第二章 晩秋の空の下

 「あっくん。そろそろ帰るかぁ」
 木の葉の間からのぞく丸い時計の針は、十二時を少し回ったとこ
ろだった。少し前まで砂場に、遊具にと騒ぎ歩いていた幼児の姿は
消えて、赤みを増した秋の木々に囲まれた公園で遊ぶのは、みのり
と歩夢だけになっていた。
 すっと抜けるような空気の流れが感じられた瞬間、頭の上でざわ
ざわと葉が囁き始め、冷たい風が音を立てながら肩先を通り過ぎて
いく。
 朝の十時からここに来て、もう二時間以上。外遊びが大好きなの
はよくわかっていたけれど、そろそろ昼のミルクの時間だった。
 みのりは、バケツへと一心に砂運びを続けるスコップの手元を見
ると、肩で軽く息をついた。扇形の砂場のまん真ん中にグリーンの
ベビー服のお尻を据えた丸顔は、呆れるほど真剣に砂の盛り上がる
さまを追っている。
 それにしても、根性あるなあ。ほんと、これなら心配ない。
 さっきまでの大騒ぎを思い出すと、どうにもにやにや笑いが漏れ
てしまう。
 いつも通り、数人で固まって砂遊びを続けていた隣。「仲良しの」
美咲ちゃんがあっくんの目の前に置かれたピンク色のスコップに手
を掛けた瞬間、事件は起こった。
 不満のうめきを上げてつんつん両おさげの丸顔をぐっと見つめる
あっくん。唇を尖らせてつり目で睨み返す美咲ちゃん。スコップの
両端を握ると、座ったままの綱引きが始まった。
「歩……」
「みさちゃ……」
 両側からの声が届く前に、美咲ちゃんの先制つっぱりが決まった。
そのままよろめいて、仰向けにひっくり返る一回り小さな身体。予
想外の攻撃に、動きを止めるくりくりとした大きな目。
 でも、あそこで終わらないところが、あっくんらしいところなん
だよなぁ。
 みのりは、ベージュのハイネックセーターの両肩をぐるりと回す
と、低く早く流れる白雲を見上げた。やっぱり、少し寒くなりそう
だ。
「ほれ、あっくん。帰るぞ〜。明日また、スミママに連れてきても
らいな。スコップは持って帰れるから」
 寝転びながら繰り出した「アリキック」の戦利品の柄を掴むと、
瞬時に見上げた顔と、少し不満の声。
 あ、そうか。
 殆ど山盛りになりかけた小さなバケツの中の砂に気付くと、みの
りは、よし、と頷いて手の平でぐいぐいと上から押し付ける。
 今日何個目かの砂プリンができた後、どこもかしこも肉付きのい
いもうすぐ一才児は、満足げにベビーカーに収まっていた。
 そして、天気予報通り、どうも気温の上がりそうにない十一月の
公園をあとにしかけた時、南側の入り口から印象的な姿が現れた。
 大きなブルーのベビーカーを押した、スラリとした女性。ワイン
カラーのカーディガンを羽織り、グレーのロングスカートを纏うゆ
ったりした立ち振る舞いは、赤ちゃん連れのお母さん離れしたもの
だった。
「こんにちは」
 立ち止まったみのりは、気軽に声をかける。
「あ、真岡さん。もう、お帰りですか」
 セミロングの髪の下、引き締まった眉と鋭いラインを描く眦が、
瞬時に柔らかく緩んだ。
「うん、もうね。いい加減、こいつにミルクをあげないといけない
から。結香ちゃんは? もう食べました?」
 入り口の大きなイチョウの下でベビーカーを寄せると、おそらく
自分より4、5才は年上のお母さんに、みのりは柔らかく微笑んだ。
「全然ダメで。端からペッペだし、もう、参っちゃう」
「そっか……」
 しゃがみ込むと、ひさしの下でムッとした視線を寄こす細身の顔
に、
「ダメだぞ、ユイちゃん。ママの作った大傑作なんだから。おっき
くなれないぞ」
 顔を寄せた瞬間、目の前に素早く飛んでくる小さな手。
「あ、ユイ!」
 すんでのところでかわすと、みのりは苦笑いをして上を見上げた。
「お、ご機嫌斜めか。ふふ、もうおっきいね、ユイちゃんは」
「すいません、真岡さん。もう、手ばっかり早いんだから……」
 淡いけれど丁寧に塗られた唇を引き締めると、ユイちゃんのお母
さんは娘をキッと見下ろした。
「いいのいいの。女の子はそれくらい強くないとね〜」
 そして、すっと立ち上がると、やや見上げる位置にある整った面
長の顔に、視線で会釈する。
 微笑みを返す上品な表情に、なぜか照れくさいような気分が兆し
て、みのりは一瞬言葉に詰まった。
「――また、あっくんと遊んでやって下さいね。もう、こいつ、女
の子好きで困っちゃうから。将来、どうなることやら」
「こちらこそ、もう、歩夢くんだけしかいないから。結香が遊べる
子って言ったら。よろしくお願いね、あっくん、……あら」
 斜め下を伺った目が、ちょっと驚いたように見開かれた。
「え、」
 まさか、顎を突き出して脇からのぞき込むと、予感の通り。
 首を斜め六十度にして、半開きにした口からはすぅすぅと定期的
な息が吐き出され……。
「うわ、まいっちゃった」
 朝からこっち、何にも食べてないのに。みのりは小さく息を吐い
た。これじゃ、家に着くと目が覚める最悪のパターンだ。
「じゃ、また、篠崎さん」
 十日ほど前から知り合いになった母娘に会釈をすると、みのりは
木々が影を落とす路地へとベビーカーを押して出た。
 これなら、買い物もしてった方がいいかな。夕方、出られる確証
はなさそうだし、スミも今日はちょっと遅くなるって言ってたし…
…。
 遠くで小さく響く電車の走る去る音、かすかに香る枯れた木々の
匂い。
 それにしても、いい加減栄養学のレポートも書かないとやばいな
ぁ。
 佳澄の試験がらみで、少し休みが混んでしまっている専門学校の
授業。秋の風の行方に広がる低い街並みを見遣りながら、みのりは
もう一度短い息を吐いた。
 頑張らなきゃ。こんなんでめげるわけにはいかんもの。
 T字路を東へと折れると、商店街の入り口にある銀行の自動扉を
くぐった。
 財布からカードを取り出すと、残高を照会する。当然のように、
金額は一万円を切っていた。
 バイト代が入るまで、あと五日。かなり不安の残る金額だった。
 みのりは背負っていたナップを開けると、もう一つの通帳を取り
出した。佳澄と暮らし始める前に貯めたお金が入っている、古い方
の通帳。
 やっぱり、今月もこっちから取り崩すしかないかあ。
 カードを入れて一万円を引き出し、記入を確認した時、見慣れな
い項目があることに気付いた。
 振り込み・ミツセヤスカ・十万円。
 すぐに通帳を閉じると、みのりはもどかしいような胸の痛みを感
じながら商店街へと向かった。
 佳澄の母からお金が振り込まれたのは、これが初めてではなかっ
た。二人で暮らすようになった初夏の日から、月半ばには必ずまと
まった額がみのりの口座に振り込まれるようになっていた。
 そのお金はそのままにしておいてね――返す事を前提で出しても
らった学費はともかく、両親に曖昧に世話になるわけにはいかない。
 佳澄の言う意味はよくわかるけれど、やはりどこかで胸が苦しい。
 あっくんを育て始めて少しずつわかること。この子が大きくなっ
て、自分の思惑と違う事を始めたとしても、きっと私はできる限り
の援助を送るだろう――スミのお母さんは目の前が見えなくなるこ
とのある人だけど、娘のことを思う気持ちに分け隔てなんかない。
 今まで交わした短い会話の中から、みのりは佳澄の母の深い想い
に確信を持っていた。
 低い屋根が軒を連ねる駅前の商店街に入ると、金曜日の昼食時の
往来は、背広姿の会社員、OLから主婦風の人々まで、食事を済ま
せ、店先で小物や食べ物を選び、といった様子で明るく賑やかだっ
た。
 みのりは、肉厚の唇を鼻に寄せて丸い目を一瞬閉じると、心の中
で小さく頷いた。
 さ、今日の夜は何にしようかな。
「みのりちゃ〜ん」
と、少し太い女性の声が、背中から響いた。振り向くと、太った身
体に白い割烹着を纏った白髪混じりの下で、これまた丸い顔が目尻
に皺を作って歩み寄ってくるところだった。
「あ、こんにちは。おばちゃん」
 商店街の隅で古い豆腐屋を営んでいる、袴田屋の奥さんだった。
「お、歩夢くんはおねむ? いい子だね〜」
「買い物? お店は?」
 解けかけたショートパーマの旋毛を見下ろすと、少し垂れ気味の
細い目が、皮肉っぽく笑う。
「たまには旦那にお任せ。昼時の忙しさ、たまには味合わせてやら
ないとね。豆腐作ってりゃいいんじゃないんだから」
「そうだね〜。袴田屋さん、いっつもおおはやりだもん。おばちゃ
んの魅力かな」
 はっはっはっ、と口を開けて笑うと、
「上手い事言うね、みのりちゃんは。おだててもおまけは出ないよ」
 ジーンズの腰をポンと叩かれると、何だか気分が楽になる。あ、
そうだ。
「……今日は、麻婆豆腐と厚揚げの中華風にしよっかな。おばちゃ
んとこの豆腐で」
 丸顔がにっこり笑うと、少し控えめな声になって言う。
「愛妻料理だねぇ。スミちゃん、忙しいみたいだから、元気つけて
あげないと――」
 目を合わせると、瞳の奥で柔らかな同意の色が光る。袴田屋の奥
さんは、この街でみのりと佳澄の関係を詳しく知っている数少ない
一人だった。
「そうだ、昨日のがんも、余ってるから持ってけば。ウチのはひじ
き一杯だからねぇ、元気出るよ。……みのりちゃんも」
「……ありがと、おばちゃん」
 眠ったままの幼子を乗せた古びたベビーカーを九十度回転させる
と、みのりは豆腐屋のある辻へと歩き出した。

 久しぶりに開いた教科書に目を通すと、最初は文字が意味のある
並びに見えなくて、コンコンと頭を拳で叩いてみたりしていた。
 アミノ酸の結合を示す、化学式に分子モデル。
 栄養学のこういう部分はもともと不得手だったし、化学は高校時
代にも避けて通っていた分野だった。
 離乳食を済ませてミルクをたらふく飲んだあっくんは、奥の部屋
ですうすうと静かな寝息を立てている。
 今がチャンス、そう思うとかえって文章が頭に入らず、どうも手
が止まりがちになってしまう。それでも、辺りがすっかり暗くなっ
て、南東に開いた窓辺に丸い月が浮び始める頃には、勉強に集中で
きるようになっていた。
 イソロイシン、スレオニン、トリプトファン……。必須アミノ酸
が含まれている食品の分類表は……。
 動物性蛋白と植物性蛋白の吸収率の差――そうだよな、やっぱり、
大豆を加工して食べるのには意味があるわけだ。
 ノートに食品名を細かく書き終わった後で、みのりは大きく伸び
をした。レポートの課題は、「日本人の食生活と必須栄養素の摂取
について」。思ったよりも授業の内容は頭に入っていて、どうにか
まとまりそうな具合だった。
 ――さて、もうひと頑張り。
 再び机に向かいかけた時、小さな足音が耳に届き、バタン、と台
所から音が響いた。反射的に見上げた机の上の置き時計は、七時を
少し回った時間を指している。
 椅子を後ろに傾けて隣のキッチンをのぞくと、大きなカバンを肩
に、ゆったりしたブルーのセーター姿が、靴に手をかけるところだ
った。
「スミ」
 少し驚きながら、ふんわりと額にかかった髪の下の表情を見つめ
る。確か、帰りは九時近くなるって……。
「ただいま、のりちゃん。走ってきちゃった」
 はあはあと息を切らせながら、色白の頬をほんのりと赤に染める
と、四角いコタツ兼テーブルの上にバックを放る。
「すごく寒いんだもん。あったかくなるかなぁ、と思って。……あ、
勉強中だった?」
「ん、いいよ。一区切りついたとこだし。それより、今日は真澄さ
んとかとお茶会って言ってたのに。中止?」
「ううん。ヤメにしてきちゃった。何だか早く家に帰りたくって」
 そのままテーブル前に座り込むと、ポケットから取り出した缶コ
ーヒーのタブをパチンと上げた。一口飲むと、ホッと息を吐く。
「どうせ、私はサークルのメンバーってわけじゃないし」
「あ、それ、あったかい奴?」
「そうだよ。のりちゃん、飲む?」
 手渡された缶コーヒーに口を付けると、見上げて待っている佳澄
の様子に、なんだか頬が緩んでしまう。
「じゃ、ご飯食べてきてないだろ、スミ」
「うん、何かある?」
「任せなさいって。ちゃんと……」
 立ち上がりかけたみのりを制すると、佳澄は台所へと背中を見せ
た。
「そのまましてて。……あ、麻婆豆腐だ。厚揚げのあんかけも美味
しそう〜。お豆腐屋さんのやつ?」
 コンロの辺りでかちゃかちゃとフライパンのふたを持ち上げる音。
「そうだよ。だいじょぶか、スミ」
「いいよ、のりちゃん。勉強してて。あっためて食べるから」
「悪い、任せていい?」
 もちろん――明るい声が返ってくると、みのりはもう一度コーヒ
ーに口をつけた。
 栄養学のレポートは、佳澄のサポートのおかげで順調にはかどっ
た。
 明日は土曜日。ペンを走らす斜め下でテーブルに向かって座る佳
澄は、ゆったりとTVガイドや通販のカタログをめくりながら紅茶
を飲んでいて、その暖かい香りはみのりの傍らでも心地良く立ちの
ぼっていた。
 八時を回る頃には、あっくんの目覚める泣き声が響き渡ったけれ
ど、離乳食もミルクもおしめも、そしてお風呂も、何一つ気遣うこ
となく済まされていた。
「のりちゃんは、レポートに集中」――耳を覆うタイプのヘッドホ
ンを後ろから被せると、その一瞬だけ身体が寄せられて、頬に柔ら
かい感触が残った。
「スミ」
 後ろを振り返ると、少し上目遣いになった切れ長の瞳が頷いて、
舌をちらっと出した。
「いいの。頑張って」
 夜が静けさを増した十一時過ぎ、気が付くと音のなくなった「育
児部屋」をのぞき込むと、淡い電灯の光の下、黄色いベビー布団で
小さく背中を上下させる赤ちゃんの横で、大人用の布団の上、普段
着のままで寝息を立てる愛しい姿があった。
「スミ。そのままだときついって」
 首を覆うハイネックのセーターと、少しタイトなパンツ。少し強
く身体を揺すってみたけれど、「うん」と夢見心地な返事が返るば
かりで、目を覚ます気配はなかった。
 とりあえずウエストのホックを緩めると、横臥した身体に毛布を
緩やかに掛ける。
 うつ伏せになって、膨らんだ頬を布団に押し付けたあっくんと、
手を組み合わせて丸くなった佳澄。静かに襖を閉めると、みのりは
心の中で言葉を作っていた。
 スミ、ありがと。
 ここのところ、ちょっと時間がないけれど、仕方がない。冬休み
になったら、もう少し二人でいられる時間も増えると思うし。
 湯沸かしからお茶を煎れた後、もう一度机の前に座って、カーテ
ンの外の景色を眺める。
 古い民家や、小さなビル、遠くに見える隣町のビルの影。疎らに
見える木々の盛り上がりが、月明かりの下で冷たい風に揺られてい
る。
 うまく、いくのかな……。
 突然兆した不安が晩秋の夜の景色に重なって、みのりは手に持っ
たシャーペンを唇に当てた。
 スミが商学部を卒業して、私が調理師専門学校を出て、『菜香町
屋』を改装して。
 青写真では、仲町の古い店は、三階建ての八百屋兼野菜主体の自
然派軽食店になる予定だった。具体的な話はほとんど何も進んでい
ないけれど、二人が力を合わせてやっていけば、必ず実現できる、
一年前から何度も確認し合ってきたことだった。
 決して安閑とはできない経済状態。夜間部とは言え、かなりの額
のかかる専門学校の学費。
 オヤジやアニキの支えはあるけれど……。
 そして、あんな古い商店街で、そんな店が成功するんだろうか。
 みのりは強く首を振った。
 中空では、満月が変わらぬ明るい光を放っている。
 あの古い部屋から、小さな窓に切り取られた空を見ていた時を思
えば、どれくらい前に進んだだろう。私には、たくさんの人がいる
んだもの。
 そして、何より、スミが一緒だ。
 消えていたスタンドのスイッチを押すと、秋の空を傍らに、みの
りは再びペンを走らせ始めた。
 その横顔は、高校時代と少しも変わらない、いや、いっそうたゆ
みのない真摯さで輝いていた。
 もう少し頑張れば、難関だったレポートも完成しそうだった。

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