第十章 その鳥かごの外へ

 佳澄は冷たく光る冬の夜空を見つめていた。
 薄青いシーツの上、うつ伏せに組んだ腕の上に頭をもたれて。
 一週間前からこんな夜が続いていた。みのりがあの日、自分に呟
いた言葉が夜になると反響し始め、胸の奥を刺して止まらない。
『一人が二人になっても、それは始まっただけなんだと思う。二人
だけだったら、ただ持ち合うだけになっちゃう……』
 愛してる――その言葉と共に、少しの隙もなく見つめた瞳の色を、
漆黒に浮かぶ輝きの向こうに重ねていた。
 なんて強い人だろう。いつものりちゃんは前を見ている。少しで
も変わっていこうと思っている。
 佳澄は今まで、その言葉の表面の意味しか理解していなかったよ
うな気がしていた。みのりが行く場所ならどこへでもついて行こう。
それが大きな覚悟だと考えていた。
 しかし、自分のいる場所まで引き付けて考えた時。
 ……私はどうだろう。のりちゃんがお父さんやクラスメイトに向
かっていこうと思っている時、私の置かれている場所は?
 誰よりも「立派な仕事」にべったりの父に、内心蔑みながらも夫
の地位と金銭を勲章にしている母。双方の社会における位置を占め
る道具でしかない自分。触れないようにやっていければ、それでい
い。結局、無理にぶつかり合っても何も残らない。
 ならば、自分だって利用するだけだ。
 けれど、みのりの見つめる場所は自分のいる場所の遥か向こうに
あるように思えた。――理解してもらえなくたっていい。こうして
スミを好きになれた自分と周りの繋がりを置いたら、「好き」と言
う気持ちに嘘をつくことになる。私はみんなの中で、スミと愛し合
っていくんだ。
 佳澄は、目をきつく閉じると、額を薄青いシーツの掛かったベッ
ドの上に叩きつけた。
 私も、のりちゃんのように強くなりたい。わかってもらえなくた
って、いい。私、今、本当に大好きな人と出会えた、だから一緒に
頑張っていきたいって、偽りのない気持ちをパパやママに伝えたい。
 もしそれでダメでも、いや、おそらくダメだろうけれど――正直
にぶつかることで、みのりのいる場所に少しでも近付けると思った。
 顔の前で手を組み合わせると、手の甲に歯を立てて、鼻から息を
吐いた。
 豪奢なアンティーク調タンスの上の置時計は、きらきらと光るガ
ラスの奥で、十時を指そうとしている。
 今日金曜は、父が比較的普通に帰宅することが多い日だった。
 決意したことを考えると、胃の辺りが締め付けられるようで、全
てをやめたくなる。切り出す言葉は考えてあった。でももし、あの
時と同じように、転校させられることになったら……。自分はどう
すればいいのだろう。
 佳澄は、ベッドサイドに置かれた緑色のフォトスタンドを手に取
った。遊園地の花壇を後ろに肩を寄せ合った、記念の一枚だった。
 お揃いのベージュのセーターに、少し長めのタイトスカートを身
に付けた二人は、ふわりと斜めに分けたセミロングの髪を風に揺ら
して、大きな笑みを浮かべている。
 シャッターを切ってもらった三十才くらいの夫婦の言葉が、頭の
中で蘇った。
「お似合いの姉妹だね。お姉さんはカッコイイし、妹さんは可愛い
し。姉妹のデートなんて、いいね」
 その時、不意の振動が床からベッドへと響き上がった。玄関の扉
の開閉に伴なう揺れに間違いない。続いて、廊下を歩く忙しない足
音が小さく耳に届いた。
 佳澄は写真をじっと見つめると、フォトスタンドを元の場所に戻
した。そして、勢い良く部屋のドアを開けると、木造りの螺旋階段
を駆け下りる。ただ広い廊下を抜けると、調度の並ぶリビングへと
足を踏み入れた。
「お、なんだ」
 コートを脱ぎ、ネクタイを緩めかけていた佳澄の父親は、厚い眼
鏡の下、彫りの深い大きな目で娘の顔を一瞥した。
「おい、お前」
 リビングの奥に呼び掛けると、佳澄の入ってきたのとは反対側、
木製の大きな食器棚の脇から青い寝巻き姿の母親が現れた。
「早かったのね…、あら、佳澄ちゃん。まだそんな格好してるの?」
 白いブラウスに紺のベストとスカートを身に着けたままの娘を見
やると、綺麗にブリーチの掛かった肩口までの髪が、すぐに特大の
冷蔵庫の方へ翻った。
「ビールなら冷えてるわよ。それとも、ウィスキーにする?」
「いや、いい。課の連中と飲んできた」
「そう。坂上さんもご一緒?」
「ああ。……風呂は?」
「できてるわよ」
 脚本通りの台詞が交わされていく。佳澄は、リビングの入り口に
立ったまま、観客以下の空気になって、言葉を挟む機会を待ってい
た。当たり前に見える夫婦の会話は、少なくとも一週間ぶりか、お
そらく一ヶ月は間をおいた末のもののはずだった。
 そして、ネクタイを緩めた父親がソファの向こうから振り向いた
時、会話が途切れた。
「パパ」
「……どうした」
 黒く沈んだ色合いの瞳が曖昧に視線を向けた。
「聞いて欲しいことがあるの」
 佳澄は、スカートの脇に下ろされた手を強く握り合わせた。
「なんだ。欲しいものなら、自分で買え。いちいち言わなくてもい
い」
 薄い唇の端が、苛立ちを表わしているかに見える。そのまま行き
過ぎようとする父親を、佳澄は大きな声で押し止めた。
「違うの。どうしても言わなきゃいけないこと」
 短く、押し潰したような調子に、佳澄の父は娘から三歩ほどの場
所に立ち止まった。
「なんだ」
 明らかに苛立ちが入り混じった声だった。佳澄は、見上げた視線
を逸らさず、はっきりと告げた。
「私、好きな子がいるの。同級生の、真岡さんっていう女の人。す
ごくいいお付き合いをしてるから。パパとママに言っておきたくて」
 食器棚の前、父と娘のやり取りをうかがっていた母親の顔が、大
きく歪んだ。
 皺の刻まれた口の端の苛立ちは固い稜線に変わり、ため息が続い
た。
「……それで」
 予想外の反応だった。激しい返答に備えていた佳澄は、父親の口
から発された短い促しに、次の言葉の端を見失っていた。
「だから、その、真岡みのりさんといいお付き合いをしてるって、
言っておきたくて……」
「それだけか?」
 佳澄は無言で頷いた。もしかして、父親は認めてくれているのだ
ろうか。一年前のあの時とは、考えを変えてくれたのだろうか。
「……お前の性的嗜好をどうこう言っても仕方がない。もう、止め
られるとも思えないしな」
 投げやりな感じだった。片方で緊張が解け、別の場所で鬱屈した
霧が掛かったような気がした。
 どうしてだろう、ホッとするはずなのに。少なくとも、パパは頷
いてくれている。去年、あんなに怒って私を罵倒していたのに。
 しかし、ネクタイをソファに投げて呟いた台詞が、胸の内の靄が
ただの思い過ごしではないことを一気に露わにした。
 それは、鼻息と共に自嘲気味に発された。
「まったく、娘がこう変態だとは。お前はいいかもしれないが、父
親の身にもなれよ」
 ヘン、タイ?
 真っ赤な言葉の焼きごてが、胸に刻印を押しつけた。何も考えら
れなくなる。全部の自制が風に飛ばされて消える。
「何、それ! 何、それ!!」
 甲高い声で絶叫した娘を、今日初めて見せた色合いを帯びた瞳が
見開いて捉えた。
「わたし、そんなんじゃない! そういうこと、言いたいんじゃな
い!」
「じゃあ、何だ。俺は、好きにやればいいって言ってるんだよ。し
ょうがないだろ、お前は変な嗜好があるんだ、迷惑をかけずにひっ
そりやる分には、何も言わんって言ってるんだ」
 父の声も、佳澄の調子に呼応して激しさを帯びる。
「違う。違う。変なんかじゃない。私だって、悩まなかったわけじ
ゃないんだ。でも、違う。ちゃんとやってきたいの。のりちゃんと
一緒に、みんなとおんなじように!」
 言葉を返そうとしていた父親の喉が震えを止め、すぐ後ろまで近
付いてきていた母親の大きな目が驚きに見開かれた。
「……何?」
 低い声が問い返した。
「佳澄ちゃん、同じように、って……」
 一瞬、どの言葉が両親の胸襟に触れたのかわからなかった。自分
は、当たり前のことを言っているだけのはずだった。
「どういう意味だ、佳澄」
 一歩詰め寄ると、父は眼鏡の下の目をいっそう険しくして、佳澄
を睨みつけた。
「……どういう意味って、ちゃんとお付き合いするってことよ。誰
だって、こそこそ隠れてるのは嫌でしょ!」
「お前、言ってる意味がわかってるのか? だいたいが、間違って
るやり方なんだぞ。異常な奴は、それらしくしてればいいんだ」
 冷たい感覚が背中を滲み上がり、絶望が心の中で言葉を作った。
 ……わからない。この人達には、私が何を考えているか、感じて
いるかなんて。
 絶望が瞬時に憤怒と激情に変わるのを、どうしても止められなか
った。
「異常は、変態は、アンタ達じゃない! 私の何処かいけないの?
 私の何処がおかしいの?」
 脇の電話台の上にあった陶製の花瓶を衝動的に掴み上げると、床
に叩きつける。粉々に割れる激しい音と共に、父親に詰め寄った。
「どっかの女のとこに行ったまま帰らないクセに! コーチとよろ
しくやってるクセに! それでヘイへイとしてるアンタ達に、私を
異常扱いできるの? おかしいのはパパとママじゃない!!」
 叫び立てる娘に圧倒されていた父の腕が、弧を描いて振り下ろさ
れ、頬で激しい音を立てた。
「お父さん!」
 母親の声と共に、じんわりとした痺れが残り、振動で頭がぼんや
りとする。
「何考えてんだ、お前は! それが娘の言い草か。お前がどれくら
い迷惑かけてるのかわかってるのか? この間の時だって、あちら
の家にどれくらい払ったか。そんな我侭が世の中で通ると思ってる
のか」
 涙が零れてきた。何を叫んでいるのか、もう自分でもわからなか
った。
 ただ、食器棚を開けると、皿やグラスに手をかけて、滅茶苦茶に
引き倒す。手につくものは全部掴んで、居間中に投げ散らした。
 バカ! あんた達なんて、親でも何でもない! 私に触らないで。
声なんて聞きたくない。どっかに行って!
 その後の記憶は、後から思い返しても定かではなかった。

 告白の結果は、佳澄にとって最悪のものとなった。
 携帯電話は解約、ある程度自由に使うことのできたキャッシュカ
ード類も、現金も、全て取り上げられてしまった。
 「少し頭を冷やせ」。次の日の夜、父親は冷たく言い放つと、門
限を一方的に押しつけてきた。
 社会には規律がある。自分で稼げないお前に、何ができる。従え
ないなら、もう一度学校を変える事も考えないではない。偉そうな
ことを言う前に、自分の立場を考えて、その何とかという子とひっ
そりやればいい。気ままにやることがいい事だと考えているなら、
お前のそれは、自由の履き違えだ。
 父親の弁舌は隙がないように見えた。でも、佳澄には何処かで何
かが違っている気がした。
 それでも、面と向かって反論できない自分が悔しかった。
「酷いよ……。パパの言ってること、自分のことを棚上げしてるだ
けじゃない」
 人気のない空中廊下のベンチで肩を並べた昼休み、思いのたけを
ぶつけると、みのりは思いがけない言葉を返してきた。
「ううーん……。でも、スミのオヤジさんの言うこともわかる気が
する。そう簡単じゃないよ、こういうことは。だって、家族の問題
も絡んでくるだろ? 世の中の約束をひっくり返すことなんだもの」
 そして、じっと冬の空を見上げて、思いを巡らすように眉を顰め
てから、佳澄の方を向いた。
「でも、勘違いしてるところ、あると思う。私達、気ままにやりた
いんじゃない。逆だもの。回りも一緒に……だから、こうやって苦
しんでるんだよ。……ね、スミ」
 その時佳澄は、胸の奥を激しく突かれた気がしていた。
「……のりちゃん」
 それ以上、言葉が続かなかった。みのりは、自分の父親とは一面
識もない。でも、娘の自分よりもっと、見も知らぬ人の気持ちを受
け止めている。
 みのりの持っている思いの深さを垣間見た時、佳澄は、少し気お
されるような感覚さえ抱いていた。
 だから、何より辛い父親の厳命、「冬休みは基本的に外出禁止」、
その断が下された時も、無理に逆らおうとは思わなかった。
 家を出ることができないわけではなかった。お金のありかだって
知っている。母親の目を盗んで、しばらく何処かに身を寄せること
だって、できなくはない。
 でも、みのりはどうなるだろう? そんなことをしたら、みのり
は必ず自分のところへ飛んでくるに違いない。みのりには、八百屋
の仕事だってある。私の家とは違って、お金に余裕があるわけじゃ
ない。
 会えなくなってからも、深夜に電話で話す度にみのりは快活な言
葉をくれていた。
 「ま、もうすぐ、冬休みも終わるし」「おやじさんもそのうちわ
かるって」「少なくとも、スミを食べさせれくれるんだからさ」
「欲求不満、たまらない? へへ、ちょっと下品ってか」…………。
 でも、本当はきっと、のりちゃんも辛いはず。
 佳澄は、言葉の向こうにあるものを思った。みのりがそうしてい
るように、自分も広く心を持とう。みのりを好きだから、誰より愛
しているから、彼女の支えになりたい。一緒にやっていきたい。
 それでも、夜ベッドに入ると、どうしても眠れない時があった。
 何も身に付けず抱き合ってまどろんだ日だまりの午後に、星の囁
く夜。電話もできない日には、寂しさが身体一杯にこみ上げて、満
たされた時の記憶が浮かんで止まらない。
 そんな時、デートで撮った写真を見つめては時を過ごした。
 今日も、そんな夜だった。
 監視役を言いつかった母親は、この二週間余りほとんど家を離れ
ずにいた。今日も風呂上りに始まった電話は、十二時近くなっても
まだ続いている。さっきリビング脇を通った時の様子から、受話器
の先は、名前と声だけは知っている「コーチ」に間違いなかった。
 ……あの人も、可哀相なのかもしれないな。
 佳澄はぼんやりと考えた。母親のことをそんな風に思ったことは
今までなかった。しかし、面と向かって過ごしたこの二週間、次第
に苛立ちを増し、不自由さに愚痴をこぼす姿に、まるで自分の方が
母親を観察しているような感覚に陥ることがあった。
 佳澄は大きくため息をついた。
 今日は、のりちゃんと話せそうにないな……。
 座っていた椅子を傾けると、読みかけのハードカバーを床に投げ
出した。みのりとの付き合いが深まるほどに、本を読んでも空虚さ
ばかりが残るようになっていた。
 目をやった机の横の壁の大きなコルクボード、全面に留められた
みのりのスナップは、どれもが輝くばかりに微笑みかけている。全
てが、佳澄のよく知っている表情だった。
 クリスマスも、新年も、短い挨拶を交わしただけ。十二月の始め
に立てていた計画は全部ご破算になって、冬休みも残り後わずかに
なっていた。二度と来ない、高二の冬。一杯の思い出になるはずだ
ったのに……。
 薄い紫のパジャマを身に付けた佳澄は、まだ少し湿ったままの髪
を左右に振って、溢れかけた気持ちを散らそうとした。
 こんなこと考えてると、止まらなくなる。
 スナップの一枚が目に止まった。デートの写真が多い中、少し毛
色の違うその写真は、フィルムの残りで佳澄がふざけて撮った奴だ
った。
 朝の光に包まれたベッドの上、シーツに半分隠れたお尻の双丘と、
裸の背中を見せて眠っているみのりの姿の上には、元気のいい赤い
字で、「スミのバカ。変なの撮るな」と。でも、その下には小さく、
「いいオンナだろ」とハートマークの囲みがあった。
 もう一度、佳澄はため息をついた。ユーモラスなはずの写真と書
き込みに、かえって切なさを憶えてしまう。
 フワフワと身体に所在がない感じだった。こんな気分は、このと
ころ感じていなかった。みのりといる時には兆すこともあるけれど、
一人の時は強く憶える類いの感覚でないはずだった。
 でも、今日は少し違っている。
 お風呂を上がった時から、佳澄はわかっていた。
 パジャマの下に付けたのは、初めてみのりと一緒に買った、お揃
いの下着。特に、「愛し合う」とわかっている時には好んで身に付
ける、ピンクのレースが少し扇情的なデザインのものだった。
 やっぱり、どっかで身体も求めてる、のかな……。
 目を閉じて、揃えた指を下腹部沿いに忍び込ませると、すぐに状
態がわかった。既にその場所は潤いに満ちて、自然に花弁を開いて
しまっていた。
「のりちゃん……」
 小さく呟くと、さっきまで目にしていた小麦色の肌を脳裏に浮か
べながら、既に頂きを露わにしている真珠の先に二本の指先を触れ
た。
 自慰行為は、佳澄にとって非日常的な行為だった。みのりとする
時も、九割方は「愛して」あげる方だったし、身体が求めるような
感覚が兆すことは皆無だった。
 でも、今は。
 ブラのカップをたくし上げ、柔らかい胸の頂きに手の平を触れる
と、少し落ち窪んでいるはずの乳首は、既に大きく立ち上がってい
た。叢の下に届いた指先は、溢れ出す輝きを掬い取ると、敏感な根
元を押し付けるように、挟みこむように動いて……。
「佳澄ちゃん」
 その時、大きな声が階下から響き渡った。
「佳澄ちゃん!」
 唐突にさまよいかけた夢幻の世界から戻されると、佳澄は声を返
した。
「何?」
 急いで服の乱れを直して廊下に出ると、ドアを開けて螺旋階段の
下を覗き込む。
「もう寝るの?」
 ベージュのソフトスーツに茶のコートを羽織った佳澄の母親は、
意味のない質問を投げた。
「……うん、まあね」
「そう。……ママ、少し出かけてくるから。頼むわね」
 綺麗に整えられた肩先までの髪の下で、銀色のイヤリングが揺れ
光った。何のために出掛けるか推測するまでもなかった。
 返事もそこそこに、玄関から飛び出していく母親の姿。佳澄は、
階段の上から見送ると、すぐに次の行動を思いついていた。
 電話、できる。この時間なら、まだのりちゃんも起きてる。
 急いでリビングへと駆け下りると、子機を掴んでソファに座った。
『はい』
 いつもより少し時間がかかった。四コールほど待った後で受話器
越しに聞こえたのは、いつも通りの明るい声だった。
「よかった。まだ起きてた?」
『うん、もちろん。スミの声聞くまで、眠れんもの』
 やっぱり、のりちゃん待ってたんだ。さっきまでの身体の熱さを
そのままに、佳澄は安堵がこみ上げてくるのを感じていた。
 母親が出かけたことを告げると、みのりは驚いたように声を上げ
た後、少し調子外れの明るさで言った。
『そっか。でも、気にせず話せるじゃんか。あ、でも、今なら会え
ちゃったりするかも……』
 言葉が中途半端な響きで止められるのがわかった。今までみのり
は、決して「会う」という単語を使わなかった。それくらいは佳澄
もわかっていた。
 抱えていた胸の奥の想いが、堰を切りそうになる。
「うん……。でももう、電車終わっちゃってるよね」
 でも、佳澄は気持ちをそのまま口にはしなかった。言葉の響きだ
けで想いが伝わってくる。
 のりちゃんも苦しい。今のは、のりちゃんの本当の気持ちだ。私
と、同じ。
『そうだ。終電、過ぎてるよ、もう……』
 その後受話器から聞こえてきたのは、今まで佳澄が決して耳にし
たことのない、押し殺し、苦しげな調子の声だった。それでも、明
るさを取り戻そうと震えた言葉が繋がる。
『やっぱ、無理だよ、ね……』
 そして、長い長い沈黙があった。佳澄は子機を持つ右手に左手を
副えると、肩を固く窄めて耳に押しつけた。
 何かをすする音。くぐもった声。涙……?
『まぁ、しょうが……な……』
 もういいよ、のりちゃん。いいよ。そんなに無理しなくても。
「のりちゃん。大丈夫? のりちゃん……」
 今そこでみのりが肩を震わせている気がして、手を伸ばすように
声をかけた。
『……ゴメ、スミ……。でも、私、ダメだ。やっぱり、寂しいよ。
スミに会いたい。こんなこと、今まで一度もなかったのに……』
「うん」
 頷きながら、自分の声も涙混じりになっていることに気付いた。
 ダメだ、佳澄。辛いのは私じゃない。のりちゃんだ。のりちゃん
が辛い時は、私が支えになる。抱き締めてあげる。愛してあげるん
だ。
「のりちゃん、無理しないで。私、大丈夫だから。いっぱいキスを
送るね」
 目を閉じて送ったキスは、今ここにみのりの像を結んで、佳澄は
その姿に身体を寄せた。熱い想いは距離を超えて二人を結び、いつ
のまにか下着の中を慈しみ始めていた指先は、みのりのものに置き
換わっていた。
 うわごとのように問いかけた言葉のやり取りの末、耳元に響いて
きたのは、みのりが奥底に指を挿し入れ、かき混ぜる濡れそぼった
音だった。
 舌を突き出すと、みのりの匂いを思い出す。少し甘味を帯びた、
頭の奥を満たすような、穏やかな香り。そして、奥底までを舐め取
った後に、そぞろ上がって吸い上げる華奢なパーツ。唇を突き出し
て愛しむと、佳澄は下着を落として大きく足を開いた。
 みのりの指が、奥へと侵入してくる。そして、開き溢れた花弁を
押し広げ、もう一本の指が……。
 吐息が漏れて、うわごとのように呟いてしまう。
『スゴイよ、のりちゃん。もう、洪水だね。エッチな、ううん、淫
乱なみのり、大好き。もっと、奥まで抉ってあげる』
「うん、抉って。いっぱい抉って。スミの指、大好き。クリちゃん
も吸って。私も、吸っちゃうから」
 吸い上げるみのりの唇は大きく膨れ上がった核を引っ張り上げ、
戦慄に近い快感が腰の奥を支配する。
 そして耳に届いたのは、掠れて絶え絶えになった官能の叫びだっ
た。
「お願い、グリグリしてぇ。お願い、愛してるから。スミに愛して
欲しい。愛して欲しい。溢れさせて。グチャグチャにして」
 こめかみを両側から締め付けたような痺れ。息が止まりそうだっ
た。それでも、何とか自制する。今は、のりちゃんを……。
『うん、すごいよ、のりちゃん。もっと言って。私も、イッちゃう』
「うん。突っ込んで。吸って。お願い。クリちゃん、噛んで。うん。
うん……。やってぇ、お願い! お願……ウゥゥ…」
 後ろから回したもう一本の指先が、会陰部を辿って引き締まった
門をくぐった時、みのりの声が耳元で弾けた。
 そして、二本と一本の指が、細かな痙攣と締め付けを感じた時、
佳澄も絶頂を迎えた。
 息を吐いて程なく、挿し込んだ指が、自分のものであることを痛
いほどに感じる。抜き出した細い指を薄く開けた眼前にかざすと、
激情が胸の奥から塊になって持ちあがり、喉のところで辛うじて止
まった。
 どうして、こんな風にしなきゃいけないんだろう。
 私とのりちゃんはこんなに求め合っているのに。愛し合っている
のに。
『スミ』
 小さな声が耳に届いた時、みのりも同じ想いを抱いているとわか
った。
「のりちゃん」
 到底止められそうになかった。
 こんなのは、やっぱり嫌だ。こんな風に我慢するのは、違う。
「私、ダメだよ、こんなんじゃ。やっぱり、のりちゃんの顔が見た
い。だって、私にはのりちゃんしかいないもの」
『スミ……』
「こんな馬鹿なこと、困らせるってわかってるけど、私、ダメだよ」
 苦しくて、悲しくて、胸が痛い。広いだけの冷たいリビングで半
裸になった身体を晒していると、自分がたった一人で世界に投げ出
された気がして、みのりと会う前の自分に戻ってしまう気がした。
 嫌だ、もう、こんなのは嫌だ……。
『今すぐ会おう、スミ』
 心が千切れそうになった時、受話器の向こうから響いたのは、力
強く、確信に満ちた声だった。
『出られるよね。私もすぐに用意する』
 え……。
 佳澄は、一瞬、返す言葉を失っていた。でも、この一月近くの自
制を全て吹き飛ばして、紛れのない喜びが満ちていく。
「うん。出られる」
 大声で頷いた。
「何処にする?」
『国道沿いのファミレス。わかるよね』
 みのりも早口になっていた。場所を確認して受話器を置くと、二
階へ駆け上った。タンスからジーンズとブラウスを掴み出すと、コ
ートを羽織る。
 靴を履いて、深夜の住宅街に飛び出してから、どうやって国道へ
走り、ファミレスまでやってきたか、記憶はおぼろげだった。ただ
風に吹かれながら、みのりの顔だけを思い浮かべていた。
 もう、理屈はどうでもよかった。恋人の、世界で一番愛しい人の
声を聞きたい。体温を感じたい。ただそれだけだった。
 ライトに浮かび上がったファミレスのドアを開けると、金曜日の
深夜の店内は人で溢れて、雑然としていた。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか」
 ウェイトレスの問いかけを後ろに、セルフサービスのドリンクコ
ーナー前の人垣を抜けて、店内を見渡した。
 大声を上げて笑う女の子達のグループ。茶髪が目立つバイクスー
ツの一団。背広姿で向かい合う会社員……車のヘッドライトとネオ
ンを映す道路側のウィンドウへと目をやると、小さなテーブルが並
べられたそこには、数組のカップルが向かい合っている。
 通路に立って、もう一度ゆっくりと見渡す。中途半端な場所で止
まった佳澄を、幾人かの客が煩そうに見上げた。
 振られている手が目に入った。
 道路側の席の一番奥。そこに座ったクリーム色のセーターと、丸
い顔、大きな瞳。
 佳澄は早足になると、テーブルの前に立ち尽くしていた。
「のりちゃん……」
 真っ直ぐこちらを見上げたみのりは、ゆっくり瞬きをすると、唇
を窄めて頬を緩め、黙って微笑んでいた。
「ふふふ、スミ、凄い格好。それ、色合い滅茶苦茶だよ」
 白いブラウスに青いジーンス、ピンクのセーター。茶色のコート
に包まれた服を見下ろすと、佳澄は唇を尖らせた。
「もう……。だって、服なんてどうでもよかったから」
 向かい側に座ると、後ろからやってきたウェイトレスにドリンク
の注文を告げた。
 二週間ぶりに会ったみのりは、いつも通りだった。さっき電話で
聞こえた辛そうな雰囲気は微塵も感じさせない。目の奥に微笑を浮
かべて、佳澄の顔を見つめている。
 佳澄も、言葉を作る必要がなかった。顎の下に手をついて、ただ
ひたすらにみのりの姿を目に映し続ける。ウィンドウからの夜のラ
イトが、張りのある顔に陰影を添えて、いくら見つめていても時間
を感じなかった。
 ただ、ドリンクを注ぎに行って戻った時、みのりの手が身体の横
のソファを叩いて、
「スミ」
と、短く言った。すぐさま隣に座ると、肩を寄せた。
 テーブルの下で、左手と右手が合わさった。五本の指が絡み、強
く握り締め合う。腰から肩までをぴったりと寄り添わせると、少し
緩んだ指は、互いの手の甲を慈しみ、言葉を交わし始めていた。
 みのりの手は、いつも通り固くて、熱かった。佳澄は目を閉じる
と、手指の間をゆっくりと愛撫される充足感に身を委ねていた。
「好き……」
 自然に喉から声が漏れると、少しハスキーな声が頷きを返した。
「うん」
 そして、握り締める手にもう一度力がこもる。
「スミ……」
「なあに」
 今日始めて聞く、話しかける素振りの言葉に問いかけを返すと、
少し強張った声が耳元で響いた。
「オヤジに正直に言うしかないと思う。これは、私達だけじゃどう
にもならない」
「のりちゃん……」
 佳澄の耳にしか聞こえない、小さな声だった。けれど、強い決意
を持って発された言葉だとわかる。佳澄は、グラスに添えていたも
う一方の手もテーブルの下に入れると、みのりの手を包み込んだ。
「ダメかもしれない。でも、佳澄と離れるのだけは嫌だ。そんなの
は間違ってる。私、それだけは譲らないよ」
 のりちゃん……。
 涙が溢れそうになった。膝が震えて、身体が熱くなる。
 こんなに私を愛して、大事に思ってくれる人がいるなんて、信じ
られない。私みたいな子を……ううん、私はのりちゃんと、みのり
と歩いていくんだ。
 ファミレスを出て、みのりの家へと歩き始めた歩道。もう、二人
の身体は止まらなかった。
 佳澄が手を引くと、みのりは身体を屈めて腰に手を回した。顔を
寄せて互いの瞳を映し合った時間――永遠がそこに流れ、全ては二
人のためにあった。
「佳澄」
「みのり」
 唇が触れ合った。そして、深く、強く、いつまでも……。

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