第三章

 ついに、その時が来た。
 私は、大学病院の循環器系科の待合室に座っていた。
 膝の上に置かれた手を、じっと見つめた。
 40才になる、艶のない手。
 時を見つめ続けてきた私達の内でも、関わりなく時は流れて行く。
当然の事が、今日ほど身につまされて感じることはなかった。私は
どこかで、今日の日が嘘であることを願っていたのかもしれない。
 でも、本当に私達は充分に生きてきたろうか。私には自信がない。
 あの人は、今、死に逝こうとしている。いつからか浮かべるよう
になった満足な笑みをそのままに。私は、枕元に立った時、震えが
くることさえある。
 ・・・あの人の心の中にはほんのわずかな悔恨さえ含まれていな
い。昔の愚かな行いさえ、今の充足の中で浄化されている。それが
よくわかる。
 この人が、私の夫なのだろうか。はしゃぎ、語り、何度も抱き寄
せて愛をささやいてくれた人。今、狭いくびきから脱け出そうとし
ている。
「心配はない。よくわかっているから。志穂も、そうだろう」
 そんな私の気持ちを見抜いたように、あの時言った。
 その声は、「いつまでも一緒なんだから」と言った時と少しも変
わりない声だった。
 けれど、そんな言葉の裏側に深い優しさが見えて、私はなおのこ
と戸惑いを感じた。 
 きっと、私はまだなにもわかってはいないのだろう。
 避けられぬ時の意味を高め、価値ある生を生きる。あの時、初め
て二人で意識を分けあった時、私は自分の存在を強く意識した。私
は、一人の、生きるべき価値のある人間だ。私は、私自身の存在を
認め、さらに高まっていけるのだ。もう、世界の全てを許していけ
る、認めていける、そう思った。
 しかし、それはなんと難しいことだったろう。人の思いは時に邪
悪で、理想をたやすく打ち砕く。私は感情の中に埋もれて、私でな
くなっていく。そして、時は私を老いさせ、感覚全てを鈍らせてい
く。あれほど嫌悪していたはずの読心能力の衰えに、焦りを覚えて
いる。
 そして、私は、何も掴み取ってはいないことを思い知らされるの
だ。私の引きずっている全てを越えて微笑みかける、あの人のやつ
れた姿を見る時に。
 私は、愚かしい女だ。手にしたものを幾度も失い、いつか深い闇
に落ちていく。
 ・・・ああ、なんてこと。今、自分の夫が死にかけている時に、
私は自分の痛みに苦しんでいる。
 自己嫌悪などしたくはなかった。私はあてのない思いを拡散させ
るように軽く息をついた。
(入ってもらおうかな)
 はっきりした意識が見えた。
 そして、ほどなく受付の看護婦が、私に中に入るように言った。
 ドアを開けて、軽く会釈をすると中に入った。
「どうぞ、座って下さい」
 まだ若い、しかし物静かな感じの主治医の意識は感じ慣れたもの
だった。
(最終的な貧血状態。血球数。脾臓の膨張。昏睡状態。・・・末期
症状。脳波・・・低調)
 意識を読み取った後で、いくつかの症状が告げられたが、私には
覚悟ができていた。
「もう、長くはないんですね」
「はい」
(気の毒に)
 主治医は、少し視線を落として言った。
 骨髄性白血病の病理が、次々に頭の中に浮かび、消えていく。
 それは、時折ぼやけることはあったが、私はかみくだいた説明を
受ける前に、だいたいのことはわかっていた。そして、私はそれら
の病理をまるで関係のない他人のもののように見つめていた。
 ずっと以前、私が倒れたときに夫や、父はどんな風に感じていた
のだろう。
「・・・だいたいわかっていただけたでしょうか」
「はい」
 私は、主治医の言葉に答えた。
 いたわりの心、ありがとう。けれど、辛くはないんですよ。・・
ただ、不安なだけです。
 私は、軽く礼をすると、部屋を出た。


 ああ、まだ私は生きているらしい。
 身体がひどく重いな。
「今日は、何日でしたか」
「3月24日ですよ」
 いつだったか、この間から私の付添いになった看護婦に尋ねると、
彼女は優しく答えた。
「ありがとう」
 3月、24日・・・もうすぐ私の命日となる日か。
 驚きはない。これはいつの日か来るとわかっていた日なのだから。
「今日は、晴れているね。海が見える」
「ええ」
 何か作業をしながら、看護婦はうなずいた。
「一ヶ月、雨続きでしたものね」
 その時、轟音と共に光が空へ上がっていた。
「今日は、打ち上げでしたか」
「ええ。雨で延び延びになっていましたから。うるさくありません
か」
「いいえ。私ぐらいの年のものにとっては、シャトルの打ち上げは
うるさいとかいうことは全然ないんですよ」
「・・・みんな、そうだといいんですけれど。最近は、打ち上げ施
設の移転訴訟もおこっているようですし」
 私は、消えていく光を見送ってから、目を閉じた。まぶたがひど
く重かったからだ。
「この辺りの整備も、もうそろそろ完了ですね」
「ええ、あと一年くらいですよ。もうすぐです。だから友村さんに
も元気になってもらわないと。あそこの多世代型学習センターを発
案したのは他ならぬ友村さんなんですから」
「・・・そうですね。私も、本当はもう少し見ていたかったんです
よ」
「また、困りますよ、友村さん。病は気から、まだお若いんですか
ら」
 看護婦は私に背を向けたままだった。疲れて目を閉じていること
には気付いていないようだ。
「まあ、あなたよりはずっと年寄りですよ」
「本当に、すぐそういうことをおっしゃる。しょうがないユーモア
じゃありませんか」
 ・・・いい子だ。少しも気取ったところがなく、人を気遣うこと
を知っている。
 この子の時が、光に満ちていくように。
「・・・この街は、この世紀の流れを象徴づけるものになりますよ。
覚えておいたほうがいい」
 もうすぐ、新しい時代がくる。それがよくわかる。技術や理論、
主義や主張、そういった全てを越えて、人間が、生命が浮かび上が
ってくる。人間に還っていくのだ。全てが私達を中心にして流れ込
んでくる。
 この千年紀は栄光の時代となるに違いない。
 私が、幾たびも己の傲慢さに身を沈め、あまりに小さな視野の中
で、全てがわかったと思い続けてきた私が、このような時を迎える
ことができる。まさに、私のような者にとっては過ぎた幸福だ。
「何を笑っているの?」
 志穂。
「看護婦さんは?」
「え?あなた、眠っていたのよ」
「・・・嘘だろう。今・・」
「本当に。眠りながら、笑っていたのよ」
 ああ、これは、元いた部屋だ。
「上の部屋は別の人が入ったんだね」
「上の部屋って、・・・10階のホスピスね」
「ああ、そうだよ」
 2012年。カレンダーが目に入った。
「あなたは、まだそこまでいってないでしょう」
「ひどい言い方だ」
 私は笑った。そして、志穂の顔を見つめた。最近、元気がないの
が心配だ。
 ああ、身体が起こせる。
「ほら、から元気出さないで。私は、もう仕事に出るから」
 ドアが閉じた。
 人の流れよ、永遠に続け。輝く光の源まで。私の生きてきた道、
そこに流れよ。そして、再びそこから・・・。
 めくるめく光。
「まぶしい?」
「ああ。少し」
裸にタオルケットを巻いただけの姿で、志穂は窓の外を見ていた。
「起こしちゃったみたいね。ごめん」
「ああ、いいんだ。・・・それより、夢を見た」
「私も見たわよ」
 志穂はベッドに腰掛けると微笑んだ。
「読んだの?夢を」
「私も、見たのよ。それで、目が醒めたの」
「悪夢だったの?」
「・・・よく覚えてない。でも、」
 志穂は、私の意識の中に残っている夢の残像に焦点を合わせてい
る風だった。
「多分、聖さんが考えているのと同じ」
 私は、身体を起こして志穂の手を取った。
「少し、過去と未来を覗いてみないか」
「・・・できるかしら」
「大丈夫だよ」
「そうね」
 超能力者同士の初夜にはふさわしいイベントかもしれない。
(入ってこれた?)
 目を閉じて、思念を凝らす。
(志穂の見たがっている昔に戻ろう)
 志穂がうなずくのが感じ取れた。
「・・・また、来年」
「そうだね」
 その時には、俺は死んでいると思うよ、明美。
「がんばってね」
「それ、こっちの台詞だよ。がんばれよ」
「・・・はい」
 明美は、俺の手を取りキスをした。次に、額に、そして、唇に。
 物珍しそうに人が通っていく。
「恥ずかしいよ」
「いいじゃない。一年間、できないんだもの」
 永遠に。
 明美は、精一杯の笑顔をくれた。
「もう、時間じゃない?」
 言いたくはなかった言葉だ。
「そうね」
 明美に持っていたスーツケースを手渡した。
「真剣にやれよ」
「当り前でしょ」
 俺は、その瞳の色に目を反らした。今までの時間全てが、せきを
切って押し寄せてきた。
「手紙、書くね。じゃあ。本当に元気で。また、来年の秋」
 首だけでうなずいた。明美の姿に重なる時間は全て、過去のもの
だった。
 さようなら。
 ・・・さようなら。
 ・・・さようなら。


「何?」
(さようならだ)
 ああ、時がきたんだ。
 しばらくは心の中でさえ沈黙が守られているようだった。目は閉
じられて、痩せた胸がゆっくりと上下しているのが見える。
 医師達は、酸素吸引を行い、血圧計と心拍計を見ながら冷静に処
置を行っていた。
 しかし、離れて見つめる私の距離とは関係なしに、少しずつ彼の
意識が私の中に広がり始めた。
(志穂だね)
(ええ。そうよ)
(少し長いこと、夢を見たみたいだ。君は、どう?)
(・・・私は、何も見てないわ)
(そう。では、ひどく深いところでの事だったのかもしれないな)
 手がぴくりと動くのが見えた。そして、若い主治医が私の方を振
り向いて、こちらへ来るように示した。
「・・・いろいろと、確かめた」
 ベッドの脇までいくと、彼はか細い声で言った。
「結婚した日、一緒に時間をトリップしたよね」
 私の心は、少しずつ乱れてきた。
「・・・うん、そうね」
「あそこまで戻ったよ、一人で」
 澄みきった思いは、まだ、未来へ向けられている。私は、どうす
ればいい?
それでも、彼は途切れ途切れにつぶやいた。
「私は、間違っていなかったと思う」
(あの時、死なずに生きてきた)
「ええ、ええ」
(もう、喋らないで)
(生きている、死ぬまでは、生きて闘っている。そういうことだよ
な)
(わからない)
(いいよ、聞いていれば)
「聖さん・・・」
(・・・もう、行きかけているんだよ。志穂)
 私は、もう、自分から進んで意識を開けていることできなかった。
それでも、なお、彼の意識は追いかけてきた。
(生命の流れが見える。・・・私の未来か)
「手を、貸して」
 力のない細い腕で、私の手を取った。冷たい。
(私は、君と、きっとまた会うよ)
「会う?」
(少し、私と行ってみないか)
(はい)
 もう、うなずくしかない・・・。
 そして、遠く、高く、遠く。
(この眺めだよ。今、私達は、私が17で、志穂が9つの時に戻っ
ている)
 ああ、ああ、ああ・・・。
(帰って、志穂)
(・・・行くのね)
(そうだ)
(・・・私は、きっと、今の眺めをわかることはないと思う)
(・・・そうだ。でも、また会うよ)
(わからない。・・・さようなら)
(<うなずき>)
 私は、目を開けた。そして、死の手を彼の顔の上に見た。主治医
が私に何か言おうとしたが、うなずいて制した。
 私の手を握ったまま、冷たくなっている彼の手。
 私は、もう一度静かに目を閉じた。




  エピローグ



 その少女の時間をのぞき込んだとき、何かが感じられて、聖は身
体をこわばらせた。
「聖」
 もう一度、黒い瞳の少女は聖の名前を呼んだ。
 時の眺めが、霞んでいる。
 少女と聖は、一瞬、瞳の奥底まで深く見つめあった。
 沢野、志穂・・・。
 聖は頭の奥深くを突かれるような感覚に、目まいを覚えた。
 誰かの声が聞こえる。この子の声か。
 何かが感じられる。
 何だ?
 まだこの子は俺を見つめているのか。
 列車のきしむ音が遠ざかっていった。いつの間にか、聖は、別の、
感じることしかできない地平に立っていることに気付いた。
 やがて、轟轟たる響きが、辺りに満ち始めた。それは、歌うよう
な人の声、それとも、流れる大河の眺めのように感じられた。
 いったい、何の流れなのだ。何を歌っているのだ。
 いや、俺も歌っているのか。
 ・・・胸が苦しい。
 これは、俺か? いや、誰だ。いったい、どこにいるのだ。
「大丈夫よ、聖さん」
「・・・志穂? 君は・・・」
 少女の姿が一瞬、若い女の子の姿に、そして意志の強そうな40
くらいの女性の姿に見えたかと思うと、消えていこうとする。
「大丈夫よ・・・」
ああ、ああ・・・。
 俺は、死ぬのか。あれが、俺なのか?
「・・・そうだ、大丈夫だ」
 何の満足だろう。しかし、胸が震える。
(生命よ、生命よ。存在ゆえに輝き、磨かれるがゆえに価値ある生
命よ。・・・永遠は、私の内にある)
 聖の耳に、誰かの声が明瞭に聞き取れた。
 それは、どこか自分の声に似ている。そんな風に思えた。
「・・・さ・と・し」
 不意にビジョンが消えて、現在の視点が戻ってきた。
 身体が震えていた。聖はきつく目を閉じて深呼吸した。
 生きる。生きる。今を生きる。その行為そのものに、輝きがある。
 たった、それだけのことが!
 自分は、これほどに大きな存在だったのか。そして、自分が見る
ことができる時間とは、何と小さなものだったのだろう。それは、
流れの筋道に過ぎない。生きるとは、流れそのものだというのに。
 増してや、自分の見ていた筋道とは、長い道程の一部分に過ぎな
い。
 前途、いったい、決まっていて何が悪いのだ。
 ああ、俺は、今、生きている。
 暁のような思いにうたれて、聖は涙した。そして、その余韻に身
を委ねていた。
 その時、列車がガタン、というと動き始めた。今まで、どこかの
駅に止まっていたのだ。
(ばいばい)
 心にささやく声。聖はハッ、として窓の外を見た。
 流れていくプラットホームに、あの家族連れがいた。若い両親に
はさまれて、まだ小学校3、4年くらいに見える、優しそうな目の
少女がいた。
(志穂)
 一瞬の内に短いホームは消え去り、また広野が一面に現れた。
 あの一瞬の邂逅は、あの子がくれたものに違いない。
 すでにして薄れつつある一瞬の記憶をとどめるように、聖はメモ
帳に、"しほ"と書いた。
 そして、もう一度今の体験を反すうしようと、目を閉じた。
 しかし、それはすでに薄れていて、いったい何が自分の奥底にあ
る生きる気持ちを呼び覚ましたのかはわからなくなっていた。
 しかし、聖は、少女の声と、顔を思い浮かべながら、ただ一つの
ことははっきりと心に刻みつけた。
 二度と忘れまい。俺は、生きるのだ。死が自らに訪れるまでは。
「死が、訪れるまでは・・・」
 小さな声で繰り返した。その穏やかな声が、何かを思い出させよ
うとしたが、もう、届かなかった。



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