第三章 暖かな聖夜

 朝交わした会話は、とても簡単なものだった。
「じゃ、スミ。頼むね。夕方までには帰るようにするから」
 見上げた空は低い雲が垂れ込めて、吹いてくる風はどこか沈んだ
冷たさを孕んでいるようだった。
 佳澄は、茶色のダッフルコートの腕を組み合わせ身体を小さくし
ながら、ジャングルジムの鉄棒を背中にぼんやりと立っていた。
 見下ろした砂場の真ん中では、ベージュのつなぎに小熊の絵が散
らされたジャンパーに着込まれた小さな身体が、座り込んで両手で
砂をすくい上げ、立ち上がっては手を振り上げる動作を繰り返して
いる。
 強い風に流されて砂が舞い落ちるたびに、まん丸い顔の中で、大
きな瞳が光り輝き、くっきりとした唇から時折堪えきれないような
笑いが漏れ出していた。
 もう、三十分ほども飽きずにその動きを繰り返している。
 佳澄は、もう一度あっくんから目を離すと、小さく息を吐いた。
 のりちゃん、今日は早く帰れるかなぁ……。
 大学が休みに入る頃から、みのりの方がにわかに忙しくなってき
ていた。夜の専門学校の授業に、昼は不定期に入るデモンストレー
ターのバイト。
 冬は、かき入れとかないとね――少し鼻息混じりに微笑んだ顔を
思い出すと、自分も何か収入の道を考えなければ、そんなことを思
う。
「いいんだって。私が持たなくなったら、スミが頑張ってくれれば。
兄貴の援助もあるしさ」
 三人で暮らし始めてから半年余り。思っていたより日々は慌ただ
しく過ぎて、気が付けばカレンダーは最後のページになっていた。
 時々、わからなくなることがあった。
 私たち、どうしてここに住み始めたんだっけ。
 将来の夢を胸に、一歩一歩進めながら頑張って行こうと始めた同
棲生活。二人で力を合わせていく日々が、未来の力になるはず――
でも、始まった生活は、そんな簡単に進んでいくものではなくて…
…。
 そして、考えまいと思っても、どうしても追い掛けてくる記憶。
 狭い部屋だったけれど、『菜香町屋』の階段の上と下で眠り、二
人で店先に立った、暖かい一年半の日々。
 ほとんど曇りのない高校時代の眺めがよぎった瞬間、二日前の夜、
早々と眠りについたみのりの横顔が浮びかけた。
 ……ダメ。もう、なんでこんなことばっかり考えちゃうんだろう。
 佳澄は眉根を寄せると、湿った気持ちを何とか脇に遠ざけた。
「もう帰ろっか、あっくん」
 寒さの増し始めた公園で、ぐるぐると思い惑っていても仕方ない
――あれ、あっくん?
 焦点を合わせたイチョウ並木の下の砂場には、見慣れた小さな姿
はなかった。
 ジャングルジムにもたれていた身体を起こし、慌てて公園の中を
見回すが、茶色のクマが散らされた背中は公園の何処にもなく……。
「すぁわあ」
 焦りが背筋を駆け上がりかけた瞬間、背後の足元からハイトーン
の声が響いた。
 見下ろすと、ジャングルジムの鉄棒の間から、しゃがみ込んで砂
を握り締めたつんつん頭が、顎を突き出してこちらを覗っていた。
「すぃあわぁ」
 しゃがんだまま、砂を持った手を突き出している。
「はいはい、砂ね。よかったね」
 腰を屈めて関節のない手に手を差し伸べると、太い眉がかき曇っ
た。
「よぃ、すぃああわぁ」
「うんうん、わかったよ。持ってきたんだよね」
 眉間の間の皺が不満らしきもので深さを増して、勢いよく立ち上
がり響いたのは、鉄と頭が衝突する鈍い音。
「あ、もう!」
 手を出した時は既に遅く、そのまま地面にひっくり返った小さな
身体を抱き寄せると、あっくんは腕の中で激しく泣き出した。
「もう、ダメ。急に立つから……」
 ぶつけた辺りの頭に手を当てると、一層大きく耳元で響き上がる
泣き声。
「よしよし、大丈夫、大丈夫」
 しゃがんで抱き抱えたまま髪の毛の間をのぞき込むと、ぶつけた
ところが少し赤くなっているくらいで、大事はなさそうだった。
「大丈夫だよ、あっくん。痛くないから」
 それでも泣き続ける様子に、抱き上げて背中をさすってみたけれ
ど、収まるどころか身体を捩じらせて暴れ出す始末で、数分も経つ
と佳澄は途方に暮れてしまっていた。
「よしよし、よしよし……」
 抱き上げた手から逃れようとするような身体の動き。かと言って
放すわけにはいかず、ひたすら背中を柔らかく叩きながら、葉の落
ち切った木々に囲まれた公園の眺めを目に映し続けるばかりだった。
 どれくらい時間が経っただろうか。腕が重みに痺れ始めた時、
「だーじょーぶ、あーくん」
 ズボンの裾を掴まれる気配に首を下に傾げると、頭の両上をつん
つんお下げに結んだあっくんより少し年上の女の子が、黒目がちな
瞳で見上げていた。
「あ、うん」
 ようやく、泣き声はすぅすぅと繰り返す寝息に取って代わられか
けていて、佳澄は見知らぬ女の子に頷きながら、安堵のため息をつ
いた。
「こら、ユイ。……すいません。あら……」
 振り向いた鉄柱の並ぶ入り口からゆっくりと歩いてきたのは、こ
の公園にはひどく不釣り合いな出で立ちの――シックなグレーのハ
ーフコートの中に、身体にフィットした黒のハイネックのニットシ
ャツを着た――「お母さん」だった。
「歩夢くん、ですよね」
 佳澄の肩口に身体を屈めて目を見開いて見せた後、落ち着いた色
合いに化粧された面長の顔に静かな笑みを浮かべて、その女性は軽
く会釈をした。
「あ、ええ」
 佳澄も、あっくんを抱いたまま、小さく会釈を返した。
「みのり、さんは……。今日はご用事ですか?」
 丁寧な言葉遣いと柔らかい声の響きを聞きながら、この女性が誰
か、自然に思い当たっていた。
「はい。少し忙しくて……。結香ちゃんのお母さん、ですか」
「ええ、篠崎です。みのりさんから? 失礼ですけれど、ご親戚の
方?」
 前髪が柔らかにウェーブした中、引き締まった眉の下で鋭いライ
ンを描く眦の中と視線が合うと、少し決まり悪いような感覚が兆し
て、佳澄は抱きしめた小さな頭に目をやった。
「あ、ええ。そんなようなものです。同居人、て言うのか」
「そうですか……。あ、歩夢くん、もう完全におねむみたい。ベビ
ーカーに乗せます?」
 凄く綺麗な人。みのりから聞いていた通りの女性は、イチョウの
木の下に置いてあったベビーカーを支えて、眠り込んだ小さな身体
を乗せる間待っていてくれた。
「ありがとうございます」
 いいえ、みのりさんにはいつもとても良くしてもらって――丁寧
な挨拶に少しくすぐったいくらいの感覚を覚えながら、公園を後に
した。
 そして、ベビーカーを揺らさないようにゆっくりとした速さで押
しながらしばらく。佳澄は再び掠れたため息が漏れるのを止めるこ
とができなかった。
 さっきまでの烈火のような泣き声が嘘のような、静かに寝息を立
てる顔を見下ろすと、紅潮した丸い頬が胸の中の深いところを締め
付けるような気がした。
 ごめんね、あっくん。やっぱり、のりママみたいにいかないね、
スミママは。
 一度ベビーカーを止めると、後ろのカゴに積んであった毛布を胸
元にかける。ひとしきり、愛らしい寝姿を見つめてその場にしゃが
み込んでいた。
 そして、もう一度立ち上がると、佳澄は薄い唇を軽く噛み締めた。
 いつも晴れた日ばかりというわけにはいかない。みのりが帰るま
で、とにかく頑張ろう。
 もう一度歩き始めると、佳澄は心の中に力を入れ直していた。

 夜が更けて、時計の針は九時に近づく頃。お昼過ぎに一本電話が
あったきりで、みのりがアパートに戻ってくる気配はなかった。
 コタツの置かれた居間の襖の向こう側、子供部屋の隅っこで、た
くさんの輪っかを棒にくぐらせる玩具に夢中のあっくんは、しばら
く前から無言の挑戦を続けていた。
 こういう時期は、ローストチキンのデモはおいしいよね。頑張っ
て売って、マージン貰って帰るから。
 勢いよく笑った受話器の向こうの声とは反対に、外が暗くなるほ
どに沈み込んでいく気持ちばかりを感じてしまう。
 コタツにもぐり込んで横になったまま、ファッション雑誌のペー
ジをぼんやりと繰る。クリスマス特番の映る着けっぱなしのTVか
らは、どこかで聞いたようなメロディが流れ続けていた。
 胸とお腹の間に、鈍い重みが広がっているのがわかる。
 昼間、どうにかして消そうと思った淀んだ気分は、扱い切れない
ほど大きさを増して、背中まで突き通る気さえしていた。
 十二月に入ってから、ずぅっとこんな感じだったっけ。
 ……ダメだ、そんなこと、考えても。
 大学が一段落したら、少しはゆっくりできるかなって思ってたけ
れど……。
 ……ううん、のりちゃんだって、頑張ってるんだ。わたしより、
ずっと。
 一緒に暮らしていくことの意味ってなんだろう。こんな寂しい想
いをするなら、無理してこんな暮らしをすることなんて。
 頑張ってやっていくんだ。だって、二人の未来の……。
 ダメだ。こんなことで、メソメソしていても。
 ダメ……。
 溢れたものが、目蓋の間から漏れ出しそうになる。繰る手が止ま
ったままになったページで、にこやかに微笑みかけるファッション
モデルの顔が、ぼんやりにじみ始めた。
 一時間少し前にようやくかかってきた電話。届いた声は期待して
いた人からではなくて、本当に久しぶりに聞く人のものだった。
 問題なくやってる?――抑えた調子の声からは、具体的なことは
何も聞こえてこなかったけれど、相変わらずの家の様子が見えるよ
うな気がした。
 お母さんも、身体には気を付けてね。
 それを言うのが精一杯だった。
 突き詰めてしまえば、きっとまた思い当たってしまう。あの頃、
のりちゃんに会う前に、嫌になるほど確かめたことに。
 あの人達が必要としているのは、私そのものじゃない。佳澄とい
う名前の、魂のない人形。それぞれが息をしてさえいればいい、家
族のゲーム。
 でも、このまま繰り返していたら、ここもあの場所と同じものに
なってしまうのかもしれない。だって、今の暮らしは、ただ生きて
いくために始めたんじゃない。そう、兄弟の子供まで引き取って暮
らすことの意味って、なんだろう。
 あっくんはとても可愛い。でも、のりちゃんならともかく、わた
しなんかができることじゃない気がする。今日だって、きっと、何
か伝えたいことがあったんだ。そうじゃなければ、あんなに泣くは
ずがないもの……。
 本当は、安心して、お互いに愛し合うために一緒に始めたはず…
…。
 ダメだ。
 涙が止まらない。
 忙しさが増してから、いつも早々と眠りについてしまうみのりの
横顔が浮かんだ。
 この間、愛し合ったのはいつだった?
 思い出せない……。
 寂しいよ、のりちゃん。
「寂しいよ……」
 深くコタツの中にもぐると、衝動任せに身体を両手で抱き締めた。
 雑誌を閉じてふすまに背中を向けると、目を閉じた。
 こんなこと、感傷だってわかってる……、ううん、ほんとに感傷
だけ?
 確かなものが何一つない気がした。それは、ずっと以前、いつも
側にあった気持ち、だと思う。
 唇に当てた手の甲を強く噛むと、セーターの上から胸を強く握り
締めた。息を止めて身体の奥にあるもどかしさを見つけ、取り出そ
うとした瞬間、手の先にはいつのまにか生のまま肌があった。
 左手はシャツの中に入り込み、右手はスウェットのゴムをくぐり、
薄い布の上から奥まった場所に届いて。
 見つめ切れない雑多な眺めが、白い衝動の中に少しずつ溶け出し
ていく。
 胸の先を指でつまみ出した瞬間、目をきつく閉じなければ、声を
漏らしてしまいそうなほど、何かが心の中に満ち溢れ、
「のりちゃん……」
小さく呟いて、指をショーツの端から中へと滑り込ませた。パンツ
はもう、コタツの中の足元へと脱ぎ捨てられている。
 草むらの奥のいざないは緩やかに広がり、雫を外に溢れさせ始め
ていた。
 きっと、すぐに感じられる。そうしたら、少しは……。
 手の平を丘の麓の尖りだした場所に押し付けて、シャツの中で柔
らかな頂きを揉み上げようとした時。
「スミ」
 かすかな息と、小さな声が耳元で響いた。
 あるはずのない気配。
 首だけを跳ね上げると、落ちてきた長い髪が、頬に落ちてかかっ
た。
「の、のりちゃん!」
 無言のままの大きな瞳が静かに見下ろすと、息づかいがさらに近
づいて、頬に冷たい唇の感触が押し付けられた。そして、肩口がぎ
ゅっと抱き締められる。
「あうまぁあ」
 甲高い声が突然響き渡ると、ドンと音がして半開きの襖が揺れた。
「お、元気だったか、あー坊!」
 コタツ掛けをかぶったままの背中に、あっくんの突進を受け止め
るみのりの背中の感触。突然のことに宙ぶらりんの気持ちをそのま
まに、下ろしてしまったスウェットを慌ててはき直すと、ゆっくり
と身体を起こした。
 間違いなく、何をしようとしていたか悟られてしまったはず――
どんな態度を取っていいかわからずに視線を逸らしたままでいると、
膝立てのままであっくんを抱き上げたみのりは、脇においてあった
手さげ袋をコタツの上にポンと置いた。
「はい、おみやげ。スミ、開けてみて」
 大きな紙包みを開ける前から、中に入っているものが何か想像が
ついた。立ち昇る甘く香ばしい匂い。包装紙を開けると、銀色の皿
に乗ったローストチキンが姿を現した。
「うわ、すごい。のりちゃん、貰ったの?」
 それでもまだ、視線を落とし気味にしかできず目を瞬かせると、
みのりは頷きながら立ち上がった。
「今日は目茶苦茶に出たから、お肉屋さんがご褒美だって。クリス
マスイブならともかく、二十三日からあんなに出るなんて最高記録
らしいよ。マージンの方もばっちりだしね。……でもね、こっちが
メイン」
 そして、台所へ水色のセーターの背中を見せると、
「お肉じゃ、あー坊が食べれんもんなぁ〜」
話しかけながら手に持って振り向いたのは、飾り気のない白い箱。
「ごめん、スミ。一度学校の方に寄ったんだ。焼くばっかりにして
あったんだけど、飾り付けに手間取っちゃってさ」
 中身は予想できたけれど、おそるおそる今日初めて視線を合わせ
ると、あっくんを抱いたままのみのりは、二度三度力強く頷いた。
「開けて、スミ」
 手の平のふた回りほどの箱の横を開けると、トレイをゆっくりと
引き出す。
 中から見えてきたのは、予想通りのものだった。ただ、思いもか
けない姿をした――。
「うぇうぃ、うぇうぃ」
「お、わかるか、あっくん」
 白いトレイの上には、三つの木が横たわっていた。チョコレート
色に木目があしらわれた二つに、小さな白樺が挟まれて。上から降
りかけられた白い砂糖の雪は、トレイの上に置かれたクッキーの家
の上にまで散って、お菓子のサンタも合わせて、おとぎ話の絵のよ
うだった。
「のりちゃん……」
 それ以上言葉が続けられず、俯き加減に目を伏せることしかでき
なくなった。
「ブッシュ・ド・ノエル、真岡みのり風ってとこかな。一日早いけ
ど。……スミ」
「ご、ごめん……」
 泣いてどうするんだろ、のりちゃんが一生懸命作ってきてくれた
のに。肩に掛けられた手が暖かい。顔を上げて鼻をすすった時、何
か言葉らしきものが耳元で響いた。
 解けたみのりの手を離れたあっくんが、佳澄のすぐ横に立って、
顔をのぞき込み加減に声を発したところだった。
「よしぃ。すみぃ、まぁ」
 小さな手が、頭にかかる。
 どこかで聞いた感じだった。今日の公園の眺めがよぎり、佳澄は
顔を上げて、真っ直ぐな丸い瞳を見つめていた。
「もしかして、言った? 今?」
「……うん」
 みのりの言葉にうなずくと、今度はもっとはっきりした声が、厚
ぼったい唇から飛び出した。
「よしぃ。すみまぁま」
「言った!」
「うん、スミママ、って」
 みのりの顔を正面から見詰めると、満面の輝きの中に誰よりも優
しい笑みが浮かんでいた。
「くそぉ、先越されちゃったな。スミに」
「へへ、ゴメン。でも、嬉し……、あ〜!」
 言葉を続けようと思った瞬間、視界の隅ではとんでもない事態が。
 無造作に伸ばされた手が、綺麗に並んだケーキの木の中に突っ込
まれ……。
「こら、ダメだ! あー坊」
 振り返ったみのりが叫んだ時には、既に遅し。木を象ったはずの
クリームと生地は、混沌の海と化していた。
 楽しげにクリームの付いた指を口に入れる王子さま。後は、お決
まりの片付け騒ぎが続いた。

 ぐちゃぐちゃになってしまったみのりの労作の残骸を「食べ終わ
った」後、破壊の主は満足げに布団の上に横になった。
 健やかな寝息が吐き出されるのを確かめた後、佳澄はみのりと一
緒に湯船につかり、今日一日の出来事をゆっくりと話し始めていた。
 細長いバスタブに足を伸ばして、背中にみのりの柔らかさを感じ
ていると、一人でいた時の尖った気持ちは、幻にしか思えなくなっ
ていた。
「明日のバイト、休んでもいいよ。今からキャンセル入れれば、ぎ
りぎりで間に合うかもしれないし」
 母親から電話があったことを告げた後、みのりは肩口から回した
両手に力を込めながら、耳元で言った。
「ううん、いい」
 佳澄は首を振ると、自分よりも少し太い腕に指を絡めて顎の下に
頭をもたれた。
「頑張って、のりちゃん。明日明後日で終わり、だもんね」
「……ごめんな、スミ。やっぱ、もう少し考えなきゃダメかな……」
 もう一度首を振ると、佳澄は手首を握った指に力を込めた。
「ううん、大丈夫。私のは、ただのワガママ。やだよね、何かが手
に入ると、次も、もっと、って考えちゃう人の性って」
 小さな息遣いが頭の上から聞こえた。
「スミのは……、そう言うんじゃない気がする、だって、さ……」
「いいの」
 目を閉じると、伸ばしていた足を折って、みのりの足に絡めた。
「でも、スミが辛いんじゃ、何のためかわからないから」
 大きな身体に包まれて、自然に胸に溢れてくる気分は、さっきま
での痛い思いと似ているようで、まったく色合いの違う切なさで身
体中に広がっていく。
「……じゃ、言って。好きって」
 ちょっと拗ねた声で言える。みのりの腕が、脇の下に回って胸の
下で組み合わされた。
「好き」
「もっと」
「好きだよ、スミ」
「もっと、もっと!」
「好き。佳澄のこと、愛してる。世界の誰より」
 首筋に押し付けられる唇の感触と一緒に、みぞおちから背中へと
暖かいものが満ちて、埋めていく。
「うん……」
 言葉とも息ともつかない音が漏れ出した時、胸の中の思いは、顎
を上げて仰いだ先、唇と唇の触れ合いに変わっていた。
 耳元に手が添えられて、柔らかく合わせられたみのりの唇の甘さ。
目を閉じると、離れるようで離れない優しい啄ばみが、下唇から上
唇へ、そして、すき間なく合わせられて。
 そのまま止まっていると、息ができなくなって、空気を求めて開
いた先に、ゆっくりと忍び込んでくる湿ったもの。
 のりちゃん……。
 心の中で呟くと、口を大きく開ける。
 舌先で唇と歯茎の間をすき上げられると、胸のふもとに添えられ
た手の動きと一緒に、淡い昂まりが喉の奥から自然に漏れ出す吐息
に変わり、佳澄は身体を小さく震わせた。
「愛してる、佳澄」
 一瞬離れた唇、再び耳元の囁きが聞こえた後、唇の求め合いは激
しいものにとって変わられていた。
 差し込まれたみのりの舌が、口の中全てで暴れ回っている。時折
舌の裏側の奥まで、なぶり取るように。胸の頂きに届いた手の平は、
赤くとがり出してしまったその場所を何度も何度も確かめては、次
第に転がす速さを増していく。
 首筋に添えられた手が、耳朶全体を撫でながら、指先でくすぐる
ような刺激を送り始めた時、下腹部にじんわりとした感触が広がっ
て、次々に送り込まれてくる唾液を飲み下しながら、佳澄は切なさ
に太ももをすり合わせていた。
 それに応えるように、お湯の中で後ろから足の間に入り込んでき
たみのりの足が、ゆっくりと肌をこする動きを始めた。
 貪るほどの動きに変わった唇と舌の求め合いに、胸と耳元を愛撫
する手。すり合わせられる太もも。
 白熱するほどに求め始める身体と心。
 ダメ、もっと、もっと、って……。
 後、触れられていない場所は、奥まったあの場所だけ。
 お湯の中、自分でもわかるくらいに溶け出しているのがわかる。
 最近、はっきりとわかり始めた囁きが、大きさを増して身体の中
で弾けそうになる。
 私も、こんなに求めてる。のりちゃんとしてると、私も、奥まで
愛してって。
 自然に指先を太ももに添えると、花咲いた場所の近くへと滑らせ
た。
「いいよ、スミ……。して」
 湿った囁き。
 で、でも……。時折、みのりが自愛するのを手伝いながら、愛撫
することはあったけれど、こんなに強い気持ちで自分から求めるの
は、初めてのような気がする。
 胸元から下りてきた手が、手首に添えられた。
 誘われると逆らいようもなく、指先を花弁の奥へと少しずつ。小
さな真珠の先が手の平に当たる……、もう、こんなになってる。
 あ、ダメ。
 その時、手の平の下に入ってきた指先が、切なく顔を見せた場所
の根元を、静かにさすった。
「う……」
 その瞬間、白い光が目の裏を走って、佳澄は小さな潮に身を任せ
た。
 でも、まだ充ちていない。身体の芯も、心の奥も、もっと激しさ
を増して求めているような気がした。
 どちらからともなく立ち上がると、唇を合わせて抱き締め合った。
そして、キッチンに引いた布団の上へと。
 下になって見上げたみのりの身体は、湯上がりで紅潮していて、
佳澄は自然に乳首に唇を這わせていた。そして、指先は自らの足の
間へと。
「のりちゃんも、一緒にして」
 手首を掴んで、丸く生え揃った場所へと誘うと、顔を寄せて深い
キスをした後で、みのりも指先を花弁の合わせ目に添えた。
 身体を寄せ合い、固めの稜線と、おわん型の稜線が交わり、迫り
出した赤い先端が、ゆっくりと会話を始める。
 身体の間に挟まったお互いの腕が、自愛している動きを伝えて、
もどかしく切ない官能を高めていく。
 周辺をなぞっていた指先を、僅かに中へと侵入させた時。
「スミ、もっと」
 足を絡み合わせると、みのりの指が手首を伝って下腹部を持ち上
げる動きをした。そして、剥き出しになる、充血した場所。
 みのりの揃えた指先が根元から先までを擦るように動く。
 膝が震え始めて、兆しかけたものを逸らすと、佳澄もみのりの腕
を伝って、奥まった場所へと。
 すごい……。
 溢れ出した雫は、みのりの手首までを濡らしていた。そして、押
し込まれた二本の指が、内側の花弁の中で、別々に動き回っている
のがわかる。
 雫をつけて中指をゆっくりと添わしていくと、みのりの中で、指
と指とが絡んだ。
「う、スミ」
 いいよ、感じて。
 心の中で言いかけた時、浅く入れた自分の指元にも、みのりの指
が添うのがわかった。そして、中へと……。
 押し入れられた瞬間、自分の指と違う方向へみのりの指が動き、
ズンと突き上げるような快感が腰の奥で兆した。
「いや、ダメ。のりちゃん、ダメ」
 言葉とは裏腹に、動き始めてしまう自分の指。そして、暖かさの
中で絡み合い、すり合わせながらドンドンと昂まって、止まらなく
なる。
 お互いにお互いの泉の中で指を合わせながら、再び唇が求め合い、
身体がせめぎ合う。胸の先から足の先までが擦れ、全身が別の世界
にさまよっているようだった。
「スミ、……佳澄、いっぱい、イコ」
 唇を離したみのりが、激しい息の間で言葉を紡ぐ。
「うん、うん。のりちゃん、いいよ」
 はあ、はあ、はあ、間欠的になる呼吸と共に、みのりの中の指を
絡ませて、自分の中の指を激しく動かして、みのりの指先が内側の
手前の部分を押しなぞり、そして、どの指かわからないものが、顔
を露わにさせた包み込みを更にめくり上げ、根元から先端までを激
しく弄った時。
 お腹の奥から弾けた波動が、胸を通って喉へと届き、長く細い喘
ぎになって部屋を満たした。そして、みのりの口からも、痛みに近
いほどのとぎれとぎれの叫び。
 時間は止まり、呼吸が聞こえなくなるまでの長い間、そのまま二
人は身体を重ね合っていた。
 そして、肘を付いたみのりと、静かに澄んだ唇の触れ合いをした
後、佳澄は急に兆してきた恥ずかしさに毛布を手繰り寄せた。
「ちょっと、激しかったかな。今日は」
「……もう、のりちゃん」
 まだ、お腹のあたりにじんわりとした痺れを感じていた。
 同じ毛布にもぐり込んできたみのりの体温を横に、身体の奥で感
じられた何度目かの瞬間を反芻しながら、佳澄は穏やかに広がって
いくような安らぎに身を任せていた。
「年末は、ゆっくりできると思うから」
 静かに息をして少し煤けた天井を見あげる様子。
 視線の先、想いの行方――寄り添うみのりは、ずっと無言で見つ
め続けていた。
 そして、外の風の音が耳に届き始めた。ミディアムレイヤーの髪
の下で、面長の顔が「うん」と小さくうなずくと、毛布を飛ばし上
げて、勢いよく立ち上がる。
「……どしたの、スミ」
 白い裸の背中を見せたまま、テーブルの前で緩みのない肢体が大
きく伸びをした。
「やっぱり、私、あの時の私なんかじゃない。ね、変わったよね、
私」
 半身を起こしたみのりは、肩にかかった髪を手で纏め上げた後、
口の端を大きく持ち上げて笑った。
 佳澄の見つめる想いの先が、痛いほどわかる気がした。
 うん、そうだよ。スミはもう、昔のスミじゃない。
「何言ってるんだか。スミはもう、私のものでしょ」
「うん」
 みのりは、硬さを解いた愛しい人の表情を見つめながら、自分も
裸のままで立ち上がった。
「お茶でも入れようか。ケーキの残骸もまだあるしさ」
「うん、そうだね」
「ほら、スミ。下着。風邪引くよ」
「のりちゃんこそ。それとも、もう少し、する?」
 へへへ、と笑った表情に、みのりは形のいい佳澄のお尻をペンと
叩いた。
「私は、お腹一杯。してなら、あげるけどね」
「じゃ、明後日に予約。だって今日、何だか、すごく……」
「気持ち良かった? エロだなぁ、スミも」
 脱ぎ捨ててあった寝間着代わりのスウェットを履きながらうなず
く佳澄に、からかい混じりの言葉を投げた時、食器棚の上から可愛
らしいメロディが響いた。
 お城に月と星があしらわれた、からくり付きのアンティーク時計。
城の窓から銀製のお姫さまが顔を出すと、星がふわふわと揺れる。
 針は、十二時を指したところだった。

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