第五章 見えない檻(前編)

 仲町へ向かう準急の車内は、正月の夜のせいか人の姿もまばらだ
った。
 横に長く伸びた座席の左右を見渡しても、向こうのドアの近くに
ハーフコートやジャンパー姿の若い男数人が笑いながら冗談を飛ば
し合っているくらいで、あとは距離を取ってぽつぽつと乗客が腰掛
けているばかりだ。
 佳澄は膝の上に置いたベージュのコートを持ち上げて畳み直すと、
白いセーターの肩を、浅葱色のモヘア風でふっくらとしたみのりの
上腕に寄せた。
「お父さん達、疲れ果ててるんじゃないかなぁ」
「う〜ん」
 吊り広告をぼんやりと眺めたまま、みのりはあいづちともつかな
い声を返した。
「片付け、もう少し早く切り上げればよかったかもね」
「気にしなくいいって、スミ。ほんと、少しは苦労してもらわなき
ゃね。子育てを甘く見すぎなんだからさ、親父も、兄貴も」
 ぽったりとした唇を寄せて僅かに険しい表情を作る丸顔を見上げ
ると、佳澄は軽く鼻で笑った。
 長い髪を結ったうなじに指先を差し込むと、くるくると巻きつけ
る。
「もう、のりちゃんて、お父さんやお兄さんのことになると、遠慮
ないよね。ホント」
「こら、スミ。やめなって。解ける」
「大丈夫だって……あ」
 髪留めで押さえてあった短めのひと房が解けて、セーターの首筋
に落ちた。
「ほら、やっぱり」
「ご、ごめーん」
 慌てて指を引っ込めると、下がり気味の眉をさらにハの字にして、
みのりははあっと息を吐いた。
「いいけど。どうせもうすぐ仲町に着くしね」
 言うと、首筋に手を当てて解けたひと房を撫でつける。
 少し気恥ずかしくなって舌先を軽く噛みながら俯くと、佳澄は座
席に深く腰掛け直した。改めて腰の下からじんわり噴き出す暖かい
空気を感じながら、窓の外で流れていく夜の景色に目を向ける。
 だんだんと光が増えていく。静かな周縁の市部を過ぎて、かなり
街の方へ近づいてきているのがわかった。
「ユイちゃん、お家に帰ったかなぁ」
 なんとなく口にすると、
「うん、たぶん」
と、即座に声が返ってきた。みのりも同じことを思い浮べていたこ
とがわかって、やっぱり、と思う。
「あんなに可愛いのに……、どっかうまくいってないんだよね。篠
崎さんの家」
「うん……。軽々しくは言いたくないけれど。実際に、何を聞いた
わけじゃないから。でも、ね…」
 喫茶店『シルフィード』でコーヒーを飲みながら話した篠崎さん
の表情と言葉の調子は、新年の晴れがましさからほど遠いものだっ
た。
 何か具体的な家庭の状態が話題に上ったわけではなかった。
 でも、しきりに時間を気にする様子や、時々結香ちゃんに向ける
どこか湿ったような視線が、重く胸の内に残っていた。
 どうしてかはわからない。
 整えられた長い髪、落ち着いた色合いに化粧された面長の顔に、
切れ長の瞳。自分達より四、五才は年上なのだろうか、丁寧な言葉
遣いや、言葉を選んで話す様子からも、非の打ち所がない「奥さん」
に見えるはずだった。
「お父さんとお兄さんにお子さんを預けられるなんて、家族仲が良
くて、いいですね」
 でも、にっこり笑った表情を目にした時、胸の奥が締め付けられ
るような気がしていた。この人を知っているような、どこかで会っ
たような……。
 主にみのりがずっと喋っていて、佳澄はユイちゃんの相手をして
いた。
 あっくんより一つ年上の女の子は、小さな袋に折り紙をたくさん
持っていて、一つ折ってあげると、「もっと、もっと」とねだって
きた。
 公園で行き合う時は結構活発なのに、やっぱり女の子は違うなぁ、
などと思いながら、変わり鶴から虫箱まで、木目がきれいなテーブ
ルの端っこに並べていると、となりに座ったみのりが話し続けてい
た口を止めて、へぇ〜っと目を見開いて見せた。
「すごいじゃん、スミ。なにこれ? こんなのできるんだ」
「うわ、見事ですね。私も、あんまりいろいろ作ってあげられない
から」
 折り始めるまで、すっかり忘れていた。でも、千代紙を三角に二
つ折りにした瞬間から、一気に思い出して……。
 小さい時、一人で本を見ながら折り紙を折っていたことがあった。
あまり昔のことで、すっかり忘れていたけれど。
 その時、胸の奥にまた何かがよぎった気がした。
 懐かしいような、痛いような……、確かに憶えのある感覚。
「もっと、ね、ムシさんも」
「あ、うん。いいよ、ユイちゃん」
 ソファーに立って、テーブルの上に乗り出した両お下げのまん丸
顔に頷くと、ほのかに兆したものは、淡く散っていく。
「……すごいなあ、ユイちゃん。お姉ちゃんも知らなかったよ、ス
ミ姉ちゃんがこんなのできるなんて。な、スミ。まったく、あっく
んにもやってあげればいいのに」
 横から肩を小突かれると、手が揺れて作りかけていたクワガタの
ハサミの部分が少し曲がってしまった。
「あ、もう! のりちゃん、ここが難しいんだから。……私も、今
まですっかり忘れてたの。ホント時々体育会系なんだから、のりち
ゃんは」
「あ、ゴメゴメ。でも、見事なもんだなぁ……。これなら、絶対縫
い物とか、うまく出来るんじゃないかな、私より」
「ううん、ダメ。あれは、つまらないから……、ほら、できた。ユ
イちゃん」
「おお。これなんだ、ユイちゃん」
 横にみのりの顔が寄せられると、二人で結香ちゃんの小さな顔を
覗き込む。
「ええと……く、クアガタ?」
「ピンポ〜ン、頭いいなぁ、ユイちゃん」
 みのりが両お下げの頭を撫でると、黒目がちな瞳が輝き、得意満
面の笑みになる。
 みのりも口元を緩め眦を下げて、とても嬉しそうだった。
 ほんと、こういう時ののりちゃんって、一番お似合いって感じが
する――心の中で言葉を作った時、斜め前から様子を見つめていた
切れ長の瞳が少し曇って、すんなり通った細い眉が寄せられた。
「あの……、ね、みのりさん」
「あ、はい。なんです?」
 結香ちゃんのお母さんは、怪訝な、でも少し戸惑ったような様子
で、顔を上げたみのりを見ていた。
「失礼でなければ、なんですけど……うかがってもいいですか?」
「え、……あ、構わないですよ」
 その後発された言葉は、危ぶみかけていた通りのものだった。
「ご姉妹、じゃないんですよね、みのりさんと佳澄さん。お友達…
…? でも、歩夢くんもいらっしゃるし……。すいません、とても
失礼なこと、うかがっている気がするんですけれど……、おふたり、
どういうご関係なんでしょう?」
 控えめな言葉とは裏腹に、強い興味を持って発された問いに感じ
られた。
 こちらに向けられたみのりの顔の中で、丸い瞳が真っ直ぐに、肉
厚な唇が一に結ばれ、無言の同意を求める。何を言いたいかはすぐ
にわかる。佳澄は目だけで頷いた。
 そして――。
 電車を降り、改札を抜けた夜のアーケード街は、入り口に大きな
門松が二つ並んでいるだけで、ほとんどの店が正月休みでシャッタ
ーを下ろしていた。
「よかったのかな、のりちゃん。篠崎さん、結構びっくりしていた
みたいだったけど。すいません、言葉見つからなくって、なんて言
ってたし」
「大丈夫。それに、聞かれたら答えないわけにいかないよ。無理に
隠したりしない、ずっと前からの約束じゃない、スミと私の」
「うん……。そうだよね」
 お金を払う時に、ちらっとこちらを見たウェイトレスさんの視線
が妙に心に残っていた。ああいう見られ方、初めてではないけれど
……、ううん、やめよう。高校でも、この仲町でも、うまくやって
きたじゃない。
 アーケードの天蓋から、穏やかな琴の音が流れてきた。行き交う
人は少ないけれど、仲町らしいお正月かもしれない。
「静かだよね、いっつもこんな感じだったっけ」
 ベージュのタイルを踏むローヒールの足先に視線を落としながら
肩を並べると、
「うん、こんなもんだよ、毎年。三が日は休む店が多いもの。時代
遅れって言えば、そうなのかもしれないけどね」
 静謐に声を響かせ、街の様子に目をやりながら軽く肘を張ったみ
のりのコートの腕に、佳澄は自然に腕を絡めた。
「寒くなってきたね」
 そうだなぁ、頷く横顔を見上げながら、二人でふぅと息を吐くと、
アーケード街の出口に広がる夜空に、白さが散っていく。
 いつかは戻ってくる町。私たちがずっと暮らしていくことになる
場所。
 そのために、頑張らなきゃ。
 昼に初詣に参った時のことが思い浮かぶと、もう一度胸の奥に痛
いような、力が入るような、でも間違いなく熱い何かを感じた。
「ね、のりちゃん」
「ん?」
「頑張ろうねぇ、今年も」
「もっちろん」
 みのりが空いた片手を夜空に伸ばして茶目っ気交じりに笑顔を作
った時、低くなった街並みの中、黄色い光を窓ににじませた古い家
が見えてきた。
 閉められた店先を通り過ぎて裏に回ると、光の漏れる木戸を開け
て、みのりの後に続いて軒をくぐる。
「ただいま〜」
「帰りました」
 二人並べば目一杯の裏口で靴を脱ぎながら薄暗い台所へ上がると、
板張りの床が軽く軋む。
「寒いね」
 確かめるように呟いた時、ベージュのコートを脱ぎかけたみのり
の背中が突然動きを止めた。
 ……わかってねぇのは、オヤジだろ!
 怒気をはらんだ太い声が、耳に届いた。
 佳澄は、立ち止まったみのりの背中に近づくと、息をひそめて廊
下の向こうを覗き込んだ。
 ――お兄さんの、声だよね。
 それが、親に対する口の利き方か。
 太く、抑えられた、でも重い感情の篭った声が返る。間違いなく、
父親のものだった。
「そういうこと、言ってるじゃないんだよ。俺だって、好きで任し
てるわけじゃない」
「好き嫌いの問題じゃないってんだ。責任の取り方って奴があるだ
ろう」
「だからさ…」
 喉からそのまま吐き出されたような声は、押し潰されて滞った。
「だからさ、そんなことはわかってるんだよ」
 わかってる、その言葉が聞こえた瞬間、響き渡る声が全てを圧し
て、佳澄は肩をすぼめてみのりに寄り添っていた。
「何がわかってんだ。てめえの子だろうが。みのりと佳澄に任せて、
それでよし、か? 金を入れればそれで責任か。ただでさえ若い、
女だけの子育てだぞ。このままで歩夢のためにも、いいと思うのか。
お前はそれを、あの子の前で申し開きできるってのか」
「……俺だって」
 頭の上で、大きく息を吐く音が響いた。みのりはするりとコート
を脱ぎ捨てると、廊下へと踏み出した。
「俺だって、一緒にいたくないわけじゃない。でも、しょうがない
じゃないか、オヤジ。あの馬鹿女を選んじまったのも、俺だよ。情
けないとは思ってるさ……」
 頭と身体が痺れて、みのりの背中を追うことしかできなかった。
廊下を軋ませる音に、すっと開けられる居間のふすま。小さな四角
いテーブルの両側からは、襟なしシャツのがっしりした身体と、背
の高い細身のセーター姿が、目を大きく見開いてこちらを見上げて
いた。
「ただいま。遅くなってゴメン」
 平板な声が響くと、言葉をなくして反射的に視線を落とした父子
の間に浅葱色の背中がかがみこんだ。そして、テーブルの上に並ん
だビール瓶とぐい飲みに手をかけて、
「あっくんは? 寝てる?」
「あ、ああ。ちょっと前にな」
 かろうじて父が答えると、畳の上に放ってあったお盆の上に、ぽ
んぽんと空の酒瓶を乗せる。
「二人とも、打ち止め。飲み過ぎだよ」
 そして、さっと立ち上がる。
 その時、みのりの頬に浮かんだ硬い稜線と厳しい瞳の色は、佳澄
がこれまで目にした記憶のないものだった。
「みのり」
 父の言葉に背中を向けて、肩先を通り過ぎた風と共に、耳元にか
すかなつぶやきが残った。
「…うん、わかってる」
 見下ろすと、口の端を下げて眉を寄せた曇った表情を浮かべた父
が、口の中でつぅ、と小さな音を鳴らす。
 どうしたらいいのか、足の裏が廊下の板張りに張り付いてしまっ
たように、寸分も動くことができなくなっていた。
 よくぶつかり合うことはあるけれど、それとはまったく違う、収
めようのない空気。視線を泳がせると、みのりの兄の細い目が、顰
められ、上目遣いにこちらを見ていた。
「……ごめん、佳澄ちゃん」
 佳澄は首を振った。
 ギシ、と背中で廊下が軋む。みのりが奥の部屋に入っていく音だ
った。
「あっくん、待たせたなぁ」
 囁く声が、かすかに耳に届いた。……そうだ。のりちゃんのそば
に、いなきゃ。
 佳澄は張り付いた足を廊下から剥がすと、あっくんが眠っている
はずの奥部屋へと小走りに入って行った。

 正月三が日は、どこか胸につかえたものを溶かすことができない
まま、あっという間に過ぎていった。
 みのりの兄は出向先へ戻る機内の人になり、佳澄とみのりも、懐
かしい菜香町屋の軒を後にした。
 でも、どうしてだろう。あっくんの乗ったベビーカーを押しなが
ら改札をくぐり、電車がホームを離れた時、佳澄は少しホッとした
ような気分を感じていた。
 みのりと一緒に暮らすようになってから三年余り、一度もそんな
ことはなかったのに。
 あの古い家にいる時はいつも、どこより安心した気持ちでいるこ
とができた。高校の時にみのりと一緒に暮らした一年あまり、大学
に行き始めた頃の週末――。狭くてくすんだ匂いがする日当たりの
悪い部屋だけれど、近くに家族の体温を感じながら過ごした日々は、
永遠に変わらない穏やかな記憶のはずだった。
 そして、アパートに帰ってからも、晴れやかな正月の空とは裏腹
にどこか靄のかかったような気分を感じ続けていた。
 自分の思い過ごしではないと思う。
 なんとかやり繰りして六日まで確保した二人一緒の休み。街へ買
い物へ行ったり、あっくんを連れて散歩をしたり。
 予定通りののんびりとした三日間だった。少し遠出した運動公園
の青空の下、ボールを追いかけ、遊具につかまってよたよた遊ぶあ
っくんの手を引き、声をかけるみのりの姿は、いつも通りとても楽
しそうな感じだったし、春先に向けてワゴンセールの服を漁る時も、
柄やデザインに文句をつけながら、「この値段ならしょうがないよ
ねぇ」なんて、苦笑交じりに頷き合ったりしていた。
 でも、会話が中途半端に止まってふと横顔に目をやると、大きな
目を伏せがちにして、口元に湿った色を浮かべている。それは一瞬
なのだけれど、楽しいはずの一日が、一滴の曇りで全ての色合いを
染め替えてしまったような気がしていた。
「今日は一日ごろごろしようか」
 佳澄から言い出して、家事もおやすみ、離乳食もベビーフードと
外食ですませた正月休み最後の日も、つけっ放しにしたTVの騒ぎ
や笑いやが空回りするばかりで、かえって気分が重くなっていく一
方だった。
 そして夜。お風呂に入れたあっくんの身体を拭いて、夜のミルク
を飲ませた後、黄色い子供用布団に傍らに横臥した緑のスウェット
の背中を、居間のテーブルごしに見つめていた。
「いい子だよなぁ、あっくん」
 低い声が響いた後、子守唄が続く。それは、佳澄の知らない唄だ
った。
 長く、ゆっくりと、穏やかな節が繰り返す。
 手元で湯気を上げるコーヒーに目を落とした時、背中に突然粟立
ちが襲って、佳澄は眉を寄せてカップを両手で握り締めた。
 みのりが、とても遠い場所にいるように思えた。
 こんなにすぐそばにいるのに、手の伸ばせない、見えない壁の向
こう側にいるように。
 そして、胸の中に止めようもなく衝き上がる、痛さに似た想い。
 コーヒーカップを置いて、跳ね飛ぶように立ち上がっていた。
「スミ」
 みのりの背中にぴったりと寄り添うと、同じように横になる。自
分より一回り大きな身体に腕を回して手の甲を柔らかく握ると、う
つぶせになったあっくんは、赤く上気させた頬を柔らかい毛布に埋
めて、静かな寝息を立てていた。
 そのまま、少し濡れた長い髪に顔を添えて、じっと動かずにいた。
 自分よりも身近に感じる匂いと、ぬくもり。
「のりちゃん」
 耳元で一言だけ言うと、首筋に唇を這わせた。
 頭の中には何もない。ただ、ずっとそばにいた愛する人の心の縁
だけをおぼろに追っていた。
 胸が苦しい。どうして。こんなに、のりちゃんはそばにいるのに。
 添えていた手をゆっくりと腕に沿って動かすと、ふくらみの頂き
をトレーナーの上から柔らかく包み込む。
 静かな吐息がみのりの口から漏れて、後ろに回った手が、腰に添
えられるのがわかった。
 そして、耳朶に口づけをしながら、服の中にゆっくりと忍び込ま
せ、稜線をなぞりながら探りなれた場所に指先を届かせる。
 まだ、柔らかく解けたままの頂き。二本で挟むように刺激を送る
と、腰に回ったみのりの手が、ゆっくりと穏やかな反応を返した。
「スミ」
 小さな声が頭の上で響く。
 声のトーンで、わかる気がした。でも、頬を越えて後ろから唇へ
唇を重ねると、伸ばした手をスウェットの縁にくぐらせた。最初の
うちは一番弱いはずの腰骨の周辺をくすぐるように、そして、内も
もへ。
 うっすらと開いた目と、確かめるようにわずかな湿り気だけを交
わす唇。
 おなかを下り降り、ふっくらとした場所を包みながら、深い場所
の入り江に指を届かせた時。
 佳澄は唇を離してみのりの表情を見下ろした。
 指先には、重層した感触があって、じんわりとした暖かさだけが
ある。潤った様子はかすかで、佳澄は生え際に沿って敏感な突端へ
と指を動かした。
 みのりの顔が少し持ち上がって、小さなキスを返す。
「スミ、いいよ」
 いつもは雄弁に語っているはずの場所も、見つけ出すのが難しい
ほどに姿を隠していた。
 足が軽く閉じられると、それ以上手を動かしようもなくなってい
た。
 身体を返したみのりの顔が近づいて、腰に回った手が、少し強く
引き寄せてくる。
 そして、唇が首筋に、もう片方の手がパジャマの上から胸のふく
らみに重ねられた瞬間、佳澄は激しくかぶりを振っていた。
「いいの、のりちゃん! いいの、私は!」
 自分でも思ってもみないほどの大声。
 はっとして隣を見ると、すやすやと寝息を立てるあっくんの様子
には何の変化もなかった。
「スミ……」
「ゴメン……。でも、いいの。わたし、今日はいいから」
 それだけを言うのが精一杯だった。後は、何を言っても虚しくな
るだけな気がして、みのりに背を向けて少し身体を丸くした。
「スミ、私……」
 呟きかけた声が、すぐに抑えられて消えた。
 そのまま、長い沈黙が部屋の中に満ちて、時間が止まる。
 どうして、どうして。
 何が悲しいのかわからない。ただ、苦しく報われない気持ちだけ
が全部になって、止められなかった。
 いつかの日も、そして何度も繰り返してきた疼くような痛み。
 心の中にまで寒さと暗さが落ちてきた気がして、でも今は、みの
りのそばに行くことはできなかった。
 どれくらい経ったのだろうか。ずっと背中に感じ続けていた気配
が、すっと立ち上がった。そして、肩に掛けられる手。
 そのまま頭の上を通り過ぎていくと、台所でガチンとガスの付く
音がした。
 やがて、コポコポとお湯が注がれ、陶器のカップが触れ合うカチ
ンという硬い響き。
 頭の中で、言葉が紡がれる。きっとこの後、のりちゃんは言うに
違いない。
『スミ、ココアでも飲もうよ。甘いのにしたからさ』
 肩をすぼめて、心で歯を食いしばった。こんなところで丸くなっ
ていても、何も変わらない。私は――。
「スミ…、」
 勢いよく立ち上がると、四角いトレーにマグカップを乗せて、み
のりが台所から居間へ入ってくるところだった。
「えっと……」
「へへ、ココアだよね。粉いっぱいでお願い。甘いの、飲みたくな
っちゃった」
「うん。オッケー」
 丸顔に笑いを作って頷いたみのりを見つめた時、やはりどこかで
胸が痛かった。でも、さっきまでの落ちるような暗さは感じない。
 肩をくっつけ合って同じ辺に座ると、佳澄はみのりのマグカップ
を取り上げて粉を三杯、砂糖を一杯パッパと放り込んで、ポットか
らミルクを注いだ。
「あ、そんなに甘くすると……」
「いいのいいの、のりちゃんも甘いの、好きでしょ。一緒に、飲も
う」
 うん――口を開かずにうなずき、カップを持ち上げるみのりの肩
は、やっぱり温かかった。佳澄もくるくるとスプーンを回すと、香
ばしさを吸い込みながら、熱いココアに口をつけた。

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