Love Spreads 番外編 Love Spreads,again

 扉を開けると、何一つ置かれていない部屋の壁が真っ白で、俺達のこれからを迎えてくれているような気がした。
「うん」
 背中で、小さな頷きが聞こえた。
 二人並んで玄関に立つと、何の目隠しもなく広がるキッチンと、その奥に広がる六畳間。そして、右手に仕切られたバスルーム。
 俺達の新しい城の全て。
 ショートに切った黒髪の旋毛が、頬の下に並んだ。なだらかな曲線を描く眉の下、黒目がちで大きな瞳―いつも側にあって、自分の血肉と間違うほどに自然な輝きが、真っ直ぐにこちらを見上げていた。
「ね、一緒に足を置こう」
 そして、亜矢は俺の手を握った。
「そうだな」
 スニーカーを脱ぐと、一緒に足を上げた。
「せぇの……」
 見下ろした視線の先、青いジャージとベージュのソフトパンツの足先が、同時に白い床についた。
「広いね」
 八畳だと聞いていたリビングキッチンは、まだ何も置かれていないせいか、とても広く見えた。まあ、あの日から今まで暮らしてきた俺のアパートが、せますぎただけだったのかもしれないけれど。
「……ね、テーブルは置こうね。いいよね」
 ミントグリーンの薄手のロングセーターが眩しい。俺は、口元に浮かぶ柔らかい様子だけで、どれほど亜矢の胸の内が躍っているか推し量ることができた。
 どんなに一緒にいても、胸を衝かれるほどに愛しく感じてしまう。
 いや、共に過ごした時間が長くなるほど、驚かされてしまう。どんな時にも弛まず前を見つめ続け、俺と歩んでくれる伸びやかな姿に。
「亜矢、前から欲しがってたから。予算には入ってるよ」
「うん。だって、前のアパート、テーブル置いたら、寝る所がなくなっちゃうもの」
 以前より少しだけ丸みを帯びて見える身体。俺は、ショートカットの下の撫でた肩に手を置いた。
「亜矢、休んでな。あとは俺がやるから」
「え、でも……」
 言葉を発しかけて、口をつぐんだ。そして、軽く下腹部に手をやると、
「うん。武史君に任せる」
 言って、その場に腰を下ろした。
「奥の六畳間で、横になってればいいよ。先に枕と布団を上げるから」
「そうする。頼むね、パ・パ」
「ははは、任せろ」
 俺は、半袖Tシャツの上腕部に力こぶを作って見せた。
 荷物は、それほど多くなかった。運んでくるものはできるだけ絞ったし、亜矢の家から送られてきた服や日用品も、衣装ケースに五箱くらいのものだった。
 あまり広くはない階段を往復して、レンタルの軽トラックに積んだ荷物を運び上げる。
 引越し屋のバイトに慣れた俺には、大した作業じゃなかった。ただ、まっさらな部屋にダンボールやケースを置きながら思う。本当に、よくここまで漕ぎ付けたもんだ。
 亜矢の父親と話ができるようになったのは、ついこの半年ばかりのことだった。俺のところに飛び込んで来たのがばれてから一年以上、亜矢は半勘当状態だった。俺に到っては犯罪者扱い。
 どうにか雪解けの兆しが見えたのは、亜矢の母親がおれのアパートを訪れた、去年の冬からだった。
『いいんだよ、武史君。生活費はともかく、学費だけでも払ってもらってるんだから。それだけで大感謝』
 一緒にいられるんだから、それでいいんだよ―笑って言った陰りのない表情を思い出すと、俺も自然に頬が緩んでしまう。
 俺は、本当に幸せものだ。
 荷物を奥の部屋に運び込むと、ベランダに開いた窓の側に、グリーンのセーターとベージュのズボンが見えた。枕に頭を預けて横臥した背中が、静かに上下している。
 上からのぞき込むと、目を閉じた亜矢は、静かな寝息を立てて浅い眠りに落ちている。
 足元にまるまった黄色いタオルケットをお腹の辺りにかけると、少しだけその姿を見つめていた。
 愚痴一つこぼさないけれど、大変なんだろうな……。
 妊娠がわかったのは、この初夏のことだった。産婦人科の診察を終えて、人気のない待合室で俺の前に立った亜矢の顔。
 喜びでもなく、戸惑いでもなく、ただただ静かで、淀むところがない。俺は、未だ知らなかった表情が愛する女性の中に眠っている事に、驚くしかすべがなかった。
「ジュニア誕生だよ、武史君」
 俺にも、惑いはなかった。働けばなんとかなる。大学だって、休学すればいい。ただ、亜矢はこの一年で卒業だ。俺がサポートして、休まずに証書を手にさせてあげたかった。
 意外な連絡は、もう休学届を出すばかりになっていた暑い夏の日にやってきた。握った受話器の向こうには、聞き覚えのない男の声。
 ……まったく、あの時は冷や汗ものだったなぁ。
 衣装ボックスを押入れの下の段に押しこみながら、滲んできた汗を拭った。秋も深まってきたとは言え、荷物を積み下ろしていると、さすがに暑い。
 俺は、着ていたトレーナーを脱ぐと、緑のTシャツ一枚になった。
「君に、任せるしかない」
 初めて向かい合った亜矢の父親は、思っていたよりずっと温厚そうな人だった。眼鏡の奥の目の色は、どこか弱々しげで、俺は深く頭を下げて、愛する人を一生守り続ける事を誓うのみだった。
 そして、結婚への準備が始まった。
 今日運び込んだ荷物は、必要最小限のものだった。明後日の結婚式が終われば、新婚旅行に出かける余裕などない俺達は、すぐにここで暮らし始める事になる。1DK、狭いけれど、初めて二人で築く夢の城で。
 本が入っているのだろうか、手をかけたダンボールにはぎっしりと中身が詰まっていた。腰を入れて持ち上げると奥へと運び入れる―と、押入れに置く寸前に、バラバラッと音がして、中身が畳の上にぶちまけられた。
 うわ、詰め過ぎだよ。
 散らばった本やノートを拾い集める。多分、実家で亜矢が詰めたものだろう。俺にはちょっと読めそうにない、英文や何とか文化論といったタイトル、講義ノートらしきものが見て取れる。
 大事なものなんだろうな、丁寧に元に戻し始めた時、一冊の小さなハードカバーが目に付いた。緑系のチェック柄になった表紙、そこには小さく英字でダイアリー、とあった。
 日記、か。何の気もなく手に取ると、背に書かれた日付が、かなり古いものであることに気づいた。
 それは、俺達がもう一度出会ったあの頃。一番熱くて、切なかった高校時代の日付。
 少し黄ばんだ頁を、パラパラっと捲った。
 ……武史くん、好き好き☆
 そんな文字が目に入った瞬間、俺は慌てて日記帳を閉じた。日記を勝手に読むなんて、まずい。いくら亜矢のだって……。
 その時、背中に感じ慣れた気配があった。
「懐かしい……」
 首だけで後ろを向くと、身体を起こし、肩越しにのぞき込んでいる、穏やかな表情。
「いいよ、武史君。読んでも。だって、全部武史君が知ってる事だし」
「でも……」
 読みたいような、でも少し怖いような。手に持ったままの日記が、ひどく重く感じられた。
「そんなところに入ってたんだ……。ほんとにいいよ、一度、武史君に読んでもらおうかな、って思ったこともあったから」
「いいの?」
「うん」
 そして、ふふふ、と笑った。お腹の中に新しい命が宿ってから、亜矢は時折そんな笑い方をする。感情を柔らかい笑みの中に隠したような、それでいて澄んだ笑い方を。
 ―四月三日 晴れ、かな?
 最初の頁を開いた時、少し丸い、でも元気のいい大きな文字が目に飛びこんできた。



 今日から新しい日記だ。うんうん、気分もアタラシイ。


 頑張れ、亜矢。ポンポン。←背中を叩く音


 ほんとは、ちょっと不安。っていうか、ドキドキしてるのかな。
 だって、付属にはタケちゃんがいるから。もう、二年経っちゃたんだなあ、って思う。戻って来れるなんて、思ってなかったから。
 野球、頑張ってるかな。地区予選には残ってなかったから、結構苦戦してるのかも。何て励ましてあげよう。って、レギュラーになってるのかな。いやいや、間違いない。それは。
 ずぅっと、わたしの胸の中にいた人。忘れようと思ったけれど、忘れられなかった人。心の恋人。
 ……キャー、ハズイ。恥ずかしすぎだぁぁぁぁぁ。
 

 うむむ。
 昨日見ちゃったから。クラス名簿。信じられなかったな。
 でも、想ってる事って伝わるのかもしれない。忘れられないのが怖くて、手紙も出さなかったけれど、結局こうやって、もう一度会うんだもの。


 もう寝よう。明日、タケちゃん……ううん、森島武史君に会ったら、落ちついていられるように。


 あ、でも、もう彼女がいたり。××××。いいんだ、その時は。それでも。だって、彼はわたしの憧れだもの。永遠の。



 五月十日 曇り


 どうして、こんなに胸が苦しいんだろうって思った。
 悲しかった。
 森島君が野球をやめたと聞いてから、ずっとわだかまっていた心の中。今日、「俺には関係ない」って言われた時、凄く悲しかった。
 ワタシハケッキョク、カレニコイシテルダケ?
 憧れなんて、目標なんて、おためごかしだったのかも。
 だって、部長とのこと、本当は気にして欲しかった。あの時は気付かなかったけれど。だからあんなに腹が立ったんだと思う。


 でも、もういい。
 だって、すっごく心がハリハリだもの。
 森島君、ホントは何も変わってなかった。
 本当に変わらないものは、形じゃない。よく言い聞かせたつもりだったのに、女ってだめだなぁ。すぐに自分の側に引き寄せちゃって。でも、でも、だから、森島君に憧れてるんだけど。


 あああ、でも、「大好き」なんて言っちゃった。うーんどうしようどうしよう。「亜矢ちゃん」て言われて、もう、頭がボーっと。ああ、ダメダメ。彼がわたしをどう思っていても、わたしは一歩づつ森島君に近づいて行こう。バスに乗ってる時、考えたみたいに。


 それがどんな結末になっても、わたしは彼が好きだ。どんなことがあっても。



 六月十五日 雨、でも、とても嬉しい雨


 書こう書くまいか、悩んでる。でも、こういう時に日記を付けないでいつ書くのだろう。
 

 ……今日、彼に抱かれた。



「あ、う……。やっぱ恥ずかしいかも」
 横に並んで見ていた亜矢が、小さく呟いた。
「いいよ、別に俺、読まなくても」
 古い日記を読んでいると、あの日々がつい昨日のように感じられた。このまま読み進めたい気もしたけれど、亜矢が恥ずかしがるのを無理強いしてまですることでもなかった。
「ううん、読んで。今、思った。新しい生活が始まる前に、わたし達の原点を確かめておきたい。もうすぐ、何もかも変わってしまうんだもの」
 呟いて見下ろした、僅かに丸みを帯びた腹部。
 そうだ。明後日の結婚式の後には、新しい命が生まれる時を待つ日々がやってくる。そして、その始まりは、今読んでいる六月の雨の日だから。



 ずっと知識だけで、どんなものか想像するしかできなかった瞬間。
 でも、すごく大事で、いとおしい瞬間だった。
 痛かった。叫びたくなるくらい。彼、武史君が動くたびに、中、が引っ張り出されるみたいで。
 でも、嬉しかった。だって、この痛みが、彼を受け入れている証拠だから。そして、一番、何より大事な言葉をもらった。わたしは、一生忘れない。子供ができるかも、そう言った時の武史君の言葉を。
「そうなったら、指輪をあげるよ」
 大好き。大好き。大好き。大好き。だれよりも!



 八月六日 晴れ


 わたしは、とても大事なことを知らなかったんだと思う。
 恋人でいる事、それは、心の結びつきでもあるけど、身体もすごく大事なんだって。
 ずっとすれ違ってたと思う。気持ち良くなる、イク……。
 そんな言葉、知ってはいるけど、とても現実とは思えなくて。
 受け入れて、満たしてあげればいいなんて、本当はとても独りよがり。だって、わたしが武史君が気持ち良くなって嬉しいと思うのと同じように、彼だって、わたしに気持ち良くなって欲しいはずだもの。


 きょう、はじめて、感じた。
 気持ちいいって、思った。
 ほんとは、ほんとは、武史君の、を、口に入れてたときから、うぅぅ、恥ずかしい。うううう。☆☆ ちょっとずつ……。


 でも、確信した。わたしと武史君は、ずっと一緒にやっていける。少しずつ、近づいていける。
 まだ、彼が全部を話してくれていないのは、知っているけど。
 わたしは待っていたい。愛は、うん、愛は、広がっていくんだ。



   九月十二日 今日も晴れ。まだ暑いよお


 最近Hなことばっかり考えてる自分にびっくり。
 こんなんで、武史君に嫌われないかなぁ……。
 受験勉強も、ちゃんとしないといけないのに。


 でも、彼も言ってくれたから。「好きな人とするのが、凄く気持ちいい」って。
 だから、少しくらいエッチなわたしでもいいよね、武史君。


 でもでも、最近、思っちゃう……。うぅ〜ん、中に、武史君のが入ってる時、気持ち良くなりたい! もっと、もっと、って。
 だって、奥の方に彼のが当たると、どうしても、その感覚を追いたくなっちゃって……。
 ああ、何を書いてるんだろう。こんな日記見られたら、ただのエッチ大好きっ娘じゃない。
 エッチ大好きっ娘。そうかも。ああ、もう。どうしよう。やっぱりむずむずしてる。武史君と、デートしてないから? なんか、男の子みたい。
 ごめん、武史君。ちょっと、一人でしちゃうね……。



 十月二十二日 晴れ、でも、土砂降り


 わたしは、何もわかっていなかった。
 わかってるつもりになっているだけだった。
 どうすればいいのかわからない。
 勝手な思いこみの愛情。
 彼が何を求めているのかも知らずに。
 でも、どうしたらいいのかわからない。
 家族ってなんだろう。
 わたしには疑いも持てないもの。
 この間、抱かれた時、何も感じなかった。
 心だけが痛かった。
 埋められない空白。
 それでも彼はいつもそばにいてくれる。
 いつも、優しい。
 それでいいの? それでいいの?
 でも、どうしたらいいのかわからない。
 歌も歌いたくない。
 聞きたくもない。
 恋の歌なんて、大っ嫌いだ。
 わたしには届かない。
 的外れな事を言っても、悲しいのは武史君だ。
 わたしの好きはどこを向いてる?
 誰か、教えて欲しい。ううん、でもこれは、わたしが考える事だ。
 でも……。
 でも……。



 十二月二十一日 晴れ


 嬉しかった。
 こんなに嬉しいプレゼントを、わたしは貰った事がない。もしかすると、この先一生貰う事はないかもしれない。
 そして、これからもっと、第九が好きになると思う。きっと、この日を思い出す度に、「歓喜の歌」が聞こえるだろうから。
 武史君は、本当に凄い人だ。わたしは、今でも尊敬してる。人の為に、こんなに真剣になってくれる人はいない。もっといい加減な人はたくさん、山ほどいるんだ。恋のうま酒に酔っているだけの人達なんて。
 わたしは、ずっと武史君と生きて行きたい。
 この人に会えて、本当によかった。愛情が、受け入れ、深まり、最後には自分も変える事ができるとわかって、よかった。
 愛してるよ、武史君。



 二月十三日 雪


 勉強は大変だ。でも、武史君は驚くほど頑張ってる。高校三年間、それなりにずっと勉強を続けてきたわたしは、彼の進歩ぶりにびっくりしてしまう。ちょっと嫉妬してしまうくらい。
 今日、確信した。絶対に武史君は合格する。危ないのは、わたしの方かもしれない。
 先生になったつもりでいて、自分が落っこちたなんてことがないように、頑張らないと。
 外は雪が降ってる。
 武史君も、頑張ってるだろうな。
 もう少ししたら、TELしよう。
 そして、一杯愛を送っちゃおう。
 武史君と一緒なら、大学生活も楽しいだろうなぁ。分野が違うのも、すごく刺激になる。
 あと、もう少しだ。今日は、世界史をやらなきゃ。わたしの一番の苦手。あ〜あ、年号とカタカナの連発さえなければなあ。
 イヤイヤ、そんなこと言っててもしょうがない。
 いざ。



 三月三十一日
 

 どうしてこんなことになったんだろう。
 新しい部屋の壁が冷たい。それに、何も考えられない。さっきから、涙が止まらない。
 距離なんて、どうにでもなる。そう信じてる。でも、寂しい。
 また、涙だ。
 止まらない。
 寂しいよ、武史君。
 あなたを想う気持ちは変わらない。愛する気持ちを、絶対に手放したりしない。どんなに長い時が過ぎても。
 でも、一緒にいたかった。一緒に、キャンパスを歩きたかった。
 また、涙。
 感傷的になったって、何も解決しないのに。
 今日は、寝るね、武史君。
 明日、手紙を書くよ。
 わたしは元気。武史君は?って。
 絶対、明日になったら、元気になるから。



 ここまでで、日記帳は終わっていた。俺達がもう一度出会ってから、また離れ離れになるまでの一年間。まだ幼くて、でも、誰よりも熱かった二人の想い。
 この日々があるから、俺達は今、ここにいる。
「ありがとう、亜矢。やっぱり、亜矢は、「すごい」よ」
 亜矢は、にっこりと笑って、俺の首に手を回した。短く切った髪の毛が俺の頬に当たって、少しくすぐったかった。
「すごいのは、武史君。今でも、ここには日記に書いたのと同じ気持ちが住んでるよ。わたしの憧れで、目標だもの」
 静かだけれど、深い響きと想いを感じる。どうして、俺はこんな女性と共に歩ける幸せに恵まれたろう。
 説明なんて、できるはずはないけれど。
 でも、この幸せを生かしていかなければ、全てがウソになってしまうだろう。それだけは、確かだ。
 二人自然に唇を寄せて、キスをしようとした時、手に持っていた日記帳から何か白い紙が落ちた。
「あ」
 亜矢が呟いた。俺も、足元に視線を落とす。
 ―エアメール。何処かで憶えのある。
「あ、俺の……」
 そうだった。親父が戻ってきた日、亜矢に当てて書いた、あの手紙に違いない。
 亜矢が、静かに指を伸ばして、丁寧にその封筒を持ち上げた。
 そして、文面に目を通した。
 俺も、並んで読み始める。何を書いたかなんて、記憶になかった。
「好きだよ、武史君」
 文面に目を通し終わった亜矢が、見つめ返した瞳の奥に、眩しいほどの輝きを秘めて、唇を合わせてきた。
 俺も、彼女の肩口に手を当てると、支えながら引き寄せて、一層深く、甘い香りに身を任せる。
 愛してる、亜矢。


 ―どうしても、聞いて欲しくて、手紙を書いてる。
 今日、本当に嬉しい事があった。
 親父が、帰って来たんだ。俺の家に。
 俺はずっと、亜矢を縛るのは嫌だと思ってきた。だって、シアトルにいる亜矢の向こうには、俺なんかが立ち塞がってはいけない、大きな未来が広がっていると思っていたから。
 でも、今日、おふくろが親父を見つめた、その目の色を見た時に、思った。うまく言えないけれど、あんなに長い時間と、すれ違いがあっても、あの二人には通い合うものがある。
 だったら、俺と亜矢はなんだろう。いや、亜矢は俺をどうやって思ってくれていたろう。
 距離なんて、どうでもいい。進む道が違ったっていい。俺達は、確かめたじゃないか。絶対にこんな出会いは二度とないって。
 それを、どこかに流してしまっていいのか。
 俺は、亜矢が昔俺にくれた言葉を思い出したんだ。もう二度と会えなかったとしても、こうやってずっと連絡を取って行こう。
 きっと、何かが変わる。
 「好きって気持ちは広がっていくんだ。それで、最後は絶対に勝っちゃうんだ」
 ありがとう、亜矢。
 君に会えて本当によかった。

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