第四章 絆の向こう

 風の音さえ聞こえない、穏やかな朝だった。
 狭い台所に立ったみのりは、錆びついたコンロに使い古しの鍋を
かけながら、モスグリーンのシャツを着た肉付きのいい身体を、右
へ左へと忙しく動かしていた。
 きれいに切り分けた白菜を鍋に放り込むと、少し焦げ目のついた
餅を鉄板から取り上げて、料理台の上に並べた椀の中に置く。
「おい、みのり、まだか」
 木張りの細い廊下を抜けて、低い声が響いた。
「もうちょい待って。すぐ出来るから」
 ほんの少しだけ酒をたらし、とっておきの醤油を入れてひと煮立
ちさせる。
「よし、っと。スミぃ、ちょっといい?」
 身体を反らせ、廊下へ顔を出して呼びかけると、床を軋ませる小
走りな足音がすぐに近づいてきた。
「あ、美味しそう〜」
 横に並んで覗き込んだ細身の姿を横目に見ると、みのりは隅に置
かれた小さな台の上を指差した。
「そこのタッパーに、カツオ節が入ってるから」
「これ?」
 白いセーターの胸元に青い蓋の付いた四角いタッパーを示す佳澄
に頷くと、くるりと背中がこちらに向いて、椀の中にパッパとカツ
オ節を散らす。
「これくらいで、いい? うわ、ほんとに美味しそう」
「だろ。お雑煮はシンプルが肝要だからね。で、これ、頼むね」
 手元にあったお重を佳澄に渡すと、自分はでき上がった雑煮をお
盆に乗せて、二人縦に並んで居間に入った。
 暖かな、でも狭いその部屋は、煤けた畳、真ん中に置かれた小さ
なテーブル、古びたタンスに時代物のTVまで、昔から少しも変わ
らない。ただ違っているのは、まだ一歳になったばかりの小さな家
族も含めて、五人が賑やかにひしめき合っているということだった。
「遅いぞ、みのり」
 タンスを背にあぐらをかいた灰色のシャツ姿が、一言だけを短く
発した。
「遅いって、まだ八時にもなってないじゃん。お正月なんだから…
…」
「口答えするな。初め良ければ、すべて良しだ」
 そう言う問題じゃないだろ……、口を開きかけたみのりは、小さ
くため息をついて、淡い湯気を立てる椀をそれぞれの前に置いた。
 思わず、唇を少し歪めてひとり言気味に呟いてしまう。
「……まったく、食べる方が気が楽だよなあ」
「何? 言いたいことがあるならはっきり言え。正月に料理を出す
のは、当たり前のことだろう」
 膝に腕を乗せ、少し丸くなっていた背が伸びると、太い眉根が寄
せられた。
「まあ、お父さん……」
 反対側で正座していた佳澄が口を開こうとした時、横から別の声
がため息混じりで間に入った。
「まったく、やめろよ、正月一日早々。変わらんなあ、親父も、み
のりも」
 顔の稜線はみのりに似た丸顔の中で、細い目と太い眉が呆れた調
子で突っ張った。細身だが背の高いその姿の隣には、大きな自動車
の絵がプリントされた幼児服を着た小さな姿が、掴まり立ちをして
いる。
「うまそうじゃないか、雑煮。学校で習ったのか、みのり」
 みのりは父の方に向けかけていた視線を正面に戻すと、半年振り
の兄の顔に軽く頷いた。
「習った、ってほどじゃないけどね。これくらいのこと」
 と、間髪入れずに低い声が重なる。
「当たり前だ。雑煮なんか、改めて習うもんじゃない」
 まったく。いつものこととは言え、正月からこれはないんじゃな
いか。せっかく家族が顔を揃えてるってのに。
 開け掛けていた重の蓋を手で押さえると、みのりは鼻から息を吐
き出した。
「オヤジ、私にケンカ売ってるわけ? 文句言うなら、おせちはな
しにするからな」
「まあまあ、のりちゃんもお父さんも。お雑煮、冷めちゃうよ。ね、
あっくんも、食べたいよね」
「佳澄は、黙ってろ」
 強められた声が響くと、佳澄の表情が一瞬固まって、やれやれと
いう感じになる。
「いいよ、佳澄ちゃん、やらしときな。もう、何十年も前からこう
なんだから、この二人は」
「へらへらしてるな、敦。お前もだ」
 短めのシャツから、冬らしくもなく突き出た赤褐色の腕が組み合
わされるのを見ると、みのりの兄も頬っぺたを小さく膨らませて居
ずまいを正した。
 顎がしゃくられると、正面にあるTVを示す。意図を察した佳澄
が、リモコンに手を伸ばして背後の画面のスイッチを切った。すか
さず寄ってきた歩夢に、身体を屈め指を口の前に立てて「しー」を
する。
「いいか、敦、みのり、佳澄」
 穏やかな正月の朝とは裏腹な、固く引き締まった声だった。
「俺が考えるに、今年は特別な年だ」
 みのりの父は、淡々と話し始めた。みのりの兄の離婚に始まって、
歩夢を引き取り、みのりと佳澄の独立に至るまで、振幅の大きかっ
た去年一年間を振り返りながら。
 中腰になって渋い顔を向けていたみのりも、父の話が続くうちに、
視線を落とし、正座に座り直していた。
 みのり自身にとっても、年の始めに思うところがないわけではな
かった。
「……この一年を間違いなく乗り切れば、後はうまく運ぶような気
がする。だからな、」
 三人を順繰りに見渡すと、一度結び合わされた唇が、顎に固い稜
線を浮かべながら言葉を結んだ。
「初めを大事にするって事だ。わかるか、三人とも」
「……わかった、おやじ」
「はい、と言え」
 一瞬佳澄と目を合わせると、こちらへ軽くうんうんと頷きながら、
膝に抱いたあっくんの手を柔らかくにぎにぎとしている。
「――はい」
「敦は」
「はいはい」
「一回でいい」
「はい」
「佳澄」
「はい、お父さん」
 まったく、相変わらずだよ、ガンコ親父。
 みのりが心の中でため息混じりの首肯をした時、明るい声が左手
から響いた。
「さ、食べよう。のりちゃんの力作。全部手作りのおせちとお雑煮
なんて、いまどき、どこでも食べられないよ」
「って、スミも手伝ったろ」
「ちょっと、ね」
 屈託のない笑顔を見遣ると、みのりは黒に金が散らされた重の蓋
を上げた。
 黒豆、栗金団、伊達巻、焼豚、ブリの煮しめ、田作り、ねじり蒲
鉾……。そして、二の重には、筍とごぼう、人参と鶏肉に照りが鮮
やかな煮物。
「……お、すげぇ。ほんとに全部作ったんか、これ」
「なめるな、兄貴。だてに毎晩、実習で油まみれになってるわけじ
ゃないんだから」
「だよね。夜お布団入る時、のりちゃんの髪にお料理の匂い、残っ
てる時あるものね……あ、へへ、ゴメン」
 佳澄が唇を軽く窄めて視線を下に逸らすと、正面では、無言で筍
に箸を伸ばした彫りの深い眼窩で、うわべの険しさと裏腹の穏やか
な光が色を得ている。
「お、あっくんは、こっちな」
 長く下ろされた髪の下、様子を見ていたみのりの顔の中で明るさ
が満面になると、小さいお重が差し出された。
 子供の手のひらほどのお重を開けると、よく煮詰められたお芋と、
ソースのかかった切り刻まれたスパゲッティ、すり潰された白身の
魚……。
「お、すごいね〜、あっくん。特製だ」
「スパティ、スパッティ!」
 えくぼのできた指先がお重の中を指差す。
 後は、楽しげな家族の会話が、菜香町屋の家中に響き続けていた。

 元日の駅東商店街は、正月飾りがそれぞれの店先に飾られて並ぶ
ばかりで、ほとんどの店がシャッターを下ろしていた。駅から下り
たみのりと佳澄は、この時期にしては穏やかな昼の陽を浴びながら、
手を繋ぎ、古い街路をゆっくりと歩いていた。
 お揃いのベージュのスーツコートに、淡いえんじのマフラー、そ
して、佳澄は膝下丈の少しタイトなスカートにロングのソックス、
みのりは柔らかなラインを描くパンツをはいて。
 ただ、みのりの瞳はほとんど景色を映していなかった。電車に乗
っている間に巡り来た思いが、そのまま心の中にあった。
「うまくやってるか。何か困ったことがあれば、隠すなよ」
 あっくんのオムツ替えで、佳澄と兄が奥の部屋に行った時、父が
素っ気ない調子で、でも間髪入れずに発した言葉。
「……ああ、だいじょぶ。街の人も、みんないい人ばっかりだしさ」
 うまく行っている、そうは思う。少なくとも、オヤジの心配する
ようなことは何もない。生活はぎりぎりだけど、スミもあっくんも
至極元気だし、毎日が充実している。スミの両親のことも、長い時
間をかければきっと、いい風にいくに違いない。
 でも――。
 みのりは、繋いだ佳澄の手に自然と力を込めていた。
 専門学校で出会う、年齢から性別、職業まで、それぞれ異なる立
場で勉強に励む同級生。暮らし始めたこの街で知り合いになった、
たくさんの優しい人々。そして、あっくんに添う中で話を交わす、
自分と同世代のお母さん達。
 いろいろな生き方を知り、幸せから陰鬱な想いまで、千差万別な
色合いの話を聞くたびに、少しずつ「何か」が心の中で形を取って
いくような気がしていた。
 私達の――、スミと私の行く道って……。
 おぼろげだった。手を伸ばしてつかみ取ろうとしても、指を開い
た瞬間に、珠は霞みのように消えてしまう。
 そして、お互いの勉強の行く末と、菜香町屋の改装。
 心の定まる場所と、形のある未来図が、どうやって重なるのだろ
う。
「……のりちゃん」
 少し抑え目に聞こえる声が肩口から響くと、みのりはぼんやりと
映していた霞みかかる冬の空から視線を戻した。
「あ、ごめんな、スミ」
「またなんか考え事してた? 電車乗ってる時から、ボーッとして
る」
「あ、まあね。ほら、今までろくに考えてこなかっただろ、だから、
バカなりにいろいろね」
「またぁ」
 秀でた額に柔らかくかかったミディアムレイヤーの髪の下、屈託
のない笑みの端に、少しだけ寂しげな陰が浮かんだように感じられ
た。
「私、のりちゃんくらい考えてる人、知らないよ。いつもずっと、
誰より深いところまで考えてる」
 みのりは一度長く目を閉じた――ごめん、スミ。
 そうだよな、答えはいつかきっと出る。焦ったってだめだ。
 握られていた手が離されると、軽い口笛が佳澄の唇から漏れた。
「うわ、ほら。結構人が入ってくじゃない」
 指差した先、大通りの脇でこんもりと葉を茂らせた木々の間に、
東西から歩いてきた人達が吸い込まれていく。緑の葉の陰には、鳥
居らしき朱色が垣間見えていた。
「お、ホントだ。マツダ屋のおばちゃん、嘘ばっかだよ。閑散とし
てる、なんて」
 ちらほらと着物姿の参拝客まで見えた。そして、三階建てはあろ
うかという高さで聳える鳥居のたもとまで来てみると、まっすぐ伸
びた広い石畳の参道を、それなりの数の人々が本道を目指して歩み
進んでいる。
「私ね、ほとんど初詣って行ったことないんだ」
「へぇ。そっか」
「あ、もう。……ほら」
 こちらを向いて後ろ歩きになった佳澄が、頬を軽く膨らませて上
目遣いにこちらを見た。
「な、何?」
「おんなじこと、電車の中で言ったのに。やっぱり、聞いてなかっ
たんだ」
「あ……、そうだった?」
「そうだよ、まったく〜。やっぱり完全に上の空だったんだ。じゃ、
真澄さんからの話も、カラ返事?」
「あ…、ええと……」
 後ろ手に身体を軽く揺すりながら返事を待つ佳澄。
 確か……。
『サークル誌のインタビューのゲスト、のりちゃんに頼めるかって』
「あ、うん、それはホントにオッケーだよ。私なんかでよければね」
 小さな唇が思いっきりの大きな笑みを浮かべて、うんうんと頷い
た。
「一応、聞こえてたんだね。じゃあ、ゆ・る・す」
 ちょっと押さえた感じで、面白そうにゆっくりと言葉を発した様
子に、こいつ、と思う。でもそれは同時に、懐かしいような甘い余
韻を胸の中に残して、みのりは自然に口の端から笑いが零れるのを
止めることができなかった。
「スミぃ。このいじめっ子」
「そ〜う? せっかくのデートなのに、ずうっと考え事の方がヒド
イと思うけど。私は」
「デートって……、アパートの片付けついでに寄っただけだろ」
「いいの。わたしがそう決めたんだから」
 薄化粧の白い頬にほんのりさした赤みと、上目遣いになった切れ
長の瞳、面白そうに歪められた唇。胸の奥が柔らかく突かれて背中
に切ないような感覚がのぼる。
 スミ……、もう。
 こっちにおいで、と視線を送ろうとしたその時。
「と、スミ!」
「痛い!」
 ずっと後ろ向きだったかかとが、急に一段上がりになった石畳に
引っ掛かって、佳澄は絵に描いたようなしりもちをついていた。
 両手がべったりと広がると、ベージュのコートの下で白いセータ
ーが露わになり、大きく開いた足は太腿まで見えて、どうにも情け
ない限りの姿に。
「も、もう!」
 遠くからクスクス笑いが聞こえる。
「だいじょぶ、スミ?」
 手を差し延べると、お尻を払いながら立ち上がった佳澄は、段差
になった石畳を睨みつけて、
「この、偏屈!」
と、茶色のローヒールで段差をバシバシと踏みつける。
「こら、スミ」
 みのりは佳澄の見事な引っくり返り方を反芻しながら言うと、肘
を張って佳澄の横に立った。
「そりゃ、八つ当たりだって。はい」
 社へと段々に上がり始めた石畳を恨めしそうに見上げると、佳澄
はため息をついた。
「……のりちゃん、笑ったでしょ。ひどいなぁ」
「ないない。だから、ホラ」
「ゼッタイ、笑った。心の中で」
「はいはい。……ホラ」
 張った肘をさらに突き出すと、不承不承に絡められた腕は、間も
なくぴったりと寄り添う形に置き換わっていた。
 ベージュのコートと薄紫のマフラーがお揃いの二人組みが、ゆっ
くりと石段を上っていく。そして、屋根が羽根を広げる大きな社の
たもとまでくると、肩を触れ合わせたまま静かに手を合わせた。
 長い黒髪を後ろで結った丸顔と、ミディアムに少しレイヤーのか
かった面長の顔と。
 目を閉じて思いを天に陳べる表情は、どちらも真摯で紛れのない
色を浮かべている。
 そして、ふたたび顔を上げた時、二人は目を合わせて、無言のま
ま腕を絡めた。
 どんな願いと祈りを捧げたか、互いに聞くまでもなかった。なぜ
なら、どんなものであっても、未来の幸せにつながる言葉であるこ
とに間違いはなかったから――。
 そしてみのりの肩口に顔を寄せた佳澄は、冬のくすんだ色の枝々
と、緑残す常緑樹の間の空を映しながら、絡めた腕に力を込めた。
 身体中が暖かくて、何ひとつ言うことがなかった。
 ――こんな一年の始まりなら、何度だって迎えたい。
 みのりの息を聞きながら目を閉じると、想いを遥かに散らしてい
く。
 みのりが考え、追っている、深くて遠いこと。
 でも、今の私は、のりちゃんの側で、ゆっくり待っていよう。そ
して、未来のために少しでも前に進もう。だって、こんなに幸せだ
から。きっと、何もかもうまくいく。
「あれ……」
 ぼんやりした頭に、みのりの声が届き、足が止まった。
「どうしたの」
 目を開けてみのりの視線の先に顔を向けると、どこか見覚えのあ
る姿が、石畳の脇で小さくしゃがみ込んでいた。
「あれ……」
 何だか見覚えのある子――玉砂利をかき集めて山を作っている赤
い幼児服の背中と高く結った両お下げの頭を見つめた時、みのりが
言った。
「ユイちゃんだよ。どうしたんだろ、一人で」
 ユイちゃん、ユイちゃん……。佳澄はすぐに思い当たっていた。
篠崎さんの娘さんの、結香ちゃんだ。
 クリスマスの朝以来何度か公園で顔を合わせた、綺麗だけれど、
何処か寂しげな感じのあるお母さん。そして、いつも陽気で快活な
娘さん。
「篠崎さんの? ほんとだ。一人だね」
「ユイちゃん、ママは……」
 みのりが声をかけようとした時、背後からよく通る声が響いてき
た。
「ユイ。ゴメンね」
 腕を組んだまま振り返ると、茶色のコートを着た長身の女性が、
小走りにこちらへやってくるところだった。
 玉砂利の山を作っていた小さな顔が振り向いて、にんまりと笑い
を作る。そのおでこの真ん中には、特大の伴創膏が張られている。
 うわ、カワイイ――佳澄が思った時、ユイちゃんの方だけを見つ
め近づいてきた表情が、こちらの存在に気づいて、少し引き締まっ
た感じになった。
 二、三歩先で小さく会釈をすると、ちょこちょこと歩いてコート
の裾に取り付いた娘にしゃがみ込み、眦の切れた瞳ですうっとこち
らを見上げた。
「おめでとうございます。お二人お揃いで、初詣ですか?」
「おめでとうございます。うん、もう、商店街の人からここがいい
って聞いて」
 明るい調子で応えるみのりに寄り添ったまま、佳澄も「おめでと
うございます」と小さく頭を下げた。
「お、ユイちゃん。おケガしたのか?」
 身体を屈めておでこの伴創膏を指差すと、「ん?」という感じで
お母さん似の細身の顔を真っ直ぐこちらに向ける。
「大丈夫?」
 横から佳澄も顎を突き出すと、黒目がちな瞳に光が射して、にっ
こりと微笑んだ。
「うん。たかったよ。タイタイ。ボン、って」
「そうかあ、痛かったか」
 みのりが結香ちゃんの両お下げの頭を撫でた時、
「もう、年末早々、階段で引っくり返っちゃって。ね、ユイ」
 今日も丁寧に粧われた陰影に富んだ顔立ちが斜め下を向いて、娘
の肩に手をかけた。
「……みのりさん達、歩夢くんは? ご一緒じゃないんですか?」
 言葉の丁寧さとはどこか違和感のある、真っ直ぐだけれど色合い
の薄い瞳の色。佳澄は、かすかに背中を過ぎるきまり悪いような感
覚に、軽く目を伏せた。
「あ、親父達にあずかってもらってるから。散らかし王子がいない
間に、ちょっと片付けでも、ってところかな」
「お父さんに? そう……。それで、お二人で?」
 少し不可解な様子の声が返ると、みのりが軽く笑いながら、
「鬼の居ぬ間のってとこだったりして。あ、あいつに悪いかあ。…
…篠崎さんは、ユイちゃんと初詣ですか?」
「うん、まあ……。お正月だからって、子供は待ったなしでしょう。
出たがりだし。みのりさんも知ってるみたいに」
「それは、あっくんも同じ。悪いな〜、ユイちゃん。今日はあっく
ん、お留守なんだ」
「あーくん、いないの?」
「うん、そうなの。ユイちゃん」
 佳澄が舌足らずな声に頷くと、肩に置かれた手が軽く促された。
「……じゃ、そろそろお家帰ろ、ユイ。パパ、待ってるよ」
 その言葉が発された瞬間、無心に輝いていた表情が一気に強ばる
のがはっきりとわかった。
「ヤダ! お外、まだあ」
 境内全部に響き渡らんばかりの甲高い調子の声だった。
「ユイ! もう、ダメ。ちゃりんちゃりんしたらお家帰るって約束
でしょ」
「ヤダ! まだ、お外!」
 取られた手を引っ張ると、小さな身体で後ろに全体重をかけてそ
っくり返る。
「ユイ、ほら……」
 柔らかい髪の下の整った顔が、悲しげに顰めれる。その表情を目
にした瞬間、佳澄はどこか胸の奥を押されるような感覚を憶えてい
た。
 普通のダダこねとは、少し違う……たぶん。
 二人の前で親子の綱引きが続き、「ほら、お姉ちゃんたちもバカ
だなぁって思ってるよ」、その言葉が出た瞬間、隣で風が起こって、
すっと小さな身体に手をかけた。
「ユイちゃん、何かおいしいもの、食べに行こうか」
 しゃがみ込んだ大きな背中の前、目と口がくっつかんばかりに歪
められていた表情が、パッと解けて、輝いた。そして、ベージュの
コートの腕が、赤い幼児服を抱き上げる。
「み、みのりさん……」
 みのりと同じぐらいの高さで、綺麗に描かれた眉が寄せられ、申
し訳のしようがない、と言う様子で視線が泳いだ。
「何にする、ユイちゃん。ホットケーキにしようか。お姉ちゃんの
家の近くに、美味しいケーキあるぞ」
「ケーキ? 食べる。食べる」
「みのりさん、でも……」
「いいの、いいの。篠崎さんも、時間あるでしょ。たまにはお茶で
も飲もう。マスターも正月から営業してるって言ってたし」
 そして、背の高いロングコート姿が境内の片隅で携帯を回してい
る間、みのりが低い声で耳打ちをした。
「ごめん、スミ」
 佳澄は小さく首を振った。
「いいよ、のりちゃん。ユイちゃん、嬉しそうだもの」
「うん……」
 そして、さらに声を潜めて、
「いろいろあるみたいなんだ、篠崎さんの家も。はっきりとは聞い
てないけど。ユイちゃんのケガも…、初めてじゃない……」
 そこまで聞いた時、玉砂利の音と共にスラリとしたコート姿が戻
り、みのりは言葉を止めた。
 ケガ、篠崎さんの表情、結香ちゃんの強ばった顔……。
 重苦しい、いや、どちらと言えば切なくどこかで憶えのあるよう
な感覚が胸で混じり合って、佳澄はみのりの肩口から顔を出した結
香ちゃんににっこりと笑いかけた。
 指を突き出すと、両お下げの下の顔が面白そうに笑って、同じよ
うに指を合わせてくる。
「ごめんなさい、佳澄さん。お正月早々なのに……」
「あ、全然いいです。ウチは何でものりちゃんにお任せ、だから。
私は後ろにくっついてるだけです」
「こら、スミ」
 結香ちゃんを抱いたまま少しだけ首を後ろに反らせると、みのり
は大声で言った。
「それじゃ、私が亭主関白みたいじゃないか。黙ってオレに付いて
こいって?」
「だって、そうでしょ。今日の朝だって、お父さんと面と向かって
やりあえるのなんて、のりちゃんしかいないよ。ってことは、同類
ってこと」
「冗談。何であんな頑固一徹と一緒にされなきゃならんの。時代錯
誤なんだって、あのレトロオヤジ」
「そうかなぁ……。ずっと見てる私が思うんだから、確かだと思う
よ」
 クスクスと笑い合う二人に、結香ちゃんの母親が不思議そうな視
線を向ける。
 ご姉妹なの――控え目に問いかけた言葉に、佳澄とみのりは同時
に首を振った。
「とにかく、美味しいケーキ食べにいこう。ね、ユイちゃん」
 元気良く歩くみのりを先頭に、三人と一人は静かな佇まいを見せ
る古い商店街の入口へと戻ってきた。
 相変わらず空は、真冬らしからぬ穏やかな陽の光で満たされてい
た。

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