第一章

 晩秋の空が、早くも赤みを帯び始めた午後4時、日本史の補習が
始まった。
 沢野志穂は、窓際に座って、教壇に立った友村教諭を見つめてい
た。
「今日はどっからだっけ」
 いつものように友村は、前の方の生徒に気さくに話しかけた。
 志穂はじっと見つめていた。
 ・・少しでも心の奥が覗けたなら。
 念が通じたのか、問題集を開いた一瞬、友村の視線が自分の方を
射たように感じた。
 暗く、深い想い・・まるで捉えどころがない空気のようで・・・
 そこまでだった。もう、友村は黒板の方に向かって図を書いてい
た。
「塔の位置に関してだが、時代が下るにつれて、装飾の意味が強く
なる。まあ、最終的には南大門の外に置かれるようになるわけだ」
 隣に座っていた聡美が、志穂の制服の袖を引っ張った。
「ね、これ何番?」
 志穂はシャーペンでBをさした。
「で、森下、問11の答えは」
 その時、ちょうど友村が聡美をさした。
「はい」
 聡美はひょいと立ち上がった。志穂は心の中でくすっと笑った。
「Bです」
「はい、正解だな。じゃ、@の図の配置で代表的な寺は」
 聡美は助けを求めるように志穂の方を見た。志穂は四本指を立て
て、聡美に示した。
「・・四天王寺」
 友村はうなずいて、聡美を座らせた。
「サンキュ」
 聡美は小声で言った。志穂は軽くうなずいた。
 きつく閉じている扉からも、変節のない正直な感情が伝わってく
る。
 志穂はそんな聡美の心を意識に留めながら、窓の外を見た。そし
て、かるく胸を押さえた。
 こんな、晩秋の暮れかけた感じが好きだ。全てが休息へと向かう
枯れた雰囲気のせいかもしれない。夏の騒がしさが消えて、人々が
静かにもの思うとき、私も目を閉じることができる。
 また、胸が痛んだ。時間が意味を失って、意識だけが遊離しよう
とする。志穂は目をきつく閉じると、他の意識を締めだした。
 まだ、友村の説明は続いていた。 
  subtle,subtle,subtle...微妙な、微
妙な、微妙な。
 ダメ。
 subtle,微妙な、subtle,微妙な、subtle,
微妙な・・・
「、もう」
 志穂は険しい表情で、自らに言った。
「あ、ごめん」
 何事かと、聡美がこちらを見ていた。
 ・・・うまく遮断できない。
 志穂はうつむくと、唇をかみしめた。まだ斜め後ろの方から、暗
記しようとする強い意識が響いてくる。志穂は、その方向へ振り向
くと、鋭い視線を注いだ。
 鈴木君、か。
 眼鏡をかけた男子生徒が、日本史の問題集の上に単語帳を開いて
いた。
 志穂は大きく息をついた。それでも流れ込んでくる雑多な意識・
・・。なお抑え切れぬ気持ちの高ぶりが再び心臓を刺した。
 仕方なく外を向いて、ずっと南に広がる山なみに意識を放った。
 遠くへ、遠くへ、遠くへ・・・
 志穂の心は、遥か彼方へと放たれた。空の青と、山の赤と、舞っ
ていく風の中へと。
 身体の存在はほとんど感じ取れない。何の意志もなく、ただ、あ
る、という心地がする。
 それでも、わずかに残った自分自身が、安らぎを歌い、両手を広
げて微笑んでいた。
 さらに自らを失わせて、遠くへ飛んだ。時間の観念はすでに消え、
感性だけが限りなく拡大していた。
 ここは、私の中なのだろうか、それとも、外なのだろうか。
 いつもの問いが浮かび上がると同時に、急速に感覚が戻ってきた。
まるで、夢から目覚めたように。
 志穂はビクッ、と身体を震わせた。視界に教室の様子が映った。
もう、友村は問題集を閉じているところで、幾人かの生徒は早々と
帰りかけていた。
「ねえ、」
 誰かが肩に手をかけた。
「どうかした?」
 上を向くと、長い髪が頬に触れた。
「あ、聡美か。もう、帰る?」
「またボーっとしてたでしょ、あんた」
「ん、んん」
 身体が小刻みに震えてきた。いつもこうなるのだ。
「震えてるじゃない!」
 聡美は大きな目を一層丸くして、志穂の額に手をあてた。
「冷たい」
 低い声だった。志穂はようやく震えの止まった右手で、聡美の手
を遠ざけた。
「大丈夫。いつもの事だから」
「こんなのが、いつもの事なの?いくらなんでもおかしいんじゃな
い?」
 混じりけのない心配。
「大丈夫よ。もう、帰ろう」
 少しいらついた調子だった。
「あんた、おかしいよ。そんなの。全然大丈夫じゃない・・」
「ほら」
 志穂は聡美の手を取って、額に持っていった。
「嘘ぉ」
「ね」
「どういう身体してんの」
 さっきまで蒼かった顔色も元に戻り、額も熱くなっていた。
「だから、ほんとによくあることなのよ」
「まあねえ。いいんだけど。一度、診てもらった方がいいんじゃな
い。たく、異常体質だからね、志穂は」
 聡美は唇をとがらせて言うと、自分の席の方に戻った。
「そうかもね」
 志穂は立ち上がると、誰もいない教壇の方を見た。
「聞きたいことあったんだけどな」
「え?私に?」
 もう、教室には二人しか残っていなかったので、聡美は自分の席
で荷物をまとめながら、大声で尋ねた。
「友村先生ぇ」
「ああ、職員室に行けばいいじゃない」
 志穂はカバンを持ち上げた。
「まあ、いいよ。たいしたことじゃないし」
「帰るの?」
「ん、帰ろう」
 志穂はうなずいた。そして、夕暮れの教室を後にした。


 電車を降りて、京王線の線路ぞいに5分ほど歩くと、商店街の出
口に小さな喫茶店がある。それが沢野志穂の家だった。
 狭い間口に歩み寄ると、斜めに切られたドアの横に、木彫りで"
HARBOR"とあった。
「ただいま」
 注意深く意識の流れを制御しながら、店の中に入った。
 明るい店内には顔見知りが幾人かいるだけだった。
「おかえり」
 父の公也はカウンターに立って、少し強面の男と話していた。
「こんにちは。沢井さん」
「どうも。いつもかわいいね。志穂ちゃん」
 志穂は軽く微笑み返すと、奥に入って行った。そして、裏口のド
アを開けると二階に上がった。
 靴を脱いで、少し息をついた。
 やはり、調子がよくない。客達の自分への妄想が、まだ残像を残
していた。
 私がそんなに清楚に見えるの?
 志穂は奥のマイルームに入ると、ドアを閉めた。
 そして、制服を脱ぎ、ベッドの横に掛けて息をついた時、窓際に
ある母の残した鏡台にすらりと伸びた裸の足が映っているのが目に
入った。
 誘われるように鏡台の前に腰を下ろすと、志穂は自分の顔を見つ
めた。
 起伏の少ない、特徴のない顔。これが、私の顔・・・他人のイメ
ージではない、実物の顔だ。
 そして志穂は、おもむろにフロントホックを外すと、ブラを取っ
た。張りのある若い乳房が鏡に写った。
 イメージ。
 客の男の一人が抱いた裸体のイメージは、本当の私の身体とはこ
れほどに食い違っている。
 他人の心の中で組み立てられた私、そして、私自身がイメージし
ている私・・・。それを嫌でも意識させられてしまう。
 志穂はしばらくじっとしていたが、次第にあてのない思いを拡散
させて、平静を取り戻した。それでも、奥の方でくすぶり続ける不
愉快さが残った。
「忘れること」
 鏡に独り言を言うと、口紅を取った。赤みの強い方にすると、嫌
みにならないくらいに薄く塗った。そして、服を着て、ハンガーに
かかっていた店のエプロンをつけた。
 もう一度鏡を見て、うなずいた時、誰か深い思いが意識を過ぎて
いった。
 志穂は、それが記憶だとすぐに気付いた。そして、友村聖の姿を
思った。深く、暗く、読み取れない意識の持ち主を。
 私の見えない彼方にある心・・・
 教壇の不透明な微笑み・・・
「おーい、志穂」
 父の声が階下から響いた。
「はい。いま行く」
 返事を返して、髪をヘアバンドで止めると志穂は階下に下りてい
った。


 会議が長引いていた。煙草が吸いたくなる。
「こりゃ、無謀だね」
 進路主任の渡辺が言った。
「立教、ですか」
 友村聖(さとし)はキーボードに触れようとしたが、斜め前に座
っていた野原学年主任がいち早く志望カードに"D"を書き込んだ
ので、手を止めた。
「今年の文Tは高いですね」
 偏差値リストを見ていた数学科の篠田教諭が言った。
「そうだねえ」
 渡辺教諭はだるそうに次のカードを持ち上げた。
「これも、Dだね」
「がんばってるんですけどねぇ、島野君は」
 もう定年まじかの穏やかな白井教諭が言った。
「そうは言っても、白井先生、仕方ないでしょう」
「そうですね」
 白井が自分のクラスのカードに書き込もうとした時、聖は口をは
さんだ。
「でも、社会は抜群ですよ、先生」
「わかってますよ、友村君」
 あっさりと言われて、聖は口をつぐんだ。
 だが、判定はDでも島野は受かる。聖は打ちかけたキーの上で手
を止めた。
 今、二つ並べられた長テーブルには5人の進学担当教諭が座り、
それぞれの立場から生徒達の進路を検討していた。
 既に会議が始まってから2時間が過ぎており、ただでさえ気乗り
しない作業は疲れを見せ始めていた。
「少し、休みますか」
 白井教諭は言った。
「そうですね」
 渡辺はうなずいた。
「しかし、まあ、この辺はどうしようもないねえ」
 白井はカードの後ろの方をめくりながらため息をついた。
「相手にしてもしょうがないんじゃないんですか」
 今まで黙っていた篠田教諭が言った。
「そうだけどね、篠田先生。彼らは彼らで考えるところがあるんで
すよ」
「何にも考えてませんよ。僕達の世代でさえそうだったんですから」
「そうですなあ、白井さん。そんなもんですよ」
 一流大学ばかり書かれた志望カードを脇へよけると、40を少し
越えた渡辺教諭は頭をなでつけた。
 聖は雰囲気が休息へと向かっているのを見て取ると、キーボード
から手を離した。
「篠田君は、共通一次世代だったかな、いわゆる」
「いえ、僕は違いますよ。二年ほどですけれど。それなら、友村先
生がそうでしょう」
「そうですね」
 聖はうなずいた。
「なるほどね」
 渡辺が対角線から聖を見た。聖はその視線の意味を敏感に見て取
った。
 ステロタイプな認識だ。
 情熱がない、自覚がない、聖は裏でよく自分がやり玉にあがって
いることを知っていた。
 しかし渡辺の思うように、その原因は機械的に養成されてきた無
目的の故でも、感性のままに生きる無責任の故でもない。
 聖はゆるやかに意識を渡辺に向けた。そして、その、"時"の行
き先を過去と未来に渡って映し出した。
 平凡な、よくある一生。比較的恵まれた家庭に生まれて、苦労も
なく教師になった。問題意識より、現実に沿った生き方。新任教師
時代の挫折、それが影を落としているのか。子供はできない。今の
まま、次第に年をとっていく。死は、69才。寂しい死顔だ。
 聖は渡辺の内を流れる時の概略だけを見て取ると、意識を離した。
 再び会議が始まったが、もう会話は交わされず、それぞれが自分
の作業に専念し始めた。ペンと紙の触れ合うカサカサという音だけ
が会議室を支配し、受持ちのない聖は、手持ち無沙汰になってキー
ボードを叩き始めた。
 F・3 個人シート
   2.コード入力 2−D−32
 <沢野志穂> 女 2−D−32
   1.期末模試
    国語 125  偏差値 68
    数学  72    43
    英語 178      77
    社会 195      79
    理科 101      48
   国立系 33/198
   私立系  1/269


 友村聖は、しばらくこのデータを見ていた。
 補習でしか顔を合わせない、この少女。成績の良さ以外では職員
室の話題に上ることも少ない。
 それでも聖にはわかっていた。彼女はどこかが違う。
 まるで景色に吸い取られたように窓の外に見入る姿は、いまでも
明瞭に思い浮かべることができる。
 いつでも、故意にそうしているのだ。
 聖には確信があった。
 時折、教壇に立つ自分に鋭い視線を向けることがある。何を思っ
てそうするのかはわからない。しかし、その時意識をよぎる彼女の
"時"は、ひどく断片的だ。
 聖にはその意味がよくわかっていた。志穂という少女と自分の時
間は、どこかで密接に結び付いているのだ。自らの内を流れる時か
ら無意識に目を逸してしまうが故に、自分の持つ時をはっきりと見
ることはできない。だからこそ、自分と過去や未来を分かち持つ人々
の時の眺めはおぼろげに霞む。
 志穂に対するその知覚自体が、彼女に自分を近づけていくのかも
しれないが、それは自分の持つ宿命だ。予知能力を持つ自分自身は、
さらに時間の流れの内に包まれている。
 ただ、彼女のおぼろげな未来の中に、忘れてしまった何かが隠さ
れている、そんな気がするのだ。それは、自分が17才の時に得、
決して逃すまいとした解答なのかもしれない。
 ただ、結果だけを残して、一週間足らずで記憶の片隅に消えてし
まった。
 だが、あれは若さだ。17才という年齢が求めた心の隠れ場だっ
た。時を見ることができる自分にも、時を取り戻すことはできない。
あの時だけの真実の故に、今、自分は生きている。それでいいのだ。
 聖は無意識の内に胸ポケットから煙草を取り出すと、軽くくわえ
た。
 渡辺がとがめるような視線を送ったが、聖は気付かなかった。こ
の学校では、校長の方針で会議中は禁煙なのだ。しかし、聖はくわ
えただけで火をつけようともしなかったので、誰も口に出しては注
意できなかった。
「さて、終わりましょうか」
 野原主任が伸びをしながら言った。
「そう、ですね。今、何時でしたか」
「5時5分前ですね」
 篠田が言うと、渡辺はカードから手を離して目頭の辺りを押さえ
た。
「終わりましょう」
 この最後の言葉だけが、聖の耳に入った。やおら立ち上がると、
くわえていたキャビンに火をつけた。
「友村・・」
 そして、白井のいらついた言葉をよそに真っ先に会議室を出た。


 会議室を出ると、廊下が真っ赤に染まっていた。窓の外に広がる
グラウンドには金属バットと硬球の弾ける音が、威勢のいいかけ声
と共に響きわたり、聖は自然と煙草を一本、胸ポケットから取り出
そうとした。そして、自分が既に火のついた奴をくわえていること
に気付くと手を止めた。
 会議室を出るときの白井の顔が思い浮かんだ。
 また、心証悪くしたな。
 苦笑いをしながら、職員室の方に向かった。そして、本館の階段
まで来た時、後ろから声を掛けられた。
「先生、不良だ」
 煙草をくわえたまま振り向くと、ちょうど下から上ってきた女子
生徒が一人、踊り場の所に立っていた。
「・・森下か」
「先生が廊下で煙草吸っていいんですか」
「よくないな」
 言って、窓に背を向けた。
 森下聡美は聖の方に近寄って来ると、くわえた煙草を指でペン、
とはじいた。
「お姉さん、元気かな」
「また、その話ぃ?」
「悪いね」
 聖は窓の方に向き直ると、煙を外に吐いた。
「この間、手紙が来たよ」
 聡美は長い髪をうるさそうに後ろへやった。
 一瞬、友美の姿がよぎった。
「そう。で、元気そうだった、友美、いや、お姉さん」
「あ、そうやって呼びすてにしてたんだ。お姉のこと」
からかうように言った。
「まあね」
 ちょうどその時、東館の廊下の方から話し声が聞こえてきた。
 聖はくわえていた煙草を、すばやく窓から下へ放った。
「先生、火事になるよ」
「大丈夫だって」
 近づいてきた話し声は、4人の教師達の姿をとり、2人の前を過
ぎていった。
 渡辺教諭が意味ありげに聖の方を見たが、何も言わずに職員室に
消えて行った。
「もう、お茶目なんだから、先生」
 聡美はからかうように言った。
「そうかな」
「そうよ」
 聖はほんの少しだけ、聡美の未来を覗いた。そして、心の中でう
なずくと、わずかに錯綜した思いにとらわれた。
「で、森下、何か俺に用かな」
「んん。別にそうじゃないよ。志穂待ってんの。あ、そうだ、先生、
車でしょう」
「志穂って、沢野か」
「んん、そう。ねえ、車よね」
 屈託なく、聡美は聖の方を見た。
「何だ?乗せてっけてか。森下」
「話、わかるう。いいよね」
 聖は、5年後も変わらない聡美の笑顔とあわせて、ため息をつい
た。
「まあ、いいよ。今日は先生も後は帰るだけだしな」
「サンキュ。やっぱ、友村先生だな」
「いいから、沢野が来たら下で待ってなさい。15分位したら行く
から」
聖は職員室の方へ歩みだした。
「ありがと。あとからお姉の写真あげるね」
「持ってるよ」
 聖は振り向いて言った。
「嘘ぉ」
 背中に大声が響いた。聖はふくみ笑いをすると、今度は振り返ら
ずに職員室の方に歩み去った。


「先生、すいません」
 志穂は、友村のコロナが走り始めた直後に言った。
「いいよ、沢野。こいつが悪いんだから」
 そう言って、助手席の聡美の頭を叩いた。
「先生、ひどい」
 聡美が言うと、友村はからからと笑った。
「そうだろう、先生に運転手を頼む奴はそうはいないぞ」
「だって、いいじゃない」
「何が、いいんだ?」
「何がって・・」
 友村は横目で聡美の方を見た。志穂は後部シートにかしこまった
まま、二人のやりとりを見ていた。
「ほら、そうだろう」
「だって。たまたま、今日だけなんだし、いいじゃない」
「ほんとに今日だけだとありがたいなあ」
「私、そんなにずうずうしくないよ、先生」
 志穂は目を閉じた。もう少しで、友村のはっきりとした意志が見
えそうだった。
「さあね、結構お姉さん似だからな、森下は」
「どういう意味よ」
 先生の意識は自分に向けられている。聡美にではない。明るい口
調とは違う・・・強い、強い想い・・・私に?
「正直で、ハッキリしてるところ」
「嘘だ。今の、そういう感じじゃないよ。わがままっていうんでし
ょう」
 イメージがはじけた。どこか外国の・・・イギリス?それは感じ
慣れた聡美の意識の中の記憶?いや、違う意識、先生の意識がだぶ
るように重なり・・・いや、強い力を持って、ダブルイメージは払
拭されていく。
「さ・わ・の」
 突然、目の前に声があった。
「食べる?」
「あ、いただきます」
 志穂は後ろに延ばされた聡美の手から、キャンディーを取った。
友村が背中を見せたまま言った。
「沢野は世界史で受けるんだったか」
 痛み始めた胸の奥に友村の意識が向けられるのを感じた。
「ええ、そのつもりなんですけど・・」
 背骨から延髄にしびれたような感覚が支配している。
「そうか・・」
 また、あの深く、暗い思いが胸の内をすぎてゆく。志穂はより深
く、意識を澄ました。
 時折、聡美の想いが過ぎていき、夜と道路と、前の車のテールラ
ンプのイメージが過ぎる他は、すっかり静かになった。
 嘘のように・・・静か。
「ねえ、先生って、いくつなの」
 聡美の心の内、姉のイメージ?
「27だよ」
 沢野・・・
 沢野・・・
「え?30じゃなかったの?」
「どうして?」
「だって、お姉が30だから・・・」
 せつない、笑い?
 沢野・・・
 優しい記憶だ。この人が、聡美のお姉さん?友美・・・いや、こ
れは、先生の想い、いや、記憶?
 時間の流れがあいまいになる。意識が・・・危ないってわかって
る?
 記憶じゃない。でも、まるで、いまこの場のように感じる。
 ・・・私のイメージ。私の記憶ではなくて。今、この人は何を見
ているの?
 電車が揺れている。絶望。また、友美さんの面影。斜めに窓の外
を見ているのは、先生?そうだ。友村先生、だ。古びた、人のいな
い列車の外は、地平線・・・。
 先生の記憶?違う。明瞭で、外の視点を持っている・・先生の意
識じゃないの?いいえ、そうだ。
 先生が、今よりずっと若い先生が、私の方を見た。
 私?そう、私だ。
「志穂」
 なんなの、いったい、いったい・・・なぜ、私を呼ぶの。
『・・・聖。』
答える私の声、幼い、私の声。私の・・・過去。
 もう、帰らないと。
 どこへ?
どこへ。
「沢野!」
 痛い!胸が。息が・・・。
「志穂!」
 聡美・・・心配・・・暗く、なる。
 急速に戻ってきた現実の光の中で、志穂は意識を失った。


 沢野志穂が倒れてから、2日が過ぎた。
 突然、うめきをあげてシートに倒れ込んだ志穂の姿を見たとき、
聖はこの瞬間がこの少女と自分との時間の接点であると感じた。
 おそらく、生死にかかわるこの一点。志穂に対する時の視野をか
すませたのは、その一点に自分自身が関わっているせいだ。
 志穂が死んじゃう、ヒステリックに叫び続ける聡美にうなずきな
がら、聖はコロナを病院へ走らせた。
 奇妙な安堵があった。道路はすいており、病院は幸いにも間近だ
った。しかし、微かな脈しか取れない瀕死の少女を後ろに、何より
聖を冷静にしていたのは、自然に流れ込んでくる時の景色だった。
そんな風に自然な形で他の時をかいま見たのは、明美の時以来だっ
た。
 そして、聖はこの少女が、自分が先に感じた以上の存在であるこ
とを悟ったのだ。
 この子は、死にはしない。
 聖は職員室の隅で煙草をふかしながら、まだ確信のつかめぬ想い
に身を委ねていた。
 それでも、志穂という少女が、今度の事で具体的なイメージを持
って心の内に位置を占めたのは確かだった。
 しかし、本当にそれほどまでに自分と沢野志穂の時間は密接に結
び付いているのか。
 時間だけが、未来だけが、先走りしている。
 聖は、予知能力者たる自分でさえ、滅多に感じないこの状態に当
惑していた。
「不謹慎だぞ。煙草なんて」
 誰かが聖の耳元で言った。意識を戻して見ると、同僚の篠田が背
中を見せて出て行く所だった。
 冷やかな口調が耳に残った。一瞬、立ち上がって追いかけてやろ
うと思ったが、職員室全体からの冷たい視線に、座り直した。
 孤独感より嫌悪感が、校長に今回の件で叱責を受けた時のような
嫌悪感が襲ってきた。
 個人的に生徒を送った上に、その途上で重態に至らせた、そのこ
とに関して、校長は言った。
「いいかね、友村君。生徒との友達付き合いもいいが、わきまえな
くてはいけない。あくまで我々は教師なのであって、公正、公平で
あらねばならんのだ。特定の生徒を優遇することは、他の生徒に嫉
妬心を起こさせる原因になるのは当然だ。基本であるし、それくら
いは君にもわかるだろう。だが、他にもある。生徒のプライバシー
に入り込みすぎれば、結局、我々の職務外の部分にまで、手を出し
ていくことになる。中学ならまだしも、高校生だ。今回は沢野志穂
の父親がわかる人物だっただけによかったが、そうとばかりはかぎ
らないぞ、友村君。
 学校には学校の、家庭には家庭の領域がある。手続きを踏まずに、
わきまえずに行動すれば、問題が起き、結局はいい結果にならない。
まずはプロフェッショナルに徹することだ、生徒には大学という大
目標があり、親が我々の学校に望んでいるのもそれだ。全てはその
後だ。君は若いし、才能もある。現実を見つめ、努力しなさい。今
回の事は、いい教訓になったろう」
 聖はずっと、校長の一生に目を凝らしていた。話はほとんど聞い
てはいなかった。ただ、柔らかい椅子のいごごちの悪さと、尊大ぶ
った声がいつも以上に神経にさわった。
 この高校で、若いことは罪悪に近い。増してや、この小柄な校長
の生き方と思想は、何事にも中庸、八方美人であることだった。そ
れは、若さの美徳ではない。
 聖はその時、校長の安楽な老後を今の権威ぶった顔に重ねながら、
またしても未来が人間の行為や生き方と関係無しに定められている
ことの皮肉を思った。
 嫌悪と、怒りが湧き上がった。そして、立ち上がりざま、校長に
向けて言った。
「ありがとうございました」
 とげのある口調だった。そして、不愉快な気持ちのままドアを閉
めた。
 友村が校長室にいる原因を知らないものはほとんどいなかった。
そのためか、他の教師達は特に用のない限りは話しかけてこようと
せず、一人職員室の隅に座る友村は、増して憂うつな気分にさせら
れていた。
 そして今、再び冷たい視線を目の当たりにした友村聖は、自嘲に
も近い笑いを浮かべた。
 未来の非情さに、人の無力さに、今だ怒りを覚えるのは、運命を
見切ることができずにいる証拠だ。結局は生き、残された時間をす
り減らしていくしかない。
 それは、自分に当てはめれば50才で死ぬまでだ。
 聖は煙草を灰皿に押し付けると、立ち上がった。少し外の空気を
吸おうと思った。そして、ドアを開けた時、肩を押さえる手があっ
た。
「友村先生」
 背が高く筋肉質の男が立っていた。
「五島先生」
 聖が言うと、五島は目配せをして職員室を出た。
「さっき、電話がありましたよ」
「え?」
 この体育教師の言っている意味がわからずに、聖は眉を寄せた。
「沢野ですよ。もう、大丈夫だそうです。親父さんからの電話で。
友村先生によろしくということだったので」
 聖は何も言わずにうなずいた。
「よかったですね、先生」
 五島は友村の肩を叩いてにっこり笑った。
 その後、若い体育教師は、がんばってくれよ、とでもいいたげな
感じで再び職員室に入って行った。
 聖は無意識に職員室のドアに手を掛けてから、もう一度廊下の方
に向き直って窓際に歩み寄った。
「そうか・・・」
 突然に志穂の最後の表情が思い浮かんだ。歯を食いしばって、青
ざめた額には汗がにじんでいた・・・。
 急速に、閉ざしていたイメージが蘇り、聖は額に手をあてて、目
を閉じた。急に動悸が始まり、やがて治まった。
 そうだ、あの子は重態で、この2日間面会謝絶の隔離室におり、
いつ命を失ってもおかしくなかった!
 職員室から、聖の知った顔の女生徒が二人駆け出してきた。
「あ、先生」
 背の高い方の生徒がすぐに友村に気付いた。聖は幾分興奮気味の
声に、びくっと振り向いた。
「先生、今・・」
 聖は一言も言わずうなずいた。その目を見て、二人は悟ったよう
だった。
「あ、ああ、先生・・私達、2−Dに志穂のこと教えてきます」
 そう言って階段を駆け上がっていった。
 そうだ、この場面を以前見たことがある。いつだったか・・もう、
忘れてしまった。高校生だった頃だろうか。
 まだ、神経が高ぶっていた。聖はこんな感情の発露が以前にもあ
ったことを知っていた。
 沢野志穂が助かることはわかっていたはずだ・・・しかし、現実
はこれほどまでに唐突で、胸に迫る。
 ああ、あの少女と、俺の未来は本当に結び付いている。この動悸
と驚きが何よりの証拠だ。
 車内での一瞬、信じる間もないほどの短さでかいま見た彼女の歴
史・・・。
 ・・・そして、あの一瞬に見たものが確かならば、おそらく彼女
は自分に近い宿命を持っている。
 未来は、確かに定められたものだ。しかし、聖はこの出会いに運
命的なものを感じざるをえなかった。


 いくつかの夢とも記憶ともつかぬ景色が過ぎていった気がする。
 もっとも鮮明だったのはなんだったろう。
 父の性的な視線が自分に向けられ、細部まで読み取ってしまった
時の記憶だろうか。それとも、幾度も繰り返すように襲ってきた死
の意識か。まるで、辺りの空間全体が、ここで息を引き取った人々
の亡霊で満たされているようだった。
 きっと、それは今も死と闘っているどこか別の病室での意識だっ
たのだろう。いや、もしかすると、私自身の恐怖だったのかもしれ
ない。
 そうだ、身体から遊離した意識の中で、まるで追いかけて来るよ
うに繰り返された記憶があった。
 それは、叔父の死の間際の意識の記憶・・・。あれも私の恐怖だ
ったのかもしれない。
 私が11才の時の、喘ぐような苦悶の意識。
(痛い、死ぬ、俺も死ぬ。母様が行ったところへ俺も行く。痛い。
もう、死ぬな。見ないでくれ。ああ、死ぬ。何してるんだ、道代。
死ぬ、死ぬ。俺のせいじゃない。何もしていない。痛え。死ぬ)
 癌の苦痛、死の混乱・・・。
 もう、二度と思いだしたくないと思っていたのに。
私は、自分が死に瀕していることをどこかで感じていた・・・。
 それでも時折、感じ慣れた父の意識が兆すときがあった。けれど、
身体と、あるべき時の流れはすっかり消え失せて、自らの存在だけ
を感じ続けている自分がいた。
 記憶だけが流れ去り、いくつかの過去を感じた。
 やがて、ざわめきが、辺りに充満する死の意識が、私がまだ、身
体を持った人間であることを思い出させてくれた。
 そして、意識が戻ってきた。それは、父によれば2日ぶりだとい
うことだったけれど、私にとっては一瞬の出来事としか思えなかっ
た。
 ああ、でも、そんな全てが意識の内だけの真実であったかのよう
に、今は静かで、目を閉じることができる・・・。
 沢野志穂は穏やかに差し込んでくる秋の日差しを頭上に、この数
年間感じたことのなかった静かな空気の中にいた。
 私は、生きているんだ。
 感じ続けていた自己嫌悪は志穂の胸の内から消えたわけではなか
ったが、ほとんど見えないほどに小さくなっていた。
 そして、ずっと遠くでかすかに死への恐怖、老いと諦め、そんな
感情が聞こえてくる他は、志穂の内面を騒がす音もなかった。
 今まで、いつともなく遮弊を強いられてきた六つ目の感覚も、そ
れほどに穏やかな空気の中では誰に向けるでもなく拡散させること
ができた。
 まるで、見知った者達のように過ぎてゆく数々の意識・・・。け
れど、志穂は今、そんな全てを許したい気持ちになっていた。
 小さい頃、よく星を見た・・。きっと、その時の気持ちに似てい
る。
 生きて行くことと、生きていること。私が感じなければいけなか
ったのは、今こうして"ある"という事実だったのかも・・・。
 その時、感じ慣れた波が近づいてきた。
志穂のいつになく澄んだ意識は、目に見えるより早くその人物を捉
えていた。
「沢野さん、先生がお見舞いにいらしたわよ。
 ドアの開く音と看護婦の声が同時に響き、首を傾けた視線の中に、
友村聖がいた。
 志穂はそれが友村先生であることを確かめるようにまじまじと見
つめた。
 友村は少し決まり悪そうに志穂のベッドに近づいてきた。
「先生」
「もう、大丈夫だって聞いてね。これは、お見舞い」
 果物かごが志穂の横のテーブルに置かれた。
「まだ、食べられなかったか?固いものは」
「いいえ、そういうことはないです。そういう症状じゃないし」
「それは、良かった」
 友村はまだ所在なげに立っていた。
 志穂は、自然な思いが流れ込んでくるを感じた。具体的には読み
取れはしなかったが、それは、優しいもののような気がした。
「先生、座って下さい」
 椅子を勧めると友村はゆっくりと座った。
「お父さんは、帰ったの?」
「ええ、店があるから」
 友村は軽くうなずいた。
「先生、父にあったんですか?」
「ああ、三日前にここで会った」
「父は、先生に失礼なこと、言いませんでしたか」
「とんでもないよ。かえってお礼を言われてしまってね」
「そうですか。あれで、結構怒りっぽいものだから」
 友村は少し口の端を上げて笑った。
 また、少し・・・。
 志穂には友村の意識の奥底が見える気がした。
「本当に、大丈夫みたいでよかったよ、沢野。俺は、お父さんに申
し訳が立たないところだった」
「そんな、友村先生。・・・私が大丈夫だなんて、先生が一番よく
知っているはずじゃ・・・」
「そんなことはな・・」
 志穂は、ハッとして友村を見つめた。そして、また少しだけ胸の
奥が痛んだ。
 友村が先に目を伏せた。そして一瞬の後、志穂は息を呑んで目を
閉じた。
 忍び込んできた意識が、一時だけ志穂の視点を支配した。
 ・・・現実の視点と、別の視点が同一の画面の中で、しかし一致
せずにだぶっている。
『志穂と、・・・・・・一緒なんだから。』
『・・・はい。』
 志穂はその意識がすぐに自ら退いていくのを感じて、引かれるよ
うに追いかけようとした。しかし、追いかける速度よりずっと速く、
それはまた、薄いベールの向こうに退いていった。
「すまない」
 もう一度目を開けると、さっきと同じ格好で、友村は目を伏せて
いた。
「先生」
 志穂は発すべき言葉が見つからず、しばらく友村のうつむいた顔
を見つめていた。
 不思議な感覚だった。まるで、辺りの空気に包み込まれているよ
うな安らぎと、そして、一人でいるような自由さが、同時に存在し
ていた。
 友村が、彫りの深い顔を上げた。
 そして、再び目が合ったとき、志穂は言葉を見つけた。
「先生、そうなの?」
 目でうなずくと、友村はゆっくりと答えた。
「そうだよ」
「信じられない」
「そうだろうね」
 友村は立ち上がった。動揺で声が出なかった。
「・・・沢野のことはずっと気付いてはいたんだ」
 友村はテーブルの上の花に触れると、志穂に背を向けた。
「私も、知っていた、と思います。友村先生のこと」
 私は、何を言っているのだろう。まるで、自分の口ではないよう
だ。
「そう、そうだろうな。けれど、これはそんな単純なことでもない。
しかし・・・」
(時の結び付きは避けようのないことだ)
「そうなんですか?」
「そうだ」
「友美さんのように?」
 友村はパッと振り向いて、志穂を見つめた。
「なぜ、そんなことまで」
「い、いえ」
 志穂は右手で口を押さえた。
「口が、いえ、私が意識して知っていたわけじゃないんです。ただ・・」
「自然にわかった?」
 志穂はうなずいた。この人の背負っている宿命はあまりに重い。
 その思いに答えるように、友村が言った。
「・・・私達は、違いすぎるだろうか」
(なぜ、この孤独な子にこんな問いを)
(いいんです)
 友村は志穂が心を読み取ったことに答えるようににっこりと笑い
かけた。志穂は、心を友村の心で満たしながら、答えるべき言葉を
口にした。
「・・・ありがとう。でもそんなことはないと思います。きっと、
未来が・・・先生の言うように流れるならば・・・。それに、人間
なんて、どこか違うんですから」
(志穂は本当に、そう思っていたの?)
 志穂は目を閉じた。
(いいえ。でも、今はそう思えるんです)
 友村は、もう一度椅子に腰を下ろした。
「ごめんな。まだ良くなったばかりなのに。でも、もう少しだけ、
いいかな」
「はい」
 志穂は、今だかつてないほど意識を自由にしていた。友村と自分
の未来が、安心を約束していてくれるように感じた。
「はっきりと見たんだね、志穂。私達の未来の結び付きを」
「・・・少しだけ」
 本心だった。友村はうなずいた。
「それなら、いいんだ。いつか、直接言うよりも」
「そこまでは、見えないんですね」
「・・・時によるよ。自分の事は少しおぼろげになる。安心した?」
「・・・わからない」
 影をつくった自分の表情を、友村が静かに見つめているのを感じ
た。
「でも、先生はそれでいいの?私みたいな子と。私は、いいの。私
はもう、わかっているから。どうなっても、同じだって。私は私な
んだから。嫌だけど、私なんだから」
 友村は志穂の手を取って、さらに静かな思いを志穂の心に滑り込
ませた。
「いいとか悪いとかじゃないんだ。そのことは、ゆっくり話そう」
 志穂の心を静めるように、握った手に力がこもった。
そして、少し間があった後で友村は言った。
「俺と、志穂は、これからずっと一緒なんだから」
 その言葉とともに、猛烈な勢いでイメージが弾け飛んだ。初めに
目があったときよりずっと鮮やかに、過去と未来が過ぎて行った。
その中には、読み取れるものも、そうでないものもあった。
 志穂は身体を震わせた。
 友村先生のの流れゆく時の中に、私がいる・・・。
(すまない)
 志穂は心の中で首を振った。友村は、答えを知っていたように、
握っていた手に力を込めた。「今日は、喋りすぎたよ。志穂。これ
くらいにしよう」
「・・・はい」
 小さな声で志穂は答えた。優しさが痛かった。
 友村はまた視線を落とした。そして、志穂の手を離すと、静かに
立ち上がった。
 志穂は今まで込めていた肩の力を抜くと、ベッドにゆっくりと身
を沈めた。まだ、手のぬくもりは消えていなかった。
 そしてまた、優しい、しかしどこか寂しげな思いが読み取られる
と、友村の声がした。
「・・・すまないとは思っているんだ。こんな形で未来を教えてし
まうことを。でも、あの時、志穂が倒れたときに、君の時間を見て
しまった。そして、君の力を知ったから・・・」
 友村は言葉を止めた。そして、もう一度口を開いた。
「・・・もう、やめよう」
 志穂は何も答えなかった。ただ、心の扉を閉ざして、伸びていた
腕を毛布の中に戻した。
「また、来るから。お大事にね」
 そして、軽く微笑んだ。志穂が今までよく知っていた教壇での笑
顔と同じだった。
 志穂がうなずくと、友村はきびすを返した。そして、余韻を残し
ながら部屋から出て行った。
 閉ざされた扉からも、遠ざかっていく意識が感じ取れた。志穂は、
完全に波動が消えてしまうまで友村を追い続けた。
 そして、また自分一人だけになった時、志穂は大きなため息をつ
いて天井を見つめた。
 時の流れは、避けられぬもの・・・。
 志穂は、事の唐突さに当惑しながらも、ゆっくりと未来に思いを
向け始めていた。それは、彼女にとって思春期以来初めての事だっ
た。


 病院の自動ドアを通って外の冷たい空気に触れた時、聖は身体を
震わせた。それは、寒さのせいだけではなかった。あそこまで志穂
に語ってしまったことの、後悔に似た気分が胸を満たしていたから
だった。
 聖は新たな未来をかいま見た。それは幼い頃より知っていた未来
と異なるものではなかったが、より詳細に鮮明に映し出されていた。
 全ては、志穂の意識が感じられた時に起こった。
 おぼろげであったはずのおのれの未来が、志穂との未来の関連の
中で急速に明らかになった。
 彼女が自分の心を読み、あえて目を反らしていた部分を、他人の
意識という形でもう一度投げてよこしたのか。
 自分は49才と4ヶ月で死ぬ。
 そして、沢野志穂と自分の未来はその最後の瞬間まで離れること
なく結び付いている。
 あと、23年間・・・。
 いや、数字など関係ないのかもしれない。
 聖は立ち止まって、志穂の歴史を思った。同時に、かつて愛し、
心を預けることのできた唯一の女性のことも。
 避けられぬ時を、生きる、こと・・・。
 晩秋の風が鋭く吹き付けた。聖はゆっくりと病院の門を出て、歩
み去って行った。

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