第二部 −同棲愛情編−

  第一章 二本の傘で

 にわかに重みが増した空から降り落ちる雨粒が、電車の窓を叩き
始めたのは、急行の停車駅で各駅列車に乗り換えたばかりの時だっ
た。
 乗車扉の脇の手すりに寄り掛かりながら、流れる街並みと霞み混
じる地平を見遣ると、灰色が染み出した空はひと息早く夕闇に落ち
たかのような暗さで、佳澄は心の中で小さくため息をついた。
 淡いピンクのオータムニットの腕に抱えられたバッグの中には、
筆記用具やファイルと教科書、重たい専門書に化粧品の入ったポー
チ。
 朝出る時、背中で響いたみのりの声。「スミ。傘、持ってかない
と」――時間ぎりぎりで飛び出して、傘を持って行かなかった報い
は、当然のように降り出した雨で現実になってしまった。
 駅前で傘買っていかないとダメだろうなぁ。のりちゃんにまた言
われちゃう。
「スミは何本傘買えばいいやら。しかも、その辺に置いてくるし」
 のりちゃんのバイトのお金が入るまで、あと一週間。あっくんの
ミルク代だってあるし、少しだって無駄遣いしてる場合じゃないん
だけど……。
 やっぱり、走って行っちゃおうかな――毛先がパラパラと散った
ミディアムレイヤーの下、切れ長の瞳を伏せた時、聞き慣れた駅名
のアナウンスと、いつもの街並みが目に入ってきた。そして、少し
強さを増した雨粒の音も。
 十月にしては暖かい雨。南海上にある季節はずれの台風の影響で、
と朝のTVで聞いたことを思い出しつつ、改札をくぐった。
 アーケード街の端っこで、煤けたコンクリートの階段を下りると、
さっきまで乗っていた電車が雨粒を散らしながら、踏み切りの向こ
うを走り去っていく。
 向かいのドラッグストアには、ぶらぶらとゆれるたくさんのビニ
ール傘。
 さて、どうしようか。走って行かないと間違いなくびしょびしょ
だけど……。教科書だけでも、濡らさないようにして。
 駅からアパートまでは徒歩で十数分。のんびり歩いていると、バ
ッグの中まで水が入ってしまうかもしれない。
 もたもたしてても仕方がない。思い切って。
「……スミ」
 一、二、の……。
「スミ!」
 え?
 軽く握りこぶしを作ったピンクのオータムニットの七分袖とネイ
ビーブルーのパンツ姿が、最初の一歩を踏み出そうとした時。
「のりちゃん!」
 振り向いた斜め後ろ、改札脇に立っている女性に見間違いようは
なかった。突然出現した誰よりも身近な姿に、驚いて目を丸くして
しまう。
「全然見えてないんだから。スミらしいよ」
 グリーンの横縞の入ったTシャツを着流したふくよかな身体。胸
元には、柔らかそうに生え揃った黒いひよこ毛にデコレートされた
小さな頭が、首筋に小さな皺を作っておぶい紐に支えられていた。
「迎えにきてくれたんだ……。濡れなかった?」
 後ろで纏められた長い髪の中、ハの字眉の下の大きな瞳が軽く笑
いを返した。そして、片手に持っていた傘を差し出すと、
「携帯入れればいいのに。今日、私が休みなの、わかってるでしょ」
「でも、あっくんが……」
 傘を受け取りながら横に立つと、みのりの胸元からそっくり返っ
た顔が、佳澄の姿に気付いて大きくほっぺたを緩ませる。
「マゥ……」
 言葉にならない声を上げて、ピンク色の歯茎からのぞくちっちゃ
な前歯。
「ただいま〜、あっくん。待った?」
 黄色の袖の先にそのままくっ付けられたかに見える小さな手が、
差し出した指をギュッと握る。みのり似の、でももっと大きな目が
輝いて、「あ〜」とさっきとはちょっと色合いの変わった声を上げ
た。
「雨好きだもんな、あー坊は」
 みのりは、微かに紅潮したほっぺたを指先でつつくと、
「どっちにしても、ちょっと泣き出しちゃって。気分転換しないと
な、って思ってたとこだったんだ」
「また? 夕暮れコリックかなぁ」
「うう〜ん、もうそういう年じゃないもんね」
「……だよね」
 握られたままの指を離すと、じっとこちらを見上げている小さな
顔を見詰めて、佳澄は柔らかい笑みを浮かべた。
「いこか、スミ」
「うん、そうだね。……ご飯の用意とかは?」
「任せなさいって。ばっちり」
「うわ、やっぱソンケー。一人だったら、あっくんの面倒だけでア
ップアップだもん、私」
「ふふ。それくらい切り回せなきゃ、調理師になる資格なんてない
もんね」
 緑とえんじ、二本の傘を並べて歩き出した駅東の商店街。どこか
仲町商店街を思わせる街並みの古び方は、二人がここに住むことを
決める大きな理由になっていた。
 踏み切りを越えた大通りから斜めに入った、車がようやくすれ違
えるほどの通りの両側に、小さな店が軒を連ねている。ほとんどが
築二十年は経過しているかの、低い間口と飾り気のない店先ばかり。
 小物がごちゃごちゃと吊るされた雑貨屋に、手書きの値札が勢い
のいい八百屋に果物屋。少し古めのアイドルのポスターがガラス戸
に張られた魚屋と、小さくラジオの音を響かせている肉屋兼惣菜屋。
少し煤けた暖簾のかかる定食屋の間口からは、緑の作業服を着た二
人組みの男性が姿を見せて、雨の落ちる空を見上げて唇を尖らせて
いた。
 多くの店で雨よけのビニールのひさしが伸ばされて、降り落ちる
雨のパンパンという音を響かせている。
 おつかい嬉しいな〜♪
 抱かれた歩夢に小さく歌いかけながら歩くみのりの姿を見上げた
時、佳澄は胸に兆すとても懐かしい感じに気付いていた。
 なんだろ、ずっと前にもこんなことがあったような気がする……。
 白地に緑の縞の入った長袖の肩に自然に寄り添っていた。
 指先が、少しだけ触れ合う。
 下を見て口ずさんでいた低い声が止まって、淡くチークが入った
だけの丸い顔が、自分の方を軽く伺うのがわかった。
 どちらからともなく指をたどると、手を繋ぐ。
 大学を出て、電車に乗っている間も離れなかった、頭の中に溢れ
る雑多なものがだんだんと解けていく気がする。ちょっと立て込ん
だレポートに、年末に提出しなければならない小論文。生活に追わ
れるのが半分で、少し焦っていたのかなあ……。
 握り返したみのりの手はいつも通り少し固くて、暖かかった。
 落ち着いた表情で雨の降り落ちる様子を見つめる、揺らぎのない
瞳。
「冷たいだろ〜」
 空いた片手で、小さな手を傘の先から落ちる雨粒に触れさせる仕
草。
 もっと身体を寄せたくなる気持ちを慌てて押さえて、佳澄は鼻で
息を吸った。
 気張らずに、らしくやろう――この街で暮らし始めて三ヶ月。み
のりの言うとおり、あまり意識しないで振る舞ってきたつもりだけ
れど、普通に、という訳にはいかなかった。
 ほとんどは特に問わず接してくれる人が多くても、何となく好奇
心めいた視線を感じる時もある。
「こんちは〜、マスター」
「お、みのりちゃん、今日は三人揃ってかい?」
「そうだよ〜、いいでしょ」
 商店街の端、横道から歩いてきた白髪混じりの上品な感じの男性
に気付くと、みのりは気軽に声をかけた。
「どこが〜。旦那がいなきゃ、やっぱり。しつけ、しつけ」
「はは、そうかなぁ」
 にやっと笑う皺の多い顔に、佳澄は小さく会釈をした。
「誰?」
「あ、ほら。向こう口の喫茶店の。思いっ切り誤解してるみたいだ
けどね。離婚姉妹って」
 一度だけみのりと一緒に寄った東口の喫茶店の風景を思い浮かべ
ながら、歩み去っていく背中を見送ると、左手から声が響いた。
「みのりちゃ〜ん、佳澄ちゃん」
 ひっつめ髪で小太りの中年女性が服の下がった店先から歩み寄っ
てくると、二人は立ち止まった。
「あ、おばさん。ひさしぶりのお湿りだよね」
「こんにちは」
 軽く微笑みを返すと、佳澄よりさらに頭半分も背の低い洋品店の
女主人は、みのりの胸元に顔を寄せた。
「こんにちゅわ〜。こんな雨で、風邪ひかないかな〜」
「大丈夫だよなぁ、あっくん」
 みのりと「マツダ屋のおばさん」はひとしきり話し込む。どうや
ら古着をもらう約束になっているらしく、佳澄はみのりの胸に抱か
れた丸い顔へと身体を屈め「よかったね〜」とあやし話しかけつつ、
話が終わるのを待っていた。
 そして、もう一度歩き始めた辻、奥の豆腐屋から声がかかり……。
「あ、ごめん。また買いにくるね」
 二、三言交わした後、顔の前に手をかざして謝る茶目っ気混じり
の表情を見詰めると、みのりは少し神妙な調子で口を窄めた後、
「ごめん、スミ。なんか、今日は掴まりやすいみたい」
「ううん、全然。何か、すっかりこの街の人だね、のりちゃん」
 強く降っていた雨は、アパートへの細い路地を曲がる頃には、す
っかり小ぶりになっていた。
 少しづつ馴染んできた街の人達の様子を話しながら、私ものりち
ゃんみたいに明るく行ければいいんだけど――少し妬み混じりの調
子で言うと、
「ダメダメ。私のは、外っ面がいいだけだって」
「じゃ、外交はお任せかな」
 衒うところなく自嘲する様子に笑いながら、ドアノブにみのりか
ら渡された鍵を差し込んだ。二階建ての上下三室づつ、決して綺麗
とは言えないアパートの101号室。ドアの横、少し錆びたガスメ
ーターの上に掛けられた真新しいベージュのポストには、綺麗にレ
タリングされた文字で、「真岡みのり・三瀬佳澄・歩夢」と連署さ
れている。
「ただいまぁ」
 声を合わせて部屋に入ると、ほんのりと甘い香りが鼻をついた。
「あ、いい匂い」
「でしょ」
 小さな玄関からすぐに様子が覗える六畳の台所、ガス台の上では
鍋とフライパンが並んで、真ん中に置かれた丸いテーブルには、ま
だ何も乗っていない大皿と小皿が重ねられている。
「今日はなにかなぁ」
「何だろうな〜。食べてみてのお楽しみ。な、あー坊」
 奥の部屋へ入っていくと、ベビーベッドの上におぶい紐を解いて、
手早くおむつの様子をチェックするTシャツの背中。佳澄は、荷物
をハンガーにかけると、みのりの横に並んで「二人の赤ちゃん」の
顔を、改めて覗き込んだ。
「さて、あんたにもあるぞ〜、大っ嫌いなレバーペースト」
「あー、もう。大好きだよね、あっくん」
 肉厚の唇にちょっと皮肉っぽい笑いを浮かべたみのりに、どうし
てもしたくなってしまったこと。
「こら、スミ」
 掛かった長い髪をすき上げて寄せた唇に、柔らかい頬の感触。
「お疲れさま、のりちゃん」
 歪められた口の端が緩んで、額がコツンと当たった。そして、身
体の下で嬉しそうに上がる、言葉にならない声。
 きっと幸せって言うんだよね、こういうこと。
 佳澄は、胸の中に柔らかく広がる気持ちをゆっくりと確かめなが
ら、混じりけのない天使の笑顔に目を細めていた。

 嫌がる口にどうにか離乳食を押し込んで、ミルクを飲ませた後、
お風呂に入れているうちにうとうとし始めた王子さまは、奥の部屋
で静かな寝息を立てていた。
 時刻は九時を少し回ったところ。形ばかりの2LDK、机とTV
の置かれた「居間」にひいた布団に横になりながら、佳澄とみのり
はいつ終わるともない言葉のやり取りを続けていた。
 ネイビーブルーに淡いチューリップの柄が散らされたお揃いの寝
間着。大きな長枕にもたれたみのりのお腹の当りに頭を乗せて、佳
澄は大学でのよろずごとを話し続けていた。
「私にはぜんぜんわかんないから、そういう難しい話って。やっぱ、
大学なんか行かなくって正解だったなぁ」
 提出が年末に迫った、二年次必修課目のレポート。長さから言っ
ても小論文程度となるそのテーマは、『所得と消費について』だっ
た。
「私だって、何言ってるのかちんぷんだもの。もう、どうして商学
部なのに、いきなり経済理論やんなきゃいけないのかって」
「うう〜ん、やっぱ、必要だからじゃないのかな?」
 それは、そうだけど。投資とか貯蓄とか、利子率とか……。数字
見てると、頭痛くなる時あるから――みのりには到底わかりそうに
ない、もちろん自分にとっても至極曖昧な近代経済学の理論を喋り
ながら、それでも答えを返してくれる少しハスキーな声の響きに身
を任せるほどに、気持ちが和らいでいくのを感じていた。
「大学の勉強って、やっぱり目茶苦茶難しいなぁ。ウチとは大違い。
とりあえず、実技ありきだもんねぇ。ホント、お疲れ、スミ。明日
明後日はあっくんと遊びに行こうよ。公園でもさ」
「うん……」
 すっかり喋り終えてしまうと、何だか少し気恥ずかしいような気
がした。
 伸びてきた手が耳元に添えられて、首筋へと静かに前後する。ゆ
っくりと上下する青い寝間着の胸元を見ながら、佳澄は目を閉じた。
 頭を少し押し付けると、下腹部の柔らかい感触。何だか、すごく
気持ちいい。のりちゃんのお腹って、ふわふわしてて……。
 ずっと続いていた言葉が途切れて、軽く寝返りを打つと、少しく
すぐったそうに動く腰回り。足の方を向いて、長ズボンのゴムを引
っ張ると、覗いた肌を手の平で撫でる。
「ねえ、のりちゃん。……お腹のお肉、ちょっと増えない?」
 悪戯っぽく言うと、軽い舌打ちの後で、
「スミぃ。それは禁句だっての。気にしてるんだから」
「へへ、でも、すべすべで気持ちいい。ぷるぷる〜」
 少しズボンを下げると、ライトピンクのインナーの縁が覗いて、
張った腹部が露わになった。
「こら、揉むな」
「だって、好きなんだもん、のりちゃんのお腹。私のって貧相過ぎ
るし」
「また言ってる。何回言ったらわかるかな。普通は……」
「私みたいな体型がお好み、でしょ。胸がパンとあって、腰がくび
れてて。でも、私は絶対、のりちゃんみたいのがいいな」
 下腹部に小さなキス。出しかけた言葉が止まるのがわかった。そ
のまま手をズボンの中に差し入れると、太腿の外側を指先でゆっく
りと撫でる。
「愛してあげようか」
 小さな声で聞くと、肩の当りに置かれていた指が、軽く握り合わ
された。
「ううん……。どうしようかなぁ」
 少し戸惑ったような声。
 答えは返さず、垂らされた蛍光燈のコードを引いて、ゆっくりと
寝間着のズボンを抜き取った。淡い光に浮ぶ、サイドストラップの
レースに覆われ、盛り上がった丘の陰影。
 もう、待っててくれたんだ。
 身体を合わせる時になると、どこか照れた感じになるみのりが愛
しい。
 外腿に這わせていた指先をゆっくりと内側に動かすと、緩められ
て開き気味になる両足。顔を寄せて、腰骨の突起に柔らかく口づけ
ると、自分の体臭と紛うほどに感じる、微かに酸味がかった香りが
鼻に届いた。
 そのまま、腰骨にキスを続ける。出会った時から変わらない、み
のりの感じる場所。舌を少し這わせると、爪先に力が篭もるのがわ
かる。
「スミ、くすぐったいよ」
 もう、嘘ばっかり。
 そのまま、ゆっくりと内腿をたどっていた指先を、秘められた場
所の上に添えると、布地の上からでも湿り気がわかるほどだった。
 だよね、久しぶりだもの。
 ショーツの脇から指を侵入させると、溢れ出す源の周辺を、ゆっ
くりとなぞる。唇を滑らせてサイドストラップを口に含むと、結び
目をゆっくりと解いた。
 丘の上に萌え広がる、円形の翳り。目を閉じて唇を寄せると、さ
っき感じた誰よりも身近な香りが頭の中心まで忍び込んで、それだ
けで自分の中心もじんわりとした痺れを感じるようだった。
 もしかしたら、私も?
 みのりと一緒に住むようになる少し前から感じていたこと。今ま
ではあまり「自分が感じたい」と思わなかったのに、身体の方が求
めて動いている瞬間がある。
 斜にした太腿に触れる、五本の指がなぞる感触。
「スミも、いい感じだよ」
 いつのまにかズボンも下着も抜き取られ、剥き出しになっていた
下半身に、暖かい吐息がかかった。
 何の前置きもなく両腕が細い腰を捉えて、逆三角形の翳りの下、
一番敏感な膨らみの周囲が、湿った感覚に覆われた。
 あ……。
 唇を当てようと思っていた淡く濡れ光る黒い縁取りの奥の紅さが、
切なさに突き出した顎の下になる。
 舌と唇が、切なく迫り出した場所の根元に優しいキスをくれてい
るのが、はっきりとわかる。ジンジンとした感覚が広がって、腰を
強く押し付けたくなって。
 お尻に回った両手が、ゆっくりと愛撫を続けている。
 ダメ、のりちゃん。いっぱい愛して欲しくなっちゃうよ。
 佳澄の反応に力を得たように、双丘を愛撫する動きは、少し激し
さを増していく。時折、掴み、爪を立てるような仕草も加えつつ。
 上半身は寝間着を纏ったままで、下半身だけをさらした二人の愛
撫は、次第に動きを早めていく。
 そして、みのりの指先が、佳澄の奥まった場所に届いた時。
 目をきつく閉じて細い眉を寄せると、佳澄は一気に昂まろうとす
るものを押え込んだ。
「スミ、我慢しないで。感じて」
 離れた唇から声が聞こえたのは一瞬で、また熱い感覚が、そして、
強く吸い出されて、濡れた先が素早い動きで翻弄して……。
 い……。ダメ。
 触られると一番我慢ができない場所に、緩やかに押し付けられる
指。そして、濡れた中心の入り口に浅く差し込まれるもう一本の指。
 何も考えられらなくなっていた。
 身体の中心が、どんどんと感覚を引っ張っていく。
 そして。
「のり、ちゃん……」
 身体全体を痺れが覆った瞬間、佳澄は高いうめきを上げて、官能
の潮に身を任せた。
 その瞬間、半分閉められた襖の向こうからくぐもった泣き声が響
いてきた。
 快感の余韻を味わう間もなく、まだふわふわとした感覚の残る身
体を離す。
「いいよ、スミ。私が見る」
 暗がりの中に、慌てて下着とズボンを履いたブルーの寝間着姿が
消える。
「……どしたの、あっくん」
 襖の向こうから聞こえる小さな声を聞きながら、佳澄は目を閉じ
て息を吐き出した。そして、ポンと身体を起こすと、隣の部屋に上
半身を突っ込んだ。
「大丈夫、のりちゃん」
「うん、うんちみたい。結構出てるや。濡れタオル、頼める?」
「あ、うん」
 湯沸かし器の加減を確かめながら、おしり拭き用のタオルを絞っ
て、薄明かりの中にかがみ込んだみのりに渡した。
 おむつの具合が良くなると、何事もなかったかのように穏やかな
寝息が戻り、二人はクマの柄が散らされた小さな身体を見下ろして、
安堵のため息をついた。どうやら、夜泣きではなさそうだった。
「……続き、する?」
 もう一度布団に並んで横になった時、佳澄の問いかけに、みのり
は素早く首を振った。
「いいや。またで。スミ、気持ち良かったみたいだしさ」
「うん……。でも」
 自分ばかり感じてしまうのはやっぱりどこか恥ずかしい。それに、
みのりも久しぶりの休みを待っていたはずだった。
「あ、ほんとにいいって。充分気持ち良かったし、さ」
「いいのいいの、ゆっくり、しよ。今日はあっくんもわかってくれ
てるみたいだし」
 もう一度、部屋の電気が落とされた。
 長い深秋の夜。あとは、静かに切なく、時に堪えきれない激しさ
を秘めた甘い吐息が、三人の愛の巣に響き続けていた。

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