来るよ」
「明美ちゃん、もうすぐイギリスなんだって?」
 聖はうなずいた。
「送別会はここにするつもりだから。よろしくね、克己さん」
「それは。いつもごひいきに。それで、いつなの。友村君」
「9月の頭には行くから、来週辺りだね」
 言って、聖はロックのグラスを干した。
「寂しくなるね」
 バーテンは聖のグラスを取ると、軽く2フィンガーぐらいスコッ
チを注いだ。
「友村君て、友美ちゃんと同じ大学だったよね」
「んん、友美のほうが先輩だけどね」
「追っかけて留学すれば。ほんと、俺がこんなこと言うのなんだけ
ど、お似合いだからなあ」
「ありがと、克己さん。でも、一年だからね。
「その一年の間に、金髪男に転んだりして」
 聖は薄笑いを浮かべた。そして、バーテンが別の客と話し始める
と、ぼんやりカウンターの中を見ながら、ゆっくりとグラスに口を
つけた。
黄色にかすんだライトの向こうで、並べられたボトルが光を乱反射
していた。
「ぜんぜん減ってないじゃない。最近、飲まなくなったね」
「そうかな」
 聖はグラスを干すと、バーテンの方に差しだした。
「いらっしゃい」
 その時奥のドアが開いて、店員の威勢のいい声が響いた。
「お久しぶり」
 入ってきた女性の声は、聞き間違えようもなかった。
 聖が首を持ち上げて向こうを見ると、友美は聖を捜して辺りを見
回していた。
 やがて、聖の姿を認めると、ゆっくりとカウンターの方へ歩いて
きた。
「今晩は」
 座った聖の肩まで顔を寄せて、横から目を見つめながら言った。
 いつもの優しさが瞳に溢れていた。聖は自然に微笑んで、左の空
いていたチェアーをグラスを持っていない方の手で引いた。
「座れば」
「ありがと」
 頭を上げて、顔にかかった長い髪を後ろへ流しながら、友美は座
った。髪をかきあげた耳元に、ブルーが光った。
「イヤリング、新しいやつ?」
「んん、気分変えようと思って。あ、克己さん、マンハッタンよろ
しく」
「はい、マンハッタンね」
 オーダー票にチェックを入れると、バーテンの克己は二人の方へ
近づいてきた。
「最近は、ご無沙汰だったね、明美ちゃん」
「ごめんね、なんだかんだで忙しくって」
「時間、合わなかったしね」
「別に、いいんだよ。ここはシングルOKなんだし」
 冗談めかして克己は言った。
「で、克己さんが誘うわけ?」
「ばれた?」
「その誘い、乗っちゃおうかしら」
 明美は出されたマンハッタンに口をつけながら言った。
聖はくすっと笑った。明美はそれとなく聖の方を見た。探るようで
はなく、あくまで落ち着いた優しさが満ちていた。
「何か、いいことあったのかな」
「いいこと、ってわけでもないけど」
「何かあったんだ」
「ほんと、」
 明美は視線を落として言った。
「なんでそんなに勘がいいの」
「さあね」
 普通の人間じゃあないからだ。
「父親が再婚するんだって」
 友美はおもむろに口を開いた。
「私にはさして関係ないことだし、むしろ喜んでるんだけど。妹が
ね」
「まだ、小さいんだったっけ」
「ん。まだ9才だから。結構難しい年齢だしね。まあ、人見知りし
ない子だから、心配はいらないと思うけど」
 ・・森下聡美。
 ぼやけたイメージが浮かんで消えた。
「大変だね」
「・・別に、そうでもないけれど。ただ、父は私がイギリスに行っ
てしまう前に、決めてしまいたかったらしいのよ」
「それはわかる気がする」
「また。すぐ大人ぶるんだから」
 いや、君の父親の判断は正しい。もう、君は長く日本にいること
はないだろうから。
 照明が少し暗さを増した。
「だから、」
 しばらく何も話さずに飲んでいた後で、明美は自分から口を開い
た。
「しばらく多摩の方にいないといけないと思うのよ」
「そうだね」
 聖はわかっていたかのように冷めた口調で言った。
「わかってたけど、つれないのね」
 明美はグラスをほした。
「別に、そういうわけじゃないよ」
 聖は少し声を高めた。
「二人でいるんじゃあなかったの、来週」
「そんなこと言ったって、俺の誕生日だ、友美にとやかく言える立
場じゃない」
「いろっていえばいいじゃない。もう用意は終わってるんだし、向
こうに行ったら出発寸前まで戻れないわよ」
 聖は煙草に火をつけた。明美の方に意識の矢を向けないように、
思いを煙った空間にさまよわせていた。
「しょうがないさ」
 ぽつりと言った。
 けれど、まだだ。まだ刻むべき時が残っている。
 明美はグラスを頼むと、聖のボトルからついでもらった。そして、
静かに口をつけると、左に座っていたカップルの方を見た。淡いピ
ンクのマニキュアの指が、しつこくかぶさってくる長い髪を後ろへ
流した。
「髪、切ろうかな」
「長すぎる?」
「んん」
 そう言って、また黙った。
 体格のよい(そうだ、あいつはラガーだった)ベンフォードにも
たれるようにして歩く、ショートカットの明美。俺に見せていたの
とはまったく違う、甘えた表情。
 これは、いったいいつなのだろう。
 手に抱えているのは、荷物ではない。ああ、赤ん坊だ。そういえ
ば、一度だけ見たことがあった。二人に子供ができる場面を。
 かわいい盛りだ。明美に面ざしが似ている。
聖は冷えたグラスを額に押しつけた。
 こんな眺めを心に写したところで意味がない。
「頭でも熱いの?」
 聖は首を振った。酔いが回り始めると、時の視点に押えがきかな
くなる。それが、心地よくもあるのだが。
「いやだね、自分が嫌になる」
 残っていたスコッチを一気に飲み干した。
 明美は何も言わなかった。不安そうな視線だけが、聖の胸に残っ
た。
 そうだ、君はそうして去ればいい。すべてを包み込める自負があ
る君にも、この僕をつかみきることはできないのだから。その不安
さは君が求めているものではない。君が本当に知らなければならな
いのは、安らぎだ。
 だから、君は僕より、彼を選ぶんだ。
「帰れよ」
 最初は小さな声で言った。明美は少し驚いたように、聖をまじま
じと見た。
「帰れよ」
 周りにも聞こえる声だった。
「・・どうして、どうしたのよ」
「いいから、とっとと帰れ。気分が悪くなる。
「気分が悪くなるって、私が?」
「そうだよ。もう、まっぴらなんだ」
 明美の表情が困惑で彩られた。
「ちょっと、どうしたのよ。さっき言ったので、気悪くした?」
「そんなんじゃない。いいから帰れ」 
「帰れって、まだ何にも決まってないじゃない」
「決めることなんて何もないだろう。明美はさ来週イギリスへ発つ、
俺は残る」
「それじゃあ済まないでしょう」
「すむよ」
 聖は立ち上がった。
「どこ行く気?」
「明美が帰らないなら、俺が帰る」
「ちょっと、待ちなさいよ」
 既にこのやりとりに耳を澄ませていた客達を押し退けて、聖は一
方的に店を出た。
 そして、酔った意識がつかみ取るままに、過ぎて行く人々の過去
と未来の眺めを流しながら、渋谷の雑踏の中へと身を沈めていった。


 1980年、8月24日。友村聖は久しぶりに自分のマンション
に帰っていた。
 どこまで行こうと、自分自身から逃れ出ることはできない。
 聖は疲れ果てて、ベッドに横になっていた。
 一人で考え込むことは、自らの内なる時間に目を向けることにつ
ながる。それは、恐怖だった。
 それでも今は、何かに意識を紛らわす余裕さえない。
 ・・・妹を殺そうとした時があった。今でも恐ろしいほどに鮮明
だ。
 これは、記憶か、それとも、自分自身の時を見ているのか。
 11才の俺は、変えられないものを変えようとしている。
 人の生き死にや、結び付きは不可避のものだ。不可避の未来を知
らぬがゆえに、人は希望を持てるというものを。
 妹は72まで生きる。それは確かだった。
 ならば、殺せばいい。絡み合った鎖の一本を引きちぎるのだ。
 聖の瞳から涙が落ちた。
 曇ってよくは見えない未来。いくらかの振幅を伴って、最後には
一点に集約していくのだ。
 それを悟ったのは、いくつの時だったろう。
 俺はあと二、三十年で死ぬ。それはわかっている。今は、見えな
い。しかし、いくら避けても関係の中で全てが明らかになってしま
うだろう。
 小学校の頃、先生の未来の中に高学年の自分の姿を知ったように。
そして、友美と出会った時、二人の行く先を知ったように。
「隣、いいですか」
「ええ、どうぞ」
「一人なんですか」
 髪の長いその女性は、少し怪訝そうに俺を見る。
「そうだけど。それが?」
「いや、映画、好きなんだなと思って」
 森下、明美。これは・・・
「高校生、あなた」
「そうですよ」
 母親の死。妹達を一人で世話していた中高生時代。父親は、「H
OMETOWN」の社長。
 今は、早稲田大学第一文学部・・。そして、今。留学。イギリス?
この町並みはそうだ。結婚。イギリス人・・ベンフォードという男。
 比較文化の助教授、か。彼女の留学の目的も、それだった。幸せ
そうな笑顔だ。
「食べる?」
 明美はスナックをこっちへよこした。
「え、それじゃあ」
 既に映画は始まっている。「未知との遭遇 特別編」。
 明美を抱き寄せてキスをする。いや、彼女が俺を膝に抱き寄せる。
いや、二人で肩を寄せ合う・・・
 結局、俺が、自分で自分の命を絶てば、全ては終わるのだろう。
二度と、未来は繰り返さず、あと二十年は生きるはずの俺は、最後
の逆襲をする。
 聖は目を見開いた。そして、くくっと笑った。
 アイロニーだ。
 そして、真顔に戻って天井をにらむと、右手で壁をドン、と叩い
た。
 また、あの時のようにやり場のない怒りがこみ上げて来るのを感
じて、歯をくいしばった。
 その時、予期しなかった時の眺めが脳裏を過ぎた。
 明美?
 その三十秒後、控え目なチャイムの音が部屋に鳴り響いた。
 明美だ。
 聖は目を閉じると、タオルケットをかぶった。
 何度か鳴った後で、チャイムは止まった。そして、鍵が開く音が
聞こえて、廊下を抜けて歩いてくる音が続いた。
「いるじゃない」
 ベッドルームの入口で声がした。
 聖はタオルケットをかぶったままじっとしていた。すぐに近寄っ
て来る音がして、タオルケットを上からひっぱった。
「ほら、顔見せなさいよ」
「うるさい」
 くぐもった声だったが、どこか笑っていた。
「心配させて。電話もしたのよ」
「・・・見たくもない」
「え?なんだって、このだだっ子」
 明美の額ががタオルケットごしに押し付けられるのを感じた。
 「おまえの顔なんか、見たくもない」
 そう言って、かぶっていたタオルケットを明美にかぶせかけた。
「きゃあ」
 聖は上になって明美を押え込んだ。
「捕まえた」
「何すんのよ。放してよ」
「じゃあ、参ったと言え。そしたら放す」
「なんで、参ったなんて言うのよ」
 さっきとは逆に、明美のくぐもった声が少し笑いながら聞こえた。
「なんでもいいから。言わないと、こうだ」
 片腕で首の辺りを決めると、残った片手でわき腹をくすぐった。
「弱点攻撃ぃ」
「や、やめてよ。そこ弱いんだから」
 明美は切れ切れに言い、Gパンの足をばたつかせた。
「じゃあ、参った」
「わかったから、わかったから、放して。おかしくなっちゃう」
「参った?」
 それでも聖は確かめるように聞いた。友美は大声で言った。
「参りました」
 聖は腕を放した。
 息をついた後、明美はベッドに横になったまま言った。
「ほんと、最近おかしかったでしょう、聖君」
「そうかもね」
 聖は床に座って、ベッドに寄りかかるようにしていた。
「本当はね、もうほっとこうかな、と思ったんだけど。考えてみた
ら、私が急に留学しちゃうのがわるいんだな、って」
 最後の時か、いや・・・
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「私、すぐ忘れちゃうんだけど、まだ、16才なんだもんね、聖君」
「今日で、17だよ」
「わかってる。・・だからね、どんどん私が悪いような気がしてき
て。ほんと、気が付かなくて、ごめんね」
「そんなことはないよ。俺がだだこねてただけだから」
 そう言ってベッドの方へ向き直り、上半身をもたれた。
「また、すぐそういうふうになるのね」
「そういうふうって?」
 聖は組んだ腕に顎を乗せ、友美はひじ枕をして聖の方を見た。
 TシャツにGパンだと、いつもの知的な感じが薄れて、高校生の
ような無邪気ささえ感じさせた。
「・・無理してるってことよ」
 明美はゆっくりと言った。聖は明美の目を見つめた。
「これが地だよ」
「嘘ばっかり」
 明美は身体を起こすと、聖の唇にキスをした。自然に互いの頭に
手を回すと、少し激しさを増して求めあった。
 聖がベッドに上がろうとした時、明美が自分から唇を離した。
「ね、ケーキ食べない」
「ケーキ?」
 瞳の輝きがまぶしかった。
「さっき言ってたでしょう。今日、17だって」
「あ、ああ」
「向こうのテーブルに置いてあるから。おいしいわよ」
 聖は中途半端な格好のまま、ベッドに手をついた。
「今、何時だっけ」
「6時くらいね」
 友美は微笑んだ。腰を下ろした聖に腕を回して言った。
「お楽しみは、後でいいよね」
 聖は友美の頭をペシャリと叩いた。
 一瞬、ベンフォードに同じように甘える明美の姿が意識をよぎっ
たが、かえって聖の心をなごませた。
 俺の中にも、明美に安心を与える要素があるということだ。なら
ば、全ては時が満ちぬが故に、流れていくが故にだ。
「冷蔵庫にシャンペンがあるから」
 聖は回された明美の腕に手を乗せた。微かに脈を感じた。


「ね、雰囲気だそうよ」
 明美の言葉で蛍光灯が消されて、15センチ角の小さなケーキの
上で、ろうそくの淡い光がゆらめいていた。
「おめでとう」
 聖はろうそくの火を吹き消した。赤く照らされていた明美の丸い
顔が、闇の中に消えた。けれど、ほどなく明るくなり、スイッチを
つけた明美がソファに戻った。
「熱いね」
 ケーキにナイフを入れながら言った。シャンペンはもう開いてい
て、細かい泡を発散していた。
 聖はナイフを入れる明美の手をじっと見ていた。そして、その一
言一言に耳を澄ませていた。
 この声を、姿を、一生忘れまい。
「ごめんね」
 いつになく、優しく、少しも押し付けがましくない調子だった。
 そして、似合わないかしら、Gパンに合わしたんだけれど、と言
っていた編み上げた髪に触れながら、うつむきかげんにしていた。
「怖いと思うことなんて、高校の時からそうなかったし、今もこれ
からに不安は感じていないと思う」
 細い指が、ガラステーブルからグラスを持ち上げた。
『でも、何か・・・』
「でも、何かしていないことがある気がするのよ。こういう感じっ
て、そんなにないんだけれど」
『それは、聖君の・・・』
「それは、聖君のこともあるし、他のこともあると思う、家のこと
とかね。でも、私にも考えつかない、んん、どんなふうになるかわ
からない未来があって、それは私の努力や、意志とは全然別にある
ような・・・」
『これは、私にとって・・・』
「これは、私にとって、大きな賭だし、そういう気分にしたのは私
自身だから、しょうがないとは思うのよ。こうしていって、こうト
ライしていけば私はこうなる、じゃなくて、私がいま持っているも
のがおもむくままに進んでみること。もう、20才だし、今を除い
てはできない選択でしょう。女だしね」
 聖は黒いソファに身体を預けて、明美の言葉と未来を見ていた。
「明美って、自信家だからね」
「あら、」
 ついていた肘から顔を上げて聖を見つめた。
「聖君の方がずっとそうでしょう」
「どうかなぁ」
「そうよ」
「どっちだっていいよ。ただ、明美の言うことはわかるな。先がわ
からない時、残していくものの不確かさを思うんじゃないのかな」
「・・・そうね」
 赤いTシャツの胸元に、銀のハートが揺れてるのに、初めて気付
いた。
 エンジン音が窓の下の方で響いた。急速に走り去って行くと、ま
た静けさが戻ってきた。
「結局、不安なのかもしれないね。でも、やれてしまうことが嫌だ
ったんだし」
「んん、そうだね。頭いいし、わかってるもんね、明美って」
 明美は、自嘲ぎみに笑いながらドタンとソファに寝そべった。
「変なものね。そんな風にわかってくれるのが、聖だなんてね」
「悪いかな」
「そんなことないけどね、」
 ソファに肘をつき、聖の方を見る。
「なんで、高校生なんだろうなって」
「年なんて、関係ないんじゃない」
「そうかもね・・」
「このまま止まってしまうことなんて、明美にも、俺にもできない
から、何かをするしかないよ。でも、明美も変わってるよ」
「当り前じゃない。聖君とつき合ってるんだから」
 今度はうつ伏せになって、窓の外を見ていた。7階の部屋からは、
遠くに副都心の光が見えた。
 聖は時を呪った。こんな風に話せるようになって、もう別れはそ
こにある。
 しばらくして、明美は起き上がった。
「ごめんね、なんか自分のことばかり話しちゃったみたいで」
「いいよ。今日は、誕生日と明美の送別会だから」
「・・・そうね。もう、一週間ないし。ね、残り飲んじゃえば」
 聖はグラスを差しだした。
「どうしてこの間怒ったの?」
 残りのシャンペンを注ぎながら言った。
「さあ、もう、忘れた」
「また。すぐ忘れるような事じゃないでしょう」
 聖は答えなかった。ただ、あの時の自分を意識に写しだしてみた。
 何度も繰り返してきたことだ。勝ち目のない時間の力に悪あがき
をし、怒っているだけのことだ。そして、これは俺だけの苦しみ、
俺にしかわからない痛み。だから、俺が忘れるしかないことだ。
 ベンフォード、最初から勝負はおまえの勝ちと決まっていたんだ。
 わかっているようで、やはり今日という日までわからなかったの
だ。あきらめるということを。
 だから、苦しむのか。だから、やはり俺は人間なのか。この痛み
を越えることはできないのか。
「・・・どうしたの」
 明美の顔がすぐそばにあった。
「泣いてる、の?」
「・・・そうだよ」
 頬を涙がつたった。首をうなだれると、明美の腕が頭を抱き寄せ
た。そして、しばらくじっとしていた。
「つまんないこと聞いたみたい。もう、いいよ、聖君。もう聞かな
いから」
 聖は友美の胸の中でうなずいた。
 なぜ、こんなに涙が・・・。
 肩の辺りに手を回すと、聖はきつく目を閉じた。
「悪いね、俺って、明美に話せないことが多すぎるよ」
 本当にそんな気分だった。
「いいから。無理しなくても。でも、待っててね。来年、きっと聞
いてあげるから。すぐに戻ってくるから。だって、こんなに好きに
なって・・・」
 聖はそれ以上の言葉を、唇で封じた。これ以上、何も聞く必要が
ない。俺は最後まで、この女性に心を開くことができなかったのだ
から、そんな権利はないのだ。
 ベッドに入って、身体を合わせた時、聖は知った。本当に最後な
のだ。今までのように、抱き寄せる場面が未来の時とだぶることが
ない。今だけなのだ。
 確かめるように、幾度も身体を重ねた。
 今だけの真実を。今だけの・・・。


 疲れて、眠り込んで、いつの間にか朝が来ていた。まだ静かに眠
っている明美を見ながら、出会った頃を思い出していた。
 出会いの時から、変わらぬ心で自分を包んでくれた女・・。未来
へ賭ける自信が、こんな俺より、ずっと若々しい気がしていた。
 でも、より多くを与えてくれたのは明美の方だった。
 この一年間、無意味だった時間は、生きるべき時へと昇華してい
た。そう思う。
 もう、何も悔いはない。
「明美は、幸せになるよ」
 寝顔にそうささやかずにはいられなかった。
「・・・朝?」
 その時、聖の目の中で、明美は眠そうに目を開けた。
「まだ5時。もう少し寝よう」
「んん」
 眠そうにそう言った。聖はもう一度裸の肩を抱き寄せると、自分
も目を閉じた。
 もう少しだけ・・・。


 9月4日。揺れる列車の窓から北海道の景色を見ている。広がる
原野は寒々しく、もう晩秋のようだ。
 先週、イギリスへと旅立った明美のシュプールは遠くて、もう追
えない。そろそろ潮時だろう。時間は満ちすぎていて処理のしよう
がない。俺にその全てを飲み込むことは不可能だ。
 そして、自らの生にももう意味を見つけることができない。
 自分の手で幕を降ろそうと思う。あと何十年かある命を自ら絶て
ば、最後に一矢報いることにはなるだろう。
 何度決められたものに対して勝負を挑んできたか。もう、空しい
思いはしたくない。結局、こうするしかなかったのだろう。
 人生が人との出会いと別れの繰り返しならば、もう、数百回は味
わった。ならば、外見は17才でも、心は老齢だ。


 ここまで書いて、友村聖はペンを止めた。薄いメモ帳には、思い
つくままに綴られた5日分の思いが残されていた。
 ここまで来た・・・。
 最初から旅はここまでのつもりだった。聖はもう一度薄緑の地平
線を見た。
 友美や、妹の亜矢や、両親の顔が思い浮かんだ。
 さて、どうやって死のうか。
「聖」
 その時、誰かが呼んだ気がして、声のした方を見た。通路をはさ
んだ斜め向こうに親子三人連れがいる他は、車両には乗客がいなか
った。
 そら耳だったろうか。
「聖」
 まただ。
 聖はもう一度家族連れの方を見た。
 小さな女の子が、父親の膝を出て、肘掛けにもたれ、こちらを見
ていた。
 短く刈られた髪の下で、好奇心に満ちた黒目がちな目が、こちら
を覗いていた。
 聖は自然と目を合わせると、少しだけ、少女の時間に意識を合わ
せた。


「私なの?」
 志穂は声を上げた。聖もほどなく目を開けて、うなずいた。
「そうだ・・・君だったんだ」
 意識を触れ合わせながら、過去と未来をさまよい続け、二人は現
実に戻った。
 時計は、肩を寄せあって目を閉じてから三時間あまり進んでいた。
 志穂はしばらく何も言わなかった。ただ、聖には彼女が何を感じ
ているのかはだいたいわかっていた。
「・・・きっと、こんな風に全てを分かちあっていかなければ、志
穂と俺とはつながっていけないよ。歴史も、思いも・・・」
 志穂は小さくうなずいた。そして、聖から少し身体を離すと、ベ
ッドの中の、裸の胸の上に手を軽く組んだ。
「不思議な気がするの」
 まるで自分に語りかけるようだった。
「私が一番恐れていたことって、意識に押えがきかなくなって、他
人の意識を大量に受け入れてしまうことだった。だから、私は、誰
にも寄り掛かっていけないと思っていたし、それでいいと思ってた。
でも、今はそんな気がしない・・・。私、何を恐がっていたんだろ
う。私が恐がっていたのは、自分自身だったんじゃないか、って。
自分が、周りにいるような人と、同じ人間であることがわかってし
まうのが嫌だったんじゃないかって、思うの。ちょうど、聖さんが
高校生だったときのように」
「・・・俺が、そういう気持ちだったかどうかはわからない」
 聖は志穂の言葉を心にとどめながら言った。
「ただ、はっきりしていることが一つあるよ。きっと、志穂も俺も、
わかってしまった、全てがわかってしまったと思っていたんだ。で
も、きっと生きるということは、そんな簡単じゃない。多分、あの
時、小さい志穂と初めて出会った時、何か生きるべき意味を未来か、
それとも過去に見つけたんだ」
「・・・さっき何かが、見えたわ。でも、つかめなかった」
「ああ、よくはわからない。でも、あの時感じたものはいまもここ
にある」
「・・・わかる。私達のつながりの中に、何かがあって・・・でも、
いったい何なのかしら」
「意味はないんじゃないかな。ただ、ある、だけかもしれない」
 聖は身体を動かすと、志穂の方に肩を寄せた。志穂も少し頭を聖
の方に傾けると、斜め上の方に視線をはわせた。
 再び時間が不連続に過去から未来へと行き交い、二人は流れをつ
かむのに必死になった。
 そして、聖は驚きを感じた。
 未来が、過去が、自分一人でのぞき込んだときよりずっと鮮明に
浮かび上がっていく。
 今度は聖が先に目を開けた。
「これが、新婚初夜とはね」
「そうね」
と、志穂は少し考え込むようにして、
「今の感じは、17才ぐらいの聖さんね」
 そして、ぎこちなく首の辺りをさすった。
「癖がうつってるよ。志穂」
「嘘だ」
 志穂はびくり、として枕の上に肘をついた。
「本当だよ」
「やだ、やっぱりそういうことってあるのかしら」
 そう言って、両手で髪を持ち上げる仕草に、聖は小さく笑った。
また、友美の癖だ。
「また?」
 聖がうなずくと、志穂はそのままうつぶせになるとふん、と小さ
なため息をついた。
 こんな風に心を許すことが、この子にとってどんなに必要だった
ことか。
「でも、時間、変化してたね」
 高校生の頃のように志穂は言った。
「ああ、」
 聖はうなずいた。
「見る度ごとに、少しずつ変化していくんだな。まるで、海の波を
見ているみたいだ。大きな未来は不変かもしれないが、時間の意味
は自分で変えていけるということかもしれない」
「賛成するわ。そうでなければ、悲しすぎるもの」
 志穂を抱き寄せた時、一瞬友美の顔が二重写しになった。
 同じ年だからか・・・。
「いたっ!」
「不謹慎」
「つねることないだろう」
 笑いながらも、聖の想いはこれからの日々にはせられていった。
 我々は、避けられぬ時をどう生きていこう。それを、生きるに値
する時とするために。有限な時を無限の価値ある喜びとするために。
 あの時、死ななくてよかった。いや、死ぬはずはなかった。決ま
っていた事なのだから。
 ・・・本当に、あの時自分を押しとどめたのは、この未来の眺め
だったのかもしれない。
 不思議なものだ。
 人は、無意識の内に時を渡っていく。そうと意識せぬままに歴史
を作っていく。しかし、だからこそ、いつか生きている意味を見失
う。
 ならば、時を知るがために、人の命を読めるがために我々はいま、
初めて生きることを知った。生まれいずるまでに、これだけの時を
要したのだ。
 そして、おそらくは永遠に生き続けることになるだろう。我々は、
その能力のために、決して忘れはしない。
 時がいつも有限であることを。
 友村聖は、初めて自分の持って生まれた能力に感謝した。
「そうよね。私も、もう全ての人のあり方を、あるという事実を認
める事ができると思う」
 それに呼応して、志穂も言った。
 沢野志穂も、もはや読心能力の呪縛から解き放たれたのだ。

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