第六章 戸惑いの秋

 今日も、「菜香町屋」の軒先は、夕食前の買い出しの客で大賑わ
いだった。
 暦の上では秋に入ったものの、背の低い街並みの際に沈みかけた
夕陽は、まだ大きな熱量を注ぎかけていて、みのりの額にはじんわ
りと汗が滲み始めていた。
「あっついね〜」
「うん、そうだねぇ」
 Tシャツの袖口で汗を拭うと、みのりは大きく息を吐いた。頬に
は少しピンクがかった色があって、大根を持ち上げようと身体を屈
め、視線を落とした目蓋は、少し扇情的に見える睫毛に縁取られて
いた。
「はい、二百五十円ね」
 買い物をする客の幾人かが、緑のクルーネックTシャツと黒いジ
ーンズを履いたみのりの姿に一瞬視線を留め、僅かに怪訝な表情を
浮かべて歩み去っていく。
 さて、店じまいかな。でも、ハナ婆ちゃんがきてないなぁ。
 木棚の前に並んだダンボールを中に運び入れながら、西に伸びる
路地の向こうを見遣った。店じまいの寸前に来るのが、旧市街の端
に住む老女の日課のはずだった。
 日よけのビニールを巻いて、暗くなり始めた空を見上げた。そし
て大きく伸びをすると、肩をぐるりと回す。
「ほい、みのりちゃん」
 パンと、腰に振動を感じて振り向くと、いつも変わらぬ灰色のニ
ット姿が眼下にあった。
「……あ、ハナ婆ちゃん。今日は遅いじゃない」
 腰の少し曲がった白灰色の髪の老婆は、皮肉げに口の端の皺を濃
くすると、少し上ずった声で言った。
「あの馬鹿ヨメがいらん茶なんか出すもんだから、腹がガバガバや
て」
 みのりはクスッと鼻で笑った。ハナの嫁への悪態は、今に始まっ
たことではなかった。
「もう、そんなことばっかり言って。何か買ってく? 出してくる
よ」
「……よさげなものはあるかい」
 背中を向けて奥へ入っていくみのりの腰の辺りを、ハナは少し面
白そうに見つめていた。
「カボチャがいいよ。ほら、身も詰まってるでしょ」
 手の甲でポンポンと表面を叩きながら小振りなカボチャを抱えて
きたみのりは、自分の胸の辺りまでしかない老女の表情が、明らか
にからかいを込めた色を浮かべていることに気づいた。
「いい色やな」
「え? うん、艶もあるでしょ。甘いと思うよ」
「ああ、艶もある。女になってきたなあ、みのりちゃん」
「は?」
 薄くルージュを重ねた唇を尖らせて疑念を示すと、ジーンズの臀
部の辺りに、ぎゅっとつまみ上げる感触。
「婆ちゃん!」
「うん、うん。もうみのりちゃんも十七やもんな。それくらいの色
気が出ないといかんわ」
「な……」
 一瞬、返す言葉が見当たらなくなったみのりからカボチャを取り
上げると、灰色の買い物袋に落とし入れた。
「いっぱい可愛がってもらうといいさ。当たり前のことやからな」
 代金を払ったハナは、曲がった腰に手を当てて、いつもの通りに
西の方へと歩み去って行く。
 まったく、ハナ婆ちゃんは。
 でも、木枠の戸を閉めこんだ後、唇に指を押し当てて、思いを巡
らせてしまう。
 やっぱり、伝わってしまうものなのかな。
 化粧をして店先に立った時、みのりはいつもの自分と少し物事の
感じ方が違っていることに気付いていた。
 なんとなくキップ良く振る舞えず、会話も少し控えめになってし
まっていた。軽口も叩けなかったし、いつもなら笑い飛ばす色気の
ある馬鹿話も、妙に真に受けたりしていたと思う。
 ……女、かぁ。
 家の中に入り、軋む廊下に足を落とした時、右手の奥から声が飛
んだ。
「みのりぃ」
 太く、がらがらとした声。
「何ぃ。メシならちょっと待って。着替えするからさぁ」
「いいから、来い」
 二階に上る黒い木の階段に足をかけていたみのりは、もう一度大
声で言った。
「すぐ済むから。汗だくなんだって」
 しかし、廊下の突き当たり、小さく見える襖の奥から聞こえる声
は、一層大きさを増して響き渡った。
「いいから、来い。みのりぃ」
「……なんだよ、オヤジ」
 小さく呟くと、床を軋ませながら奥の部屋に入った。
 壁際に設えられたTVとタンスだけが並ぶ、殺風景で煤けた畳敷
きの部屋の真ん中には、冬のコタツ兼用の四角いテーブルが置かれ
ている。
 そして、消されたTVと向き合う形で、灰色の半袖シャツに赤銅
色の身体を包んだ中年男の置き物が、ずっしりと鎮座ましましてい
た。
「なんだよ、オヤジ。少しくらいなら待てるだろ。店番と料理番の
掛け持ちさせてんだから…」
「いいから、座れ」
 テーブルの向かいを顎でしゃくると、五分刈りの黒髪の下で、細
い目が中空を見遣り、太い腕が組み合わされた。みのりは軽く舌打
ちをしながら正座すると、父親の言葉を待った。こういう時、下手
な言葉を差し挟むと、こじれて長引く事は誰よりもよくわかってい
た。
「今の話。本当か」
 やっぱりか。みのりは心の中で嘆息した。ハナ婆ちゃん、声がで
か過ぎるんだから。
「……冗談。ハナ婆ちゃんの軽口なら、オヤジもよくわかってるだ
ろう」
 中空にあった視線が、みのりの瞳を正面から捉えた。太い眉の下、
細い目の奥に宿る、相変わらずの有無を言わせぬ光。
「お前が男と歩いてたって噂も聞いてな。何か、茶色い髪のふやけ
た男だって言う話だが」
 左千夫か……。
「ああ、オヤジ。別に、付き合ってるってわけじゃ……」
「言い訳はいい」
 何とか平静に言葉を繋ごうとしていた。しかし、その目の中にあ
るのは怒りと言うより、もっと真摯なもので、みのりは父親の真意
を計りかねていた。
「……俺が亡くなったカアちゃんを見初めたのは、あれが十七の時
だ。だからそろそろお前が、そういう時期になっても、俺がとやか
く口出しするつもりもない。ただな」
 みのりに似た肉厚の唇は、両端に固い皺を浮かべたままだった。
「付き合ってるなら、正直に言え。どんな男と、どうやって付き合
ってるか。それくらい聞いても構わないよな」
 想像していたより、ずいぶんと捌けた父親の言葉。却って心の中
でうなってしまう。オヤジの豹変はありがたいけれど、本当の事は
到底話せない。もし、同性と付き合ってるなどと口にすれば、何が
起こるか想像もできなかった。
 みのりは一つ息をして、真正面から父親の視線を受け止めると、
ゆっくりと言葉を吐いた。
「付き合ってないよ、男とは。ウソじゃない」
 暫く沈黙があった。視線を僅かに下に落としたみのりの父は、短
く言った。
「そうか。ならいい」
 全てが話せないことについて、特に胸苦しさはなかった。ただ、
佳澄とのことがあからさまになった時。その瞬間を想像すると、予
測のつかない不安が渦を巻き、心の置き場がわからなくなった。 
改めて、社会の常識と離れた場所で佳澄に恋している自分を思いな
がら、階段を上がっていく。
 今まで考えなかったわけではないけれど……。
 Tシャツを脱ぐと、淡いピンク色のブラを取り、小さな姿見の前
に座った。
 以前よりふんわりと整えられたショートカットの下で、生え際を
少し手入れした眉、そして、大きく開いた目。薄く朱を散らした頬
骨。
 自分で見ても、以前とは異なった面差しになっていると思わざる
を得なかった。
 十七やもん、それくらいの色気は。
 スミ、私、スミにこんなに恋してる。私のこんな場所を開いてく
れたのは、スミだよ。
 確かに佳澄は自分と同じ性を持っている。でも、それがなんだろ
う。私のこの気持ちは、誰に晒しても紛れのないものだ。
 佳澄の姿を思い浮かべた。無邪気で、それでいて、我侭で。愛し
てくれる時は切ないくらいに積極的な顔が、姿が、堰を切ったよう
に心の中で暴れ始めた。
 頭の中が痺れていく。夕食の用意―もう、日常の景色は急速に色
を失い、愛しい気持ちだけが高まって止まらなくなる。
 二学期に入ってから、思うように会えなかった。学校内では側で
身体を触れ合わせていることもできない。デートも、できなかった。
 ダメだ、私、止まらない。
 ジーンズを落とし、フリルのついたショーツ一枚になった。布地
の少ない、恥丘の陰影が僅かに見て取れる、以前だったら身に付け
なかっただろうデザインのもの。
 胸に手を当てる前に、すでに乳首は立ち上がって充血し、じんわ
りとした快感を伝え始めていた。
 ショーツの間から指をゆっくりと差し入れる。触れるまでもなく、
豊かに溢れ出した雫。濡れて開いた花弁。細く目を開けて、鏡に映
る自分を見る。スミ、私、こんなにスミを求めてるよ。愛して……。
 張りのある胸に添えられた手は、揉み上げる動きへと変化してい
く。紅色の頂きを捏ね、引っ張り、激しく形を変えて、快感の流れ
の源へと身体を誘っていく。
 もう、座っていられなかった。カーペットの上に四つんばいにな
ると、お尻だけを突き出す格好になって、秘部へと指を沈めた。
 佳澄に激しく愛してもらうとき、必ず取る姿勢。後ろから愛され
ると、恥ずかしさと切なさがない混ぜになって、どうしようもなく
声をあげたくなってしまう。
 のりちゃん、いいよ。気持ちよくなろ。どこに指、入れる?
 そう、そこがいい。かき混ぜて。お願い、ぐちゃぐちゃにして欲
しい。中を、そう……。
 激しい妄想だけが突きぬけ、泉の奥に押し込まれた指は二本に増
え、背中から回した左手は臀部を握り締め、兆し始めた小さな波を
耐え忍ぶ。
 うん、そっちも、抉って欲しい。嫌じゃないよ……。
 左手の人差し指が滑りを掬い取り、、茶色に窄まった奥深い場所
へと忍びこむ。夏の日以来、幾度か佳澄に愛されて、敏感になりつ
つある、本来は排泄のためのパーツ。
 のりちゃん、こっちも好きなんだ。エッチ。すごくエッチだよ。
 そうだよ、私、エッチだ。スミにだったら、何処でも愛してもら
いたい。頭の先から、つま先まで。クリトリスから、あそこも、お
尻の中だって。
 張り詰めた切った妄想が、洪水のように押し寄せて溢れ出してい
た。そして、ほんの少しだけ残った理性が、静かに告げている。
 私は本当に、求めてるんだ。心も、身体も。三瀬佳澄という誰よ
り愛しい女の子を。
 第1関節までが狭い関門をくぐり、潤い切った膣の内側を、二本
の指が交互に擦りあいながら抉った時、低いうめきが部屋の中に響
き渡った。
 耳の両脇から、背中、腰までをじんわりと覆う、快感の潮。大き
く満ちた後、次第に身体の四隅へと拡散していく。
「はあぁ……」
 大きく息を吐くと、みのりは持ち上げていた腰をゆっくりとカー
ペットの上に落としていった。
 まだ、佳澄の幻影が身体のそこここに残っている。
 一度目を見開き、間近でぼやける短い緑の毛足を映した後、もう
一度柔らかく目蓋を下ろした。
 そして今度は小さく鼻で息を吐いた後、みのりはゆっくりと肩の
力を抜いた。

 佳澄は不満だった。二学期に入ってから一ヶ月、みのりの態度が
何処かよそよそしく感じられて仕方がない。自由に会う事ができた
夏休みの間、二人の距離は短くて、間に差し挟まれるものは何もな
かった。
「スミ、こっち来なよ」
 朝、休み時間、放課後。一人で本を読みながら待っていると、決
まってみのりは、他の女子との輪に入るように誘ってきた。
「……でも」
「いいって。ほら、スミ。みんなで食べた方がうまいって」
 教室の後方、窓際の一角に渋々向かうと、三人の女子が机を向か
い合わせにして弁当やパンを広げていた。皮肉っぽい口元のレイヤ
ーの丸眼鏡に、明るい顔立ちのベリーショート、クールな視線に軽
いウェーブのかかったセミロング。それぞれ名前も性格もうろおぼ
えな顔が並んでいた。
「みのりってば、強引。アローンがいいってんだから、そうさせと
けばいいじゃん、な、三瀬姫」
 ベリーショートの丸顔が、屈託なく言った。小さく頷いたが、み
のりは後から強引に背中を押して、佳澄を座らせた。
「……たまにはいいんじゃない。三瀬さんもさ、一人で食べてると、
消化に悪いって話。会話は胃液の分泌を促進するんだって」
「そうそう、カナの言う通り」
 みのりが頷きながら座ると、セミロングの細面が、佳澄の横でふ
っと笑った。その表情に、カナと呼ばれた眼鏡の同級生が、鼻で息
をした。
「おお、ブンはどっちでも同じか〜。ね、ミッチー」
「ああ、どっちにしろ、三文節以上喋らんもんな」
「はいはい、いいのいいの。スミだけ仲間外れってが、どうも気に
なっててさ。どうせ、数少ない女子だろ? 離れてるのはつまらん
と思うよ」
 みのりは手を広げ、身振りを交えて言うと、佳澄の隣に腰を下ろ
した。
「ふんと、みのり姉さんは世話好きやねぇ」
 ミッチーとあだ名されたもう一人は、正面でだらしなく足を伸ば
して、にやりと佳澄に笑いかけた。どう返していいかわからず、み
のりの膝元に目を落とした。
「お、でもぉ、最近三瀬姫とみのり姉さん、ラブラブ愛してる〜、
だもんなぁ」
「……へいへい、ミッチー」
 煩そうに手を振るみのり。佳澄は、少し眉根を寄せて、全く淀ま
ないみのりの態度に、少し苛立ちを覚えていた。
 みのりが、人一倍周囲に気を遣う性格であるのは、よくわかって
いた。でも、二学期に入ってからの自分に対する態度はどうだろう。
 周りが主で、自分との間は従になってしまったような気がした。
 クラスの女子の輪にひき入れようとする気持ちが、わからないわ
けじゃない。でも、本当は私、そんなことはどうでもいいのに……。
 小さな弁当箱に並んだ俵型ののり巻きご飯を口に運びながら、左
目の端で、みのりの表情を盗み見た。
 ほんのり赤い頬と、前よりさらに大きく見える丸い瞳。見違える
ほど綺麗になったと思う。もっと綺麗にしてあげたい。もっとたく
さん愛してあげたい。
 がやがやと響き渡る会話を流しながら、状況とはまったく関係の
ない想いが兆すのを止められなかった。
 ブンと呼ばれた右隣の同級生の様子を確かめながら、左手をそろ
そろと机の下に伸ばした。そして、椅子の上で身体を支えているみ
のりの手の甲に、静かに手の平を重ねた。
「でさ……」
 勢いよく話していたみのりの声が、少しだけトーンを落とした。
「で、みのり、その続きは?」
「あ、うん、その客がさぁ……」
 指を絡めてくれると期待していた大ぶりな手は、佳澄の指を掴ん
でつねり上げてきた。軽い痛痒感と共に、反射的に手を引っ込めた。
 周りの状況とは関係無しに、横を向いてみのりの顔を睨みつけて
しまう。
 のりちゃん、冷たい。
 衝動が止められなくなるのがわかった。もう、わかり過ぎるほど
にわかっている、集団に不適応な自らの性格。しかし客観的に把握
できていたとしても、それは何の歯止めにもならなかった。
 プラスチック製の弁当の蓋を勢い良く閉じると、花の刺繍の入っ
たナプキンで手早く包んだ。そして、一言も発さずに立ち上がり、
そのまま背を向けた。
「あ、スミ……」
 会話を中断して身体をこちらに向けたみのりの声。振り返る事も
なく、教室の入り口へと歩を進めた。
「ありゃ、どしたの」
「やっぱ、三瀬さん変わってるわ〜」
 ミッチーとカナの声。
「あ、まあね……」
 背後で小さく聞こえた最後のみのりの台詞が、意識の中に大きく
残った。ドアを閉めて、人気のない廊下に出る。空虚な想いが急速
に胸を占め、膨れ上がるのを感じて、眉根を寄せた。
 屋上で食べよう……。
 こうして次第にすれ違って、最後は結局壊れていってしまうのだ
ろうか。私の気持ちは誰にも重荷で、受け止め切れる人などいない
のかもしれない。
 屋上の鉄網に背をもたれ、曇った空を見上げながら、佳澄は伸ば
した足の上に弁当の箱を乗せた。
 今日こそはみのりと一緒に食べようと思って作ってきた、色鮮や
かな弁当箱の中身。箸で一つずつつまみ上げて口に運んだが、後か
ら思い出しても、味らしいものがまるで記憶に残っていなかった。

 午後の授業以降は、喉を震わせて声そのものを出した記憶もなか
った。ホームルームが終わるや否や、佳澄は一人バス停を目指し、
下校の途についていた。
 こうして歩いていても、前の学校での記憶が幾度も蘇り、胸に突
き刺さって、心を暗澹覆う狭い空間に閉ざしていこうとしている。
「スミ!」
 暗雲垂れ込めた心の内に、聞き慣れた声と駆けてくるクツの響き
がさし込んできたのは、バス停への急坂を下り始めた時だった。
「もう、何で先に帰っちゃうんだよ」
 佳澄の横に並んだ白いブラウス姿が、はだけた膝に手を置いて、
大きく肩で息をした。肉付きのいい身体に、うっすらと汗が滲んで
いるのがわかる。
 しかし佳澄は、みのりを一顧だにせず、黒い皮カバンと紫のポー
チを身体の前に下げたまま、早足で坂を下っていく。
「スミ! ごめん」
 前に回り込んだみのりが、佳澄の行く手に立ち塞がった。
 生い茂った欅の枝が、大きく影を落とす坂の中ほど、長い髪が揺
れる色白の顔が、目鼻立ちのはっきりした丸い顔を見つめて立ち止
まった。
 口なんかきいてやらない。そう思っていたのに、佳澄の口は自然
に台詞を作ってしまっていた。
「……じゃあ、キスして」
 俯き加減で見上げた視線の先で、みのりの顔に明らかな戸惑いが
浮かぶ。
「え、ここで?」
「そう。今すぐ!」
 大きな声になって、正面から見つめ返した。坂の傾斜が視線の高
さを整えて、ちょうど水平な場所にみのりの顔があった。
 大きな丸い瞳が素早く辺りをうかがう。自分が馬鹿なことを言っ
ているのはよくわかっていた。こんな事で、何が解決するわけじゃ
ないのに。
 髪の毛のふんわりとした感覚が頬にあたり、口の端に湿った感触
が残った。すぐに身体を離そうとするみのりの肩を抑えると、強く
引き寄せる。
「す、スミ」
 押しのけようとする腕の力は、それほど強いものではなくて、佳
澄は深くみのりの唇をまさぐった。一瞬、舌と舌とが触れ合い、唾
液が交換される。
 そして、小さな吐息と共に、身体が離された。少し蕩けるような
色を浮かべたみのりの黒い瞳。しかしすぐに色を戻して辺りを見ま
わすと、佳澄の横に並んだ。
「……スミは、ほんとに真っ直ぐだよ」
 再び歩き始めた時、ため息混じりにみのりは言った。キスを交わ
した事で、少しだけ胸の暗雲が晴れたような気がしていた。
「ううん、馬鹿なだけ。どうやって振る舞ったらいいか、わからな
いんだ。のりちゃんのこと考えてると、余計に」
 すぐに言葉を返さず、僅かに視線を彼方に向けたみのりが、トー
ンを落とした声で言う。
「私、スミにもいろんな場所で、みんなと一緒にやって欲しいだけ
なんだと思う。そうしないと、スミといろんな事、楽しめない気が
してさ」
「うん……」
 小さく返事をした。でも、その場所で、私が受け入れて貰えなか
ったら? そうしたら、のりちゃんは私を抱き締めてくれる?
 佳澄は心の中で首を振った。
 そんな問いを発してどうなるだろう。いつも太陽のように外へと
輝いているみのりに、答えるのは無理な質問だと思う。
 だって、のりちゃんは、周りといつも一緒にいる。そんな風に分
けて考えることは、決してできないだろう。
 静かに身体を寄せると、張りのある焼けた腕に細く白い腕を絡め
た。
 今度は拒否することなく受け止めたみのりに、佳澄はとりあえず
の心を預けた。そして、身体を寄せ合った紺と白の制服二人組みは、
ゆっくりと坂を下り、バス停へと歩いていった。

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