第十一章 そして、二人は

 みのりの鼻先には、煤けて茶がかった畳の目地ばかりが広がって
いた。額を擦り付けるようにして、どれくらいの間そうしていただ
ろうか。
 視界の端には、膝の上に置かれた佳澄の握りこぶしが見えていた。
 佳澄も、肩を窄め俯き、心を押し殺して、みのりの父が口を開く
のを待っていた。
 みのりが平伏して、ひたすら待っている姿が切ない。でも、自分
には待つことしかできなかった。
「オヤジ」
 もう一度喉から絞り出す声で、腕を組んで目を閉じる、巌が如き
父親に訴えかけた。
 覚悟はもう、できていた。ファミレスに向かう道へ走る間、譬え
何があろうと佳澄とは離れない、もし、父親に全てを打ち明けて認
めてもらえないなら、家を出るしかない――はっきりと心に決めて
いた。
 確かに走っているかもしれないけれど、もしかしたら、恋に溺れ
ているのかもしれないけれど、私とスミの気持ちに嘘はない。なら
ば、こんな風に裂かれていることが、正しいことであるはずがない。
「もういい。みのり、顔を上げろ」
 ゆっくりと身体を起こして父親の顔を見つめた。佳澄との関係を
打ち明けた時と同じく、赤褐色の腕を組んで考え込んだ、固い頬の
稜線。しかしみのりには、口の端に刻まれた皺がどこか緩んでいる
ようにも感じられた。
「話はわかった。だが、お前に言われたから、はいそうですか、と
認めるわけにいかんくらいの事はわかるな。いくら色ボケのお前の
頭でも」
「それは、わかる。でも、色ボケって、私はそんなつもりじゃ……」
 思ったより柔らかい言葉に、普段の感じで言い返しかけると、彫
りの深い眼窩で瞳が光を帯びた。
「はいと言え」
 鋭い言葉を受けて、みのりの肩に力が入る。
「…はい」
 ベージュのセーターを斜め後ろから視野に映した佳澄は、父と娘
のやり取りに息を潜めていた。ただ、極度の緊張を感じなければな
らないはずが、会話の端々から醸し出される空気に、何故か安堵に
近い感情も抱いていた。
「だいたい恋なんてのはな、多かれ少なかれ、ボケてするものなん
だ」
 みのりの父は頬を膨らませて大きな息を吐くと、眉を寄せて視線
を落とした。怒っていると言うより、思案をしているという雰囲気
に見えた。
「それにしても、お前がここまで馬鹿だとは思わなかった。もう少
し後先考える人間だと思っていたがな、みのり」
「……ごめん、おやじ」
 みのりが素直に頭を下げると、組んでいた両手をテーブルに置き、
小さく舌打ちをした。
「まあ、正直言うとな、俺はホッとした。そんな状況で何にもしね
ぇような間柄なら、この間お前が言った、「真剣だ」って奴も、疑
わなきゃならんからな」
「オヤジ……。じゃ……」
 胃の辺りに何かが落ちていく気がした。頑固一徹だと思っていた
父親がここまで話せる人間とは、あの告白まで考えてみたこともな
かった。みのりが小さく息をついて言葉を吐くと、諌めるように顎
がしゃくられる。
「慌てるな。人の話はちゃんと聞け」
 その言葉はゆっくりとしたものだったが、迷いの欠片もない調子
だった。
「まだ、お前達の言い分しか聞いてないからな。どっちにしたって
このままほっといたら、おおごとだ。佳澄さんの親御さんの話も聞
かなきゃならん」
 そして、小さく息を吐いて佳澄の方を向いた。
「佳澄さん、でいいかい?」
「はい」
「話はよくわかった。十七才っていやぁ、もう一人前だ。この間み
のりにも言ったが、もう親には縛れない」
 佳澄を見つめた瞳の色は、とても柔らかいものだった。
 みのりから聞いていた、「ちゃぶ台返しオヤジ」のイメージとは
かけ離れた、それでいて力強い雰囲気だった。
「だから、あんたさんの親のやり方は、俺にしてみりゃあ、ごり押
しにしか見えない。ただ、みのりの話じゃ、佳澄さん、あんたは親
元を離れたいって言う。その辺の意味が本当にわかってるのかい?」
 佳澄の顔を真正面から見詰めると、みのりの父は言葉を止めた。
 視線を逸らそうとは微塵も思わなかった。初対面なのにとても身
近に感じて、掛けられた問いに心の底の言葉で答えたかった。
 のりちゃんのお父さんは、私の覚悟を聞いてるんだ。一人で立つ、
大人としての。
「はい」
 大きく頷いた佳澄の声は、学校で良く聞く物憂げな調子でも、デ
ートの時の茶目っ気に溢れたものでもなかった。
 後ろを振り返ったみのりは、切れ長の目を大きく見開いて言葉を
繋げる佳澄の姿に、今まで知らなかった雄々しさを見出していた。
けれど、それは決して不快なものではなく、驚きと共に、密やかに
広がる喜びを伴っていた。
「お父さん、私。……あ、お父さん、でいいですよね」
「あ、ああ」
 頬の稜線が少しだけ緩むと、みのりの父は頷いた。
「私、何でもします。もし、しばらくでもここに置いてくださるな
ら、バイトして、お金も入れます。お店の手伝いもします。下手か
もしれないけれど、ご飯も作ります」
 佳澄はそこで言葉を止めようと思った。でも、次の言葉を続けず
にはいられなかった。
「みのりさんと一緒にいられるなら、何でも。私、誰よりみのりさ
んのことが大事だから。……大好きだから」
 スミ……。もう……。
 少し照れくさいけれど、胸の奥に深く大きく響く一言だった。
 二人に見つめられた父は、鼻で息を吐くと、真正直な言葉を振り
払うように、太い腕を大きく振った。
「ああ、ああ、わかった。そうストレートに言われると、俺の方が
照れちまう。……にしても、参ったな。そういう台詞は、みのりを
もらってくれる男に言われると思ってたよ」
「じゃ、オヤジ……」
 正座の腰を上げて前へ乗り出すと、再びたしなめる調子に戻った。
「たく、みのり。いつからそうせっかちになったんだ。佳澄さんの
気持ちはよくわかった、ってことだ。他所様のお嬢さんをお前や俺
の一存でどうこうできると思ってるのか?」
「それはそうだけど、スミの家は……」
「とにかく、取りあえず俺が話す。こういう時のために、親がいる
んだよ。だいたい、お前ら子供が話すからこんがらがるんだ。子供
が可愛くない親がいるわけがないだろう」
「……子供って、さっきと話が違うだろ、オヤジ」
「屁理屈捏ねるなって言うんだよ、お前は。とにかく、待ってろ。
今日中に話はつけとくからな」
 最後は、みのりのよく知っている調子だった。オヤジは、すると
言ったことは必ず実行する。みのりが佳澄に大きく頷くと、その瞳
の色に、佳澄も安堵の笑みを浮かべた。
 しかしその夜、電話を叩き置く音と共にみのりの部屋に響いてき
たのは、父親の怒りに溢れた唸り声だった。
「まったく、なんてぇ男だ」
 床に張り付き、声を潜めて電話の成り行きに耳を澄ませていたみ
のりは、何か尋常でない事態を思い浮かべて、佳澄と顔を見合わせ
ていた。
「オヤジ」
 みのりは煤けた木の階段を下りると、開いた襖から顔を出して、
小さな電話台の前であぐらを組んだ父親に声を掛けた。
「おう、まったく、どういう考えの親だ。俺には……」
 ロングのTシャツの後ろに、緑のトレーナーを着た細身の姿を目
にすると、みのりの父は口をつぐんだ。
「ああ、申し訳ない、佳澄さん。悪く言うつもりはなかったんだけ
どな」
 古びたタンスとコタツの間の定位置に戻ると、灰色の湯呑みを手
に持って、口につけた。
 中身が入っていないことに気付いたみのりが急須に手を伸ばしか
けると、佳澄の方が先に、茶筒を手に取っていた。
「いいです、お父さん。言われてもしょうがない人だと思います」
「スミ……」
 佳澄は少し悄然として、お茶を注ぎ終わった急須を元に戻した。
 肩を触れ合って横に並んだみのりは、佳澄の気持ちが手に取るよ
うにわかった。徹夜だった昨晩の反動から、眠り続けて目覚めた夕
方。天井の低い部屋で呟かれた、この二週間のありさま。電話での
会話とは違い、どれくらい佳澄が傷ついているかが直に伝わってき
て、最後には自分から言葉を遮っていた。
 お茶が注がれて、古びたタンスとTVだけが置かれた狭い部屋に、
みのりの父が茶碗を置く固い音だけが響いた。
「……まあ、佳澄さんも覚悟があるみたいだしな、取り繕ってもし
かたあるまいな」
「はい。お父さん、わたし、大丈夫です」
 膝に置いた手に、みのりの手が重ねられた。つい二時間前まで、
感情の袋小路で呟き続けたどうしようもない台詞を、ずっとみのり
は受け止めていてくれた。
 ……パパの態度がどんなものだって、私は驚かない。
「まず、今のうちに謝るなら許してやる、そうでなければ、あんた
さんは娘でもなんでもないそうだ」
 張った喉仏から発された低い声は、平板な調子だった。
「で、学校には話さなかったか、とな。事は荒立てたくないってこ
とだろう。あとは内密にするなら、それなりのものを……、ってこ
とらしい」
 佳澄は視線を落とした。予想していたことでも、改めて付きつけ
られると胸が重い。みのりの手に力が篭り、その強さが気持ちを支
えてくれる気がした。
「オヤジ、それで……、まさか」
「バカ野郎、父親をなめるな。ひとっ言もなかったんだぞ、「元気
か」も、「大丈夫か」も。娘が二晩も家を空けてるってのに。あん
なもんは父親でもなんでもねぇだろう」
 みのりを睨んで語気を強めた後、みのりの父は片目を顰めて、五
分刈りの頭に手をやった。
「あ、いや、すまない、佳澄さん。どうも、俺は口がすべるところ
があってな」
 佳澄は俯いたまま首を振った。どうしてか、クスクス笑いが漏れ
そうになる。口に手を当てて堪えると、みのりの顔が覗き込んだ。
「スミ、大丈夫か?」
「ううん、違うの。大丈夫。なんか、お父さんの言い方、のりちゃ
んが口滑らしたときにそっくりだから。やっぱり、親子だなぁって
思って」
 佳澄のクスクス笑いはしばらく続いた。その姿を見つめていたみ
のりの父は、ゆっくりとコタツの上に握り合わせた手を置いた。
 ひどく静かな目の色と、柔和な口の端。佳澄の笑いに言葉を失っ
ていたみのりは、今まで気づくことのなかった父親の優しげな表情
を目にして、二つの驚きを重ね感じていた。
「佳澄さん」
 みのりの父がゆっくりと言うと、佳澄は顔を上げた。
「はい」
「電話で一度話しただけだし、まだどうなるかわからん。ただ、し
ばらくはここにいる方がいいかもしれんな。この件に関しては、あ
んた方に言い分がありそうだ。ま、狭いし、何にもない家だがな」
「オヤジ!」
 みのりの声に、固い頬の稜線が崩されて、眉が上げられた。
「まあ、冷却期間を置いて会ってみることだ。そん時は俺も付き合
う。まったく、厄介ごと背負いこみやがって……」
 「オヤジ、ありがとう」「お父さん、ありがとうございます」
 ――顔を見合わせて喜びを露わにする二人に、みのりの父は少し
の茶目っ気を顔に浮かべて、こう付け加えた。
「佳澄さんの部屋は、下の小部屋を空けるからな。けじめはしっか
りつけろよ、なんにしてもまだ高校生なんだからな。まあ、ちょっ
と漬物くさいかもしれんが、いいな」
「それなら大丈夫。な、スミ。『漬物なきゃ、ご飯食べれない』少
女だもん」
 みのりの言葉に佳澄は笑いながら、
「うん、全然大丈夫」
 そして二人は、もう一度両手を合わせると、大きく頷き合った。

 三月の始めの風は暖かくて、そぞろ歩く二人の背中に木漏れ日が
注ぎかけていた。土曜日の昼前の公園は人が疎らで、小高い丘を目
指し上っていく散歩道を歩くのは、佳澄とみのりだけだった。
「あったかいなぁ」
 タイトなスカイブルーのセーターを着たみのりは、頭上で葉を揺
らす木々を見上げながら、大きな瞳を眩しそうに輝かせている。
 柔らかく繋いだ手の温もりを感じながら、佳澄も風の吹きぬける
先を見つめた。羽織った水色のチェックシャツの裾が、軽く翻る。
 佳澄がみのりの家に居付いてから、もう二ヶ月近くが過ぎていた。
 時々は母親と電話で話すこともあった。ただ、二度ほど持たれた
家族会議の場に父親は現れず、佳澄はもう、家に戻るつもりはなか
った。みのりの父は、実の娘と同じように自分を扱ってくれて、み
のりが家事にぶつぶつ文句を言う時などは、「佳澄、このバカの代
わりにメシ作ってくれ」と、今ではもう、すっかり家族同様の付き
合いになっている。
 幸せだった。部屋が狭くても、自由になる時間がなくても、心許
し、一緒に暮らせる人がいる安らぎには代えようがない。
「お、スミ。可愛いなあ」
 木々の間から見える芝生広場の陽だまりに、親子連れが遊んでい
る姿が見えた。ベビーカーの横に座ったお母さんとお父さんを真ん
中に、ヨチヨチ歩きの赤ちゃんともう少し年上のお姉さんが、ぐる
ぐると追いかけっこをしている。
 ストライプの繋ぎを着た赤ちゃんの頭は、ヒヨコの毛のようにツ
ンツンしていて、落っこちそうなくらいに太った頬も合わせて、と
ても可愛らしい姿だった。
 緑色のランチボックスを左手に下げたみのりは、その場所に立ち
止まって、しばらく親子連れの様子を見つめていた。
 のりちゃん、すごく優しい顔をしてる……。
 丘の上を目指して歩き始めた時、佳澄は自然に腕を絡めて、肩を
寄せていた。今ではロングと言ってもいいくらいに伸びたみのりの
髪が、風に吹かれ、ふわりと頬に当たった。
「のりちゃん、子供好きだよね」
「うん? ああ、そりゃあ」
 特別な意味はなかった。何となく呟いたのは、自然にそう思った
からだった。
「私達じゃ、赤ちゃんは無理だね」
 口にしてから、この先、みのりの家はどうなるんだろう、そんな
事を連想していた。
「……お父さんに悪いなあ。なんか私がのりちゃんを悪の道に引っ
張り込んじゃったみたい」
 少し冗談っぽく言うと、組んでいた手が腰に回されて、みのりは
面白そうに自分の顔を見下ろしていた。
「馬鹿スミ。そうだなぁ……、その辺は兄貴がなんとかするだろ。
きっちりヘテロな男だし。それに、考え方は一つじゃないよ」
 そして、密やかな感じで微笑んで見せた。その表情の意味は読み
取れなかったけれど、佳澄もみのりの腰に回した手に力を込めた。
 たどり着いた丘の上は、常緑樹が生い茂る窪地になっていて、ビ
ニールシートをひいて腰を下ろすと、立ち込める春の香が身体を包
み、とても心地良かった。
「さて、と」
 用意してきたランチボックスを開けると、みのりは勢い良くぱく
つき始める。
「どう?」
 だいぶ慣れてきたとは言え、お弁当を一から十まで用意するのは
初めてだった。おにぎりを食べ終わったみのりは、少し心配顔で待
っている佳澄に舌を出した。
「まったく問題なし。美味い。なんたって、先生のレベルがちがう
からねぇ……ほら、スミも食べな」
 言ってカニ型に細工されたウィンナーをフォークに刺すと、佳澄
の顔の前に突き出した。
「あ、ダメ。それは私の役」
 みのりの手からウィンナーを奪い取ると、反対にみのりの口の前
に差し出した。
「はい、のりちゃんが、あ〜ん」
「ん、それじゃあ。お、このカレー風味がなかなか……」
「でしょ? ちょっとカレー粉塗してみたんだ」
「んん、料理はちょっとした工夫が命だもんな。わかってきたじゃ
ん、スミ」
「だって、最近のりちゃん、ぜんぜん夕飯作らないじゃない」
「あ、悪い悪い。だってさ、オヤジが「佳澄の作るメシの方が美味
い」とか言うからさ」
「もう、サボり入ってるだけでしょ? のりちゃん。居候だからっ
て、ドレイ扱いしないでよ」
「ほほ。私は〜♪ 恋のドレイ〜♪ってか?」
「何の歌よ、それぇ」
「作詞作曲、M.M.」
 止め処もなく言葉を投げ合うと、時間はあっという間に過ぎてい
った。ランチボックスが空になった後、みのりがシートの上に仰向
けに寝そべると、佳澄も傍らに横臥した。
 空を見上げた大きな瞳を萌える緑の背景に映していると、自然に
身体が近寄って、赤みがかった頬にくちづけてしまう。みのりの目
が一瞬周りを確かめて、すぐに唇と唇の触れ合いになった。
 肘をついた佳澄が上になる形で、浅い求め合いは次第に舌が絡み
合う深い貪りあいに近づいていく。
 目を閉じて舌を絡めるみのりの紅潮した顔を、佳澄はじっと見つ
めていた。そして、一度顔を離した目蓋が開いた時、どうにも止め
ようのない感情が込み上げて、肩口に顔を埋め、首に回した手に力
を込めていた。
「……スミ」
「大好き」
 耳元で囁いた。
「大好き。大好き。大好き! 世界で一番大好き!」
 何度でも言いたかった。春の風に包まれていると、身体も心も熱
く、どれくらいこの人を愛しているか伝えたくなって、言葉が溢れ
ていた。
 肩に当てられたみのりの手が首筋にそって上がり、ゆっくりと髪
を梳いていた。窪地になった緑の園は、芳香が立ち込めるばかりで
人の気配はない。
 少しフレアーなスカートから覗いた膝に当てられた指先が、静か
に円を描いた時、佳澄はみのりの耳たぶに小さなキスをしていた。
「こ、こら。スミ」
 少しか細くなった声がたしなめるように言うと、膝に当てた手を
内腿で止めて、もう一度頬にキスをした。
「へへ、のりちゃん、ビクってしたよ」
「もう、悪戯やめなって。たく、スミは……、こら!」
 スカートの中に指を這い上がらせると、ショーツの端に少しだけ
指を潜らせる。みのりの手が手首を押さえると、佳澄は身体を離し
て、ブルーのニットに包まれた豊かな身体を見下ろした。
「……誰も見てないよ」
「そりゃまぁ……」
 少し戸惑ったような表情を見ていると、もう少しからかってみた
くなって、指を奥に進めた。
 あ、もう。のりちゃんたら……。
 太腿の付け根を押し分けて届いたその先は、間違いのない潤いを
溢れさせ始めていた。
「正直なんだから」
「……いや、何てのか……。スミとキスしてたら、やっぱ久しぶり
だったし」
「ちょっと、愛し合っちゃう? 休憩するくらいなら、お金あるか
ら」
 でも、身体を起こして耳元に唇を寄せると、みのりは掠れた声で
囁いた。その声の響きと、少し赤裸々な言葉を聞いた時、佳澄も身
体の芯が熱くなるのを感じていた。
「いいよ、スミ。ここでも。影になってるし、全部脱がなきゃごま
かせそうだし。私、ちょっと我慢できなくなっちゃったかも」
 愛される時の少し控え目な感じの口調になると、さらに密やかな
声が耳元で響く。
「感じさせてね。スミ」
「うん、のりちゃん。でも、あんまりおっきな声、出しちゃダメだ
よ」
 そして、スカートの下の細い指は境界を越えた。身体を密着させ
合うと、今度はさっきよりもっと深いキス。陽光の下、誰に憚るこ
とない強さと深さで。
 後は、切ない喘ぎが残った。

「はい、これね」
 大根とホウレンソウを渡すと、白いトレーナーの腕が受け取って、
手際良く新聞紙で丸め込む。
「これも、スミ」
「はい」
 今度はジャガイモとターサイ。
「三百五十円です」
「はい、みのりちゃん」
「毎度、どうも〜」
 少し汗ばむくらいの仕事量。西に広がる街並みに夕陽がかかり始
めても、客足が衰える気配はなかった。一息ついて、新市街から続
く細い道を見遣ると、肉屋のサッシが開き、こちらへ向かってくる
馴染みの顔。住宅街からの角を折れてくる人影も、お得意さんの姿
に間違いなかった。
 佳澄が店番を手伝うようになってから、「菜香町屋」の店先は以
前にもまして賑わうようになっていた。駅前にまで響き渡った、
「美人女子高生」二人が軒先に立つ、旧市街の名物八百屋。最近で
は、連れ立ってやってくる同年代の女の子や、見知らぬ会社員風の
男性までが混じって、売り上げは二割増になっていた。
 「こっちがお金を払いたいくらいさ」――みのりの父親が大笑す
る程、佳澄の存在は店先に彩りを添えてくれていた。
「一区切り、ついたみたい?」
 家の中へ上がる段のところに腰を下ろした佳澄は、息をついてみ
のりを見上げた。みのりは頷くと、緑のTシャツの下の肩を回して、
トントンと叩いた。
「う〜ん。まったく、今日も忙しかったなぁ」
 のんびりと過ごした昼のデートと、忙しく立ち働く午後との落差
が、かえって満ち足りたものを感じさせて、みのりは組んだ手を伸
ばして天を仰いだ。
「のりちゃん、肩凝ってない? 夜、また揉んであげるね」
「うん、よろしく。お風呂、一緒に入ろ。それとも、たまには銭湯
でも行こうか」
 少し日焼けし始めた面長の顔に言葉を返した時、後ろに気配を感
じた。
「よ、みのりちゃん」
 振り向くと、胸の辺りに白灰色のひっ詰め髪があった。
「いらっしゃい、ハナ婆ちゃん」
「どうも。スミちゃんもね」
「はい、いらっしゃいませ」
 奥に座っていた佳澄も、頭を下げながら腰を上げた。
「で、今日はどうする? いいの、入ってるよ……、え、何?」
 茶目っ気に溢れた細い目が、皺だらけの額の下でみのりを促した。
長袖を引っ張られると、身体を屈めた耳元で、小さな声が聞こえた。
「見たよ、みのりちゃん。スミちゃんと、チュ、してるとこ」
「え?」
 ドキッとして、いつのことか素早く思い浮べる。
 何で? この街じゃ気をつけてたはずなのに。別に隠すつもりが
あるって訳じゃないけれど、地元でベタベタするのもおかしいって
……。
「いいなあ、わしも今に生まれとったら。まったく、いらん苦労す
ることもなかったわ」
 にやにやと笑うハナの表情に、どんな態度を取っていいかわから
なくなる。
「いっぱい可愛がってあげるといい……、いんや、みのりちゃんが
可愛がってもらうんやろな、うん、そやな。それがいいさ」
「ば、婆ちゃん」
 振り向くと、さっきまで束ねていた髪を解いて、佳澄が後ろに立
っていた。
「どうしたの? 今日は何にします?」
 雰囲気の違いを察すると、長い睫毛に縁取られた切れ長の目蓋が
見開かれ、みのりを上目遣いに見つめた。
「スミ。ええと、そういうんじゃなくって……」
 その瞬間、ハナの手が、ジーンズを履いたみのりの太腿を叩いた。
「スミちゃん。みのりちゃん、しっかり可愛がってあげてな。いい
子やから。ほんと、わしの若い頃そっくりや」
 ヒッヒッと笑うと、灰色のニット姿の曲がった背中が、いつもの
通り西の方へと歩み去って行く。
「な、何、のりちゃん」
 白いトレーナー姿が、野菜の詰まったダンボールを跨いで横に並
ぶと、みのりはぽったりした唇を突き出して、照れくさそうな表情
を浮かべた。そして、赤く染まり始めた西の空を見上げて、少し目
を細めた。
 その表情は、とても満ち足りて見える。
「世の中ってさ……」
 みのりは景色から目を離し、佳澄の顔に振り返った。少し茶がか
った、優しくて、美しく、そして誰よりも愛しい瞳で見上げる……。
「結構悪くないところなのかもしれないな。やっぱり、そう思うよ」
「え?」
 佳澄は、みのりの言葉の意味を取りかねて、少しいぶかしげな顔
をする。
「いいの。私がスミを好きで、スミが私を好きってこと。それがで
きるって、凄く幸せだと思う。だから私、スミのこと、ずっと大事
にする。世界が終わることがなければ、ね」
 間近で囁かれた言葉の後で、みのりが身体を少し屈めると、佳澄
も自然に顎を反らした。ずっと愛し合い続けてきた唇同士が出会い、
長く深く、優しさを確かめ合った。
 そして、出会った温もりが離れた後、どちらからともなく囁かれ
た言葉は、まごうことのない永遠の約束だった。

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