最終章 Love Spreads 

 何度も口を開こうと思ったのに、言葉が出なかった。武史君と手を繋いで、辺りの景色をぼんやりと流したまま、公園の中をさまよっていた。
 出発の時間はすぐそこまで来ているのに・・・。
 今日は、きっととても気持ちのいい春の日なのだと思う。青空に、程よい風。流れる雲に、咲き誇る桜の花。
 でも、わたしにはまったく実感がない。
 この日が来るのが怖かった。
 東京まで新幹線で2時間半。埋めることができる距離だと思う一方で、離れていくことの不安が胸に重い予感を残していた。
 初めてのデートで着ていた服を着て、街を見下ろす中央公園の高台に武史君を誘った。そして、ずっと右手に握り締めていた指輪を、武史君の左手の薬指に填めた。
「これで、お揃いだね。」
 どうしてだろう。胸の中に渦を巻いている想いが、少しも言葉にならない。目を見るのが怖くて、どうしても顔を上げることができなかった。
「ありがとう。」
 武史君の声は低く抑揚のない調子で、わたしの手が添えられたままの自分の手を、ゆっくりと見下ろしていた。
 どうしてそんなに落ち着いていられるの?わたしは、こんなに寂しいのに。
 心の中の声が勝手に動き出す。でも、身体も口も、やはり思う通りに動かない。
「もうすぐ時間だね。」
 意味のない言葉を口にしながら、武史君に背を向けた。
 そして、青い空を見上げた。
 この場所に来れば、何かが言えるかと思ったけれど、やっぱりダメだ。
 肩に掛けられた大きな手が、わたしを振り向かせた。視線が一瞬合って、少し下へと逸らされる瞳。何も言葉がなくても、意味することはわかった。
 今のわたし達にはそれくらいしか、できる事はないのだろうか。身体を合わせることくらいしか・・・。


 柔らかいくちづけ。耳元からうなじ、胸へと愛撫する手。頂きから腰へ、そして身体の中心へと降りていく唇。肌と肌が触れ合っても、ぼんやりとした霞が晴れていかない。
 あと一時間もないだろう出発の時間も、まるで現実感がない遠い未来のことのように思えた。
 手が、握られた。
 そして、顔にかかった髪の毛が静かに分けられると、武史君の目がすぐそばにあった。
「・・・亜矢。」
 とても静かな声だった。握り締めた手と、頬に当てられた掌、少しの濁りもない目の中の色。
「武史・・・。」
 自然に名前が口を突いて出た。
 その瞬間、胸の中で凍えていた想いが全て、溶け出して奔流になる。
「嫌だよ。絶対にやだ。わたし、武史と離れたくない。一緒がいい!だって、だって、もう二度と、絶対にばらばらにならないって決めたんだもの。」
「・・・ごめん。」
 涙が溢れてきた。どうしても止まらない。
「どうして。つらいのは、大変なのは、武史のほうじゃない。なんで、そんなに落ち着いてるの?わたしが、あなたを置いて行くんだよ。」
 自分でも何も言いたいのかわからない。ただ、胸の中から止め処もない波が押し寄せてきて、嗚咽に変わってしまう。
「・・・大丈夫だ。俺の中には、亜矢がいる。どんなに離れても、その気持ちは変わらない。」
 そして、彼がわたしの中に入ってきた。
「好きだ、亜矢。」
「わたしも、わたしも愛してる。」
 頬に冷たいものが落ちてくる。固く閉じられた目の縁から、光る雫が零れていた。
 それでも貫いたままの腰が動きつづけ、喰いしばられる歯が、僅かに開いた口元から見えた。
 武史!
 胸に抱き寄せると、激しく打ち立てられる昂まりを受け止め続ける。
 ・・・ただ、今だけがここにあればいい。
 そして、二人で同時に頂きに登りつめた。合わせたままの左手が、更に固く握り締められる。迸りを感じながら、彼の腰の上で組み合わせた足を、強く強く、自分の中心へと押し付けた。
 身体を離した後も、握ったままの手を離さなかった。時計をぼんやりと眺める。
 もう、行かなくてはいけない。
 わたしの目を見つめていた彼が、大きな息をついた後、言った。
「信じてる。どんなに俺達が離れても、・・・どんなに変わっても、この気持ちは変わらない。きっと、この輝くものを持っていれば、亜矢も俺も、ずっと幸せでいられる。」
 わたしは、目を閉じて膨らんだ心の中の空気を宙に放った。
「・・・うん、そうだね。わたしの中には、武史君がいるもの。」
 そうだよね、わたし達は何度も確かめてきたはずだ。
「ごめん。何を焦ってたんだろう。大丈夫、何があってもこの気持ちは絶対に離さないから。」
 そして、わたし達は唇を合わせた。静かな、でも長いキスだった。


 今思い出せば、武史君と別れてからの日々は、一瞬で過ぎ去ったような気がしてならない。
 講義が始まり、広いキャンパスの歩き方にも慣れた頃、初めてのコンパにも出かけた。
 知り合いになった友達は誰もが優しく、気が置けない人ばかりだった。切実さは何処にもなくて、全てがただ楽しく、目新しい事ばかりで満ちていた。
 わたしは髪を下ろして、セミロングに少しレイヤーをかけた髪形に変えた。合唱のサークルにも入って、ほとんど全てが順調に流れていった。
 たった一つを除いて。
 東京に来て、最初は1日と空けずにかけていた電話で、心弾むような会話ができたことはほとんどなかった。
 武史君はいつも疲れていて、自由に大学の風を感じているわたしとは、まったく違う場所にいた。
『仕事が忙しいんだ。』
 その言葉を聞くと、頻繁に電話をかけることが彼の負担になるような気がした。
 やがて、電話は週1回になり、手紙を書くことが多くなった。文字にして綴る方が、自分でも気持ちを整理して、武史君に届けられると思った。
 夏休みになったら、地元に帰ってずっと武史君と一緒にいよう。親には内緒で早めに帰って、疲れている彼に、食事を作ってあげるんだ。
 そんな事を考えていた7月の初め、想像もしていなかった連絡が母から届いた。
 父の転勤先が、アメリカになった。一緒に行かないか、と。
 その街には、わたしの大学と交流がある総合大学があり、長期留学は難しくなかった。単位も引継ぎが可能で、場合によっては完全な編入も考えられた。
 一番熱心に受けていた他の国々の文化論の講義。広い視野を持った文化交流が、この閉じた国には必要だ、そんな教授の言葉が耳に新しかったその頃、留学の話はとても魅力的だった。
 武史君はどう思うだろうか。
 真っ先に電話をした先に、彼の声はなかった。『お客さまの都合で、現在この電話は・・・』のオペレーションの声だけ。速達で出した手紙も、宛て先不明で戻ってきていた。
 漠然とした不安を抱えたまま、わたしは一人で答えを出すしかなかった。きっと、長い1年になる。でも、離れる寂しさだけで立ち止まったら、わたしはわたしでなくなってしまう。
 留学を決めて、荷物をまとめに地元に戻った日、全てを伝えようと思って、彼のマンションの前に立った。
 やはり、そこには『森島』の表札はなかった。
 マンションの管理人にも行き先がわからなかった。慌しい転居で、連絡先を聞くのを忘れるほどだったそうだ。
 会えないまま、旅立たなくてはいけないのだろうか。
 出発の2日前、ようやく届いた短い手紙に、転居先と、『いろいろあったけれど、ようやく落ち着いてきたよ。』と飾り気のない文字で書かれていた。
 その夜、手紙を枕元に置いたまま、どうしても涙が止まらなかったことを憶えている。左指のリングを握り締めたまま、夜が更けるまでずっと泣き続けていた。
 もう、わたし達は同じ場所を歩けないのだろうか。別れの日に刻んだ想いは、胸の中だけに残って、やがて記憶になってしまうのだろうか、と・・・。
 そして、今に続く生活が始まった。
 シアトルの街は、冬の寒さを除けば快適で、綺麗に整備された美しい街並みを行き交う人も、大らかで優しかった。危険、犯罪、銃、といったステロタイプなアメリカの像はここには当て嵌まらず、日本にいるより自由で、活力に満ちていく自分を感じていた。
 マジ?これから遊ぶところでしょ、と日本では驚かれることが多かった薬指のリングも、ここではそうは受け取られなかった。
 What a honest lady you are!そんな風に言われた後で、How wonderful、How beautiful、と付け加える人が多かった。ただ、みんな率直に言う。なぜそれほど愛する人がいるのに、そばにいてあげないのか、そこまでしてここにいると言う事は、よほど強い意欲があって学ぶつもりなのだろう、尊敬するよ、と。
 わたしは少しずつわかり始めていた。武史君が大学に行けなくなったあの時、わたしにできる最大の事は、そばにいてあげることだったのだ。一年や二年の遅れなんて、簡単に取り戻すことができる。
 30歳や40歳になってもなお、新たに挑戦を始める人達が珍しくないこの場所に来て、初めて実感することができた。
 けれど、守られたお嬢さんでしかなかったわたしは、もう後戻りができない道に入ってしまったのかもしれない。
 半月ほど前、両親の会話をドアの向こうに聞いた時、その思いは一層強くなった。
『亜矢は、まだあの指輪を填めてるのか。』
『・・・もう手紙の返事も来てないみたいだから、その内でしょう。』
『そうか、そうしたら、向こうへ戻してやる方がいいかな。』
『どうでしょう。このまま編入して、帰国した方がいろいろと楽かもしれないわ。』
『だな、就職するにしても、結婚にしても、国内ブランドよりはずっと・・・』
 わたしは、少し哀しかった。そんな親達の思考法そのものが、この開いた場所にいてなお、閉じた空間を作り出していると言うのに。
 でも、わたしはそんな両親にずっと守られてきたんだ・・・。
 今でも時折書き綴っては送るエアメールに最後に返事があったのはもう半年近くも前だった。そして、目を閉じて思い浮かべる彼の顔は、高校の時のままだった。
 もう、武史君は自分の道を歩み始めているのだろう。決して器用ではないけれど、少しの虚飾も纏わずに、一歩一歩。
 だから、わたしも胸に手を当てて確かめてみる。まだ、心の中にあの時の想いが満ちているのかを。
 毎日のようにキスをして、抱き合って、お互いの中に広がる想いを確かめ合ったあの日々が生きているのかを。
 大丈夫だ。わたしはがんばるよ、武史君。
 玄関先、青い木のフェンスの前に立ったわたしは、手を伸ばして大きく息を吸った。そして、緑の木が立ち並ぶ広い通りを見やった時、郵便ポストに手紙が一通入っているのに気がついた。
 エア、メール?
 胸が大きく鼓動する。
 取り出し口を開けて、手を入れた。そして、おそるおそる覗き込んだその封筒には・・・。
 『Takeshi Morishima』の文字。
 武史君だ!
 わたしは玄関の階段を一歩で飛び登り、ドアを開けると、自分の部屋へ駆け込んで行った。

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