第九章 窓を開いて

 薄青いシーツの上でうつ伏せに横たわった白い背中。薄っすらと
汗の滲んだ後れ毛を指でなぞった後、みのりは日焼けした身体を屈
めて、すんなりとした首筋に小さなキスをした。
 組んだ両手の上に頭をもたれた佳澄は、口の端に微かな笑みを浮
かべただけで、目と口を閉じたままだった。
 冬の始まりとは思えない、暖かい日曜日だった。
 開け放たれた部屋の窓からは湿り気を帯びた風が吹き込んで、朝
方から交歓を続けて火照った身体に心地良かった。
 首筋に当てていた唇を、啄ばむようにしながら下へと移動させて
いく。窪んだ背中から、柔らかい曲線を描く腰、可愛く盛りあがっ
たお尻の双丘へ。
 白い頂きまで顔を動かすと、なめらかな肌に頬を当てて、身体を
預けた。
 ……スミの身体って、私よりちょっとひんやりしてる。
 もう一度唇を寄せて、丘の間に少し熱いキスを押しつけると、太
腿に力がこもるのがわかった。
「もう、くすぐったいよ、のりちゃん」
 相変わらず目を閉じたままの佳澄が、少し諌めるような調子で呟
いた。それでもしばらく唇を当てたままにしていた後、離れ間際に
ペロリと舌で舐めると、佳澄の横に仰向けに倒れ込んだ。
 ふんわりと肩口から流れ落ちた黒髪に手を添えると、反対側を向
いていた顔がこちらを向き、目蓋が半開きになった。官能の余韻で
今だ何処かをさまよっているかに見える、ぼんやりとした瞳の色。
でも、奥底の茶がかった光は、少しも隠すところのない穏やかさを
秘めている。
「のりちゃん」
「ん?」
「愛してるよ」
 頬に添えた手の甲を首筋の辺りまで下ろしていくと、無言で頷き
を返した。
「……なんでこんなに気持ちいいんだろ、のりちゃんとしてると」
 小さな声で佳澄は呟いた。
「うん」
 大きな瞳に佳澄の表情全てを捉えたまま、みのりは静かな声で言
った。
「私もそう思う。スミとこうなるまで、ずっと不感症だと信じてた
もの。男のが入ってても、違和感しか感じなかったし。さっさと出
しちゃわんかなぁ、とかばっかり考えてたっけ」
「うわ、ちょっと生々しい〜」
 佳澄の目が少し悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あ、ごめん。また考えなしだったかな」
「ううん」
 肩に置かれたみのりの腕に手の平を添えると、佳澄は屈託なく笑
った。
「なんかそういうこと、全然気にならなくなっちゃった。前は、ど
っかで考えてたんだ。やっぱり、男の人のこと、どっかで嫌ってる
から、こういう風になるのかな、ってね」
 ポンと身体を起こすと、悪戯っ子の顔が、仰向けになったみのり
の唇に近づいて、素早く触れた。そして顔を離して視線が絡んだ後、
もう一度深く唇が密着し合った。
 今朝から何度目のキスだったろうか。そして、出会ってから何度
目の……。
 舌が僅かに触れ合ったところで、手をついて身体を離した佳澄に
見下ろされながら、みのりはゆっくりと広がる漣のような喜びに満
たされるのを感じていた。
 きっと、スミと私は同じ方を向いてる。私が最近考えていたこと
と、スミが少しずつ変わっていくこと……。
 何も纏わない身体をもう一度寄せ合った時、みのりは胸の内には
っきりと想いを紡いでいた。
 今なら、言ってもいいかもしれない。もう少し考えようと思って
いたけれど、スミがこんなにも心を合わせてくれている、今なら。
 この一ヶ月ほど、僅かな時間を惜しんで睦み合う間、少しずつ胸
の中で積み上がってきた想い。
 ――確かに、自分と佳澄はかけがえもなく結びついている。でも、
このままでいいのだろうか。秘して、二人だけの世界に身を沈めて
いていいのだろうか。
 最初は、少し怖かった。どうやって行き当たればいいのかわから
ず、学校のコンピュータルームで「同性愛」の単語を打ち込んでみ
たりもした。
 学校からはアクセス不能の、妖しげな検索結果が並ぶ中から、拾
い出されたいくつかの言葉――性的自己同一性、マイノリティ、ビ
アンサイト……。
 そして、堂々と社会に開いて生きている人達がいる。
 セクシャリティについて書かれた本も、何冊か手にしてみた。
 狭く秘し合うのは、自分の性向と正反対の行動だと思った。でき
得るならば、親しい人達には認められて佳澄と付き合っていきたい。
難しい理屈はともかく、素直な実感だった。
 ただ、佳澄が通ってきた道を考えた時、真っ直ぐに振る舞う事が
単純な解とも思えない。詳しく尋ねたことはなかったけれど、「先
輩」との間にあったこと、決して繋がりが深いとは言えない家族と
の相克、一途に想いを定める愛しいほどに純粋な気持ち。
 自分の「当たり前」が、もし佳澄を深く傷つけるなら、そんなこ
とは到底できるはずがない。
 ……でも、スミは凄く変わった。クラスの輪にも違和感なく溶け
込むようになったし、大声で笑うし、冗談も平気で言うようになっ
た。私にしか見せなかった表情が、自然に垣間見えることだってあ
る。
 ううん、それは私もそうだ。だから私たちは……。
「のりちゃん」
「ん?」
 耳もとの声が、低く囁いた。
「……なんか、考えてるでしょ」
「う、うん。まあね」
「やっぱり。のりちゃんが眉毛上に持ち上げてる時って、そうなん
だよね〜」
「眉毛上にって、そんな変な顔してるか?」
「私にわかるくらいには」
 言うと、裸のまま立ちあがった佳澄は、南向きに大きく開いた窓
を閉めた。そして、モスグリーンの絨毯の上に脱ぎ捨てられた青い
ショーツを取り上げると、当ての部分をのぞき込んだ。
「もう、のりちゃんのエッチ! これ、濡れ濡れ。新しいの、貸し
てあげるね〜」
「スミ!」
 唐突な行動の先をいぶかしんだ直後、振り向いてにやっと笑った
表情。青い布に鼻を寄せる仕草と共に恥ずかしさが先に立ち、思わ
ず睨みつけてしまう。
「始まってすぐ脱いだのに。何考えてここまできたのかなぁ……」
「もう、スミ」
 身体を起こして唇を尖らすと、佳澄もベッドサイドに腰を下ろし
た。
 作り笑いはすぐに解け、薄い唇が真っ直ぐな線を描いた。足を投
げ出して両脇に手をついた背中と横顔が斜め前になる。
「ね、のりちゃん」
 素早く変わる色に少しの戸惑いを感じながら、細い背中を視野に
映していた。
「いろいろ困らせた私が言うと、全然説得力ないかもしれないけど
……」
 更に俯き加減になった後、一呼吸置いて言葉が繋がれた。
「先回りしなくていいよ。私、のりちゃんが考えてることなら、何
でも聞けると思うから。……たぶんもう、大丈夫」
 みのりは一瞬、目を閉じた。自然に笑みが浮かんでしまう。
 そうだよ。私も、スミを信じなきゃ。だって私の誰より愛しい人
だもの。
「あ!」
 声をかけようとした瞬間、佳澄の黒髪がびくりと揺れて、こちら
を振り向いた。
「でも、もう別れよう、とかいうのは聞けないからね! それは、
断固逆らうから。イヤって言っても、すがりつくから」
 茶目っ気たっぷりに見開かれた切れ長の目。みのりも大きな瞳を
輝かせて見つめ返すと、握った拳を頬っぺたに当てた。
「バカ」
 へへへ、といつものように佳澄は笑った。
「やっぱり?」
「そんなんじゃないよ、スミ」
「……うん」
 言うと、そのまま後ろへひっくり返って、斜め座りになったみの
りのふくらはぎに頭を乗せた。
「特等席ぃ」
 上に伸ばした手で、みのりの腰を抱え込むと、佳澄は目を閉じた。
 面長の稜線を描く緩みのない顔立ちを見下ろしながら、髪の中に
指を差し入れた。
「あのさ、少し勇気を出してみようかなって思うんだ」
 少し身体を斜にして横になった佳澄は、目を閉じたまま静かに耳
をそばだてているように見える。
「私、スミのこと、誰より好きだよ。私の中に、こんな気持ちがあ
るってわかって、凄く嬉しい。できれば、どんな時もスミと一緒に
いたいし、愛し合っていたい」
 音のない広い部屋の中で、自分の声だけが静かに響いている。佳
澄の髪をゆっくりと梳きながら、みのりは続けた。
「でも、それだけじゃダメだと思う。死んだおふくろが言ってたん
だ。『人を好きになっていけるのは、周りにいる人のおかげさまな
んだ』って。ずっと、意味がわからなかったけど、スミと付き合い
始めて、少しずつわかってきたんだ。なっていける、っていうのが
大事なんだ。二人だけだったら、ただ……うん、そう、持ち合うだ
けになっちゃう気がする」
 腰にまわった佳澄の手に力が篭るのがわかった。
「一人が二人になっても、それは始まっただけなんだと思うんだ…
…。間違ってるかな、私の考えてること」
 佳澄は何も答えなかった。ただ、顔を寄せたふくらはぎに、力強
いキスが響いた。
 みのりは、そのあとしばらく佳澄の髪を愛しんでいた。
 陽射しに照らされた部屋の空気は暖かくて、何も身につけずにい
ても、少しも寒さを感じなかった。広い部屋にはカチカチと鳴る時
計の音と、二人の息遣いだけが続いている。
「私、少し怖いな……」
 上を向いた佳澄は、まっすぐにみのりを見上げた。
「でも、のりちゃんがそうしていくなら、頑張ってみる。でも、絶
対、離さないでね。何があっても、私のこと、離さないでね」
 穏やかな口調とは裏腹の、切ないほどに強い想いが伝わってくる。
この決断が呼び起こすだろう波紋は、推し量ることがひどく難しい
ものだった。
 でも、これは絶対に必要なことなんだ。そしてどんなことがあっ
ても、私はスミを一人にしない。
「愛してる、スミ」
 屈めた身の先で、佳澄に長いキスをした。

 クリスマスはとうに過ぎ去り、新しい年も明けた。
 みのりは、コンビニで購入したプリペイド式の携帯電話を脇に置
いて、モスグリーンの下着姿のままで古い鏡台の前に座り込んでい
た。
 今日はまだ、佳澄からのコールはなかった。自分の方から鳴らす
のは簡単だったが、財布の中身と通話時間を考えると、おいそれと
呼び出すわけにはいかなかった。
 冬休みに入ってから、欠かすことなくかけられてきた佳澄からの
電話。他愛もない噂話から、TVや音楽、ファッションや本のこと
まで、いつ果てるともなく話し続ける夜が続いていた。
 けれど、決まって最後には会えない寂しさが明るさを打ち消して、
少し感傷的になってしまう。
 風呂上りで素顔のままの丸顔が鏡に映っていた。
 スミと会わないと、綺麗にする気も失せちゃうな……。
 小さくため息をついてからピンク色のルージュを取り上げると、
ぽったりとした唇に彩りを添えてみる。
 寂しいと思わないようにしているつもりだった。でも、佳澄と会
えなくなってから二週間。この数日は、いつかかってくるかと携帯
を脇に置く夜が続いていた。
 本当に、何もかもがうまくいくって訳にはいかない。私が、しっ
かりしなきゃ。スミはもっと心細いに違いないんだから。
『正直に話せって言ったよな、オヤジ』
 意を決して父親の前に座ったのは、十二月の半ばのことだった。
 佳澄と付き合い始めた経緯や、自分の性的志向をできるだけ包み
隠さず述べ立て続ける間、正座した膝の上に乗せた手が小刻みに震
えて止まらなかった。
 全てを話し終えた後、時が凍りついたように続く沈黙が空気にな
った。その中で、普段の剛毅さを失って揺れ動く父の目を見つめ続
けるのは、娘として耐え難いほどに苦しい瞬間だった。
 それでも、逃げるわけにはいかなかった。
 私は何一つやましい事はしてない。わかってもらえなくても、構
わないんだ。
 三日前にクラスメイト二人を目の前に告白した時の成り行きが背
中を押していた。勇気をくれていた。
「そっか……」
 期末テスト明けで、人気のなくなった正午過ぎの教室。丸顔に細
く眉を描いた屈託のない顔が真っ先に頷きを返してくれた。
「みのり姉さん、オトコ話、ノリ悪かったものなぁ……」
「だよね、ミッチー。わたしも納得だな。ま、みのりとは中学校か
らだから、そういうのもありかな、って」
「カナ……」
 二人の驚きは一瞬だった。そして、レイヤーに丸眼鏡の、いつも
は皮肉っぽい口元が笑って、椅子に座ったみのりのブレザーの肩を
叩いた。
「大したもんだと思うよ、みのり。言いにくいことだったと思うも
の。そりゃ、TVとかでは聞くけど、いざ私が、って考えたら、ち
ょっと隠しちゃうだろうな……」
 リノリウムの床にあぐらをかいて座ったまま、茶の入ったベリー
ショートの髪が頷いて揺れた。
「そうだよな。そりゃ、あたしもオトコとっかえひっかえして言い
ふらしてるしさ、恥知らずだなぁと思うけど、それとは訳が違う気
がする」
 椅子に座ったカナがふんふんと大きく頷くと、ミッチーは腕を突
き出してすねの辺りに拳をくれた。
「そこで思いっきり頷くなよ。むっつりスケベ」
「どこが! 何処かが乾く暇もないって人に言われたくないなぁ」
「何? ちょっと酷くないか? あたしだって、好きで話してるわ
けじゃないんだからな。一応それなりに真剣で……」
 お馴染みのやり取りに、不安に締めつけられていた気持ちが解け
て、いつもの調子で声を出す事ができた。
「はいはい、そこで突っ込み合わない、お二人さん」
 床に伸ばした足で蹴りを入れかけていたミッチーが、みのりの方
を見上げると、軽く茶で縁取られた目をおどけた感じで見開いた。
「……まあさ、やっぱみのり姉さんにはかなわないなあ、ってとこ
かな。いっつもストレートでさ、テキトーなあたしにゃ太刀打ちで
きません、てかな」
「そうそう。まぁ、自覚があるだけマシかな、ミッチーは」
「へいへい。あ〜、でも佳澄姫とみのり姉さんって、ホントお似合
いだわ、改めて言われると。な、そう思わん?」
「うん、そうだね。それは私も同感」
 誰もいない教室の窓を背景に、一年から同級だった二人の顔を見
比べながら、みのりは心の中で頭を下げた。
 やっぱり、話してよかった。たとえ、受け入れてもらえなくても、
隠しているよりずっといい。周りの人と正面から向き合っていかな
きゃ、私は私じゃなくなってしまう。
 だから、オヤジがこんな突拍子もないことを認められないとして
も、いや、たぶん認められないだろうけれど、それは仕方がないこ
となんだ。
 そんな風に強く言い聞かせて、ようやく告げた佳澄との関係だっ
た。
「みのり」
 その時、みのりの父は組んでいた赤銅色の腕を小さな茶のテーブ
ルの上に乗せ直すと、肉厚の唇の端に深い皺を刻みながら、ゆっく
りと言葉を発した。
「俺も一応、お前の父親だ」
 正面から見据えた細い目の奥には、固い色が浮かんでいた。この
あとどんな激しい言葉が発されるか、見当もつかなかった。五十代
半ばの父親の恋愛観を推測するのは、みのりには難しすぎる課題だ
った。
 ただ目だけは逸らさず、理解することができる言葉は、ありのま
まに受け取ろう。それだけを考えていた。
「お前が最近誰かを想っている事は、わかってた。夏頃からだった
だろう」
 低く響く声が、話さなかった恋の始まりの時期に触れた時、痺れ
に近い引き締まりが、背筋を凛と伸ばさせた。上目遣いになって小
さく頷くと、鼻で息を吐いてから、父は淡々と続けた。
「正直、女同士で好き合う気持ちはわからん。本音を言えば、賛成
はできん。だが、お前が真剣なのはよくわかった。そうだな?」
 固い色しか見えなかった瞳の奥に、柔らかさが見えたような気が
した。みのりは唾を嚥下すると、これ以上はない引き締まった表情
を作って、もう一度、はっきりと言った。
「真剣だよ。私は、佳澄のためなら、何でもする。絶対、適当な付
き合いなんてしない」
 皺を作っていた口元が緩み、視線が落とされた。大きく息を吐く
と、こげ茶のセーターの肩が小さく竦められた。
「……まったく、しょうがない奴だ。どうせ、言い出したら聞かな
いからな、みのりは。頑固なのが俺譲りなのはわかってる。ただな、
一つだけ約束しろ。その、なんて子だ……」
「三瀬佳澄」
「その、佳澄さんを必ず俺に会わせろ。いいな?」
 あっけない程に簡単に発された言葉に、みのりは信じられない気
分だった。
 これで何もかもが問題ない。どうやって告白するか悩み苦しんだ
一週間余りの日々は、決して無駄じゃなかった。
 ――勇んで登校した次の日、待ち焦がれた放課後の教室で向かい
合った俯いて切なげな表情から発されたのは、思いもかけない言葉
だった。
「のりちゃん、私も、ぶつかってみた。だって、のりちゃんだけに
させとくわけにはいかないから」
 昨日まで、カナに小突かれて照れくさそうにしていた表情を思い
返しながら、みのりは驚きの声を上げるしかなかった。
「って、おふくろさんに?」
 その時、佳澄は首を大きく振った。
「違う。パパに」
 冬休みまであと数日の、十二月も半ば過ぎの寒い日だった。 
「大丈夫か、スミ。だって、スミのおやじさんって……」
 反射的に発してしまった危惧の通り、その日からの佳澄の行動は
ひどく限定されたものになってしまった。
 そして冬休みに入ると、佳澄は外出すらままならない状態に置か
れてしまい、連絡を取る方法は電話くらいしかなくなっていた。
 父親の厳命で、常に家に控えているようになった母親の目を盗ん
でかかってくる深夜のコール。
「私、また転校させられちゃうかもしれない」――苦しい胸の内を
明かしながら毎夜言葉を交わす度に見えてきたのは、想像していた
以上に冷たい佳澄の家の内情だった。
 どんなに娘の態度が意に染まぬものであったとしても、家に閉じ
込めることが、『頭を冷やす』ことに繋がるのだろうか。それが、
娘を思う親の態度とは思えなかった。
 みのりはティッシュを唇に挟むと、綺麗にピンク色の乗った口元
を鏡に近づけた。
 まだ、鏡台の上に置かれた携帯電話は鳴らない。今日は、まだ母
親が寝ていないのかもしれない。鏡に大写しになった顔をしかめて、
屈託なく見える大きな瞳から視線を逸らした。
 やっぱり、寂しいよ、スミ……。
 いつも明るく見えるこの顔が、今はひどく疎ましかった。締め付
けられる胸の内を押さえながら、愛想笑いを続ける店先の自分が、
嘘で塗り固められた悲しい生き物に思えた。
 家族なんてどうでもいいから、私のところに来ればいいよ。言い
かけて、何度口をつぐんだ事だろう。
 でも、顔すら知らない佳澄の両親。どんなに型通りの家族だとし
ても、話して通じないはずはない。無責任に自分が言える事ではな
いとも思った。それに、とりあえずの付き合いを認めてくれたとは
言え、高校生同士の無謀を許す父ではないこともわかっていた。ま
して、ようやく許容してくれた同性同士の想い合いだ。
 天井の低い部屋の中央には錆びて古びたストーブが置かれて、少
しレーシィなモスグリーンの下着だけをつけた風呂上りの肌に、少
し汗ばむほどの熱が伝わってきていた。
 だめだ。私が落ち込んだら、スミが辛いだけだ。きっと、もうす
ぐ携帯が鳴る。そしたら、元気に励まさなきゃ。
 ――スミ、もうちょっと頑張ろ。短気を起こしたら、何もかもが
いい風にいかなくなる。どうしてもダメだとは思ってないはずだよ、
お父さんも、お母さんも。じっくり待てば……。
 携帯がジリジリと震えた。見慣れた番号がディスプレイに並んだ。
 零れそうになる感情の波。息を大きく吐いてから、通話ボタンを
押した。
「はい」
『よかった。まだ起きてた?』
「うん、もちろん。スミの声聞くまで、眠れんもの」
 時代遅れの四角い壁時計の針は、もう十二時を回っていた。
『ああ、よかった。のりちゃんの声聞けなかったら、どうしようか
と思ってた。ママが出掛けたから、すぐにかけたんだ。なんか、夜
にのりちゃんと話してるの、わかっちゃってるみたい……』
「出掛けたって、こんな時間から?」
『うん、そう。多分、彼氏のとこだと思う。パパに家にいるように
言われて、結構イライラしてたからね』
 家族の事を口にする時、佳澄の声は平板な感じになることが多か
った。普段の茶目っ気に溢れた調子とのギャップが胸を刺して、鏡
に映った顔が歪むのがわかった。
「そっか。でも、気にせず話せるじゃんか。あ、でも、今なら会え
ちゃったりするかも……」
『うん……。でももう、電車終わっちゃってるよね』
 努めて明るい感じで話そうとして、口が滑ったことに気づいた。
『家を飛び出して、のりちゃんと会いたい』――泣き出しそうにな
りながら声を上げた佳澄を、宥めて落ち着かせた夜は一度ではなか
った。
「そうだ。終電、過ぎてるよ、もう……」
 考えとは裏腹に、低い声になってしまう。さっきからざわめいて
いた心の隙間から、積もった想いが吹き出して止まらなくなりそう
だった。
 スミと私の家の間は、自転車なら三十分かからない。電車が終わ
ったって、会う事はできる。そして、話をして、見つめ合って、キ
スをして、抱き合って……。
 ダメだ。
 今、スミと会ったら、離れられない。一晩中、ううん、二十四時
間ずっとだって、離さずにいるだろう。
「やっぱ、無理だよ、ね……。まぁ、しょうが……な……」
 もう一度気を取り直して、陽気な言葉を繋ごうとした瞬間、喉が
つかえたようになって、声が出なくなった。
 視野が歪んで、両頬に流れ落ちてくる冷たい雫。奥歯を噛んで堪
えようとしたけれど、もう、嗚咽しか漏れなかった。
『のりちゃん。大丈夫? のりちゃん……』
 佳澄の高い声が携帯越しに響いた。ダメだ、私がこんなんじゃ、
スミが……。そう言い聞かせても、流れ出した涙は全く止まらない。
「……ゴメ、スミ……。でも、私、ダメだ。やっぱり、寂しいよ。
スミに会いたい。こんなこと、今まで一度もなかったのに……」
 電波の向こう側から、うん、うんという小さな頷きが返る。その
声も、どこか涙混じりになっているように聞こえた。
『のりちゃん、無理しないで。私、大丈夫だから。いっぱいキスを
送るね』
 チュッ、チュッと啄ばむような音が聞こえる。みのりは目を閉じ
ると、佳澄の姿を思い浮かべた。自分と同じ位に短くなったふんわ
りとした黒い髪。口を開かない時は、神秘的にすら思える整った顔
立ちは、言葉を発した瞬間に、その場で抱き締めたくなるほど可愛
らしい輝きで溢れた表情に変わる。
 「愛してる」――どんな時でも、場所でも、繕わず告げられる真
っ直ぐな想い。そして、愛し合う時は貪欲なほどに積極的な唇に指
先……。
「私も……」
 目を閉じたまま、唇を尖らせてくちづけを送る。確かに佳澄の姿
が形を取って、傍らにあった。
 チュッ、チュッ。チュッ、チュッ。
 耳元で響く音に合わせて、自分も唇を開き、舌を少し伸ばした。
『好きだよ、のりちゃん』
 密やかな声が響いた時、抱きすくめられた時と同じような感覚が
腰を締めつけるのがわかった。
「私も、スミ。好きだよ、今すぐキスしたい。愛し合いたい」
 目を閉じたまま、掠れた声で呟いた。こんなに切なくなければ、
きっと口にできないだろう台詞だと思いながら。
『今すぐ愛し合おう、のりちゃん。私、もう、ドキドキしてる。す
ごく、ドキドキしてる。のりちゃんのこと、愛したくて、止まらな
い』
「うん、私も」
 みのりは、ゆっくりとグリーンのブラを外すと、固く盛りあがっ
た乳房を露わにした。
 スミ、愛して。私のオッパイ。いつもみたいに……。
『愛していい? どこからする?』
「うん、胸にして……」
 小さな声で言うと、少し息の荒くなった佳澄の声が、耳元で囁い
た。
『オッパイだよね。のりちゃんの、可愛い胸。コリコリしちゃう。
指で転がすよ。ほら、いいでしょ。ね……』
 顎を突き出して丘にあてがった指は、佳澄の細い指に置き換わっ
て這いまわる。ふもとから頂きへ、触れると見せて下り、また周辺
を愛撫して動き続ける。
 そして、二本の指で乳首を挟み込んで引っ張り上げると、胸全体
を強く掴み上げた。
 小さな吐息が自然に漏れて、携帯に吹きかかる。
『気持ちいいんだね、のりちゃん。どこ触って欲しい? どこ舐め
て欲しい?』
「う、うん……。いいよ、どこでも」
 微かに目を開いて、ベッドの上に倒れ込んだ。ショーツも取り払
い、仰向けになって大きく足を広げる。
『じゃ、全部愛してあげる』
 そう、スミ。スミになら、どこでも触らせてあげるから。
『花びら、つまんじゃうね』
 うん、そう。つまんで。
『いいでしょ?』
 佳澄の息も、荒くなっていた。
『指、入れるよ。あ、凄い……。凄く濡れてる。気持ちいいんだよ
ね……。気持ちいい?』
「うん、いいよ。スミ。スミは? スミのも、溢れてる?」
『うん、溢れてる。のりちゃん、舐めて。わたしのも、いっぱい』
「うん。クリちゃん、吸っちゃうね」
 唇を尖らせて、佳澄の匂いに包まれる。携帯を耳に当てたまま、
揃えた人差しと中指で溢れ始めた泉の水を掬い取りながら、中心へ
と滑り込ませていく。膣の入り口へ浅く差し込まれた指が、微かな
蠢きを感じて、身体が官能へと震え出す。
『どう、溢れてる? いい?』
「うん、すごいよ。私……」
『もっと気持ち良くなって。どれくらい気持ちいい? いっぱい聞
かせて。のりちゃんのイヤらしい音』
 うん。聞いて。スミ。私、こんなにスミの事、求めてる。愛して
る。
 携帯を足の間に押しつけると、差し込んだ二本の指を、激しく上
下左右に動かした。溢れ出した官能のしるしが、指と秘部の間で湿
った音を立て、腰が激しい円運動を始める。
 携帯から微かに佳澄の声が聞こえた。もう一度耳元に当てると、
吐息混じりの囁きが続いていた。
『スゴイよ、のりちゃん。もう、洪水だね。エッチな、ううん、淫
乱なみのり、大好き。もっと、奥まで抉ってあげる』
「うん、抉って。いっぱい抉って。スミの指、大好き。クリちゃん
も吸って。私も、吸っちゃうから」
 濡れた源に指を差し込んだまま、手の平でしこり出した核に擦り
合わせる刺激を送ると、足先が震え出して、止まらなくなる。そし
て、考えてもいなかった言葉が口をついてしまう。
「お願い、グリグリしてぇ。お願い、愛してるから。スミに愛して
欲しい。愛して欲しい。溢れさせて。グチャグチャにして」
『うん、すごいよ、のりちゃん。もっと言って。私も、イッちゃう』
「うん。突っ込んで。吸って。お願い。クリちゃん、噛んで。うん。
うん……。やって、お願い!」
 うぅ、とくぐもった声が耳元で弾けた瞬間、両足の間に挟みこん
だ指が、膣の入り口の震えを感じ取っていた。閉じた目蓋の裏側に
電気が飛び交い、暫くは言葉を紡ぐ事ができなかった。
 息を吐いて浅い官能の潮を遠ざけた後、自然に傍らの裸体に手を
伸ばそうとした。
 誰もいない、空白。
 頭の後ろが痺れるような、本当に抱き合った時とは何処か異なる
感覚と共に、身を削ぎ落とすような切なさが一気に駆け巡った。
「……スミ」
 小さな声で携帯に呼びかけた時、向こう側で身体を横たえている
だろう愛しい女性も、自分と同じ気持ちでいることがわかった。
『のりちゃん』
 佳澄の声も、掠れて細いものだった。
『私、ダメだよ、こんなんじゃ。やっぱり、のりちゃんの顔が見た
い。だって、私にはのりちゃんしかいないもの』
「スミ……」
『こんな馬鹿なこと、困らせるってわかってるけど、私、ダメだよ』
 みのりは強く目を閉じると、携帯を握った手の甲に、強く頬を押
しつけた。
 これ以上堪えて、何の得があるだろう。私とスミは、愛し合って
る。それは、間違いない。
「今すぐ会おう、スミ。出られるよね。私もすぐに用意する」
 携帯の向こうの音は一瞬戸惑ったように途切れた後、大きな声を
返してきた。
『うん。出られる。何処にする?』
「国道沿いの、ファミレス。わかるよね」
「うん」
 チェーンの名前を告げると、佳澄の声はスピーカの向こうから消
えた。
 そしてベッドの上から勢いよく身体を起こした時、つま先までの
何処にも、官能の種火は残っていなかった。
 とにかく今は、スミと会おう。会って話さなければ、何も進まな
い気がする。
 素早く服を身につけたみのりは、押入れに下がった濃紺のダッフ
ルコートを羽織ると、冷たい風の中へと飛び出して行った。

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