最終章 Love Spreads

 桜の花びらが、中央公園の広場に舞っていた。この数日の暖かさで、すっかり冬の影は消え、青空に綿菓子のような雲が、目に痛いほどに春の息吹を伝えていた。
 亜矢はずっと黙っていた。
 繋いだ手を固く握り締めたまま、もう何周も公園の中の遊歩道を歩いていた。袖と襟が紫の長袖Tシャツにベージュのベスト。そして、デニムのフリンジスカート。
 亜矢の服には見覚えがあった。多分、最初のデートの時に着ていた、あの服だと思う。
 東京行きの新幹線は、あと3時間ほどで亜矢を乗せてホームを出る。そして、俺は隣に座ることはできない。
『そちらの家とはもう、何の関係もない。』
 おやじの実家に電話をかけた時、受話器の向こうから聞こえた叔父の声を思い出す。とうに絶縁状態だった唯一の親族。しかし、答えは予想通りだった。
 僅かな希望も消え、選択肢は、やはり一つしか残っていなかった。秋まで考えていた通り、就職してこの街に残ること。
 試験の結果を考えれば、おふくろの病気が早くわかったことは、かえって幸運だった。そうでなければ、余分な出費をすることになっただろう。
 亜矢は、まだ黙って歩いていた。駅前で待ち合わせて、「おはよう。」と言ったきり、ほとんど会話らしいものを交わしていない。高く結んだポニーテールが、うつむき加減の頭で揺れていて、うなじの後れ毛が妙に寂しげに見えた。
 俺の気持ちは、割合整頓されていると思う。選択肢がない以上、余分なことを考えても仕方のないことだから。
 ・・・でも、亜矢はそういうわけにはいかないのだと思う。
 東京に行けない理由を話した時も、言葉を必死に堪えているのがわかって、その表情を見ているのが辛かった。
 俺は、亜矢だけは悲しませたくない。
 でも、他にどうしようがあるだろう。
 おふくろの手術は滞りなく成功した。けれど、切除した胃と、痛んだ肝臓の回復には、長い療養が必要だった。
「ね、高台に行かない?」
 ようやく口を開いた亜矢が、遊歩道から分かれて登る坂道へと手を引いた。
 街を見下ろす小高い場所には、緑の薫りが満ちていた。あの秋の日は昨日のように思えるのに、季節はもう、こんなにも過ぎている。
 亜矢の手が離れると、俺の左手を捧げ持った。
 もう一方の手が、薬指にひんやりとしたものを差し込む。
「これで、お揃いだね。」
 小さな声で言った。
 銀色のリングが、指元で陽光を反射して光っていた。
「・・・ありがとう。」
 他に口にできる言葉も思いつかず、俺の手を握った亜矢の指に光るリングを見た。
 もうすぐ俺達のいる場所は離れていく。距離を隔てても、決して亜矢を思う気持ちは変わらない、そう思う傍らで、漠然とした不安が胸の片隅に残り続けている。
 こんな大切なものを貰っても、言葉をうまく作ることができない。亜矢にこの不安が伝わってしまうのが怖かった。
「もうすぐ時間だね。」
 手を離すと、背を向けて空を見上げる仕草がとても儚げに見えた。
 俺に今、できることはなんだろう。
 考えても答えはなかった。きっと、これからの新生活で亜矢が出会うだろう様々な事。その場所で話し合い、助け合うことはできない。
 これが、離れるということなのだろう。
 負けたくなかった。そんなことに。今確かめられるものがあるなら、どんなことをしても心と身体に刻み込んでおきたい。
 亜矢の肩に手を置いた。
 一瞬交わった視線で、亜矢も同じ事を考えているのがわかった。
 結局、今何より確かなのはお互いの身体なのだろうか・・・。
 時計を気にしながら服を脱ぎ捨て、唇を合わせながら裸になった時も、心が置き去りにされたような気がしていた。
 数え切れないほど抱きしめた美しい腰の稜線に、愛撫を繰り返す間も。
 白い頂きに唇を這わせる間も。
 その時、何も言わずに身を任せている亜矢の手に、俺の手が触れた。
 指と指が自然に絡む。手の平が暖かい。そして、急速に目の前に色が戻ってきた。
 亜矢の顔が見たかった。
 乱れた髪の毛を、左手で掻き分けると、息がかかるほど近くに顔を寄せて、目を見つめた。
「・・・亜矢。」
 呼びかけると、ぼんやりとしていた瞳が俺の目の中で焦点を結ぶ。
「武史・・・。」
 掠れた声だった。大きく見開かれた目蓋の端が、光る雫で溢れていく。そして、その声も、胸の中から溢れ出すような激しさを帯びていた。
「嫌だよ。絶対にやだ。わたし、武史と離れたくない。一緒がいい!だって、だって、もう二度と、絶対にばらばらにならないって決めたんだもの。」
 胸の奥に錐を突き立てたような鋭い痛みが走る。でも、ここで気持ちの手綱を放したら、自分でも何を口走るかわからなかった。
「・・・ごめん。」
「どうして。つらいのは、大変なのは、武史のほうじゃない。なんで、そんなに落ち着いてるの?わたしが、あなたを置いて行くんだよ。」
 涙が両頬を流れ落ちていくのが見える。そして、俺の身体の下で、嗚咽を続ける亜矢。
 「・・・大丈夫だ。俺の中には、亜矢がいる。どんなに離れても、その気持ちは変わらない。」
 悲しみを少しでも和らげたかった。そして、腕の中で泣いているかけがえのないこの女性が愛しかった。
 濡れた泉の中に、静かに分け入った。悲しみとも痛みともつかない感覚が満ちて、それでも抱きしめたい気持ちだけは変わらない。
 この後どんな長い人生があったとしても、これはたった一度の出会いに違いない。
「好きだ。亜矢。」
「わたしも、わたしも愛してる。」
 その声を聞いた時、俺を辛うじて留めていた最後の堰も崩れてしまった。
 全ての想いをぶつけて腰を動かす。
 どうして、俺達は・・・。
 身体の奥から快感が兆しているのに、同時に涙がこみ上げる。
 苦しい。どうして、こんな思いばかり・・・。
 歯を喰いしばった時、亜矢の手が俺の肩に添えられ、胸元に引き寄せられた。
 ・・・大丈夫だよ、武史。
 声が聞こえたような気がした。そして、腰の上で組み合わされた足が、中心へと深く導き入れた時、俺は達していた。
 身体を離した後も、亜矢の手が俺の手を握り締めていた。
 胸の中の荒波が静けさを取り戻していくと、まだ収まらない息をつきながらベージュ色の天井を見つめていた。
 俺は、たくさんのものを亜矢から貰った。そして、2人でしか持てない胸の中の想いを育ててきた。
 もう、俺は、亜矢と会う前の自分じゃない。
 誰にでも持てる、でも俺達だけが持っているこの奇跡を信じよう。絶対に変わることのない今の想いを、忘れないでいよう。
 顔を横に向けて亜矢の目を見つめた。
「信じてる。どんなに俺達が離れても、・・・どんなに変わっても、この気持ちは変わらない。きっと、この輝くものを持っていれば、亜矢も俺も、ずっと幸せでいられる。」
 亜矢は一度目を閉じた後、肯いた。
「・・・うん。そうだね。わたしの中には、武史君がいるもの。」
 照れくさそうに笑った。
「ごめん。何を焦ってたんだろう。大丈夫、何があってもこの気持ちは絶対に離さないから。」
 そして、俺達は唇を合わせた。静かな、でも長いキスだった。


 あれからもう、1年半近い年月が経とうとしている。
 今でも時折ポストに落ちる亜矢からの手紙。でも、俺はもう、半年以上も返事を出さないでいる。
 亜矢が東京に旅立った後、眠る暇もないほどの忙しさが俺を待っていた。
 夜から朝方にかけて、流通センターの集積所で服やスポーツ用品の荷を積み下ろす仕事をした後、おふくろのできない分の家事をし、栄養素とカロリーを指示どおりに収めるための素材の買出しをする。
 休みの日には、引越しの臨時バイトを入れて、少しでも収入を増やすようにした。
 それでも、おふくろが退院してから3ヶ月の後には、家計は完全な赤字状態になっていた。
 一番ひどかった時には、電話もガスも止まった状態になり、俺は引越しを決断せざるを得なかった。
 そして、なんとか工面したお金で借りた安アパートで、曲りなりにも生活が軌道に乗り始めたのは1年後のことだった。
 頻繁にかかってきていた亜矢からの電話や手紙がぷっつりと途絶えていた、引っ越してから2ヶ月目くらいの秋の日だったろうか。ポストに見なれない形の手紙が落ちていた。
 エアメール?
 手に取るのは初めてだった。赤と青の縁取りの中に英語で記された宛書。差出人には、Seattle、そして、Aya Yamafujiの名が見て取れた。
 仕事で疲れ、ぼんやりとした頭をなんとか働かせながら封を開けると、見覚えのある大きな文字が、所狭しと並んでいた。
 父親の海外転勤が決まり、留学の話が持ち上がったこと。俺にも連絡が取れず、思い悩んだ結果、アメリカ行きを決断したこと。
『わたしらしくがんばっていくのが、武史君の望みだと思うから。』
 手紙には青いインクでそうあった。
『振り向いて、止まっていたら、いけないと思う。これからも前を向いて、あなたに会った時、胸を張れる自分でいたいと思うから。』
 そして最後に、『愛してるよ。』といつも通りに書かれていた。
 亜矢らしい、と思う一方で、寂しさが胸に込み上げるのをどうしようもなかった。あまりにも大きく離れてしまった道は、もう二度と合わさることはないのだろう。
 でも、今ではそれでいいと思っている。もし二度と同じ道を歩めなくても、あの一年で亜矢と培った想いは、確かに俺の中で生きているのだから。
 おふくろの体調も、どうにか家事ができるほどには回復してきた。そして俺は、週末には再び少年野球のコーチをするようになった。
 監督の江田さんとも随分親しくなった。今では時折、身の上話めいた事も聞いてもらっている。つくづく、誰かに支えてもらって生きていることを感じるこの頃だった。
 先週の練習の後にも、おふくろが俺に話したおやじとの馴れ初めで長話をしてしまった。
「・・・本当に、男女の間は理屈では割り切れないものだと思うよ。」
 角張った顔の中で白い眉毛を寄せると、口元に皺を寄せて江田さんは肯いた。
 約2年ぶりに口にしたビールのせいか、あの時のおふくろは饒舌だった。昔、自分がどうしようもない位視野が狭かった事、そして安定のために全てを犠牲にしてしまったことなど、おやじとの様々な経緯を皮肉交じりに俺に話してくれていた。
「おふくろは言うんですよ。確かに身体は壊したけれど、夜の勤めでよくわかった、って。古風な家からようやく逃れたおやじを、今度は私がしばっちゃったんだ、って。」
 子供達が帰った後のグラウンドには、夜の帳に黄色い照明だけが光をにじませていた。
「だから、俺にもおやじを憎まないでやってくれって言うんですよ。まったく、勝手な親だったらありゃしない。」
 江田さんの目尻が一層笑ったように下がった。
「森島くんは、別に恨んでないんだろう?」
「どうなのかな・・・。」
 正直、おやじに対する感情が湧いてこなかった。ただがむしゃらだった1年半、自分を突き動かしていたのは『このまま負けたくない』という気持ちだけだったから。
「それで、亜矢さんは?手紙はまだ来てる?」
 亜矢のことを聞かれると、まだ胸が痛んだ。
「最近は、滅多に来ないですよ。」
「・・・そうか。」
 江田さんは、思い出すように夜の空を見上げると、呟いた。
「可愛い子だったけどなぁ。あんなにいい子は、滅多にいないと思うよ。」
「・・・滅多にじゃなくて、絶対に、ですよ。」
 俺は、グラウンドの土をスパイクの先で蹴り上げた。
「手紙に書いてくるんですよ、『武史くんに負けたくないから、がんばる。』って。俺は、こんな奴なのにね。だから、俺も少しでもがんばろうと思うんですよ。彼女の理想の男にはなれないけれど、努力はしたいから。」
「いいなぁ・・・。わしは、森島君は亜矢さんの言うとおりの男だと思うよ。それで、連絡はしてないの、相変わらず。」
「もう、1年半近くも経ったから。俺が頻繁に連絡すれば、彼女を縛るだけだと思うんですよ。」
 そして、まだ指に填められたままの指輪を見つめた。
「アメリカにいる亜矢の前には広い道が続いてるはずだから。」
 江田さんは俺の方を見ると、低い声で言った。
「森島君の前には、道がないと?」
「いいえ。」
 俺は首を振った。
「俺も、諦めてないですよ。なんとか勉強は続けてるし、こうして、江田さんの所でコーチもさせて頂いてるし。」
「そうか。」
 俺の肩を、ポンポンと江田さんの手が叩く。
 でも、その道はもう、亜矢の道とは交わることがないのだろう。
 それを考えると、やはり少し寂しかった。


 食事が終わった後、自分の部屋に入って運動生理学の本を読んでいた。居間からは、おふくろの見ているバラエティ番組の笑い声が小さく響いてきていた。
 図に書いてある投球動作を真似て手を動かして見る。上腕二頭筋に手を添えて、筋繊維の動きを確かめてみた。
 ・・・なるほど。
 次のページをめくろうとした時、窓の外を歩く音が部屋を揺らした。となりの部屋の芝さんが帰ってきたのかとも思ったが、まだ時間が早い。
 足音は、この部屋の入り口の前で止まって、また戻り、そして再び近寄ってきた。
 セールスか?
 安普請のせいで、こういう足音が思い切り響き渡るアパートだ。どうせ新聞の勧誘か何かだから、さっさと帰ってもらったほうがお互いのためだろう。
 部屋を出て、ベニヤ造りの玄関の戸を開ける。
「・・・すいませんけど、あっちこっち歩かれると・・・」
 ドアの隙間から顔を出して覗いた廊下には、紺の背広の後ろ姿があった。
 新聞の勧誘にしては、妙に身なりの整った・・・。
 俺の声を聞くと、天頂の少し薄くなった頭が、肩越しに首だけを回して後ろを伺い見た。
「・・・おやじ。」
 間違いなかった。記憶にあるより、少し老けて力なく見えたが、俺に似た細い目に、丸い鼻、薄い唇。二年ぶりに見る父親の顔だった。
「・・・あいつは、いるのか。」
 俺は、無言で肯いた。ドアを開けると、入るように促す。
「いいのか。」
 短く言うと、身体もこちらを振り向く。
 身なりは整っているようだった。前の会社からは忽然と消えていたが、何処かで仕事についているのは間違いなさそうだった。
 心の中に、何の感情も湧いてこないのが不思議だった。2年前の記憶は、玄関先でしたたかに殴り倒した印象だけだと言うのに。
 無言のままで促した俺の横をすり抜けるように、おやじが部屋の中に入る。すれ違った時、その身体がひどく小さく感じた。
「おふくろ。」
 居間のドアを開けて、座椅子に座ってTVを眺めるおふくろに声をかけた。俺が身体を脇に寄せると、おふくろの目は、おやじの方を見たまましばらく見開かれていた。
「・・・倒れたんだってな。」
 所在無く立ったまま、ほとんど感情のこもらない声でおやじは言った。おふくろは頷くと、いつも俺が座っている座布団を手で示した。
「座ったら。」
「・・・いいのか。」
「そのままじゃ落ち着かないでしょう。」
 おやじは、俺の横を通ると、布団のかかっていないコタツの前に正座した。
「前のマンションの大家に聞いてな。これだけ、渡しにきた。」
 そして、胸ポケットに手を入れると、白い封筒をおふくろの目の前に置いた。
「200万入ってる。ポストに入れて行こうと思ったが、こいつに見つかったからな。」
 言って、立ったままの俺の方を見た。
「・・・それじゃ、行くから。」
 立ちあがりかけたおやじの手に、おふくろの手が添えられるのが見えた。
「どこか、行く所があるの?あんた。」
「いや。あいつとはとうに別れたし、社宅に帰るだけだ。」
 おふくろの目が、静かにおやじを見つめていた。その表情は、拘りを全て削ぎ落とした、広い海のように見えた。
「もう、無理は言わないから。」
 おやじの顔が、驚いて言葉を受け止めると、やがて溶けるように固い線を消して緩んでいく。
「俺は、謝れるのか?」
 再び腰を据えたおやじの姿を見た時、俺は居間の扉を静かに閉めていた。
「・・・謝る必要なんてないわよ、もし謝るなら、あの子に・・・」
 小さな声が響いてくる。でも、それ以上は俺の関わることではないような気がした。
『お父さんはね、とても才能があったのよ。わたしは愛されてると思い込んでいたけれど、その代償がどれくらい大きいかぜんぜんわかってなかった。古い家から逃れるために、必死で手に入れた力だったのにね。』
 この間の話を思い出す。
 そうかもしれない。でも、おふくろは一つ、間違っていると思う。さっきのおやじの目の中にあったものを、俺はよく知っている。
 それは、代償なんかじゃない。その一瞬に手を伸ばさなければ、二度と巡ってこないものだ。
 ずっと、おやじは待っていたのかもしれない。
 俺は、おやじを許そうと思った。そんな権利が、最初から俺にあるのかはわからないが。
 そして、胸の中でどうしようもなく込み上げてくる想い。
 亜矢に手紙を書こう。この想いが広がっていくなら、歩いて行く道もまた、川の流れのようにすべて海へと注いでいるはずだ。
 それでいい。
 俺は、ペンを取った。

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