第一部 −高校恋愛編−

   第一章 一つの傘で

 四時過ぎから降り始めた雨は、駅前広場のオレンジのタイルに無
数の飛沫を飛ばし、目の前には霞のスクリーンがかかったようだっ
た。
 改札をぬけて階段を下りた売店の脇、傘を広げて次々と水煙の中
へ歩み出していく人々。
 この場所で暗灰色に垂れ込めた空を見上げて数分。みのりは、ま
だ決心がつかずにいた。
 このまま濡れて家まで走っていくか。それとも売店で傘を買って
いくか。
 家までは徒歩で十五分程かかる。この雨の激しさでは、着衣のま
まプールに飛びこんだ同様の状態で帰宅することになる。後始末の
大変さはもちろん、夏の制服は白の半袖ブラウス。ただでさえ透け
易いのに、駅前の人ごみを下着を晒しながら行くのは少し気が重か
った。
 一方、これ見よがしに大きな値札の付いた青いビニール傘は五百
八十円。バイト代を三日後に控えた財布には、軽くない出費だった。
 右側で分けられたショートカットの髪を手で押さえながら、駅の
通路を振り返る。けれど、見知った影は人ごみの中にはない。
 みのりは、肉感的な唇から舌を僅かに出すと、大きな瞳とハの字
眉を寄せて鼻で息を吐いた。
 仕方がない、濡れて行こう。
 肩に掛けていたベージュとグリーンのトートバッグを頭の上に乗
せた。水色の大きな髪留めが、少し下へずれ落ちる。
 剥き出しの二の腕に冷たい感触を覚えたのは、その時だった。
「真岡さん」
 小さな声に振り向いたその先にある顔。みのりと同じ白のブラウ
スにえんじのリボン。ほっそりとしたうなじと、肩甲骨辺りまで豊
かに流れる長い黒髪。面長の稜線の中には、くっきりとした細い眉
と、眦の切れた艶やかな瞳。そして、筋の通った形のいい鼻の下で、
小さな唇が微笑とも戸惑いともつかない色を浮かべていた。
「……三瀬さん」
 三瀬佳澄。みのりは、殆ど会話を交わしたこともない二年二組の
同級生の顔を見つめた。腕にかけられた細い手が離されると、緑の
布バックと小さなポーチを身体の前に下げて、彼女はすぐに目を伏
せた。
 透き通るような白い肌に、整ってはいるけれど、何処か儚げな容
姿。一学期早々に佳澄がクラスに紹介された時の事を、みのりは反
射的に思い出していた。
「ど、どしたの? 三瀬さん、この駅だったっけ?」
「……真岡さん、傘持ってないでしょ」
 みのりの問いかけに答えず、顔を伏せがちにしたまま、佳澄は掠
れた声で言った。それはむしろ、独語のような感じだった。
「う、うん。ちょっと困ってたんだけど、もう走ってっちゃおうと
思って」
 頭の上に乗せたままのバッグを肩に戻すと、少し乱れた短い髪が
髪留めから外れて、人懐こげな丸顔にパラパラとかかった。
 一瞬顔を上げた佳澄がすぐに視線を横に逸らすと、小さな口元に
はにかんだような様子が見えた。
 雨は相変わらず薄いベールになって目前の空間を覆っている。同
じクラスと言う他は共有するものがない二人に、言葉が見つからな
い数刻が過ぎた。
 視線を逸らした後、佳澄は無言で外の眺めを目に映している。長
い睫毛が深い眦と共に少し茶がかった瞳を彩っていて、少し赤みを
帯びた白い肌と合わせて、みのりは暫く目を奪われていた事に気付
いた。ちょうど、転校の挨拶で小さくお辞儀をしたあの時のように。
「私の傘、大きいから」
 目を合わせないまま唐突に呟かれた言葉の意味が瞬時には捉えら
れず、緑の布バッグから取り出された花柄の折り畳み傘が大きく開
かれるのを見ていた。
「三瀬さん、でも、あんた……」
「また戻ってくればいいから。駅、次だし」
「でも、悪いよ。私の家、歩いて十五分くらいかかるから」
 望んでいたはずの申し出。でも、わざわざ往復をさせるとなると、
訳が違った。
「いいの。ね、みのりさん」
 小さいけれど、決然とした調子の言葉。正面から見上げられて、
今度はみのりの方が視線を逸らした。
「うん、わかった。じゃ、お言葉に甘えちゃう」
「…ありがとう」
 身を寄せると、頭半分高いみのりに合わせて、少し高く掲げられ
る傘。
「もう、お礼を言うのは私でしょ? 三瀬さん、やっぱり変なとこ
あるわ」
「ふふふ、そうよね」
 言って俯くと、佳澄はクスクスクスと笑った。
「ほら、私が持つ。そんなか細い腕に持たせとくわけにはいかんも
の」
 佳澄より一回り太い腕が、傘の柄を取り上げた。そして、降りし
きる雨の中へ、白いブラウスと紺のスカートの制服二人組みは、肩
を並べて歩み出した。
 不思議な感じがした。
 佳澄が転校してきてから二ヶ月。いつも教室の片隅で一人本を読
んでいることが多い彼女は、他の生徒と打ち解けることが殆どなか
った。昼食や放課後、他愛のないTVやファッションの話題、彼氏
とのよもやま話に嬌声を上げる女子の輪の中には身を置かず、『窓
際の君』のままぼんやりと外を眺めている姿。みのりは、ふとそん
な彼女の横顔を遠くから見つめていることがあった。万事に勢いだ
けの自分とは異世界に住んでいる少女。でもきっと、そうしてただ
のクラスメイトとして終わっていくのだろう。
 それが今、一つの傘の下で肩を並べて歩いている。
「この商店街、たまに買い物にくるんだ」
 店の建ち並ぶ駅前商店街の半ばまで歩いて来た時、小さな声で佳
澄は言った。
「ふ〜ん。でも、西駅前はなんもないからねぇ。こっちに来るしか
ないよね」
 斜め下を見下ろすと、豊かな黒髪と秀でた額が目に入った。こぶ
し二つ分ほど離れた華奢な身体。濡れたブラウスの肩口に緑色のス
トラップが透けて見えた。
「あのお店、結構かわいい服置いてあるでしょ?」
「あ、知ってるんだ」
 降り落ちる雨の先、間口の狭い古着屋を指差す佳澄。みのりは自
分もよく知っている店の看板を見て頷いたが、それよりも唐突に胸
の内に発生した動悸に戸惑っていた。
 それは、無邪気に微笑んで見上げたほっそりとした顔と、さっき
自然に視線を這わせてしまった濡れた胸元。細身だと思っていた身
体の想像以上の豊かな膨らみに、飾ることのない笑みを浮かべた可
愛らしい口元が添えられて、自然に込み上げたもどかしいような感
覚だった。
「ほら、三瀬さん、あんたが飛び出てどうすんの。私が押し出した
みたいじゃん」
「え、うん」
 早口になって傘からはみ出した肩を指差すと、佳澄は腕が擦れ合
う距離に身を寄せる。
 そして左右二車線の大通りに突き当たると、みのりは隣に並ぶ同
級生の足が、自然に右へ向かうのに気付いた。それは、「こっちだ
から」と言葉を発するより確かに早かった。
 再び黙ったまま二人は大通り脇の歩道を歩いていく。人通りは失
せたけれど、ガードレールの付いた狭い歩道では標識や自動販売機
が行く手を遮って、二人並んだままだと身体を斜にしたり、前後に
なったりしないとなかなか進んでいけない。
 自然ともっと密着する形になって、強く降りしきる雨から身を潜
めた。
 その時、傘の柄を持った右腕に、柔らかい感触が差し込まれた。
長い髪が頬のすぐ下にあって、曇った空気の中でさえ、爽やかなフ
ローラルの香りが鼻をつく。
「あ、うん。それくらいくっつけば、濡れないな」
「うん」
 文章を読み上げるような調子で平板に言うと、密やかな声で同意
が返る。
 女性としてはがっしりとした背中のみのりに、頭半分背の低い、
細身の佳澄が腕を絡ませた後ろ姿は、ショートカットとロングヘア
ーの髪と相俟って何処か微笑ましく見えた。
 そして仲町商店街の入り口に差し掛かると、みのりは再び佳澄の
足が勝手に右手へと進路を取るのに気付いた。
 自動車一台がやっと通れる旧市街への道。古い商店がぽつりぽつ
りと間口を構える商店街を歩きながら、みのりは疑問を口にした。
「三瀬さん、何でこっちって知ってるわけ?」
「うん」
 顔の横でしっとりとした黒髪が僅かに動く。
「こっちの商店街にも時々足伸ばすから」
「足伸ばすって、こっちは服やら小物やらの店はないだろ? まさ
か肉や魚を買いにくるわけでもあるまいに」
 絡めた腕に、歩む速度がゆっくりになるのを感じた。
「……みのりさんの家、八百屋だよね。だから…」
「そうだけど……、あ、そっか」
 家庭科の時間にしょっちゅう野菜の講釈をしてしまう『青汁』み
のりさん。こっちに旧市街があると知ってるなら、推測できて当然
か。
 みのりは勝手に合点すると、自宅への最後の角を曲がった。
 野菜の並んだ店先まで来ると、組んでいた腕を解いて、張り出さ
れたナイロンの雨よけの下に立った。
「ありがと、三瀬さん」
「うん」
 また視線をわずかに下に逸らしたまま頷くと、所在無くその場に
立っている佳澄。
「どしたの?」
「あ。……みのりさん、佳澄、でいいから」
「あ、うん」
 再び少し唐突な言葉。みのりは佳澄の言葉を咀嚼するのに一呼吸
かけてから頷いた。
「…そだな。私にしちゃ、堅苦しかったか。でも、みつ…佳澄とは
ほとんど口きいたこともなかったから。あ、そうだ。ちょっと待っ
てて」
 余りもので作った漬物があったはず。店の奥へ身体を突っ込むと、
大声で叫んだ。
「お〜い、オヤジ! ぬか漬け開けてもいいか。友達に持たせたい
んだけどさぁ」
「みのりか? あんまり数ないけどなぁ」
 木の廊下の先、小部屋から声だけが返った。みのりは手に持って
いたバッグを畳の上に投げると、縁の下の暗がりを覗き込んだ。
「ほい、雨よけのお礼」
 手早くビニールに入れた茄子と胡瓜の漬物を新聞紙に包むと、じ
っと立っていた佳澄の目の前に差し出す。
「あ、ありがとう」
「漬物なんて、今時の娘には受けないか。ははは」
「う、ううん。私、好きだよ。朝は漬物がないと食べれないもの」
「お、文学少女の佳澄に漬物。ミスマッチでいいじゃん」
「もう、嘘じゃないよ」
 佳澄は少し唇を尖らせて拗ねた声を出した。整った顔に浮かんだ
幼い様子に、みのりは胸の奥に愛しさに似た感情が兆すのを感じた。
 緑のバックに丁寧に包みを入れると、佳澄は再び傘をかざした。
「それじゃ、みのりさん、かえってありがとう」
「いや、濡れネズミにならんかったんだから、安いもん。あと、み
のり“さん”はなしね。こそばゆいから」
「うん」
 顔全体が輝くような嬉しさを湛えた笑顔。
 こんな顔もできるんだ、この子。みのりが考えた時、佳澄は雨の
中で小さく手を振っていた。
「じゃ、みのりちゃん、バイバイ」
「ああ、佳澄、また明日な」
 花柄の傘が角を曲がって姿を消すと、みのりは呟いた。
「みのり、ちゃんか」
 ずっと触れ合っていた腕の温かさと胸の柔らかさがまだ肘の辺り
に残っている。それはむしろ、さっきより鮮明に感じられて、みの
りは少し戸惑っていた。
 多分それは、その感覚がまったく不快さを伴わず、甘い陶酔に近
いニュアンスで胸を占めていたからに違いなかった。

 夜。八百屋『菜香町屋』の二階、天井の低い小さな部屋で、みの
りは電話の子機を握っていた。緑のチェックのパジャマで椅子に腰
掛けると、足をベッドの上に投げ出す格好で、小さな木枠の窓の外
を見ていた。
 梅雨の終わりの激しい雨は、深夜になって流れる雲間に輝く星空
に取って変わられていた。風呂上りの頬に外の風が冷たくて、みの
りは楽な調子で受話器に話しかけていた。
「明日? うん、いいよ。何処に行く?」
 みのりは少し甲高い感じの男の声に応えると、胸元のボタンを一
つ外した。パジャマの中まで風が忍び込んで気持ちがいい。
「海? 雨が降ったらやだなぁ」
『天気予報、晴れって言ってたぜ。久しぶりに遊覧船でも乗らん?』
「うう〜ん、いいかも」
 谷間への稜線を覗かせる胸元を見下ろすと、全体が盛り上がった
感じの固めの隆起が目に入った。
 胸囲ばっかりあっても、カップがないと。
 また佳澄の柔からい身体の感触を思い出してしまう。あんな感じ
なら、少しは可愛らしく思われるんだろうか。取り留めもなく彼氏
と話しながら、みのりはぼんやりと考えた。
 けれど、風呂に入っている時からなんとなく佳澄の事ばかり考え
ていた事を思い出して、慌てて会話に気を戻す。
『そういや、大丈夫だったか? お前、傘持ってないって言ってた
じゃん』
「あ、うん」
『どうせ、濡れ鼠で帰ったんだろ? どっかでパクりゃいいのにさ』
「いいじゃん。濡れて帰るのも、気持ちいいって。だいたい、人が
濡れるより、自分が濡れる方がいいもの」
 どうして本当のことを言わないんだろう。佳澄の笑みを思い返す
みのりの耳に、少し野卑た感じの笑いが響く。
『そりゃ、俺も同感。俺が濡れるより、みのりが濡れた方がいいも
んな』
「バカ! エロ言ってんな」
 鼻で息を吐くと、通話の先の左千夫のおどけた表情を意識に浮か
べた。少し垂れめの眉と丸っこい目に、いつものからかったような
調子で話しているに違いない。
『はいはい。じゃ、明日十時にブクロね』
 笑い声を響かせて通話が切れた。子機を充電器に置くと、椅子か
らベッドに倒れ込む。七色の水玉の散った上掛けの上に、程よく肉
付きのいい百六十八センチの身体を仰向けにすると、ベッドが少し
小さく見えた。
 大きな瞳と軽い獅子鼻が人好きのする丸顔の下で、生乾きの髪が
大きく布団の上に広がった。
 低い木の天井を見上げて額に両手を当てる。しばらくそのままで
ぼんやりしていると、急速に意識が消滅点へ向かうのがわかった。
 やば、髪の毛梳かしてから寝ないと、明日の朝地獄見る……。
 何とか身体を起こして、ベッドの棚板の上に乗った小さな鏡を覗
きこんだ。大きなブラシを手に取ると、勢いよく髪を梳かし落とす。
右から流し分けると、少しハの字気味になった眉との印象を確かめ
た。
 初見の人の印象ならば、十人の内九人までがみのりを可愛いと言
うに違いない。でも彼女自身は、美しさには遠いこの顔に、どちら
かと言えば不満を抱いていた。無い物ねだりは人の常に違いないけ
れど。
 時刻は午前一時。冷え始めた空気を窓辺に、ベッドに潜り込んだ
みのりは、程なく静かな寝息を立て始めていた。

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